化譚   作:吉田シロ

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十、女郎蜘蛛に惑わされる事

 思えば俺は、女になったという事を深く考えてこなかった。なんというか、きぐるみを着ているだけで、元の自分は男なのだから、いつかは男に戻れるんじゃないかとか、そんな漠然とした気持ちで今までやってきた。見て見ぬフリをしていたようなもんだ。

 和食とか、着物とか、言葉とか、汲み取り式のトイレとか、五右衛門風呂みたいな焚き付けの風呂とか、よく知った日本に色々と近くて、動物が喋ろうが、妖怪や龍がいようが、ここが別な世界なんだという自覚もなかった。なんとなく、どこか現実感がないままに、いつか終わる夢かなんかだとでも思ってたのかもしれない。殺されかけた今でも、そんな気持ちだったのかもしれない。

 俺はちっとも真剣じゃなかった。女の身体になって、一生元に戻れないかもしれないとか、ちらりと考える事はあっても、なんとかなるんじゃないかって思ってた。身は女だけど、心は男のままだし、心が女になる事だけはないだろうって。

 ってのんきに考えている場合じゃないんだけど、現実逃避したい。

 

「イチ様、お願いですから、そんなお顔をしないでくださいませ」

「や、ちょ、本当落ち着いてー!! 話し合おう! な!!」

 

 男に本気で組み敷かれるとこわい、というのがわかりました。いや、多分女に組み敷かれてもコワイ。腹の上に乗られてるから、股間蹴り上げるわけにもいかないし。っていうか、やれても、ニキの股間蹴るとかできねえ。ちくしょう、年下の女の子に襲われてるとか、何コレこわい!

 ニキは思いつめすぎたんだかなんだか、眼が据わっていた。漫画だったら目の中に光が入っていない所謂レイプ目みたいな目つきになってたんじゃなかろうか。

 覆いかぶさられて、寝巻きの浴衣を引っ張ったら、ニキの浴衣の袖がビリビリと裂けてしまったが、ニキは全く気にしていないようだった。力の限りに殴ったり蹴り飛ばせば、ニキをどかせるんだろうけど、今の車を動かせるレベルの怪力で人間を殴ったら、非常にまずいことになる気しかしない。

 

「ごめん、ニキさん! 俺、本当は男だから! 実は生えてるから!!」

「そうなんですか? そうだったら嬉しいです」

「ねえ、こういうのってお互いの同意が必要だと思うんだけどー!!」

 

 ひい。下腹撫でられた。「残念ながら、イチ様は女性のようですね」って確認しなくていいし! 俺もニキも寝巻きがグシャグシャになってるし、そうでなくても暗い中で押さえ込まれてまさぐられたりとか、ニキの息が肌にかかるとか、生々しすぎて、もうなんかわからんが、泣きそうになった。これマジでレイプじゃねーか、求愛が過激すぎるだろーよー! 女の体でセックスとかしたくねーよー!

 全身に鳥肌がたっているのがわかる。男のままでホモに掘られた方がマシだったかもしれない。あ、いや全然マシじゃないし、そんな目に合いたくもないんだけど。

 いよいよ、怪我させるの覚悟で殴るか蹴るかしてどかさないと駄目なんだろうけど、ニキを殴りたくない。今まで良くしてくれて、居場所を作ってくれた恩人で、これから先俺が守っていこうと思った女の子に強姦されかかってるんですよ。クソ展開すぎる。これはひどい。

 

「うヒィッちょ、胸はらめェッ!!」

「イチ様のお胸、大きくて素敵です……」

 

 この子、何言っても聞いてくれないのだ。胸を掴まれて、くすぐったいやら痛いやら、変な声が出そうになる。お前ら覚えておけよ、ある日女になったからってな、おっぱいを揉んでも気持ちよくもなんともないんだからな! ちくしょう巨乳の野郎がちくしょう、大きいから悪いんだ本当に。巨乳になってこの方、いい事がない。巨乳憎し。巨乳キャラ滅ぶべし。

 俺はもうあきらめて身を任せた方がいいのかとか、半分レイプ目の気分で天井を見上げた。高い天井に木目が見える。障子ごしの月明かりもないような暗い部屋なのに。木目の天井から、きらりとした何かが数本垂れ下がっていた。糸? え? 何で糸?

