鉄火の銘   作:属物

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第一話【マイニング・フロム・オーディナリーデイズ】#2

【マイニング・フロム・オーディナリーデイズ】#2

 

……ザザ…………ザザ……ザザ…………ザザ。シンヤの足下に、01の水が左から右へと流れる。ここはどこだろうか。どうにもわからない。顔を上げれば金色の立方体が緩やかに回転している。シンヤにはどこか見覚えがあった。あれはなんだろう。どうにも思考がまとまらない。

 

「ドーモ、クレーシャです」シンヤの耳に合成音めいた声が届いた。視線を向ければ、川の中に蛍光緑の単色で描かれた人影がある。顔立ちは不明瞭だ。ネガ写真めいた緑の塗りつぶしの中に、虚めいた口と三つの瞳があるだけ。漫符めいた笑顔の主は、合掌礼と共に丁寧なオジギをしている。

 

(((答えなくては)))アイサツで名前を言われたのだから、名前を返してアイサツすべきだ。シンヤも手を合わせてアイサツした。「ドーモ、シンヤです」だが不明瞭な違和感が残る。これは自分の名前だったか? 

 

シンヤが疑問を解消するより先に、次の言葉が人影から放たれた。「シンヤ=サン、お久しぶりです。」どうやらクレーシャはシンヤと出会ったことがあるらしい。シンヤにもぼんやりとした既視感はあった。だが記憶にはない。

 

「ああ、忘れてしまっているのですね? 無理もない! しかしカナシイ!」シンヤの表情に気が付いたのか、クレーシャは殊更に大仰な様子で嘆いて見せた。緑色の虚に浮かぶ三目と口が、AAめいた記号的な悲嘆を表示する。大仰すぎる動作と外観の異様さが道化のアトモスフィアを強く漂わせている。

 

そうして全身をくねらせながら悲しみを表現していたクレーシャは、突然に姿勢を正した。「ネオサイタマにアナタを落としたのは私なのです」唐突でマジメな言葉にシンヤのニューロンが無数の光景を瞬かせる。食卓、家族、故郷、ウサギの月。暗黒なエネルギ、トモダチ園、ネオサイタマ、ドクロの月。

 

コトダマの衝撃が、シンヤの意識を冷水めいて覚醒させた。暗黒なエネルギが突沸し、カンニンブクロが弾ける。(((こいつは! こいつが! こいつのせいで!)))「イヤーッ!」考える間もなく、シンヤは衝動的に拳を構えて飛びかかった! 

 

だが、躍り掛かるシンヤにクレーシャは驚きすら見せず、むしろ何かを喜ぶように三目を細めた。シンヤの跳びカラテパンチが影の顔面にめり込む! 「グワーッ!?」次の瞬間、01の水面に全身を打ち付けていたのはシンヤだった。フシギ! 

 

いかなる奇っ怪なジツによるものか? 第三者が二人を見ていたならば、その答えは容易に見いだせるだろう。跳びカラテパンチが接触する瞬間、クレーシャは無数の01記号片に分離し、オバケめいてシンヤをすり抜けたのだ。

 

笑顔のままクレーシャは川に落ちたシンヤに話しかける。「落ち着いて「イヤーッ!」ヤ=サン。私はアナタとケン「イヤーッ!」はありません。むしろアナタに謝罪しに「イヤーッ!」だが、荒ぶるシンヤはクレーシャの言葉に聞く耳持たずだ! 

 

オニめいて歯を剥き、水面から跳ね上がると衝動に突き動かされるままカラテを打ち込み続ける。霧めいてカラテ打撃をかわすクレーシャにはノレンにウデオシでも、シンヤに気にした様子はない。気にするほどの正気もない。赤布を目にしたバイオ闘牛めいて、怒りの赴くままにカラテを振るっている。

 

ダメージは無いが、これではラチが開かない。クレーシャはそう判断したのか、額に位置する三目が蛍光色の閃光を発した。「イヤーッ!」「グワーッ!?」光を浴びせられたシンヤは、漢字サーチライトに照らされたヨタモノめいて全身を硬直させる。

 

「シンヤ=サン、私はアナタに謝罪しにきました。いいですね?」「アッ、アッ、アッ……ハイ」蛍光グリーンの輝きに照らされるシンヤは、クレーシャに出会う前のように虚ろに呆けている。シンヤは影の言葉にジョルリ人形めいて条件反射的に返答する。

