その日、ホグワーツ全体が浮かれた雰囲気に包まれていた。
頑張った分が報われてガッツポーズを取る者。内外面の両方で咽び泣く者。一年の集大成が終焉を迎えて安堵の吐息を零す者。
気持ちの一喜一憂具合に差があるのは否めないが、最大の精神負荷である学年末試験も漸く終わり、生徒の誰もが陽気なお祭り気分を放出しているのだ。
当然、それは凡人とは遠くかけ離れた存在であるアルフィー・グリフィンドールも例外ではない。
気温も段々と真夏に近付いて来た六月の夜に夕食の席で試験の答え合わせを行っているアリィからも、生徒特有の解放感が感じられた。
「あぁ……もうダメかも」
しかし、このスリザリンの一年メンバーが陣取った席では、現在進行形で重い空気が圧し掛かっている。
その原因たる少女の手に握られている羊皮紙は魔法史の問題用紙だった。
ショックからテーブルに突っ伏している彼女の背に流れる一本の三つ編みは、特に手入れも施していないのに世の女性達が羨む程のキューティクルで、とても綺麗な明るい金色。涙目になっているその瞳は家名に相応しい立派な碧眼。
パンジーと同部屋にして料理クラブの一員である、スリザリン一年でトップと名高い美少女――ダフネ・グリーングラスは、苦手な魔法史に敗北を期して直視出来ないほど真っ白に燃え尽きていた。
「なーに言ってんだか。落第点では無いんだし、その分アンタは他が優秀なんだから大丈夫だっての。それともアタシに対する嫌味なわけ?」
「気にしても後の祭り。さっさと忘れるか開き直るかした方が身のためだぞ」
現実でも胸中でも涙の豪雨を降らしている友人を気遣ったのは、今ここにいる面子でダフネを除いた四人の内の二人だった。
女性にしては縦横に少し大きい身体。お世辞にも美少女とは言えないが、そのキリッとした眉と鋭い目が気の強そうな印象を相手に植え付ける。
ダフネの隣に座る少女――ミリセント・ブルストロードは、同じタイミングでダフネを慰めた真正面の少年に顔を向けた。その表情に、少しばかりからかいの意味を込めて。
「へえ、たまには良いこと言うじゃないのザビニ。やっぱり可愛い女の子には優しいんだねぇ」
「……喧嘩を売ってるのかブルストロード? まあ、血の気の多い野蛮なお前の事だから、獣みたいに噛み付きたくなるのは仕方が無いか」
しっかりと青筋を浮かべつつ、慣れた手付きで反撃をかますのは黒人の少年だ。
高慢そうな風貌が目立つ少年――ブレース・ザビニの言葉に、ミリセントの口許がピクピクと引き攣る。
火花を散らして不気味な笑い声を響かせる二人を見て、周囲に座っていたダフネ達以外の蛇寮生はそっと距離を取る。
新一年生が入学してもう直ぐ一年。この二人のいざこざは、スリザリン生にとって実に見慣れたやり取りの一つだからだ。誰だって喧嘩の余波は食らいたくない。
「ブルストロード……何でお前は毎回毎回毎回毎回、僕がグリーングラスに話しかけると噛み付いてくる? もしかして、僕に気――」
「はンっ、自意識過剰な勘違いなんて起こすんじゃないよザビニ。群がってきそうな悪い虫を掃ってあげるのは、親友として当然だろ?」
「お前は一度、お節介って言葉を辞書で引くべきだな。過保護は良くない」
「安心しな、分別は付いてるから。アンタじゃなかったらここまで口は挟まないよ」
見た目から分かるような勝気な性格で、パッと見いじめっ子の代表例みたいな体格と容貌を持つミリセント。しかし実は友人に対して面倒見が良く自他共に認める姉御気質であり、同期のスリザリン生からは頼れるおっかさん的なポジションにいる彼女は、気弱な小動物を連想させる可愛い友人に群がる悪虫を掃うために奮闘する。
