鉄火の銘   作:属物

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物は試しと本編外のスマホ執筆始めたら思いのほか早く書けてしまいました。
今後、スマホメインにしようかしらん。


第X話【ハードボイルド・ラーメン】#1

【ハードボイルド・ラーメン】#1

 

 

冷え切った重金属酸性雨が降りしきる、灰色のメガロポリスの片隅。半壊したビルの死骸の中で、2つの影がアイサツを交わした。

 

「ドーモ、”フレット”です。毎度ありがとうございます」「ドーモ、”ブラックスミス”です。毎度お世話になっております」

 

墨絵の雷文が掌を合わせ、黒錆色の闇が頭を垂れる。2人は初めて互いの名を知った。そして、これが最後とも……知った。

 

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

 

遡ること数週間前。

 

ニンジャは残虐無慈悲で一切の共感を持たないと言う。実際それは正しい。「スンマセン、ホントスンマセン!」ドゲザするポイズンフロッグの真摯な命乞いを聞いても、首を踏みつける影はいささかも力を緩めない。

 

「なんでもします! スンマセン! なんでもあげます! スンマセン! 助けてください!」「なんでもか」足元からの泣き叫ぶような声に対し、黒錆色の声音は鉄めいて無関心で平板だった。

 

「金払います!」「別に欲しくない」「オイラン手配します!」「……特に必要ない」「ソウカイヤに口利きます!」「それはゴメンだ」「じゃあ何ですか!?」全ての手札を出し尽くしたポイズンフロッグには問うことしか出来ない。

 

「当ててみな。お前らはそうしてたんだろ?」問いには問いが返された。答えを探して必死に視線を走らせる。辺りにはポイズンフロッグが相棒と共に弄んだ元オイランが転がっている。そして相棒の爆発四散痕もまた。

 

煮オモチめいた半崩れの死体と、壁に焼きついたヴェノムパイソンの痕跡。答えの代わりに末路を告げている。「で、答えは?」「マッタ! マッタ!」「ああ、待ったぞ。それで?」「アー、エー、その……コレだ! イヤーッ!」

 

最後の奥の手。舌と一体化したドク・バリを放った。その筈だった。だが黒錆色の足が頸椎を踏み砕く方が遥かに早かった。嫌な音が頭蓋の内に響いた。「コレが答えか? 残念賞だ。ジゴク行き特急券で我慢しろ」嘲りすらない、不快感だけの声が最期に聞こえた。

 

「サヨナラ!」爆発四散の風が僅かに死臭を拭った。影はしかめた顔を変えることなく、マネキネコ型UNIXにケーブルを差し込む。スコルコピー。場にそぐわない気の抜けた電子音。場にそぐわないヤクザ調度品。場にそぐわない幼いオイランの死体。

 

元はカネモチの高級住宅。それがヤクザの手に渡った。そのヤクザは数寄者で、ソウカイヤに都合が悪い情報を得ていた。だからこうしてニンジャアサシンが派遣され、ついでと居合わせたロリータオイランがオモチャにされて死んだ。

 

よくある話だ。よくない話はこの場にソウカイヤと敵対するニンジャ……ブラックスミスが来たことだろう。オマケ付きの安いミッションを終えて悠々直帰のはずが、ブラックスミスのカラテでアノヨに直行する羽目になった。不運極まりない。

 

ニンジャも、ヤクザも、オイランも、誰も彼もが不運だった。それだけの、よくある話だ。キャバーン! ジングルが鳴った。セキュリティが抜かれてデータが抜かれたのだ。これにて依頼は終了。手持ちのIRC端末からケーブルを抜く。後は帰宅までがミッションだが、残る作業は無い。

 

だからコレはミッションとは無関係な自己満足だ。子供と呼べるオイランの瞼を閉じて、黒布を溶かされた顔にかける。死者が蘇る訳でも、誰かが救われる訳でもない。片方だけの手にトークンを握らせたのも、ただの気分だ。共感も同情もない。

 