 

「ヨロシイ!」クレーシャは上半身全部で大げさに頷くと、改めてシンヤに話しかけた。「シンヤ=サン、私がアナタをネオサイタマに落としました。ゴメンナサイ!」「ハイ」「ネオサイタマでアナタはとても苦労されています!」「ハイ」

 

クレーシャはやさしみと慈しみにあふれた、記号的な笑みを深めた。だが漂うアトモスフィアは、獲物を前にしたバイオパンダのそれだ。「その原因は私です。なのでオワビにアナタにパワを与えましょう!」「パ、ワ?」緑の光を弱めたためか、シンヤに僅かながら意志の光が戻る。

 

「ステキなパワです! とてもスゴイ! そう、ニンジャのパワ!」クレーシャは販促TV番組の司会者めいて両腕を振り回し、そのパワの素晴らしさを力説する。シンヤは僅かに残る意志の力を総動員して、言葉の意味を考えようとする。……ニンジャ ……ニンジャ? ……ニンジャ!? 

 

「それは、ダメ、だ」「ナンデ? 素晴らしいんですよ?」さも意外そうな声音でクレーシャは問いただす。「アブナイ、だ。制御が、できない」「制御ねぇ」クレーシャは先とは異なり不快と嘲笑を示すように三目を細めた。

 

「する必要があるんですか?」クレーシャはシンヤに勢いよく三眼を近づけた。顔は左右非対称のシンボリックな嘲笑を描く。「しなきゃ、ダメだ」シンヤは荒い呼吸と共に言葉を絞り出す。ソウカイヤ、ザイバツ、アマクダリ。ニンジャ組織はニュービーの身勝手を許しはしない。それになにより……。

 

「ニンジャ、スレイヤー=サンが、いる」赤黒の殺戮者。ネオサイタマの死神。カラテモンスター。幾多の字を持つ、恐るべきニンジャ殺す者。ニンジャはモータルにとって荒ぶる神にも等しい暴虐たる半神的存在。その悉くをカラテ殺す、死神の化身こそがニンジャスレイヤーなのだ。

 

感傷に満ちた人間性と殺戮と怒りに狂うニンジャ性を併せ持つ彼は、モータルを踏みにじる悪しきニンジャを決して許さない。その恐るべきカラテとソウルを持って全てのニンジャにハイクを詠ませるだろう。シンヤにはどんなニンジャソウルを手に入れても、彼を相手に生き残れるとは思えなかった。

 

その言葉を聞いたクレーシャは、バネ仕掛けめいて勢いよく顔を戻すと仰々しく頷いた。「確かにニンジャスレイヤー=サンがいらっしゃいます。彼こそが小説『ニンジャスレイヤー』の主人公! 言わば世界そのもの主役と言えるでしょう!」

 

シンヤのぼやけた脳裏に今更ながら疑問が浮かぶ。(((こいつは、いったい何を、知っているんだ?)))Twitter小説『ニンジャスレイヤー』。トンチキ日本観で彩られた痛快無比なサイバーパンクカラテ復讐譚。ネオサイタマを舞台とするこの作品は、今シンヤのいる世界そのものだ。

 

しかし、作中世界において、それを知るのは神話級ニンジャ『エメツ・ニンジャ』の憑依者であるザ・ヴァーティゴのみだ。狂気の住人であり幾多の世界を渡り歩く放浪者である彼のみが、第四の壁を越えて現実世界とリンクする。

 

(((だが、それを言うなら何故俺は架空の世界に存在するんだ?)))ドライアイスめいて形を失う思考を無理矢理つなぎ止めながら、シンヤは必死に思考を回す。その耳に道化者めいて底抜けに明るいクレーシャの声が響く。

 

「しかし、それは『ニンジャスレイヤー』という作品の中での話! アナタだけの特別な(オリジナル)ストーリー! アナタこそが世界の主人公(ヒーロー)! アナタは選ばれたのです!」全身を煌々と輝かせ、クレーシャは嬉々として与えるパワの素晴らしさを語る。

 