割と面食いなのは否定仕切れないものの、邪な想いからではなく純粋にダフネとお近付になりたいと考えているザビニにとって、ミリセントはただお話を邪魔する怨敵に等しい。
強気に出られない友人の露掃いに徹する少女と、普段の態度と言動から軽薄なチャラい――あながち間違っていない――少年が対立するのは、云わば必然であった。
しかしその行為は心優しい少女を毎回激しく困惑させる。火花を散らし合う二人の不穏な空気を敏感に察し、ダフネは声を張り上げた。
「け、喧嘩はダメだよ二人とも! ノ、ノットも黙ってないで手伝って!?」
ダフネは対面に座り合って睨みを利かしている二人にビクつきながら目の前の少年に助けを求める。
文庫本サイズの本から視線を逸らさず、まるで食事の方がついでと言わんばかりのスローペースと無頓着具合で淡々と夕食を口に放り込んでいる寡黙な少年――セオドール・ノットは、悲鳴にも似たダフネの声にあからさまな溜め息を吐いた。
「……ハァ、俺よりも注意すべき奴がいるだろ。というより、何で俺がコイツらと一緒にテーブルに着いているんだ?」
典型的な一匹狼である彼には親しい友人が存在しない。しかしそれは彼自身が友人を進んで作ろうとしないだけで、皆から嫌われ者の烙印を押されている訳ではなかった。それ所か頭脳明晰でクールな一面から女子の視線を集め、先輩達からも有望株だと一目おかれていたりする。
そんな彼はアリィの手により半ば強制的に夕食を共にさせられた訳だが、試験終了まで我慢していた趣味を解禁して読書に耽りたいと考えていた身としては、何故こんな騒がしい場所にいるのかと自問したくなる気持ちも分からないでもない。
誘っておきながら会話に入る気が無さそうな隣の少年に溜め息を零すノットに対し、ミリセントが目敏く反応した。
「なにノット。アタシ達と一緒に晩飯を食うのが嫌だって?」
「お前とザビニが揃うと毎回喧しいんだ。二人とも少し黙れ」
計画を大いに狂わされたことから怒りが募り、ノットの口調も厳しく、それでいて剣呑さを増していく。珍しく彼は感情的になっていた。
ただの口喧嘩に新薬が混ざり、厄介な化学反応を起こして三つ巴の戦争に発展しかねない現状に、心と胃が痛みを発していることをダフネは自覚する。
ダフネの脆弱な心は『この爆弾達をどうしよう!?』という気持ちで一杯だ。
「もう、喧嘩はダメだって言ってるのに! ……アリィも助け――」
ここでダフネは最後の希望に助けを請う。彼の天災なら危機的状況を打破する切っ掛けになるのではないか、そう思えたからだ。
正直言えば塩素系溶剤に酸性の溶剤を混ぜるくらい危険かもしれないが、危険は百も承知。藁をも掴む心境でアリィに視線を向ける。
そして、
「――でさもう数ヶ月間ポチ太郎に会ってないんだよちゃんとダンブルドアは魔法で眠らせてるよね餓死なんてしてないよねそれに伝次郎だっていつまで寝てるんだかあんなのもう冬眠のレベルを超えちゃってるってあと――」
ハイライトの消えた瞳でネズミに愚痴っている姿を見て、ダフネは心の底から後悔した。
いつも元気一杯な者が抑揚の無い声で息継ぎ無しにネズミへ話し掛けている。
一目見て思う。こりゃダメだと。
「……ア、アリィ?」
それでも見なかったことにしないのは彼女の優しさがあってのこと。元々、最近のアリィは情緒不安定気味だった。
最初は試験勉強のストレスが原因かと思ったが、心が鋼どころかダイヤモンドで出来ているんじゃないかと思ってしまう少年が試験程度でへこたれる筈が無いと直ぐに結論付けた。