あるのは一欠片の感傷と、不快感。それだけだった。

 

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

 

腹が無遠慮な音を立てた。吐き気に似た空腹感を自覚すると不快感が更に増した。重ね着したコートでも防ぎきれない冷気が胃袋まで染み入ってきてる。黒錆色の外套をきつく閉じ、襟を立てる。だが凍える冬の汚染雨は体温をしめやかに奪い取っていく。

 

空腹と冷気が合わさり、風邪にも似た悪寒が芯から這い上がって来るようだ。ガス欠の肉体に何か入れようと辺りを見回す。薄暗い街灯に照らされるのは溶けかけの白けたブロック塀と、酸性雨でまだらに抉れたアスファルト。

 

時刻はウシミツアワー。しかも繁華街から程遠い中流層向けファミリー地区だ。コケシマートも店仕舞い、無人スシバーも見当たらない。食える場所はどこにも無い。なのにますます腹は減る。

 

とうに食い飽きた我が家のオソバすら恋しい。いっそドンブリ・ポンの虹色マグロドンブリでも構わない。何か、何かないか。脳裏にレッドライトが灯っている。焦燥感すら伴う飢えに苛まれて角を曲がった。

 

視界に赤く柔らかな光が飛び込んだ。甘辛い香りと真っ赤なチョーチンに『らぁめん』の文字。店舗と言うには余りに簡素な吹きっ晒しに、年季が入りすぎて錆び塗れなパイプ椅子が並んでいる。

 

飲食に適してるとは言いがたいが、ともかく飯が食えることに違いはない。胃袋の命じるままに急ぎ足で色抜けしたノレンを潜った。「……ラッシャイ」愛想の無い店主のアイサツに片手で答えて、軋むパイプ椅子に腰を下ろす。

 

「なに?」恐らく『何を頼みますか?』の頭文字だろう。しかしメニュー表は無い。壁張りのメニューもない。となれば……「ラーメンをください」「どの?」種類があるならメニューを寄越せ。

 

「何があります?」無愛想な店主は左右の寸胴鍋を指差した。だから中身はなんだ。ただでさえ気が急いているのに、店主の無愛想で余計に腹が立って来る。焦るんじゃない、俺は腹が減っているんだ。

 

「ハハハ!」「!?」隣の男が笑った。存在に気がつかなかった。いや、気がつけなかった。一瞬、額の裏に針が刺さる幻痛があった。隣客はカウンター隅に置かれた写真立てめいて、アトモスフィアが馴染みきっている。まるで店の一部だ。

 

「どちら様で?」「シツレイ、ただの常連だよ。オヤジはつっけんどんでいかんね。右がテリヤキ、左がショーユだ」「ドーモ、アリガトゴザイマス」一応の礼を返し、テリヤキの鍋を指す。

 

「アイヨ」店主は中央の寸胴で麺を茹でる。その合間にテリヤキソースとオダシをカクテル。流れる川めいて淀みなく動く。まるでやる気の無い返事に対して、湯切り一つにも確かなワザマエがあった。

 

「オマチ」短くも長い待ち時間。端的な言葉と共にラーメンドンブリが差し出された。甘辛い蒸気が顔を洗う。「フーム」ドンブリは粘つく蜜色で満ちている。琥珀と赤銅を溶かし合わせたようなスープにチャーシューと麺が沈んでいた。悪くない。

 

「イタダキマス」掌を合わせ一礼と共にレンゲを手にした。まずはスープだ。掬ったスープは重量感を覚える粘度で、口に流し込めそうにない。箸で無理矢理啜る。「ズッ! ズズーッ! ズッ!?」少々下品な音を立ててスープを啜り込むと驚きが口に入って来た。

 

(((熱い!?)))粘性の高いスープが、寒空の下でも強烈な熱を保持していたのだ。更にスープにたっぷりと混ぜられたシチミペッパーが口中に火をつける。心音が急激に高まり、全身の汗腺が開く。凍えていた肉体が溶かされるようだ。

 