「欲望のままに全てを貪るのもイイ! 快楽のままに全てを忘れるのもイイ! 憤怒のままに全てを憎むのもイイ!」蛍光の輝きをまとい身勝手な説法を語る姿は、ペケロッパカルトのLED本尊めいている。あるいは、それを騙るデジタルデビルの姿か。

 

「アナタはニンジャ! アナタが主役! 誰も止められない!」全身の輝きにつれてクレーシャの三眼もまた炯々と光る。UNIXサイバー光めいたその緑光がシンヤの疑問と集中をハンマーめいて打ち砕く。

 

「イイでしょう?」「ア、アア」シンヤはもはや考えることすら困難だ。脳味噌全てが輝きに浸かってニューロンが緑の01粒子にからめ取られているようだ。抵抗を止めた獲物を確認した猛獣めいて、クレーシャは満足げな笑みを浮かべると、光を抑え再びシンヤに顔を近づけた。

 

先より格段に顔が近い! 「皆にムカつきませんか? 周りにイラつきませんか?」「ムカ、つく。イラ、つく!」シンヤの呆けた表情がオニのそれへと形を変える。ヤンク! クラスメイト! 門下生! マグロツェペリン! ネオサイタマ! ドクロの月! トモダチ園! 

 

「ムカつく! イラつく! ハラ立つ!」次々にニューロンに浮かぶ怒りの幻影を殴り飛ばそうと、歯を剥き拳を振り回す。吹き上がる暗黒なエネルギは、クレーシャの放つ光をニューロンから吹き飛ばし、精神を憤怒で染める! 

 

「そうでしょう!」悦に満ちたクレーシャはシンヤから顔を離すと、天上の黄金立方体を指さし高らかに叫んだ。「そこで、ニンジャです!」「おお! おお!」次いで吠えるシンヤの額を指さす。シンヤの額中央と黄金立方体との間に、スパイダー・スレッドめいて細い01のラインが曳かれる。

 

「さぁ、アナタに相応しいソウルを呼ぶのです! そして相応しい名前を付けてあげましょう!」シンヤは額の中央から吹き上がった暗黒なエネルギが、01ラインを通って黄金立方体へと達する幻覚をみる。表情を憤怒と憎悪と悦楽と期待の四色に染め上げ、シンヤは全身に力を込め、大きく息を吸った。

 

(((ニンジャとなって、この憤怒と憎悪を解き放つ! 俺がやって何が悪い! ニンジャスレイヤー=サンこそ憤怒と憎悪の化身だ! 否、俺こそがその化身となるのだ!)))ヤンクをぶちのめした日の悦びがニューロンの奥底から鮮烈に再生される。(((ALAS! 暴力の悦びよ! ALAS! 遙かにいい!)))

 

……そして、その夜の約束もまた。(((シンちゃん、こんなことはお願いだからヤメテ)))両目一杯に涙を溜めたキヨミに繰り返し謝罪しながら、シンヤはキヨミと誓ったのだ。(((誰かを憎まない、傷つけない)))シンヤは無意識に胸に触れる。そこにはいつもオマモリ・タリズマンが鎮座している。

 

全身の力が抜け、叫びになり損ねた言葉がただの吐息として口から漏れた。「ダメだ」「……まあ、そういう日もあります」一瞬、クレーシャの顔に、羊を捕らえ損ねた狼めいた表情が浮かんだ。それは今までの記号的な表情と異なり、異常に生々しく歪んだアトモスフィアを感じさせる。

 

しかし、それは瞬きの間にシンボリックな落胆の表情に沈んだ。「ですが! アナタには必ず素晴らしいパワが届けられるでしょう! アナタが求めれば今すぐにでも!」気を取り直したのか、クレーシャは再び抽象的な笑顔を浮かべながら、大仰にオジギをした。

 

僅かに上げた顔から、驚くほど冷たい視線がシンヤを貫く。「では、オタッシャデー!」だがそれを気にするよりも早く、クレーシャと共に目に見える全てが01の微粒子へと分解されていった。当然、シンヤの体も含めて。後に残ったのは無限の、あるいは夢幻の闇。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

シンヤの目覚めは唐突だった。「ハァーッ、ハァーッ」いつもの悪夢にうなされたように心臓は十六ビートで血液を送り、冷や汗が全員を覆っている。しかしいつもの悪夢とはある点で大きく異なった。「痛くないな」額から吹き出さんばかりに煮えたぎる暗黒なエネルギが全く感じられないのだ。