時折、本当に唐突に、脈絡も無くメランコリー状態に陥るアリィ。それでも一度声を掛ければ、
「どしたのダフネ。涙目でビクビクしてるのはいつものことだけど、今回はいつにも増して震えっぷりが凄い」
いつもの調子に戻り、こうして普段の笑顔を見せてくる。彼の小さな両手に納まっていたネズミ――食堂に来る途中、偶然アリィに捕縛されて愚痴の捌け口にされていたロンのペット――スキャバーズは、これ幸いとアリィの魔の手を逃れて逃亡を開始した。
彼が食堂から姿を消すまで五秒も掛からない。そもそも食堂にネズミを連れ込むのは感心しない行為だろう。しかしここはフクロウとかも舞い降りる異常食堂
だ。
魔法薬でも動物や昆虫に耐性がある手前、スキャバーズの登場で食堂が騒ぎ立つことはなかった。
「だ、大丈夫?」
「無問題。バッチオーケー。オールグリーン。全て順調。テストも簡単だったし心のゆとりは十二分」
「うぅ……アリィの馬鹿」
まるで思い出したかのように、最後に取って付けた発言に対し、反射的にダフネの口から文句が飛び出す。
そう実際に、天災にとって試験は簡単なものだった。
三年生で『呪文学』と名が変わる『妖精魔法学』の試験では、パイナップルを机の端から端までタップダンスさせるという試験課題だけでは飽き足らず、阿波踊りやコサックダンスなど、沢山のダンスを躍らせてフリットウィック先生の度肝を抜く始末。
変身術ではネズミを金ぴかの、おまけに願いを叶えることで有名な日本の龍(もちろん七つの玉を集めるアレ)の彫り装飾まで付いた、マクゴナガル教授が感嘆の息を吐きつつ胃薬を飲む程の『完璧で美しい嗅ぎタバコ入れ』を作製してみせる。
極めつけは使用後に頭がボーっとする忘れ薬の副作用をラベンダーやハッカなどの植物を加えることで克服し、『忘れ薬・改』とも言うべき魔法薬を作ってスネイプ教授を唸らせた魔法薬学。
魔法史や薬草学は当然のように自己採点で満点。闇の魔術に対する防衛術の基本概念も完璧に解答してみせた。
天文学は興味が無かったため点数は低いものの、おそらく平均点くらいは取れているだろうと予測出来る。
ダフネがつい罵倒を口にしてしまったのは、魔法史が上手くいかなった自分に対する当て付けだと無意識に捉えてしまい、アリィの頭脳と才能に少なからず嫉妬してしまったからだ。
――しかし彼女を初めとする全生徒は思いも寄らないだろう。
アリィにも弱点というか、致命的なまでに苦手とする分野があることを。今回はたまたま試験範囲から外れており、そのことが露点しなかっただけに過ぎないということを生徒達は知らない。
皆がアリィの意外な弱点を知るのは来年のことだ。
「む、馬鹿とは失敬な。確かにハリーやドラコは俺を見て意味もなく溜め息を吐いたりするけど、馬鹿なんて初めて言われた」
「ふ、ふーんだ。女の子を傷付ける発言をする子なんて、馬鹿って言われても仕方が無いんだよーだっ」
ふくめっ面を見せる子供っぽいアリィに、これまたダフネも歯を見せて俗に言う『いーっだ』の子供っぽい仕草を取る。心に傷を負わされたことに対するせめてもの抵抗。半ばムキになっての発言だった。
しかしその発言は、一人のトラウマを蘇らせる。
「…………ごめんなさい本当にごめんなさい。だから笑顔で近寄るのも頬っぺたを抓るのも止めてくださいハーさん様」
思い出されるのはハロウィンの日に行った悪戯の結末だ。
転倒なんて危ないじゃない→怪我をしたらどうするの? 考慮した? そんなの関係ねぇ→特に女の子に一生モノの傷を負わせたら大事よ→それに物理的なものでなく言葉でも女の子は傷付きやすいの、分かった?
