ザァァァ、と窓の外から雨の降り頻る音が聞こえてくる。どうやら梅雨の季節柄に漏れず今日の天気も雨らしい。もう貯水は十分だからいらないんだけどなぁ。
しかし覚醒前の眠い意識に一定の音量で延々と響き続ける雨音って、どうしてこうも心地良く耳に残るんだろう。起きていたら雨音がうるさく感じることもあるっていうのに不思議で仕方がない。
『ーーー明久さん、起きて下さい』
そんな雨音に混じって、鈴を転がすような可愛らしい声も聞こえてくる。夢と現の狭間にいるような感覚の意識状態が、本来ならばあり得ないはずのその声をまるで当然のように受け入れていた。
「ん〜……律、あと少しだけだから……」
『そう言われましても、そろそろ起きないと遅刻しちゃいますよ?』
遅刻って……律はいったい何を言っているんだろうか。目覚まし時計が鳴ってないんだから起きるにはまだ時間があるだろうに。
半分寝ぼけながらもそう判断した僕は、身体に掛かっている布団を引き上げて頭へと被せていく。
『う〜ん、どうやら目覚まし時計の電池が切れちゃったみたいですね……携帯のアラームで起きるでしょうか?』
その言葉とともにピピピピピピッ、という普段あまり聞き慣れない電子音が鳴り響いた。んもう、眠たいっていうのに騒がしいなぁ。
僕はアラームの音を煩く思いながらも音源である携帯へと手を伸ばし、
『キャ……‼︎』
一瞬で眠気が吹き飛んだ。
「…………ッッッ!?!?!?」
なに⁉︎ 今の艶かしい女の子の悲鳴はいったいなんなの⁉︎ なんか背筋がぞわっとしたぞ⁉︎
僕は頭まで被っていた布団を剥ぎ取ってベッドから跳ね起き、訳が分からないままに周囲を見回した。しかし当然ながら一人暮らしの僕の部屋に誰かがいるはずもなく、誰かが侵入したような形跡もパッと見では見当たらない。
寝ぼけてたのかな……?そう考えて落ち着きを取り戻した僕は、いつの間にか手に取っていた携帯の存在に気付いた。そういえば起きる直前にアラームが鳴っていたようなーーー
「…………り、律……?」
携帯の画面に目を落とすと、そこには何故かクラスメイトである人工知能の姿があった。
それはまだいい……いや、実際には良くないけど一先ず置いといて……そこに映し出されている彼女の様子が少しおかしかった。
律は自分の身体を抱くようにして両腕で胸元を隠しており、頬を薄らと紅く染めて上目遣いで此方を覗き込んできている。それだけでは飽き足らず極め付けには、
『……明久さんのエッチ…………』
と艶かしく言ってくる始末。僕はスクショを取ろうとする自分の指を抑えるのに必死だった。録音アプリを起動しようとする思考もなんとか抑え込んだ。
いやいやちょっと待って。何がなんだか分からないけどちょっと待って。えーっと、この状況はつまりどういうことなのかというと……?
『確かにアラームを鳴らした私の不注意でもありますけど、いきなり胸を触られるのはちょっと……』
「すいませんでしたぁぁぁぁ‼︎」
僕は持っていた携帯を崇めるようにして両手で頭上に掲げると、形振り構わずその体勢のまま土下座へと移行した。ここで誠意を見せないとクラスメイトに変態行為を働いた変態として社会的に死ぬ……‼︎
「本当にすいませんでした‼︎ 僕も悪気があったわけじゃないんです‼︎ どうか何でもするので許して下さい‼︎」
『ん?今、何でもするって言いました?』
「その返しネタ何処から引っ張ってきたの⁉︎」
この娘、本当につい最近まで固定砲台だったのだろうか?なんでそんなお約束の返し方までマスターしてるんだ。いやまぁ僕に拒否権はないんだけどね。
律は思案顔で人差し指を顎に当てながら“うーん”と悩んでいる。彼女に限って理不尽な要求をしてくるとは思えないけど、こういう展開では何を言われてもおかしくないのでつい固唾を呑んでしまう。
『じゃあそうですねぇ……明久さんが学校に遅刻しなかったら許してあげます』
「へ?そんなことでいいの?というか遅刻って今は何時ーーー」
律の簡単な要求に呆気に取られながら部屋の時計を見ると……止まってた。あ、だから律が起こしに来てくれたのかな?だったらあとでお礼を言っとかないと。
