時間とは楽しければ楽しいほど瞬く間に過ぎてしまう。
ホグワーツでの一年間がそうだった様に隠れ穴での生活も時間が早く感じられた。
その早さは閃光の如く一瞬で、しかし数年分の楽しみに匹敵する密度。
本当に、それこそ『あっ』と言う間も無いほど早く、約束の水曜日が訪れた。
午前中からダイアゴン横丁へ出向くウィーズリー家の朝は早い。
モリーのフライパン音撃と、とある部屋で起きた爆音目覚まし時計に叩き起こされた面々は、瞼が半分下がった状態で朝食を急いで胃に押し込んでゆく。
日中を買い物に費やす今日は掃除洗濯を手早く済ませ、朝食を終えた二時間後の午前九時には出かける準備を完了させた。
「さあ、まずはお客様からどうぞ」
リビングの暖炉前に集合した面々の一人。ホグワーツの校章が刺繍されたマントを着るハリーは、モリーに突き出された植木鉢を見てきょとんとする。
その小さな植木鉢にはエメラルド色の粉が入っており、常に暖炉の上に置いてあったものだ。
「えっと……」
「あ、おばちゃん。ハリーは『煙突飛行粉(フルーパウダー)』使ったことないんだよ」
「アリィ、フルーパウダーって?」
フルーパウダーとは魔法使いにとっての飛行機だ。
暖炉の火にくべてから中に入り、行き先を告げる事でその場所の暖炉に転移する事が出来る。
ダイアゴン横丁の場合は『漏れ鍋』に直結していた。
その便利さと身軽さから発明と同時に全国へ普及し、そして不法侵入のし易さから空き巣と強盗が多発。
魔法省が煙突飛行規制委員会を設立して公共の場以外への飛行を監視するようになったが、今回は使用方法だけでそこまで詳しく説明はされなかった。
そしてこんな粉で瞬間移動が出来るのかと半信半疑でいるハリーのためにアリィは実演してみせる。
差し出された植木鉢に手を突っ込んだアリィは粉を一掴み。
キラキラと緑光を発する粉を暖炉にくべ、たちまち紅蓮の炎を深緑に染め上げた。
あとは火に突入して行き先を言えば完了だ。
「まあ見てなって。不安だったら俺が先に行ってあげるから。……俺も使うの初めてだけど」
「だ、大丈夫だからっ! ほらアリィ、見てて!」
それがトラブルの種だと瞬時に見抜いたハリー。
アリィの手を引いて入れ違いに暖炉へ突撃。
不思議と熱を感じない緑炎に包まれ、アリィがきょとんとしている間に行き先を告げる。
その名は、
「ダイア……げふっ、ごほっ……だ、だいにゃごにょこ町!」
巻き上がった灰を吸い込みながら行き先を告げたハリーは、更に燃え上がった炎に包まれて姿を消した。
後には痛い沈黙が残される。
現実逃避を続ける者が多い中、最初に事実を受け止めたのはウィーズリー家の大黒柱だった。
「――あー、諸君。ハリーが何て言ったか聞き取れた者は?」
「ダイニャゴニョコ町」
「……やはり私の聞き間違いでは無かったか」
返答者のアリィ以外の溜め息が重なった。
あんなに勢い良く飛び込めば積もった灰が巻き上がるのは当たり前。
入る時は静かに、そして行き先を叫ぶ必要は無い。そう注意しなかった事を全ての人が後悔した。
この、やれやれと欧米風に表してる天災以外は。
「あーあ、だから手本見せようと思ったのに。ハリーはトラブルメーカーって事を自覚してないんだよな、まったく」
気になる発言に誰もつっこまない。
もうこの時点で疲れてしまったというのもあるが、フルーパウダーの事故の怖さを知る者はツッコミをする暇が無いほど内心焦っているからだ。
「……ハリーは犠牲になったんだ」
誰の代わりに、とはロンがわざわざ言わなくてもウィーズリー家に伝わっている。
これが世界の修正力なのかと思わずにいられない。
ハリーの無作為飛行は本来なら頓珍漢な所へ飛ぶ筈だった天災の代わりになったように感じられたのだった。
◇◇
薄暗い店内には古ぼけたテーブルが敷き詰められていた。
午前九時という時間も相まって客足は多い。
店内には焼いたパンとシチューの香りが漂い、何の肉だか分からない照り焼きや血の滴る臓器を食べる者までいる。