という、悪戯に対する説教に便乗した教育のもとしっかり洗脳されたアリィはそれ以来、女性を傷付ける可能性がある行動は避けてきた。
よって元々のお人好しで優しい性格もあるだろうが、アリィが女生徒の頼みを可能な限り聞いていたのはハーマイオニーの所為とも言える。
その行動に走る理由が説教に対する恐怖と心の安寧を図っての無自覚なものだとしても、今やアリィは立派なフェミニスト予備軍だ。
「え、ちょ、ちょっと待ってアリィ! 何でそこでリーダーの名前が出て……お願いだから泣かないで!? い、意地悪した私が悪かったからー!?」
料理部員の一部から実質的なトップと見られているハーマイオニーの説教笑顔を思い出して混乱しているアリィが騒ぎ出し、ダフネが落ち着かせるために身を乗り出す。
ハンカチを片手に世話を焼こうとするものの、これだけ騒げば周囲の目を集めるのも当然な訳で。
「おい見ろよ、グリーングラスがアリィを泣かしてるぞ」
「うわ、ダフネってば何をしてんのよ」
「普段は人畜無害オーラを振り撒いている癖に実は腹黒。これだから女は怖いんだ」
口喧嘩をしていた三人も流石に二人へ注目する。否定仕切れないが色々と納得がいかないダフネは、心外だという意味を込めて涙目になっている目をグワっと見開いた。
「何で三人とも喧嘩を止めてこっちを見てるのっ!? ほら、こっちは気にせず喧嘩を続けて続けてっ! それにノットはいったい私をどういう目で見てるのかなっ!?」
本当、世の中ままならない。隣では幼い友人がガタガタ震え、周囲からはからかい混じりでいらぬ非難を浴びせられる。
この弱混沌と化した場が収拾されるのは十分後。ちょうど偶然通りかかった――風を装ってアリィを観察、かつ盗み聞きをしていたクィレルが介入するまで続けられた。
クィリナス・クィレル。
禁句さんの忠実な部下であり、アリィの立ち上げた料理クラブ顧問。記念すべき初の部活動で『ガラガラ草』のエキスの混じったクッキーを食べ、二日間も声を一切出せなかったクィレルは、料理部員とそのエピソードを知る者から憐れみの対象として見られている節がある。
これ以上、この苦労人の心労を増やすようなことをしてはいけない。
ダフネ達の考えは一致し、四人が全力でアリィの心を現実に戻しにかかる。反射的にクィレルを気遣ってしまうほど彼は同情を誘うのだ。
その甲斐あってトリップしていたアリィは現実に戻り、それを満足そうに見届けたクィレルは、貴重な情報を得られたことにほくそ笑みながら食堂を去る。
賢者の石を守る関門に、再び三頭犬が起用された。そう示唆する内容が独り言には含まれていた。自分の推測が正しかった事が証明された。
内心で主人共々ほくそ笑みながら立ち去るクィレルと入れ違いに、アリィ達のテーブルに近付く少年がいた。今や悪い意味で時の人。蛇寮からは称賛され、それ以外の寮からは嫌われ者の烙印を押された少年。
「アリィ、ちょっと良い?」
ハリー・ポッターがアリィに話しかけた。
「……あー、アリィさん?」
「シーン」
しかしアリィは歯牙にも止めない。わざわざ口に出すあたり拒絶感が滲み出ている。無視を決め込み、皆がハリーに接するように、アリィもハリーをいない者として対応している。皆がハリーに向ける怒りとベクトルは違くとも、アリィはハリーに対して珍しく怒っていた。
寮の大量失点に対してではなく、ドラゴンなんて面白さの化身みたいな生き物を秘匿していたことに対する怒りだ。
「ああもう、良いから来てよお願いだから!?」
「あ、ちょ、人攫い人攫いっ!」
これでは埒が明かないと実力行使に出たハリーはアリィを無理やり食堂から連れ出す。じゃあなポッター、という嬉しくもない友好的な挨拶をバックに辿り着いたのは、いつものトロフィー室だ。
もはやトロフィーや賞状を置く場所でなく、秘密の会合を行う場として機能している。そして来る道中、アリィのマシンガンのような不平不満が止まることは無かった。
「ドラゴンなんて面白そうな生き物を黙ってたハリーと話すことなんて無いやい!」
ドラゴンが居たことも、ハリー達が罰則で禁じられた森に行ったことも既に学校中に知れ渡っている。
