鉄火の銘   作:属物

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第四話【クエンチッド・ソウル・バイ・タービュランス】#2

【クエンチッド・ソウル・バイ・タービュランス】#2

 

……ザザ…………ザザ……ザザ…………ザザ。窓の向こうで01の河が流れる。ここはどこだろうか。狭い安アパートの一室。考えるまでもなく、我が家だ。頭はハッキリしている。ずっとここで『家族』四人で暮らしてきた。父、母、姉、そして「シンヤ以前」の自分。もう出会うことのない家族。

 

胸を突くノスタルジアから目を背けるように窓の外を見れば、雲一つない快晴の空。燦々と降り注ぐ陽光にシンヤは手で庇を作って目を細めた。ネオサイタマでは決して見ることのない青空は、どれだけ手を伸ばしても届かない思い出を象徴するかのように思えた。コトダマ空間めいたかつての記憶の光景。

 

「ドーモ、シンヤ=サン。クレーシャです。またお会いしましたね」その背後から楽しげに、そして見下すように、軽い調子の声が投げかけられた。「ニンジャのパワはどうでしたか? タノシイであったでしょう!」振り返れば01のドットで描かれた三眼の異形が、記憶通りの記号めいた笑みを浮かべいる。

 

クレーシャが足を踏み出す度に、足音がデジタルの波動となってアパートの構造をトーフめいて揺らめかせる。真夏の陽炎の如くに揺らぐ光景の向こうには、重金属酸性雨が降りしきる救いなきマッポーの地が透けて見える。それは悪徳と退廃の大都会、ネオサイタマに他ならなかった。

 

それもシンヤが見覚えのあるネオサイタマとは異なる。例えば、巨大な繁華街には人影一つなく、自動機械だけがユーレイに応対するように勝手に動き回る。例えば、無数の雑居ビルが戴くネオン看板の王冠には、シンヤの今までの殺戮が滑稽なカリカチュアで描かれている。

 

自分の罪を突きつけられたかのように後ずさりながら、シンヤはクレーシャに向けてデント・カラテ基本の構えを取る。「ヤメロ! 俺は心までニンジャになった覚えはない!」その息は逃げまどった後のように荒く、怯えるように握った拳は震えていた。拒絶を叫ぶ声すら恐怖の色が伺える。

 

「なんとズルイ! ニンジャのパワを振るっておきながらなんたる文句!」指を突きつけるクレーシャは、演劇そのものの大仰な動作で怒りを表す。平坦な顔に浮かぶのも、つり上がった目とへの字の口元を象る記号だけ。「でも、今までは仮契約のオタメシということで、特別に大目に見てあげましょう!」

 

記号で描いた憤怒をシンボリックな慈悲に作り替え、クレーシャはシンヤににじり寄る。シンヤは撥ね除けようと裏拳を振るうものの、拳は01の霧に転じたクレーシャをすり抜けた。「ウフフ。では、改めてのご契約です。あなたの『名前』を仰ってください。もうご存じでしょう?」

 

嘲笑を帯びた笑い声を交えて、契約書へのハンコ代わりに『名前』を求めるクレーシャ。「俺はシンヤだ! 契約はお断りする!」シンヤは自身の名前を拒否の返答として、カラテパンチと共に叩きつけた。シンヤはクレーシャの求める『名前』を覚えていた。

 

それを答えればシンヤは恐ろしいパワを持った、ニンジャ『コルブレイン』となるだろう。それはクレーシャの求める暴虐な化け物そのものだ。確かにシンヤはパワを望んだ。だがそれは家族を守る為だ。モータルを踏みにじる怪物になる為ではない。

 

カラテパンチをかわしたクレーシャは一瞬でシンヤの眼前から距離を取ると、蔑みを内包した心配りの言葉を投げかけた。「ホーホーホー、そうですか。でもいいんですか? フラグメント=サンに負けたんでしょう?」指の鳴る音と共に、宙を泳ぐマグロツェペリンの画面がブランクから動画へと切り替わる。

 

映し出されるのは、廃ビルをかけずり回りカラテをぶつけ合うシンヤとフラグメントの姿だ。流れる映像は舞台を旧シナガワ繁華街へと移し、恐ろしげなミニマル音楽をBGMに、フラグメントに追いつめられるシンヤをパニックホラー映画の被害者さながらに演出する。

 