西部劇の酒場を連想させる薄暗いパブは朝からほぼ満員だった。
「おお、懐かしの『漏れ鍋』!」
喧騒に混じって幼い歓声が響く。
裾を何重にも折ったジーンズに空色のサマージャンパー。マグル姿のアリィは一年ぶりのパブに目を輝かせる。
好奇心を満たすために横丁を駆け抜けた一週間はまだまだ記憶に新しかった。その素敵な一年前を思い出しながらアリィは騒ぐ。
そして散々世話になった漏れ鍋店主のトムへの挨拶も欠かさない。他にも顔見知りの客にちょっかいを出してハイテンション。
それはもう、暖炉側でこの世の終わりと嘆いていそうなウィーズリー家とは対照的に、アリィは浮かれていた。
「あぁ、何てことなのっ? ハリーが、ハリーが……もし危ない所に飛んでいたらわたし……っ!」
「モリー、モリー母さんや、ハリーはきっと大丈夫だ。だから落ち着きなさい」
「…………」
「ほら、ジニー。ハリーはきっと無事だ」
泣き喚くモリーの肩をアーサーが抱き、死人みたいに青褪める妹をパーシーが慰めている。
フルーパウダーの事故はどこに飛ぶか分からない。
確率はかなり低いが犯罪組織の隠れ家なんかに飛んでしまう可能性もありえるし、マグルの民家へ飛んでしまったらそれこそ大事になってしまう。
この夏に厳重注意を受けたハリーが事件を起こしたら立場的に拙い。
それが分かっているから、そしてハリーの身を一番案じているから、モリーとジニーはこんなにも嘆いているのだ。
「アリィ、何とかしてハリーとコンタクトを取れない? でないとママとジニーが今にも狂っちゃうよ」
「ママってば実の息子より愛情注いでるよな」
「やめろよフレッド、赤毛のハリーなんて見たら笑いが止まらなくなっちまう」
挨拶回りから帰ってきたアリィにロンと双子が詰め寄る。ハリーと幼馴染の彼なら独自の連絡手段を持っているかもしれないと思ったからだ。
自分の知らないマグル的な手段から、新しく開発しているかもしれない新魔法具。
とにかく生きた宝物庫の天災を頼るしかロンには出来ない。それが頼りっぱなしの情けない行為だと自覚してもだ。
縋る様な目をするロンに、アリィは静かに首を振った。
「残念ながら無いよ。ハリーが持ってるのは杖とサイフ、あとタバスコエアガンに閃光弾に音響爆弾に煙玉、それから――」
「つっこまない。僕は絶対につっこまないぞ」
ロンは護身用グッズを列挙するアリィの言葉を聞き流す。
出かける直前にハリーが身に付けたポーチの謎が解けたのは喜ばしいが、この緊張感ぶち壊しの回答は避けてもらいたかったというのが正直な気持ちだ。
ちなみにアリィが護身用グッズを渡した時、それが一つずつしか無い一点物だと分かって拒むハリーと一悶着あったが、結果はご覧の通り押し付ける事に成功している。
それも『俺なら大丈夫だって。いつもなんとかなってるし』という発言が決め手になった訳だが、今回も無事という根拠は全く無いのに説得力抜群なのは何故だろう。
ハリーの脱力姿が脳裏に浮かぶ返答である。
そしてその場にロンもいたら同じ事を思った筈だ。
「俺の護身用グッズは撃退率九割以上。あの禁句さん相手でも時間を稼いだんだぞ。だからさ、ハリーの心配なんて必要なし。運勢チートを甘く見たらいけない」
「ハァ……アリィはいつでも相変わらずだ」
ニカッと笑うアリィのブレない回答に肩を落とし、そして僅かに微笑むロン。
アリィの態度は普段と変わらない。何がそんなに楽しいのかと不思議に思うほどの笑顔を振り撒き、悲観とは無縁の姿を見せつける。
この幼い天災は知らないだろう。
その陽気な姿がどれだけ周囲を安心させ、皆を笑顔にしているか。ポジティブとは周囲に伝染するものなのだ。
あくまで一時的なものに過ぎないが、これでロンと双子の気持ちはだいぶ軽くなった。
「でもまあ、『モノマネ本』を俺等だけで持ち歩くのは失敗だったな」
「ああ、連絡手段を適度にバラさなかったのはマズったぜ」