 糸は、そのまま下に続く。男になったニキの背に、頭に、手に、足に、糸が繋がっていた。操り人形が、吊るされているように。

 

「……なんだ、これ……」

「イチ様……?」

 

 思わず零れた声に、ニキが顔を寄せてきて、顎を掴まれ、無理やり唇を重ねられた。力を抜くと、承諾と受け取ったのか、ニキはさらに俺の手を離し、顔を包み込んできた。俺はニキの頭に手を回した。

 ニキの光のない目が潤んでいた。

 

「ニキさん……」

 

 俺は、彼女の頭を抱き寄せ、囁いた。

 

「ごめん」

 

 ニキが何か言う前に、俺は彼女の頭をホールドしたまま、思いっきり自分の額を彼女の頭にぶち当てた。鈍い鈍い音がした。あまりの痛みに「ヒグゥッ」とか「ギギッ」とか淑女らしからぬ奇声があがる。いや多分片方は俺の声だ。痛い。ものすごく痛い。痛いが、俺はさらに、転がって悶絶しているニキの頭にもう一度自分の頭を叩きつけた。また、頭蓋骨と頭蓋骨のぶち当たる音がした。大音量で鐘がなっているがごとき衝撃と轟音。いや実際はゴチンとかガチンとかそんな程度なんだろうけど、当事者同士の痛みってのはそれぐらいのものだった。

 

「ぅううううぁああああああッ痛ええええええええッ!!」

 

 怒鳴れば痛さがごまかせるかと叫んだが痛いものは痛い。そして、同じように痛いはずのニキは……静かになっていた。頭を押さえ込んだままの格好で、うずくまっており、そして、顔を上げた。その顔には、一切の表情がなかった。

 

「イチ様……」

 

 小さな声が、聞こえたような気がした。刀は手元に、ない。昼間、青磁に借りた刀があればと思ったが、ポンコツな俺の刀は鍛冶屋だし、借りた刀はもう返した。水の剣とか火の剣とか、そんな特別なものじゃなくていいから、何か、武器があれば、と痛切に思う。ゆらりとニキが立ち上がる。背が高いな、と思った。尖った爪が、大きな手が、伸びてくる。その詰め先に、細い、細い、糸が見えた。ニキの手を振り払い、その糸を掴む。

 

「痛ッ!」

 

 握った手のひらが、裂けた感触がする。血でか、手の中の糸がずるりと動いた。ニキは、半端に手を伸ばそうとした姿のまま、固まっていた。

 

「そのままだと、指が落ちるよ、お嬢ちゃん」

 

 どこからか、聞き覚えのない女の声がした。天井から、糸の先から、木目の間から、まるで生えたように、女がぶら下がっていた。逆さに吊るされたように長い髪が落ちている。黒い忍者みたいな装束を着込んだ上半身は細く、それに比べて大きく肥大している下半身がひどくアンバランスだった。黒い毛の生えた、巨大な足が何本も動いている。

 

「アハ。別嬪さんが怖い顔しちゃって」

 

 女が笑う。天井に張り付いた巨大な蜘蛛が、わしゃりと脚を動かす。巨大な蜘蛛に、女が生えているようだった。それとも、人間の女に、巨大な蜘蛛が生えたのか。

 女郎蜘蛛。なんとなく、そんな単語が浮かぶ。

 

「てめェ、ニキに何した」

「ンふ、これからするんだよ。お嬢ちゃんも一緒に楽しもうじゃない」

 

 音もなく、巨大な蜘蛛は、天井から落ちてきた。否、飛び降りてきたのだ。その衝撃で、一瞬布団ごと俺達は浮いた。ぼんやりと立つニキを後ろから女が抱きしめる。ニキの、はだけた寝巻きの襟元をつかみ、首筋に女が爪を立てた。白い肌に赤い筋がつき、ぷつぷつと血の玉が浮いてくる。

 

「やめろ、ニキにさわんな!!」

「これから、もっとすごい事シてあげる。クグツの化生にしてあげる。気持ちいいこと、酷いこと、全部、ぜえんぶシてあげる」

 

 女がまた笑った。赤い口の中から、鋭い歯がずらりと、並んでいた。

 

「ようこそ、四衆の死臭の中へ」

 

 俺はしりもちをついたまま、後ろに後ずさった。ニキを抱える蜘蛛女は、動かずに、ニヤニヤとこちらを見ている。ニキの首から一筋、細い赤が流れた。

 

「おぼこいねェ……まだ男の味も知らんのじゃないかイ。だアいじょうぶ、狐っ子ともども、アタシのクグツにして、可愛がって苛めて酷いことして可愛がって可愛がってあげるよォ」

「丁重にお断りだ。俺もニキもな」

「アハ。泣かせたいねえ。その綺麗な顔を歪ませて、泣き喚きさせたいねえ。この狐っ子も可愛い子だ。ともどもに可愛がってやろうねえ」

 

 女郎蜘蛛が嗤う。嗤う。くつくつと嗤う。どいつもこいつも四衆ってのは頭のおかしい化物でクズばかりだ。頭に血が登っていた。手元に武器のない状態に、焦りもあった。だが、それ以上に俺は安堵していた。良かった、という気持ちがどうにも抑えられない。良かった。本当に良かった。『原因』が居た。