血に染まるニューシナガワの中央で追いつめられた深手のシンヤ。そして恐るべきニンジャ怪物フラグメントは、哀れな被害者へと凶悪なフレイル殴打を繰り返し、シンヤは遂にゴア死体を通り越したミンチとなって辺りに流れる血に混じった。当然それはクレーシャが作った映像だ。シンヤは生き延びたのだ。

 

だがシンヤは、続けて映し出された映像を嘘っぱちの作り物と断ずることはできなかった。三首フレイルを両手からユーレイめいて垂らしたフラグメントが、ユウジンビル入り口の薄いドアを蹴破りトモダチ園へと踏み入る。その目は弱々しいモータルを好き放題に踏みにじる悦びに満ちている。

 

怯えすくむ子供たちをキヨミが抱きしめ、NRSで腰を抜かしながらも皆を守ろうと立ち上がったコーゾが交渉を試みる。コーゾへの回答はフレイルの一撃だった。首から上を失ったコーゾはもう一度腰を抜かして倒れた。二度と立てないだろう。あまりの恐怖に晒された子供たちは、喉よ嗄れよと泣き叫ぶ。

 

子供たちを必死に抱きしめるキヨミを引きはがし、絶叫する子供たちをフレイルで永遠に黙らせると、フラグメントはオタノシミを始めることにした。二度と動かない子供たちへ手を伸ばすキヨミを殴り飛ばし、パステルカラーの服をはぎ取り、そして……「ヤメロ!」シンヤの叫び声と共に映像は停止した。

 

「ええ、止めます」指を鳴らして映像を止めたクレーシャは、記号の笑みを崩さずにシンヤを見つめる。弧で描かれた双眸は確かな蔑意を視線と共に放っている。「でも、フラグメント=サンは止めてくれますかね?」オマエの好きな綺麗事を行うには、オマエの嫌いな汚い力がいるんだぞ。そう言外に嘲笑う声。

 

「……ッ!」クレーシャの言葉に対し、顔を歪めたシンヤから反論の言葉はなかった。シンヤ自身もそれを理解しているからだ。力が足りないから、ヤクザに踏みにじられた。だから、パワを求めてクレーシャの声に答えたのだ。今も変わらない。カラテが足りないから、ニンジャに叩きのめされた。

 

「止めてくれないなら、ニンジャのパワで止めるしかないですね」こんな風に、とクレーシャはマグロツェペリンの画面を指さす。映像と時間が巻き戻され、フラグメントがトモダチ園に強襲する瞬間へと戻る。フラグメントの三首フレイルが振り上げられた。だが、今度はコーゾの頭は首の上から離れない。

 

振り上げた腕にクナイ・ダートが突き立ったからだ。アンブッシュに続いて回転ジャンプで黒錆色の影がトモダチ園へ飛び込む。「ドーモ、フラグメント=サン。『コルブレイン』です」即座にフラグメントも返礼のアイサツを交わす。一瞬の遅滞もなく互いの間に鋼鉄の暗器が放たれた。

 

飛び来るスリケンをフラグメントがフレイルで打ち払い、反撃トライアングルボーラを投げつける。それを『コルブレイン』は分銅先端への正確なスリケン投擲で迎撃する。どちらもシンヤとは比べものにならないカラテの技前だ。だが、そこには明確な差があった。

 

次々に速射されるスリケンを、フレイルを振り回して防ぐフラグメント。迎撃に手一杯でフレイル打撃は完全に押さえ込まれている。ジリープア(徐々に不利)な状況に焦ったのか、急所のみを防御して接近を試みた。急所防御の視界不良、スリケン連続被弾、状況への焦り。それが最期の隙になった。

 

反応が遅れたフラグメントは両足の甲をスリケンで縫いつけられた。移動を封じられたフラグメントへと、『コルブレイン』が巨大クナイ・ジャベリンを投げつける。フレイルを叩きつけるも威力が足りずに、心臓を貫かれ爆発四散。「THE END」の大文字が映像に被さり画面は再びブランクへ戻る。

 

「ムカつくフラグメント=サンを殺し、『家族』の元に帰る。パワさえあれば至極簡単なことです。契約一つでそれが手に入るんですよ?」表層的な優しみを込め、クレーシャは合成音めいた声で契約のメリットを謳う。「代価として俺はなにを失う? 命か? 人間性か? それとも……家族か?」

 