それに伴う大量失点で優勝コースから外れた獅子寮生は当然ながらハリーに憤怒の態度を示し、蛇寮を勝たせたくなかった他二寮も不快感を顕わにする。
中にはアリィに最後まで秘密にした英断を褒め称える者もいたが、それはやはり少数派。アリィとドラゴンの最強タッグが被害を出さない可能性もあったため、それが最善手だと確信を持てなかった事が大きかった。
ハーマイオニーやネビルも似たような扱いを受けているが、それでもやはり有名人に非難中傷が集まるのは当然。ここ数週間、ハリーは針の筵の真っ只中にいた。
だからだろう。甘んじて受けている非難の目に耐えていてもフラストレーションが溜まるのは当然であり、あの苦労や森での恐怖を知らず『面白い』発言をする親友に、ハリーも我慢ならなかった。
「僕達だって大変だったんだ! ドラゴンのことを隠し切ることも夜中に運び出すことだって、全て! まったく、人の気もしらないで!」
怒鳴り声を上げるハリーに対し、アリィはハッとした表情を取る。この類の顔は、忘れていたことを思い出した時にする類のものだ。
「そうだ、忘れてた。それもあったんだ。親友なんだから相談してよ水臭いっ! 俺が手を貸せばもっと良い案が出せたかもしれないのに!」
負けじとアリィも怒鳴り返し、額をぶつけ合って喧嘩の体勢に入る。今までの生活でも喧嘩をすることはあった。それでも、ここまで互いが怒鳴り散らして心中をぶつけ合うのは珍しい。
殴り合いの喧嘩にまで発展したことは無いが、二人の表情を見れば時間の問題だと思わされる。ここがトロフィー室で無ければ多くの人目を集めていただろう。
「俺の妙案で何度も窮地を脱したことを忘れたか!?」
「そのぶん十倍増しで場が混乱したことも含めて忘れてないよ!? 職員室を占拠して学校中に催涙ガスやタバスコ爆弾を仕掛けたんだ! あんな風に教員全員を敵に回して大事にする君だから隠していたんだよ!」
二人の怒鳴り合いは続く。怒声が部屋を震わし、廊下へと声が漏れる。人通りが皆無だったことが幸いした。誰かに会話を聞かれることも無かったのだから。
二人の後を追うつもりだったクィレルがマクゴナガルに捉まって職員室に連れて行かれたのも不幸中の幸いだろう。
「とにかく、ハリーはズルい! ドラゴンを見るだけじゃなくて夜の森も探検出来たなんて!」
「冗談じゃない! 下手したら死ぬかもしれなかったんだよ!?」
ドラゴン事件の罰として禁じられた森の見回りを課せられたのは一週間前。傷付いたユニコーンを保護するために森中を歩き回り、出会ったのは『恐怖』だった。
全身を覆う黒いローブ。口元から滴り落ちる、呪われた仮初の命を与えるユニコーンの血。頭蓋の奥まで激痛を走らせる額の傷跡。痛みを伴う恐怖。外見と雰囲気が発する悪寒。
あの時、ハリーは生物なら感じて当然の本能的な恐怖を感じて崩れ落ちた。
ケンタウルスのフィレンツェが来ていなかったら、きっとハリーの命はあの日に尽きていただろう。
呪われた命を得てまで生きようとする人間など一人しか思い浮かばない。
(あれは……ヴォルデモートだ)
何故かそう確信を持って言うことが出来た。
命の水を精製するために賢者の石を欲している奴。あの馬鹿は自分の天敵だ。二十世紀で最凶最悪と称された闇の魔法使いと対峙して生きられると楽観出来る方がどうかしている。
あの夜を思い出し、再び足が震えだした。
「でも生きてる。生きてたらこっちの勝ち。ハリーはもっと『貴重な体験が出来たぜヒャッホー!』って喜ぶべきなんだよ、この贅沢者!」
「今回ばかりはそのポジティブ思考が憎い!」
未だに夢で魘されているハリーからすれば、アリィのようなポジティブ精神満載な考えは不可能だ。ローブの男に関して情報を与えていないのだから、アリィの不謹慎染みた発言も致し方ない。
しかし頭では理解出来ても心で納得出来るかはまた別 の問題だ。
「俺だってハリーが憎い! 夜の森に侵入は出来るけど、生のドラゴンなんて滅多に見れないのに……むざむざ見れるチャンスを潰したハリーなんて大っ嫌いだ」