つい先日完成させた発明品を懐から取り出し、双子は揃って舌打ちする。
彼等の持つのは牛革表紙の小さな手帳だった。
それも十数ページ分しか厚みの無い手帳だ。
この発明品の名はモノマネ本。
その名の通り、この手帳に書かれた文字は対となるもう一冊に自動で浮かび上がる仕組みになっている。
わざわざ製紙会社に材料を送ってのオーダーメイド品であった。
そして双子が制作秘話を嬉々として語り出そうとしたその瞬間、声が掛かった。
「アリィ、ロン、みんな!」
そのソプラノ声は可愛らしい少女のもの。聴くのは一月以上ぶりだが、この一年はほぼ毎日聞いていた声だった。
「ハーさん!」
「ハーマイオニー!」
テーブルの間をすり抜けて近寄ってくるのはハーマイオニー・グレンジャーだった。彼女は出会えた興奮からか頬を紅潮させている。
速足で駆け寄り挨拶を交わしてから、アリィの両肩に手を置いた。
「久しぶりね。――あぁ、アリィ。貴方も無事で良かったわ。ハリーと揃って連絡が着かなかったから……ねえ、ハリーはどこなの?」
よほど心配していたのだろう。目尻の涙を拭ったハーマイオニーはクエスチョンマークを浮かべながら店内を見渡す。
不吉な予測を立てる彼女に説明を施し、見る見る内に青ざめていく彼女を宥めているから、彼等はアーサーの接近に気付かなかった。
「お前達、とりあえずグリンゴッツの前まで移動しよう。ハリーもそこに向っているかもしれ……おや、君は?」
「あっ! いけない、私ったら!」
声を掛けられるまで気付かなかったハーマイオニーは、みっともない顔を見られた挙げ句、挨拶を逸していた事に気付いて赤面する。
急いで挨拶をすると、アーサーは顔を綻ばせた。その喜びは、ハーマイオニーだけでなくその後ろ、生粋のマグルである彼女の両親に会えた事も起因していた。
「では君がっ! いや、噂は聞いているよ。息子達がだいぶお世話になっているね。――おお、そしてこちらがっ! ああ、来てみなさい母さんや、マグルのお二方が、グレンジャー夫妻もお見えだ!」
大声で呼ぶ声に釣られ、モリーはパーシーに連れられてヨロヨロと近寄ってくる。その後ろに付いてくるジニーの憔悴ぶりと比較して、モリーの狼狽えぶりは相当なものであった。
こうして、初対面のハーマイオニーが挨拶の前に心配してしまう程度には。
「あの……ウィーズリーおばさん、ハリーはきっと大丈夫ですよ」
「そうそう、ハーさんの言う通り。ハリーの運はハンパないから」
「発音は近かったからきっと大丈夫だよ、ママ」
三人の心配顔を見て、モリーも気付く。
心配なのは皆同じだ。それなのに子供達は自分よりも冷静であり、あまつさえ気遣ってくれている。
これでは大人として失格。大人――いや、ウィーズリー家をまとめてきた母親の矜持が、目に溜まった涙を飲み込ませた。
「そう、そうよね、貴方達の言う通りだわ。こんな時こそ冷静にならないと……取り乱しちゃってゴメンなさいね」
そのあとのモリーはいつもの肝っ玉母さんに戻っていた。その姿を見てジニーも少しは冷静さを取り戻し、互いに挨拶を交わした両家は共にダイアゴン横丁に入っていく。
先頭を歩くアーサーは矢継ぎ早にグレンジャー夫妻に質問し、それをモリーに窘められている。双子はまたパーシーをからかっては怒鳴られ、それを見てロンが呆れている。最後尾を歩くハーマイオニーとジニーは同じ女子ということもあり意気投合したらしく、ガールズトークに花を咲かせていた。
若干ジニーが緊張しているのは同年代の女子に耐性が無いからだろう。しかしこの調子なら直ぐにいつもの活発ぶりを見せるに違いない。
そしてアリィは、アーサーの話が途切れたのを見計らい、グレンジャー夫妻の横に並んだ。
「ハーさんのおっちゃんとおばちゃん、久しぶり!」
「ええ、お久しぶりねアリィ」
「ああ、この一年でまた大き……元気そうで何よりだ」