シンヤの口から絞り出された返答に、契約の意志ありと判断したのか、クレーシャの笑みが深まる。「何も失いません。アナタの望む全てが手に入るのです」慈悲の記号を顔に浮かべたままクレーシャはデジタルな霧へと変化してシンヤへまとわりつく。歯を軋ませるシンヤにそれを振り解く気配はない。

 

クレーシャの誘惑に乗った結果は、シンヤには容易く想像がついた。残虐な半神的怪物たるニンジャ。それこそがクレーシャの望みであると看破していた。そうなれば家族を守ることなど到底不可能だろう。だがそれは契約を交わさなくとも同じ事だ。カラテの足りぬ自分ではフラグメントに勝てない。

 

シンヤは頭を振り、額に手を当て苦悩の表情を浮かべる。当然、都合のいい回答は出てはこない。その耳に聞こえるのはクレーシャからの甘やかな誘いの言葉だけ。「アナタはニンジャのパワを持って邪魔な敵をカラテ殺し、『家族』の元へと帰るのですよ」加えてクレーシャの三眼が緑の輝きを帯びる。

 

「ウ、ウウ」輝きは日に晒された雪ダルマめいて、シンヤの自我を溶かしていく。「それがアナタだけの特別な(オリジナル)ストーリー! アナタこそが世界の主人公(ヒーロー)! 『名前』を呼ぶだけで、アナタに全てが与えられるのです!」それは以前にシンヤへと呼びかけた言葉と同じだった。

 

その時、シンヤはそれを聞き、憤怒と憎悪、悦楽と期待に促されるままクレーシャの誘惑に応えようとして…………止めた。止めたのだ。『誰かを憎まない、傷つけない』キヨミとの約束が、それを納めたオマモリ・タリズマンがシンヤを押しとどめた。今度もそうだった。

 

「……ダメだ。俺はシンヤだ、カナコ・シンヤであるんだ!」胸のオマモリ・タリズマンを握りしめキアイを振り絞り、シンヤは絞り出すように叫んだ。家族を守るためにこそパワを求めた。だが、暴虐たるニンジャとなれば、『家族を助ける』の一心を失うだろう。本末転倒もいいところだ。

 

望まぬ返答にクレーシャの表情が生々しい苛つきと怒りに歪む。だが、すぐさま嘲りを含んだ記号的な笑みに戻る。「そうですか。ではこれもイラナイということですかね?」指がもう一度鳴り、ブランクの広告画面が点灯する。目に入ったのは、想像してなかった、だがどこかで予想していた映像だった。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

再び響いた指の音と共に映し出されたのは、「THE END」のその後だった。爆発四散した生首を窓から放り出した『コルブレイン』の側に恐る恐る子供たちが近づく。怖ろしいニンジャだが、守ってくれた家族だ。『コルブレイン』は親が我が子を抱き上げる要領で、内の一人を優しく抱き上げる。

 

そして……「イヤーッ!」シャウトと共に床へと叩きつけた! ニンジャの腕力で叩きつけられれば、子供の体など糸を切ったジョルリ人形より簡単に壊れる。断末魔すらなく即死した幼子の顔には、恐怖どころか驚愕すらない。余りに唐突に襲いかかった理不尽な死に、ただ呆けた表情をしている。

 

それは周囲も同じだった。たとえニンジャでも家族のはずだった。だが、家族でもニンジャには変わりなかったのだ。『コルブレイン』は、衝撃醒めやらぬ子供の首を蹴り飛ばし、止めようとするコーゾをスリケンでぶつ切りにする。そして残る子供たちの盾になろうとするキヨミを軽く投げ飛ばした。

 

壁に叩きつけられ崩れ落ちたキヨミ。苦痛と驚愕と恐怖に彩られた彼女の目の前で、『コルブレイン』が守ろうとした子供たちを踏み砕きミンチに変えてみせる。血と絶望にまみれるキヨミの服を引きちぎり組み伏せた『コルブレイン』は、欲望のままに上下し始め……

 

「ヤメロ! ナンデこんな物を見せる! 俺の怒りを煽りたいのか!?」映像停止を求める叫び声と共に、クレーシャごと動画を止めようと、シンヤは突進ストレートカラテパンチを突き込んだ。だが霧めいて01の塵に転じるクレーシャには触れることすらできない。

 

無駄と知りつつも繰り返し拳を振るい、クレーシャへとカラテを叩き込もうとする。当然、ノレンに腕押しであり『コルブレイン』がキヨミを『使い終わった』シーンでようやく画面は消灯した。シンヤは次々にわき上がるどす黒いものを、憎悪と憤怒で必死に塗りつぶす。