ということで、改めて律の映っている画面に視線を戻して時間表示されている上の方を確認すると……既にいつもの登校時間を大幅に過ぎていた。
「ってやばい‼︎ 本当に遅刻する‼︎」
『計算上では今から家を出ればまだ間に合うはずですよ。それでは教室でお待ちしてますね』
笑顔で別れの挨拶を告げて消えた律に対して、僕は大慌てで制服を引っ張り出して着替え始めた。
身嗜みを整えたり朝御飯を食べている余裕はない。制服に着替えて鞄を手繰り寄せると、一分と掛からず家を飛び出し全力疾走で学校へと向かった。
★
〜side 渚〜
今日もじめじめと雨が降っている朝のHR前。授業が始まる時間にはまだ少し早いけど、殺せんせーも含めて寝坊している吉井君以外の全員が既に教室に集まっていた。
ちなみに吉井君が寝坊しているという情報は本人から連絡があったわけではなく、情報共有を円滑にするためという理由で全員の携帯にダウンロードされている律の端末である“モバイル律”からの情報だ。GPSの反応が自宅から動いていなかったので様子を見に行ったらしい。彼女も大概何でもありである。
ところでどうして僕らがHR前にも関わらず教室に集まっているのかというと、
「皆さんおはようございます。今日転校生が来ることは烏間先生から聞いていますね?」
「あーうん、まぁぶっちゃけ殺し屋だろうね」
そう、律に続いて二人目の転校生がE組へと来るらしいのだ。まぁ暗殺教室になっている今年のE組に普通の転校生が来ることはまずないだろうから、前原君の言う通り十中八九殺し屋だと思う。
「律さんの時は少し甘く見て痛い目を見ましたからね。先生も今回は油断しませんよ」
転校生と聞いて殺せんせーも気合十分といった感じであった。律の時はたった二回の射撃で指を吹き飛ばされていたからね。同じ転校生を警戒するのは当然だろう。それでも僕らに仲間が増えることを喜んでいる先生は相変わらずである。
「そーいや律、何か聞いてないの?同じ転校生暗殺者として」
『はい、少しだけ』
原さんの質問に律は少しだけ悲しそうに話してくれた。何か転校生に思うところでもあるんだろうか?
彼女の話では元々二人を同時投入して連携により殺せんせーを追い詰める作戦だったらしいんだけど、もう一人の暗殺者の調整が必要だったことに加えて律では連携に力不足だということで個別に送り込まれることとなったらしい。
で、その作戦というのは律が遠距離射撃でもう一人が肉薄攻撃による連携というものだって言うんだけど……
その話が本当だったら律には悪いけど彼女を力不足と断じることも頷けてしまう。いったいどんな怪物がこれから転校してくるって言うんだ?
律から転校生の話を聞かされて教室内が緊張に包まれていたその時、ガララッと大きな音を立てて唐突に教室のドアが開かれた。その音に全員がビクッと反応して反射的に律からドアの方へと振り向く。そこには話にあった転校生ーーー
「セーフだよね⁉︎ これって遅刻扱いにはならないよね⁉︎」
「「「お前かよっ‼︎」」」
ではなく、遅刻ギリギリで登校してきた吉井君の姿があった。タイミング悪過ぎでしょ……いやある意味では完璧なタイミングだったけども。
そして吉井君に続く形で教室に入ってきた人物がもう一人いた。全身を白装束と白覆面で隠した白づくめの正体不明の人物。吉井君や土屋君の場合は黒マントに黒覆面の黒づくめだったから彼らとは別物だと思う。ということはこの人が転校生ーーー
「あ、こっちの人は転校生の保護者だっていうシロさん」
「やぁ、初めまして。全身が真っ白だからシロ……少し安直な名前だけどよろしくね」
さっきまでの緊張感は何処へ行ったんだろう。吉井君のせいというかおかげというか、律の話を聞いて戦々恐々としていた皆の緊張は消え去っていた。
同じく緊張していた殺せんせーも落ち着いたようでシロへと声を掛ける。
「初めまして、シロさん。……それで肝心の転校生は?」
「あぁ、ちょっと性格とかが色々と特殊な子でね。私が直で紹介させてもらおうと思いまして」
そう言ってシロは教室にいる皆を見回して……こっちで視線が止まった?と思ったらすぐに視線が外れていった。なんだろう、さっきのは僕の気のせいだったのかな?