 

代わりに感じるのはある種の焦燥感だ。忘れてはならないことを聞かされた後のような、今すぐにでも記録に残しておかなければならないと急かす感覚が、シンヤの胸の内で暴れている。しかしその記憶を思いだそうとしても、ワサンボン・スイーツめいて僅かな印象だけを残し儚く消えてしまう。

 

「ブッダム!」僅かなイメージをかき集めても『自分の人生に関わる重大な事柄だった』としか思い出せない。その内容はニューロンの隙間から砂めいて一粒残さずこぼれ落ちてしまった。シンヤが徒労にため息をつくと、寝汗をかきすぎたのか喉の渇きに気がついた。水を飲みたい。

 

タタミ・ベッドから身を起こし、シンヤは他の子供たちを起こさないように慎重に足を進める。先日はカワラ割りで叩き起こしてしまった後、ずいぶんと文句を言われたのだ。それでも年季の入った床はキィキィと小さな悲鳴を上げている。壁に触れれば、毛羽だってめくれあがった壁紙がボロボロと落ちる。

 

以前はこうではなかった。シンヤは僅かに目を伏せた。壁紙は毎年張り替えていたし、床が鳴ることなどそうそうなかった。重金属酸性雨が降りしきるネオサイタマでは、定期的な建築物のメンテナンスは必要不可欠だ。それを怠れば驚くほどの短期間で建物は劣化し人が住めなくなる。

 

それに必要な費用は常に建築物の所有者を苦しめる。それはこのユウジンビルの所有者にして、トモダチ園の園長であるコーゾもまた同じだった。階段上のシンヤの目から見て、キッチンの食卓で倒れ込むように眠るコーゾは、不健康なほど痩せ細っていた。かつての恰幅よく鷹揚な姿は想像もできない。

 

日中は人件費節約のためソバシェフの一人としてソバを打ち、それが終われば真夜中過ぎまで書類仕事に没頭する。少しでも時間が有れば金策に走り回る毎日。ダシガラめいてやせ細るのも無理はない。先代から受け継いだローカルソバチェーンの経営悪化は、コーゾの健康までも悪化させていたのだ。

 

食卓でうつ伏せに眠るコーゾの背中にシンヤは部屋から持ってきた毛布をかぶせた。ふとコーゾの胸の下に一枚の紙切れが見えた。「エガオローン借用契約書」そう書かれた文字にシンヤの表情が歪んだ。借金による自転車経営。ファイアホイールの行く先に待つのはジゴク以外はない。

 

だがどうすればいい? 事務作業をキヨミが手伝い、シンヤが鉄工所でのアルバイトを全額渡しても、火のついた経営状態には焼け石に水だった。今のシンヤにどうにかできる方法はない。でも、現状をひっくり返せるような力さえ有れば。

 

(((そう、ニンジャのパワ!)))シンヤのニューロンに唐突な言葉が浮かんだ。ニンジャならこの苦境も容易く越えられるのだろうか。たとえば企業ニンジャならカチグミ以上の給金が得られる。暴力を振るう必要すらなく、トモダチ園がコーゾが救える。しかし、ニンジャソウルの憑依は偶然……

 

(((アナタが求めれば今すぐにでも!)))ぞくりとシンヤの背筋が震えた。まるで悪魔の誘惑を受けたような寒気が走る。この言葉を信じて求めれば、望むパワは容易く手に入るだろう。確証など無いが確信はあった。思い出したように額の中心が痛む。押さえ込むように、考え込むように手を当てる。

 

ニンジャのパワが有れば、全ては好転させられるかもしれない。だが、その代価は? フリーランチは無い。支払うのは命か、人間性か、人生か。それとも……家族か。「悪い夢を見たんだ」シンヤは自分に言い聞かせるように呟いた。悪夢の残滓を振り払うかのように繰り返し首を振る。

 

「シンちゃん?」その様に胸騒ぎでも覚えたのか、夜着姿のキヨミが心配そうな表情で声をかけた。コップを片手持っている所をみるにキヨミも水の補給に来たらしい。「ダイジョブ?」「ダイジョブ。夢見が悪くてさ」キヨミの視線はシンヤから眠るコーゾへと移る。