熱い上に辛い。だが、美味い。甘口に仕上げられた熱々のスープ。そこに合法バイオトウガラシの辛口が加わって、ただ一口で冷え切った身体が点火する。反射的にひっ掴んだお冷を煽った。キンキンに冷えた業務用枯山水が喉を駆け抜けていく。

 

それでも火のついた食欲は消えてくれない。迸る熱情に身を任せて中華麺を手繰る。太い。そして強い。固茹での麺だ。歯を立てるとヨコヅナめいた力強いコシが顎を押し返す。そして力を込めればヨコヅナめいて優しく受け止めてくれる。噛み切る瞬間までヨコヅナめいて歯切れ良い。これまた美味い。

 

不意にチャーシューを齧れば、蕩ける脂の甘みに力強い肉のウマミ。しっかりと煮込まれた豚肉は口に入れれば瞬く間に消え失せるほど柔らかだ。しかし麺にもスープにも負けない美味が、不在の煮豚を後から後から喧伝してくる。これは最早、ゼンだ。

 

もう、こうなれば止まらない。胃袋の熱に浮かされるまま、スープを啜り麺を手繰りチャーシューに食らいつく。ウオン、まるで俺は暴走機関車だ。腹の炉心にラーメンを注ぎ込む度、熱が吹き上がりエンジンを加速する。

 

気がつけばドンブリを満たしていた麺もスープも姿を消していた。代わりに脳は多幸感で満ちて、全身を心地よい熱が駆け巡っている。至福のひととき。

 

「美味そうに食うね、アンタ」「実際、美味いんですよ」隣の客は楽しそうに笑う。それに返す言葉をひり出すだけで億劫だ。今はただこの悦びに浸っていたい。

 

「だろ? オヤジのラーメンは絶品なんだ。俺はここの常連でね。リピーターが増えてくれると嬉しい」「常連になるかはわかりませんけど、少なくともファンにはなりました」蕩けんばかりの弛緩と法悦。そこから僅かに戻ったシンヤは心底の同意でうなづいた。

 

その前にギョーザ・ダンプリング入りのスープが差し出された。「そいつはチョージョー。そしてコイツは奢りだ」「いいので?」「俺じゃない。そういうオヤジなのさ」店主は後ろを向いて作業をしていた。無言の背中に深く礼をする。

 

「ドーモ、アリガトゴザイマス。イタダキマス」店主は答えない。耳と頬が赤いのはきっと寒さのせいだろう。そういう事にして、シンヤは熱々のギョーザをいただく事にした。

 

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

 

哭いている。哭き叫んでいる。哭き声を上げている。だが何一つ聞こえはしない。耳に届くのは雨音に似たノイズだけ。画面の中の絶望はディスプレイの向こう側で、現実には一声たりとも届かない。

 

CRTと対峙する現実は凪いだ虚無だ。表情の無いフルメンポが、カメラアイめいて画面上のジゴクを傍観している。時折、安アルコールのコップを傾ける。美味いどころか味を感じてるそぶりさえない。中身を泥水に変えても大差ないだろう。

 

天然色で描かれる悪夢は佳境に入った。ベルーカのVを生体LANから注ぎ込まれた父親は、最早家族の守り手ではなかった。膨れ上がる人造の憎悪に引きずられ、彼は遂に子供達を殴り殺すに足りる理由を見いだす。

 

それが如何なる理屈か、サイレントの視聴者には解らない。解る必要もない。解るのは憤怒の悦楽に昇天しながら、子供達が昇天するまでボーを振り下ろす父親だけ。それだけで十分だった。

 

屋根裏に潜むブラックスミスにも十分だった。充分すぎるほどに不快で不愉快だった。だが目を逸らす訳にはいかない。ファミリースナッフのVHSと同じ金庫に必要な情報素子は入っているのだ。自爆機能付きの機械式金庫を破るにはビデオ交換時しか機はない。

 