そうやって教室にいる皆の顔を確認するとシロは満足したように一人頷いた。
「皆、良い子そうですなぁ。これならあの子も馴染みやすそうだ。おーい、イトナ‼︎ 入っておいで‼︎」
シロの呼び掛けで再び教室内が緊張に包まれる。今度こそ律をもってしても圧倒的な実力と言われている転校生の登場だ。緊張しないわけがない。
そうして皆の視線がドアへと釘付けになり、
教室の後ろの壁をぶち破って転校生が現れた。
(((ドアから入れっ!!! )))
恐らく全員が同じツッコミを脳内で入れたことだろう。驚き過ぎて言葉が出ずに開いた口が塞がらなかった。というか壁を壊して入ってくる意味がまるで分からない。
シロからイトナと呼ばれた白髪で不思議な瞳の模様をした転校生は、そのまま律の隣に用意していた席へ座るとブツブツ独り言を呟き始める。
「俺は勝った。この教室の壁よりも強いことが証明された。それだけでいい……それだけでいい……」
なんかまた律とは違った個性的な人が来たな。殺せんせーもリアクションに困ってるよ。笑顔でもなく真顔でもなく……なんて表現すればいいか分からないけど取り敢えず微妙な顔をしていた。
「堀部イトナだ。名前で呼んであげて下さい。あぁそれと、私も少々過保護でね。しばらくの間は彼のことを見守らせてもらいますよ」
イトナ君の奇行に対して何事もなかったかのように紹介を進めるシロ。
律の話に出てきた“調整”という言葉や壁を破壊できる肉体強度……イトナ君は肉体強化のようなものを受けているのかもしれない。となるとシロが見守ると言っているのはクラスでの様子じゃなくて体調の変化のことなんじゃないだろうか。
白づくめの保護者と話が読めない転校生……今まで以上に一波乱ありそうだ。
「ねぇイトナ君。ちょっと気になったんだけどさ」
と、そこで席が律とは反対の位置にあるカルマ君がイトナ君に声を掛けた。ちょっとどころか気になることしかないと思うんだけど、いったい何がカルマ君の関心を引いたんだろう。
「今、外から手ぶらで入ってきたよね。外は土砂降りの雨なのに、なんでイトナ君は
言われて僕らもハッと気付いた。異常なことだらけで細かいところまで見れていなかったけど、確かにイトナ君の身体は直前まで傘を差していたとしても濡れていなさすぎる。まるで殺せんせーが雨を避けて登校していることと同じように……
訊かれたイトナ君はキョロキョロと教室内を見回してから席を立ち上がった。
「……お前は多分、このクラスで二番目に強い。恐らく一番はあっちの赤髪の奴だ。けど安心しろ。俺より弱いから、俺はお前らを殺さない」
そう言って立ち上がったイトナ君は、教室を縦断して教壇に立つ殺せんせーへと歩み寄っていく。
「俺が殺したいと思うのは、俺より強いかもしれない奴だけ……この教室では殺せんせー、あんただけだ」
「強い弱いとは喧嘩のことですか?残念ながら力比べでは先生と同じ次元には立てませんよ」
殺せんせーの言うことは尤もだけど、律の話や目の前で見せられた異常な現象のことを考えると一概には否定できない。それこそ殺せんせーにさえ迫れるような何かがあってもおかしくはーーー
「立てるさ。だって俺達、血を分けた兄弟なんだから」
それでもイトナ君の言葉は予想の斜め上すぎた。
「「「き、き、き、兄弟ィ!?!?」」」
ただただ驚愕するしかない爆弾発言に、僕らは堪らず大声を上げてしまう。殺せんせーとイトナ君が兄弟ってどういうこと⁉︎ そもそもタコ型と人型で見た目からして全然違うじゃん‼︎
「負けた方が死亡な、兄さん」
しかし僕らの驚きなど露ほども気にせず、イトナ君は殺せんせーの暗殺宣言をするのだった。
★
イトナ君は放課後に殺せんせーと勝負をすると言って一度教室から出ていった。当然ながら騒然となった皆から質問責めに合う殺せんせーだったが、どうやら先生にも心当たりがないようで僕らと同じように焦りまくっている。生まれも育ちも一人っ子らしい。
午前中の授業は戻ってきたイトナ君の存在感が大きすぎて全然集中できなかった。というか授業中は殺せんせーの様子を観察するだけで勉強をしている様子はなかったし、新しく手に持ってきた大きな荷物の中身も気になるところである。まぁその中身は昼休みになると判明したんだけどね。
「凄い勢いで甘いモン食ってんな。甘党なところは殺せんせーと同じだ」
「表情が読みづらいところとかもな」
そう、荷物の中には大量のお菓子が詰め込まれていたのだ。殺せんせーが食事とデザートを分けて食べていることを考えると、イトナ君は先生以上の甘党ということになる。若い頃から甘いものばっかりで糖尿病とか大丈夫なのかな?
「にゅや、兄弟疑惑で皆やたら私と彼を比較してきます。ムズムズしますねぇ……気分直しに今日買ったグラビアでも見ますか。これぞ大人の嗜み」
いや百歩譲ってグラビアを持ってきていて気分直しに読むとしても、それを教室で堂々と読もうとするのは先生としてどうなんだ。いまいち殺せんせーの先生としての境界線の良し悪しはよく分からない。
しかしイトナ君が全く同じグラビアを取り出したことで再び殺せんせーは表情に焦りを浮かべていた。趣味嗜好も同じ、教室で読もうとするのも同じ……そこはせめて二人とも読む場所に配慮しようよ。
「……これは俄然信憑性が増してきたぞ」
「そ、そうかな……?」
その光景を見た岡島君が何故かシリアス調で二人の兄弟疑惑を押していた。どうして同じグラビアを持ってくるだけで信憑性が増すという結論になるのだろうか。
そういう意味を込めて疑問で返すと、そんな僕に対して岡島君は力説しながら鞄から同じグラビアを取り出した。なんで君も持ってきてんの?