 

「いつも、ダイジョブ言って病院にも行かないで」自分に向けた独り言か、隣のシンヤに話しかけているのか、それとも眠るコーゾに言い聞かせているのか。目を伏せたキヨミは虚空に言葉を漏らす。「前は太りすぎを気にしてたのに、今はこんなに痩せちゃって」そっとキヨミはコーゾの背中を毛布の上から撫でた。

 

「毛布、アリガトね」「ああ」シンヤはその柔らかな手を見るともなしに見つめる。細い指先には幾つもの絆創膏。書類仕事は切り傷が耐えない。紙の切れ味は意外に鋭いし、刃物を使うことも多いのだ。加えてシンヤ含め6人分の家事の疲れもあるだろう。

 

自分がもっとアルバイトで稼げれば、あるいは家事や書類仕事をもっと手伝えば多少は違うのだろうか。だが、キヨミは子供たちが家事や書類仕事に関わることに否定的だ。シンヤのアルバイトに最後まで反対したのもキヨミだった。「子供は遊びと勉強優先」それがキヨミの言い分だった。

 

「明日も早いから、シンちゃんも早めに寝てね」(((もう遅いからいい加減寝なさいよ)))『以前』の姉と今のキヨミ。二人の姿が幻覚めいてオーバーラップする。いつもの顔で幻覚を押し隠してシンヤは応えた。「水飲んだら寝るよ」

 

シンヤは当初の目的通りカルキ臭い水を飲み、忍び足で部屋へと帰る。「悪い夢を見たんだ」シンヤはもう一度繰り返した。だが、耳鳴りめいて同じフレーズが脳裏に何度も再生される。(((アナタが求めれば今すぐにでも!)))今夜は二度目の悪夢をみる羽目になりそうだ。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

ガコン、プシュー。ギリギリ。ギュィーン。多種多様な騒音が小さな作業場を満たしている。窓の外の雨音は騒音に紛れてしまっている。油染みで汚れたツナギをまとったシンヤは、旋盤のハンドルを動かす。高速回転する鉄の円柱は超硬重合金のビット刃に接触し、カツオブシめいた削り屑を吹き上げる。

 

(((慎重に、慎重に)))震えそうになる手でゆっくりとハンドルを操り、合成鉱物油をかけつつ、鉄柱から求める姿をビット刃で削り出す。特に現在加工中の部分はネックだ。ほんの少しのミスが命取りになる。ある程度削れたと感じたら、すぐさまビット刃を離して冷ます。

 

焦ってはいけない。ビット刃の超硬重合金は高級品だ。無駄に力を込めてしまえば、あるいは冷却を忘れて高熱を帯びてしまえば、あっという間に損耗して使い物にならなくなる。この小さなコーバでそれは決して小さくない損失だ。ゲンコツを振り下ろされても文句は言えない。

 

コーバとは町々に存在する零細家族経営工場のことだ。ここネオサイタマでは、大企業のシタウケとして使い潰されるのが大抵だが、一部は大企業すら唸らせる技術を持つ。一説によれば、電子戦争において下町区画への焼夷爆撃が行われたのは、優れた職人を有するコーバを焼き払うためだと言われている。

 

繰り返し削っては冷やし、ビット位置を調節しては削る。一見して地味な作業だし、実際地味だ。だが、シンヤはカラテトレーニングの次にこの時間が好きだ。ゴールのない苦行ではない。この繰り返しの果てにこそ完成品が姿を現すからだ。

 

「できた!」旋盤の回転を止めればそこには銀色に輝くコケシが姿を現す。大型クレーンの脚部などに使用されるメタルコケシだ。今までの出来でも一二を争う仕上がりと、完成の感動に浸りながらシンヤはふと思う。(((俺は事務職のアルバイトをしてるはずでは?)))