どうやらアリィの怒り具合は最悪の一歩手前らしく、初めての嫌い発言はそれなりに来るものがあった。発案者である三人にアリィは敵意を向けている。巻き込まれたに等しいドラコやネビルとはもう和解済みだとしても、根付いた怒りは深かった。
「じゃあね、ハリー。今回ばかりは俺の怒りが青天井だってことを思い知るが良いよ」
とはいえ悲しそうなハリーの表情に罪悪感が沸き、少し言い過ぎたかなと思わなくもない。怒るのはあと一週間くらいにしておこうと心に決め、アリィは踵を返す。
そしてこの展開はハリーの予想通りだった。
だから彼は事前に用意しておいた切り札を切る。これまでアリィと接触しなかったのは、避けられていたというのもあるが話をするための準備期間でもあったのだ。
「そっか……せっかくロンのお兄さんのコネで、今度ドラゴンの研究所を見学出来るようにしてもらった――」
「嫌だなハリー、冗談に決まってるじゃん。それで、話ってなんだい親友」
この見事な手のひら返しが予想の範疇だとしても、どうしようもない脱力感がハリーに襲い掛かる。
見学中は自分とハーマイオニーがお目付け役になり、係員も目を放さなかったら多分大丈夫。ドラゴン使いのエキスパートが沢山いるのだ。きっと大丈夫。そう信じたい気持ちで一杯だ。
「………………」
「でもさ、よく見学の許可なんて下りたね」
「……あ、うん。アリィが『動物好かれ』で、あとバートランド・ブリッジスの孫で発明家の卵って説明したんだ」
ドラゴンは気性が荒く、例え『動物好かれ』でも完璧に制御することは出来ない。それでも、あくまで『完璧』であり、多少の制御・鎮静効果を持っているのは調教師達の中では常識だ。
だからこそ今回の見学でドラゴンに興味を持ってもらい、貴重な『動物好かれ』が調教師の道に進んでくれれば儲けモノ、という意図があって許可が出たのだ。
そして、数々の魔法具を生み出し鬼才の血を引く発明家の卵という事実も見学許可の後押しをした。
(確かにアリィはどうしようもないトラブルメーカーだけど……それでも、アリィに対する期待は大きい)
研究所で働く研究者、そして調教師達は望んでいる。見学を通してインスピレーションを得て、何か研究や調教に役立つ発見や発明品を開発してくれることを。
これは一種の賭けだ。『動物好かれ』とバードランド・ブリッジスというネームバリューが、多大な期待を天災に寄せていた。例えその期待が、混乱や破滅と表裏一体の危険行為に等しいとしても。
「グッジョブ。実にグッジョブだよハリー君」
「お礼ならロンとハーマイオニーにも言ってあげて」
発案者はハリーだが、兄であるチャーリーに頼み込んだのはロンであり、特許関連を考えて詳しくは説明しなかったものの、この一年でどのような発明をしてきたかを手紙に書いて研究所の人達に説明したのはハーマイオニーだ。功績で言えば二人の方が遥に大きい。
今度お菓子を持っていくと笑顔のアリィが約束することでドラゴン関連の会話は打ち切られる。
そして遂にハリーは本題を持ち出した。
「――アリィ、君の仕掛けた罠についえ教えてもらいたいんだ」
「ダメ」
願いを一刀両断。即答されて少し呆気に取られるハリー。それでも、今ここで諦める訳にはいかない。
「……どうしても?」
「おうよ」
アリィは基本、約束を破らない。
その約束が誰かを不幸にしない限り、彼は原則として約束を遵守する。
ポチ太郎を貰い受ける条件として罠を仕掛け、それを誰にも言わないとダンブルドアに約束した。普通なら好印象を持つ行為でも今回ばかりは邪魔な信念でしかない。
道理に反しているのはハリーだ。自覚もある。それでも引き下がる訳にはいかない。
「アリィ、お願いだ。スネイプが罠を出し抜こうとしている。ハグリットにドラゴンの卵を渡したのだって、ポチ太郎の弱点を知るためだったんだ」
ハグリットがドラゴンの卵を手に入れたのは村のパブで、トランプの賭けの景品だった。調子よく酒を奢られた結果、酔った勢いに身を任せてポチ太郎の話を相手にしてしまったのだ。
その、音楽を聴けば直ぐに眠ってしまうという弱点を。
「マジか……」
話を聞く過程でアリィの眉間に皴が寄る。