 ニキの意思ではなかった。そう、あの子は人の意思を無視して自分の気持を押し付けるような、そんな娘ではない。裏切られてなど、いなかったのだ。

 ああ良かった。本当に。

 

「良かった」

 

 笑顔さえ出た。笑っていた女郎蜘蛛が、ぴたりと黙った。ニキを抱き寄せ、キラキラとした糸を巻きつける。

 

「わかってんだろ、お嬢ちゃん。変な真似したら、この子、掻っ切」

 

 最後まで言わせなかった。足元の布団を蹴り上げる。勿論布団は蜘蛛の糸で一瞬でズタズタにされ、綿が部屋中に飛び散る。ニキの身体が振り回されて、手足に切り傷が走る。女郎蜘蛛は俺を見失ったように首をぐるりと回し。

 

「オラァッ!!」

 

 俺は転がり込んだ蜘蛛の腹の下から、思いっきり蹴り上げた。目くらましからのスライディング。一か八か、糸に絡め取られるか、踏み潰される危険性はあったが、俺には自信があった。大型モンスターは腹から叩くのが鉄則なのだ。

 悲鳴を上げて横倒しになりかけるも踏ん張った、蜘蛛女の顔を思いっきり殴る。車を投げられる程の現実ではありえないような膂力で、渾身の力を込め、心を込めてぶん殴った。

 女の顔がひしゃげる。口から歯が飛び、鼻が折れ、目が飛び出す。俺が俺本来の姿であった世界であれば、女性を殴るなど、フィクションでも御免こうむるシーンのはずだったのに。拳は痛くなかった。妙に冷静に俺は振りかざされる蜘蛛の足を掻い潜り、背から脊髄を折るべく蹴り込み、腹を殴りつけ、人体を破壊した時の感触を味わっていた。女の柔らかい身体の中で、硬いものが折れるのがわかった。

 部位破壊したかな?などと呑気な事を考えつつ、振り上げた拳は、突然激痛ともに動かなくなった。キラキラとした糸が巻き付いていた。

 

「ッっう…ッ」

「あハァ……やんちゃだねェ。随分やってくれたじゃないカ。女の顔殴って……」

 

 ゴキゴキと首を鳴らし、無残に腫れ上がった顔で、女郎蜘蛛がまたあの嫌な嗤いを浮かべていた。手に巻き付いた糸は、肉に食い込んでそのままどんどんと沈んでいく。引っ張られたら、指が落ちるのではないか。初撃は予想外だったにしろ、その後の動きがぎくしゃくしていたのは、これを狙っていたのか。

 

「人質もいるのに素手で襲ってくるとは、よっぽど頭に血が登ったんだねェ? いいよ、いいよ。馬鹿な子だってかわいいもンさぁ……そういうの程、壊しがいがあるしねェ……」

「……くッ! 外れない……ッ!」

 

 糸は外れない。カシャカシャと蜘蛛が音を立てて近づいてくる。血まみれの女の顔が大きく歪む。侮蔑、か、愉悦か。蜘蛛の足が大きく振りかざされ、肩口を抉られた。ちょうど焼かれた箇所に近く、こらえようとしても勝手に悲鳴が上がった。またあの耐えきれないような激痛がやってくる。

 

「アハ。捕まえた」

「お前、が、な!!」

 

 女郎蜘蛛の腹から背まで、まっすぐに刀が通った。歪みもヒビも欠けもない、銀色の大太刀。それは、俺の手からまっすぐ、伸びていた。

 女郎蜘蛛の顔が驚きに見開かれる。俺は手の中の太刀をひねり、力任せに袈裟懸けに振り切った。肉や筋を力任せに切り裂き、女の身体と大蜘蛛はかろうじてくっついているだけになった。蜘蛛の脚を断ち切る。脚の先はまだ右肩に残っており、腕が上がらない。左手を振るう。冗談のように蜘蛛が真っ二つになった。

 

「あっ……な、んで……ッ」

 

 女が、ぱくぱくと口を動かす。腫れ上がった顔は蒼白だった。俺が刀を喚べないのを知っていたのだろう。昼間に襲われた時、青磁に借りた脇差も返して、丸腰だった。だったから、襲ってきた。内通者がいるのか、思った以上に政府に敵が肉薄しているのか、俺にわかるはずもない。

 畳が血で汚れ、振り回されて転がったニキが倒れていた。意識はなかったが、息はあるようだった。素手で殴りに行ったのは、ニキから引き離すのと、蜘蛛の向きを変えさせるつもりだったのもあるのだが、上手く乗ってくれたのは助かった。

 

「……呼べないと、思ってたんだろ? 残念だったな」

 

 俺は太刀を振るった。女の首が、暗い部屋の中に飛んだ。


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