 

全てはコーバの人手不足が原因だった。ネコの手でも借りるし、座っているなら親でも使う。だから事務作業を行っていたシンヤが、熟練職人のゲンタロに首根っこを捕まれていきなり旋盤加工をやらされたのだ。唐突に仕事を押しつけられ、怒鳴られ叱られてハラが立たなかったと言えば嘘になる。

 

だが、初めてメタルコケシを完成させた時の感動はシンヤから、全ての苦労と恨みを吹き飛ばした。何かを作り上げたという喜びに、常に疼く額の痛みもその時ばかりは完全に忘れていた。そして少しずつ旋盤加工を手伝うようになり、気づけば旋盤加工の合間に事務作業をやるようになっていた。

 

シンヤはかつての感慨を思い返しながら、完成品のメタルコケシを旋盤から取り外した。それを岩めいた手が横合いから掴む。爪の先は繰り返し鉱物油が入り込み、タールめいて真っ黒く変色している。熟練工らしく汚れた指先の持ち主は、白髪だらけの厳つい壮年男性だった。「ゲンタロ=サン!」

 

シンヤの呼びかけにも応じず、ゲンタロはメタルコケシの表面に指を這わせる。その手つきは見た目と異なり、一流のオイランめいて繊細だ。「オイ、シンヤ。ここで焦っただろ」「ハイ」ゲンタロの指がメタルコケシのネック部分を撫でる。メタルコケシ加工で最も難しい部位だ。

 

シンヤには以前にも何度かネック部分の加工に失敗した記憶がある。慎重を期してはいたが、今回の加工でも焦りがあったのは事実だ。それをゲンタロは完成品に触れただけで見抜いたのだ。なんたる精密表面調査機械めいた熟練職人の感覚か!

 

今、シンヤがアルバイトを続けるこのオータ・コーバはメタルコケシ専門のコーバとして名高い。「事故が無い」「安全な作業」といった一般的な安全標語に加えて、壁に貼られた「一マイクロのズレが十年の寿命差」「ワザマエが命の守り」といった技術標語のショドーがそれを明確に示している。

 

オータ・コーバの中でも五十年間勤務のゲンタロは、メタルコケシ加工業界において魔法的とすら賞賛されるワザマエの持ち主である。大手金属加工企業から何度と無く引き抜きを受け、それでもここから離れることはなかった。

 

その指先がシンヤのメタルコケシを繊細に撫でる。メタルコケシの加工精度は過酷な環境における品質の差として如実に現れる。僅かな歪みがネオサイタマの過酷な環境下で、何十倍にも増幅されて崩壊するのだ。それが大型クレーンなどの重機の使用中となれば、巨大な事故に繋がりかねない。

 

一通り指先で測定し終えたゲンタロはシンヤにメタルコケシを手渡した。「ネック部は荒いな。が、許容範囲だ」「他はどうです?」ゲンタロは歯を剥いて太く笑った。「ウチの商品として出せるぞ」「アリガトゴザイマス!」シンヤはバイオコメツキバッタめいて頭を上下する。

 

「なあシンヤ、ウチに就職しないか?」「え」急に投げかけられたゲンタロの言葉に、シンヤの目が丸くなる。シンヤが想定していた将来は、センタ試験、大学、そして就職だった。その最終ゴールが唐突に目の前にやってきた。驚きのあまり、シンヤはハニワめいた顔で呆然となる。

 

シンヤの沈黙を拒否と取ったのか、ゲンタロは勧誘の言葉を重ねていく。「お前のワザマエならウチの工員として十分やっていける。ネオサイタマ中でもメタルコケシ関係ならウチが一番だ。減給も倒産もそうそうないぞ」

 

自分の沈黙がどう受け取られたか気づいたシンヤは、両手を突き出して必死に弁解する。「え、ええっと拒否しているわけじゃなくて、その……アリガトゴザイマス!」「よし! なら、仕事が終わったら事務所で契約書作るぞ」「ハイ!」

 

シンヤの胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。常のコールタールめいた暗黒なエネルギとは違う、オンセンめいて全身にしみ入る暖かみを持った透明なエネルギ。シンヤは両手を強く握った。確かな就職先、職人としての未来、なにより安定した給金。これでコーゾやキヨミの不安を少しでも取り除ける。

 

帰ったら皆の喜ぶ顔が見れる。シンヤは笑顔で小さく頷きながら両手を合わせた。ブッダか、メタルコケシか、ゲンタロ=サンか、オータ・コーバか。はたまたその全てか。何でもいい。ただ何かに感謝の言葉を返したかった。今日はいい日だ。本当にいい日だ。そう思えた。その時は。

 

【マイニング・フロム・オーディナリーデイズ】終わり


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