ハーマイオニーと同じく長い栗色の髪を背に流し、グレンジャー夫人は優しく微笑む。ベージュ色のフレンチリネンワンピースの上から焦げ茶色のカーディガンを羽織っているのは一年前と変わらない。麦わら帽子でも被れば避暑に来た令嬢の完成だ。とても十代の子供を産んでいる母親とは思えないほど若々しい。
そしてご主人もまた柔和な笑みが似合うイケメンの優男であった。
背も高く、着ているのがTシャツにサマージャケット、ジーパンというラフな格好。それでも端整な甘いマスクが醸し出す貴公子の容貌は一切の陰りを見せない。そんな父親は、再会したアリィに常套句を言おうとし、その身長に気付いて言い直している。
それからは大人同士で会話が成り立ってしまったので空気を読んだアリィは一歩後退。ロンの横を正位置に定めた。
「アリィ、ハーマイオニーのパパとママと知り合いだったの?」
「当然。俺とハーさんが初めて会ったのはダイアゴン横丁だよ」
目を閉じれば今でも思い出せた。ちょうどアリィが『漏れ鍋』の外壁修繕作業をやっている時に、マグルには見えない『漏れ鍋』に困惑しているハーマイオニーと入り口付近で出会ったのだ。
その後アリィ達は思い思いに会話を弾ませながら人混みが目立つダイアゴン横丁を歩き続ける。
その中でも、アリィは目立っていた。
「お、久しぶりだな坊主! お前さんが直してくれたラジオの調子も良いぞ! 無駄に増えてたスイッチには怖くて触れていないがな!」
アクセサリーを売っている露店のおっちゃんがガハハと笑いかけ、
「久しぶりだねアリィ、またアイス食ってくかい?」
アイスクリーム店の女店主、フローリアンがアイスを掲げ、
「やや、アリィ坊ちゃん! 今朝入荷したばっかのコカトリスの肝、お一つ如何ですか!?」
「買う! 絶対買う! 後で寄るから残しといて!」
魔法薬店の小太り男店主が親しそうに声を掛ける。
この横丁に店を構える全員が、たった一週間しかいなかったアリィの事を覚えていた。
「ここは俺の庭。みーんな顔見知り」
何か言いたそうな顔をしていたロンの質問を先取りした所で、一行は魔法界唯一の銀行グリンゴッツに到着した。
しかし、この場にハリーの姿は無い。
「私達はハリーがいるか訊いてこよう。皆は外で待っていてくれ」
「あなた、私達もついでにお金を両替しましょう」
「ほっほー! マグルのお金を換えるのですな!?」
大人達は銀行内に消えていく。フロント前に残された子供達は人混みの中からハリーを探そうと目を凝らしている。
アリィがロンと一緒になって東方面の大通りを観察していると、ハーマイオニーが近寄ってきた。
「アリィ、ジニーから聞いたわ。ルーマニアに行くのを延期したって。私の所為でごめんなさい」
「いやまあ、ロンも言ってたけど研究所は逃げないし、ダメならしょーがない。うん」
そして三人でハリーを探している時、一番最初に変化を見付けたのはパーシーだった。
「あれはハグリットじゃないのか?」
パーシーの指し示す方に視線を向ければ、人混みの中で頭が三つ分はでかい大男の姿が嫌でも目に入る。いつものオーバーコートに身を包み、ホグワーツの鍵と領地の番人はグリンゴッツを目指して歩いていた。
「やっぱハグリットは目立つな」
「そーだなフレッド……おい、脇にいるのはハリーじゃないか!?」
ジョージの言葉に皆がハグリットの横に注目する。そして、いた。埃で薄汚れているが、確かに黒髪の少年の姿があった。
「そーだよ間違いない」
全員がハグリットを目指して突撃する。それに少し遅れてアリィも駆け寄ろうとしたが、中からアーサー達が出てきたので足を止めた。
「あ、ウィーズリーおばちゃん。ハリーが見付かったよ。ハグリットと一緒だったっぽい」
「まあ、本当に!?」
瞬時に視線をさ迷わせたモリーは、ハグリットの横にハリーを見付けると直ぐに猛然と駆け寄った。まるでバッファローの大行進を連想させる勢いだ。
「ふぅ、とりあえず安心だ」
ホッと安堵の息を溢し、アリィもハリー達の方へ駆け寄る。
こうして、ハリー・ポッターと再会することが出来た。