アリィが罠を仕掛けていなかったのなら、盗人は容易にポチ太郎を出し抜き、賢者の石に辿り着いていただろう。
てっきりアリィもハグリットの不注意ぶりに憤っていると思いきや――、
「寮監め。何で俺に卵をくれなかったんだ。俺だって知ってるのに」
「その怒りは激しく間違ってるっ!」
そう、色々と怒るベクトルがおかしかった。
「でもさ、それって本当に寮監なん?」
「……ローブを着ていたから顔は分からないらしいけど、僕達はスネイプだって確信してる」
脱力感満載の姿から一点、真剣な面持ちで首肯する親友に、アリィは全幅の信頼を置いている。一応、念のためというニュアンスを含めて問いかけるも、帰ってくるのは力強い自信。
今までの行動から、ハリー達はスネイプが禁句さんのために賢者の石を入手するつもりだと考えていた。
「スネイプは行方を眩ませている。今夜にでも賢者の石を奪うつもりだ。あとはアリィの罠を突破するだけなんだよ」
確かに夕食の時間になってもスネイプは姿を見せなかった。ハーマイオニーの見張りも掻い潜って姿を消した。
一応、念のためロンとハーマイオニーが透明マントを着込んでスネイプの研究室前を見張っているが、効果は望み薄だろう。
「ダンブルドアはいない。賢者の石が危ないって伝えても、マクゴナガルは『警備は万全だ』って動かなかった。あとはもう、僕達が賢者の石を守るしかない」
決意を口にして少しばかり沈黙が流れる。
先程の会話をよく吟味し、口許に拳を当てて思考に耽っていたアリィは、震える声で重要な点を再確認した。
「……ダンブルドアがいない?」
「うん、急な出張で明日にならないと帰ってこな……アリィ、何でそんなに笑顔なの?」
「え? 無い無い。俺のどこがにやけてるって言うのさ」
にやけるどころか満面の笑みを浮かべるアリィに、自然とジト目を向けてしまうハリー・ポッター。あの笑みには充分過ぎる程の心当たりがあった。アレは、何かとんでもないことをやらかす前によくする表情だ。
とにかく、その笑顔の真意を知るため問い質そうとするが、
「まあ、ハリー達の考えは分かったけど……やっぱりダメ。教えられない。それがダンブルドアとの約束だから」
「アリィっ」
その前に再度お願いを否定され、今の笑みについて問う機会を失ってしまう。
アリィは自分達の推理とこの危うい状況を理解出来ないほど愚かではない。それでも、アリィは頷かなかった。
「ハリー達を危険な目に遇わせられないよ」
そう、どう贔屓目に見てもハリー達は危険に晒される。
正直、彼らが危険な目に遇うくらいなら賢者の石くらいくれてやるという気にすらなってくる。
ニコラス・フラメルは必要としていない。悪用されること100%だとしても、親友達の命には返られない。
両方を天秤に掛ければ、どちらに傾くかは火を見るより明らかだ。
(でも、そんなことで納得するハリーじゃないよなぁ。変な所で頑固だし)
その正義感に敬意を称し、心の中で溜め息を吐く。
しかし面倒だと思う気持ち半分。そういう所が親友らしいと嬉しい気持ちが半分。複雑な気持ちが込み上げ、心地良い厄介事がアリィに降りかかる。
無謀だと一言で切り捨てるのは簡単だ。だが、こういった正義馬鹿がアリィは大好きだった。
ここに入学してハリーは成長している。それが愚かな行為と称されるか、称賛されるかは、今後の働きとアリィのサポート次第だ。
(ま、今回ばかりは譲る気無いけど)
しかし、だからといって教えるかと訊かれれば、話は別だと即答出来た。
「さっきも言ったけど、ダンブルドアとの約束だから罠の攻略法を教えるつもりは無いよ。それにハリーはさ、俺の仕掛けた罠が信じられない?」
「アリィ……」
拒絶されたハリーは落胆を隠そうともしていない。そして悔しそうに唇を噛み締め、肩を震わせながら少しだけ、しかし確かにはっきりと首肯する。
自分自身も結構な頑固者だがその親友もまた頑固だと、ハリー自身がよく理解していた。
今までの付き合いがこの決定を覆すのは不可能だと告げている。
「それじゃあハリー。頑張って。俺はやることが出来たから」
「……うん、ありがとう。それと、僕達は深夜に行動を開始するつもりだから」