 

その様をニタニタと嗤いながら、クレーシャは煙めいてシンヤをくるむ。「ナンデとはナンデ? アナタがずぅっと望んでいた事じゃないですか」漏れる嘲笑を隠そうともせず、疑問の形をした確認を投げつける。砂に首を突っ込んで逃れたと喜ぶダチョウを、指さして笑うハイエナのような顔をしながら。

 

「違う! 俺はそんなことは望んでない!」まとわりつくクレーシャをシンヤは拳足を振るって跳ね除けようとする。だが手足は霧と化したクレーシャをすり抜けるばかりで跳ね除けられない。必死で振り払おうとするその姿は、自分の間違いを認めまいと駄々をこねる子供と変わらなかった。

 

シンヤは家族を守ろうとしている。少なくともそう自負している。家族を守る力を求めて、クレーシャに応えた。家族を守る意志を失わないと、契約を拒んだ。それなのに家族を踏みにじり傷つけることを望んでいるはずがない。だが、発した言葉はシンヤ自身にすら薄っぺらく響いていた。

 

それを見抜いたクレーシャの質問は単なるシンヤへの嘲笑でしかなかった。「じゃあこれはナンデ?」四度目のフィンガースナップと共に、ブランク画面に光が灯る。映し出されたのは巨漢ヤクザの脳漿と血液で塗装されたトモダチ園の談話室。シンヤがトモダチ園を飛び出す寸前の光景だ。

 

暴力に酔いしれた哄笑を響かせながら、パンチパーマヤクザの頭に足をかけるシンヤ。契約のアイサツと共に踏み砕こうとするその瞬間、キヨミが抱きついて止めにかかる。動画が一時停止し、キヨミを見つめるシンヤの目をズームする。正気に戻った瞬間だったのか、その目には困惑と正気が写っていた。

 

だがスロー再生と共に、キヨミに向ける両目の色合いが落日の空めいて真逆の色彩へと転じていく。家族への愛しさの目線から、障害物への苛つきの視線へ。自身に当惑する顔色から、相手を憎悪する表情へ。夜の藍色に塗り潰れた日暮れの空と同じく、その目には最早暖かな家族への思いは何処にもなかった。

 

そして、暗黒なエネルギに支配されシンヤはキヨミを蹴り飛ばす。足を折り砕かれて吹き飛ぶ姿を眺めるシンヤの目は、確かに暴力の喜悦と弱者への侮蔑に濁っていた。「ヤメテ……ヤメテ……」自分の罪深さを恥じるように、はたまた自身の醜悪さから目を背けるように、顔を伏せて両手で覆うシンヤ。

 

その口から漏れ出たのは疑問でも否定でもなく、ただ哀願だった。どこかで気づいていた。そしてずっと気づかない振りをしていた。マッポーの世を、ネオサイタマを、トモダチ園すらを憎み嫌っているということを。シンヤは目の前に突きつけられた事実から、目を逸らすこともできずに崩れ落ちた。

 

何の謂われもなく幸福な場所から引きずり降ろされ、太陽も見えないネオサイタマに落とされた。名前を奪われ『家族』とは二度と会えず、重苦しいディストピアの中で這いずるように生きる日々。憎しみを抱かずには生きていけなかった。だが何を憎めばいい? 行き場のないどす黒い憎悪は全てに向かった。

 

ヤンク! クラスメイト! 門下生! マグロツェペリン! ネオサイタマ! ドクロの月! そして……トモダチ園! 思い出は理想的なまでに美しい。だからトモダチ園の僅かな不満や苛立ちすら許せずに、いつも憎悪と嫌悪を覚えていた。コールタールめいて煮えたぎる感情、暗黒なエネルギ。その正体はそれだった。

 

「本当の『家族』はあんなにも素晴らしいのに、こいつらときたらムカつく、イラつく、ハラ立つばかり! ああ、こんな奴らはさっさと捨てて『家族』の待つ故郷へ帰りたい!」シンヤの声音を真似て切々とクレーシャは唄う。止めることも逃げ出すこともできずに、シンヤは弱々しく首を振るので精一杯だ。

 

「だから、こうしてやった。とてもタノシイでしたね?」いつの間にかに実体化したクレーシャは朗らかな声と共に、友人めいて肩を楽しげに叩く。その顔をシンヤは涙に濡れた両目に憎しみを込めて睨みつける。自分の醜さを見つめるよりも、誰かを憎む方が遙かに容易く心地よい。