「そうさ‼︎ 巨乳好きは皆兄弟だ‼︎ なぁ土屋‼︎」
「…………何を言っているのか分からない」
いきなり話を振られた土屋君は意味が分からないといった様子で惚けているものの、その鞄からはみ出している雑誌は同じグラビアのように見えなくもない……というか同じグラビアだった。流石に同じものを三冊も見せられれば嫌でも見分けがつく。もうなんで持ってきてんのかという疑問は挟まないことにしよう。
クラスの皆がそんな風に遠回しに殺せんせーとイトナ君の共通点を探しているところで、そのイトナ君へと近づいていく人物が一人いた。
「ねぇねぇ、殺せんせーと兄弟って本当なの?」
吉井君はイトナ君の隣に立つと臆することなく核心に迫る質問を投げ掛けていた。
「吉井君って本当に怖いもの知らずよね……」
「うん、よく本人に訊きに行けるよね……」
片岡さんと矢田さんのその意見には同意せざるを得ない。律の時もそうだったけど、吉井君には躊躇というものがないんだろうか。
しかしイトナ君は吉井君を一瞥するだけで再び視線をお菓子の山へと戻してしまった。
「…………」
「……あれ?どうしたの、イトナ君。なんで何も言わないの?」
「……三番目に興味はない。話すことも何もない。だから俺に構うな」
取りつく島もないとはこのことだろう。無視しても話し掛けてくる吉井君に折れたのか、イトナ君も言葉を返していたが会話をするつもりはないようだ。完全拒否の姿勢で吉井君を寄せ付けないようにしている。
「そっかぁ、じゃあ放課後のイトナ君の暗殺を楽しみにしてるよ。頑張ってね」
それでも吉井君に気を悪くした様子はなく、素っ気ないイトナ君に対して笑顔で声援を送りながら離れていった。あそこで普通に返せる辺り、彼の器はかなり大きいと思う。
「雄二、僕は三番目だってさ。どうやったら雄二やカルマ君に勝てるのかな?」
「いや、今気にするところはそこじゃねぇよ」
……やっぱり器とかじゃなくてただ何も考えてないだけかもしれない。
そんなこんなで結局イトナ君のことは何も分からないまま、放課後の暗殺を迎えるのだった。
次話
〜まさかの時間〜
https://novel.syosetu.org/112657/20.html
竹林「これで“転校生の時間・二時間目”は終わりだよ。皆も楽しめただろうか?」
岡島「今回もいつも通りに後書きを……と言いたいところだが、俺達には他に話し合わなければならないことがある」
土屋「…………明久の行動について」
竹林「そうだね。変わっている設定といえばイトナ君独断によるE組内での強さランキングぐらいだ。さしたる重要度ではない」
岡島「そう、俺達が今から話し合わなければならないこと。それは……」
竹林・岡島・土屋「「「吉井君/吉井/明久が律にラッキースケベを発動させた件についてだ」」」
竹林「E組のマドンナが神崎さんだとしたら、E組のアイドルは律で間違いない。そんな彼女に手を出すなんて万死に値する」
岡島「なんで俺じゃなくて吉井なんだ。俺だったら声だけでも興奮できる自信があるってのによ」
土屋「…………せめて画像と音声を録音していれば売り出せたものを」
竹林「……ちょっと待ってくれ。全員の話の焦点が合っていないぞ」
岡島「そんなことねぇよ。吉井の奴が嫉ましいってことだろ?」
土屋「…………記憶媒体に保存さえしていれば名前を編集することで誰にでも対応することは出来るはずだ」
竹林「……まぁいいか。要約すると二次元は最高だと言うことだね」
岡島「ちょっと待て。二次元を否定するつもりはないが、やっぱり最高と言うんだったら三次元だろ。肉体的接触が出来るかどうかは重要なところだぞ」
土屋「…………需要は人それぞれ」
竹林「いいや、以前にも言っただろう。Dを一つ失う所から女は始まるんだ。理想の女の子に出会える二次元が至高だよ」
岡島「それを言うんだったら
竹林「……どうやら二次元と三次元、決着をつける時が来たようだね」
岡島「望むところだ。俺に女の子を語らせて勝てると思うなよ」
土屋「…………というわけで後書きは終わりだ。次の話も楽しみにしておけ」
律『お三人はいったい何を話されているのでしょうか?』
明久「律は知らなくていいよ。その人種の人達にとっては結論の出ない話だから」