「藪を突いて蛇を出さない方が良いと思うぞ、俺は」
手をひらひらとハリーに振って、アリィはトロフィー室から退室した。閉じられた扉の開閉音は、まるで希望が絶たれて絶望が舞い降りたような錯覚を生む音で。一人取り残されたハリーは、しばらくトロフィー室から出てこなかった。
◇◇
ハリーとの会話を終えて一目散に自室へと戻り、身支度を整える。
ルームメイトの少年は恋人(押し掛け)と夜の散歩を楽しむらしく夕食時も姿を見せなかった。友人の部屋に遊びに行くと書置きし、ショルダーバックにフル装備を収納し終えてアリィが向ったのは、あの廊下だ。
「ダンブルドアがいない……今こそポチ太郎に会いに行くチャンス!」
そう、石を盗もうと画策する者にとってチャンスなら、アリィにとっても今日は廊下に侵入するチャンスだった。
学期末に会えるとしてもそれは夏休み明けになる。飼い主として一度は調子を確認したいと思っていたアリィにとってダンブルドアの不在はチャンス到来。
「あ、そっか。ついでに賢者の石も取り出して、ハリー達と合流したら良いんだ」
これで罠に立ち向かう理由も増えた。
ハリー達が行くよりもアリィが行くほうがリスクが少ない。賢者の石を取り出して自分自身が隠すも良し。取り出すことが出来ないなら、しっかりと守られているとハリー達に伝えれば言い。
凄く妙案な気がした。スネイプが来る前にそれが出来たらベストだ。
「おし、待ってろよポチ太郎」
パチンッと両頬を叩いて気合を入れ、いざ自らが仕掛けた罠に向かうため、禁じられた廊下の扉に手を掛ける。その時だった。
「グ、グリフィンドール君。こ、こんな所で、き、奇遇です、ね」
廊下の影から、まるで図ったかのようなタイミングでクィレルが顔を出した。
奇遇すぎて舌打ちを隠しきれない。
「な、何を、し、しているの、ですか?」
「いやー、この扉の装飾が綺麗なものでつい見惚れちゃって。それじゃ先生、また料理クラブで――」
「ペ、ペットの犬に、あ、会いに行き、たいのでは?」
誤魔化そうとした瞬間、空気が凍った。
何故そう思ったのかと問いかければ、夕食時の態度からそう判断したと即答される。そもそもアリィが来ることを想定して、こうして張り込んでいたらしい。クィレルは夕食時にアリィの近くにいた。知っていてもおかしくない。
例え近くにいたのが少しでも利用出来そうな情報を得て、罠を突破する手掛かりを探していたのだとしても、夕食時に近くに居たのは本当なため疑うことすらアリィはしなかった。
それにクィレルは人畜無害な人という認識が固定概念として根付いている。
――なるべく交流を持って天災の信頼を得るという企みは、これ以上無いってくらい成功しているのだ。
「わ、私も行き、ましょう」
「え?」
てっきり止められると思っていたアリィは肩透かしを食らったような間抜けな顔を見せる。教師がお目付け役になれば、例えバレたとしてもダンブルドアなら許してくれる。少なくとも一人で入るよりは許され易い。
そう言ってのけた先生に対し、感謝の気持ちが込み上げてくる。これもまた、生徒と顧問という垣根を越えてチェス等の遊びに勤しんだ結果だ。
「本当!?」
「た、但し、こここれは、二人だけの、ひ、秘密――」
「合点だ! 先生ってば本当に良い人だよ!」
アリィはクィレルを先生ではなく友達として見ている。そう考えているからこそ、この共犯関係は子供が親にバレないよう悪戯や悪さをするような、そういった何とも言えない心躍らせる背徳感を誕生させる。
それはハリーを悪戯に巻き込むような感覚に似ていた。
(先生は闇の魔術に対する防衛術の先生。いざって時の戦力としても充分。やっぱり日頃の行いが良い所為だ)
アリィにとって、クィレルはもう自分の身内だった。スネイプが敵だと判断した親友を信じているため、クィレルがそうだとは微塵も考えていない。
そう、今まさに、初めてクィレルは天災を出し抜いたのだ。
「おっしゃ、出発進行!」
アリィは心からの笑顔を、クィレルは偽りの仮面を笑顔と共に貼り付けて、禁じられた廊下に入っていく。
ハリー達が到着する、三時間前の出来事だった。