 

容易く誘導されるシンヤを満足げに見つめながら、クレーシャはマグロツェペリンを指さす。悪夢のトモダチ園から映像はさらに切り替わり、『家族』4人の団らんの風景を映し出す。「アナタの名前は『シンヤ』なんかじゃなかった。アナタの名前を呼んでくれる本当の『家族』は彼らですよ」

 

ネオサイタマの、トモダチ園の家族ではない。シンヤとなる前の『家族』との幸福な日々。シンヤの頬を濡らす涙に、望郷の色合いが混じった。(((オマエさえいなけりゃ)))シンヤが放つ視線は『家族』への懐郷とクレーシャへの憎悪の混色だ。思考も感情も全てクレーシャの想定通りに過ぎない。

 

「アナタが考えている通り、ここまで連れてきたのはワタシです。だから、その逆もまた、ね?」だから、シンヤを揺さぶることはベイビーサブミッションですらなかった。唐突な可能性に呆けた顔を浮かべるシンヤ。全てが思い通りとクレーシャは記号の笑みを深める。

 

「……帰れる、のか?」シンヤの口から漏れた言葉に、クレーシャは満面の笑みと大仰なアクションで答えた。「全ては契約してのお話です」クレーシャがアスファルトを踏みしめると、巨大な波紋が大地を揺らした。波はビデオ逆再生めいてクレーシャの足下へと収束していく。

 

空間に被せていたネオサイタマという一枚布を巻き取ったかのように、光景もまた始まりの安アパートへと収束していく。加えて虚空に銀砂を蒔くが如く、クレーシャは安アパートに01の粒子をまき散らした。粒子は半透明のシルエットを三つ形作った。シンヤはその全てに見覚えがあった。

 

台所に立って洗い物をする母、食卓で新聞を広げる父。その隣で朝食のパンをかじる姉。何でもない朝の一幕。二度とは見れない光景。思い出に打ちのめされたシンヤを後目に、続けて01をばらまけば、デジタルの影で描かれた過去のダイジェストが次々に現れては消えていく。

 

二人並んでのTVゲーム、チャンネル争いの姉弟喧嘩、両親のお説教、風邪の看病、眠る前の一時。熱い涙が溢れ、胸を郷愁が貫く。窓から差し込むのは暖かな陽光。ネオサイタマのネオン光とは違う、優しみと慈しみに溢れている。

 

(((帰りたい。ネオサイタマなんかじゃない、暖かな我が家に帰りたい)))涙に溺れるシンヤを一瞥し、満足げにクレーシャは嗤った。細工は流々、お膳立ては整った。主よ、仕上げを御覧ください。「さぁ、アナタの『名前』を仰ってください。それで契約完了。アナタの望みは叶います」

 

ノスタルジーの幻痛に貫かれた心臓を手で押さえながら、シンヤは膝から崩れる。涙が止めどなく溢れて頬を濡らす。「俺は……俺は!」シンヤの脳裏に『家族』との思い出がソーマトリコールめいて駆け抜ける。(((お母さん先に寝るわね、■■お休み)))(((そうだぞ■■、明日は早いんだから)))

 

最後の日の言葉は、耳の奥にまだ響いている。(((■■、もう遅いからいい加減寝なさいよ)))過去と現在の記憶が混じり合い重なり合う。(((明日も早いから、シンちゃんも早めに寝てね)))痛みを吹き飛ばす程の熱が胸の中心に生まれた。心臓を押さえる手の中には覚えのある感触。

 

手を開けばクシャクシャに潰れたオマモリ・タリズマンがある。『誰かを憎まない、傷つけない』約束を納めたオマモリ・タリズマンを、シンヤはもう一度握りしめる。何度も約束を破った。自分を傷つけ、他人を傷つけ、家族すら傷つけた。周囲を憎み、世界を憎み、家族すら憎んだ。

 

それでも、自分を支えてくれたのは家族だった。キヨミと交わした約束だった。『家族』ともう一度会いたい。でも、家族を見捨てることだけはできない。家族から逃げ出して、『家族』の元へは帰れない! 「……俺は、シンヤだ! トモダチ園のカナコ・シンヤなんだ!」溢れる涙を拳で拭い、シンヤは叫んだ。

 

【クエンチッド・ソウル・バイ・タービュランス】#2終わり。#3に続く


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