地獄絵図のエンディングが始まった。憎悪をオフされた父親がひたすらに頭を床に打ち付けてる。それは謝罪か、自殺か、両方か。もうそれしかないのだろう。生きる理由はついさっき足元のミンチにしたばかりなのだから。

 

ブラックスミスの脳裏に巌めいた人影が浮かんだ。浮浪者キャンプのヨージンボー。サカキ・ワタナベ。彼も同じ絶望を味わった。違いは手元にオハギが、逃げる先があったこと。薬物の快楽と欺瞞の記憶は彼を永らえさせた。その僅かな長生きは彼に贖罪と救いの機会を与えた。

 

だが、この父親にそのチャンスはない。主催者から手渡された拳銃を力無く咥える。家族を手にかけさせた相手に憎悪も憤怒も見せなかった。その気力すら喪われていたのだろう。

 

僅かに口が動いた。何を口にしたのか。鉛玉以外に何を口にするというのか。BLAM!ぶちまけた脳漿が子供達のミンチと混ざる。だが、当たりどころが悪かったのか、父親は痙攣を続けていた。死に逃げる事すら出来ずに痙攣を続けていた。

 

スタッフロールが流れ出し、無骨な戦闘用テッコが電源を切った。取り出されたVHSをクロームメタルの指が摘む。ダイヤルを回し、番号が揃い、金庫が開く。終わりだ。「イヤーッ!」黒錆色の影は、天井をぶち抜きながら背丈より大きいクナイ・パイルを生成。アンブッシュで脳天に打ち込む。

 

「グワーッ!」「チィッ!」外された。膝下サイバネの車輪を無理矢理回して体勢を変えたのだ。だが、深い。無感情に見下ろす胸元には袈裟懸けの亀裂が走る。血とニューロンの代わりにオイルが溢れて火花が散る。

 

「ドーモ、ブラックスミスです。ビデオの趣味がいいですね」「ドーモ、”ロケッティア”です」先手を取ってアイサツ。皮肉への返事は無し。無言で組んだ両手を突き出した。同時にノズルが展開。両肩各一つ、背中に二つ。足元のホイールは急空転し、バーンアウトの白煙が上がる。

 

対してブラックスミスは深く腰を落とした。弾道跳びカラテパンチの予備動作。燃料噴射するロケッティアと同様に、カラテに火を点ける機を図る。点火プラグが火花を発した。噴き出す燃料からポテンシャルが解放される。

 

「イヤーッ!」ロケッティアはバックファイアの羽根を背負った。時間が圧縮され、一瞬が引き延ばされる。空気が引き裂かれるより早く重サイバネの巨体が迫る。断熱圧縮で赤熱する鋼に対し、ブラックスミスは赤銅色の拳を背負った。踏み込む。

 

「イヤーッ!」弾道跳びカラテパンチ……ただし、跳躍はなし。代わりにガントレットが弾道の赤い弧を描く。質量打ち上げ分の出力は全て右手に込めた。三つの拳が交差する。二つは虚空を、一つは胸郭を打ち抜いた。

 

「アバーッ!」互いの交差速度はそのまま破壊力に転じた。赤銅色のガントレットは亀裂を押し広げ、心臓を潰し、背椎を砕き、背面から飛び出した。大穴の空いた重合金胸甲が中身ごと真っ二つに砕けた。ズドム。壁に叩きつけられた上半分が部屋を揺るがす。

 

「アバッ」ロケッティアの四分の一がハラワタめいた内臓部品の中に崩れ落ちた。残りの四分の三は既に流血に等しいオイルの海に沈んでいる。ザンシンを解いたブラックスミスがロケッティアの最期を見つめる。

 

「ハイクは?」「ない」無感情な問いに無関心な答えが返される。「イヤーッ!」振り上げられた赤銅色が、虚無をあるべき場所……否、『無い』べき場所へと送り届けた。

 

「サヨナラ!」ヘルムが砕けた一瞬。絶命のゼロコンマ前。ロケッティアの顔が見えた。それはビデオの父親に酷く似ていた。確認する術はない。確認する気もない。

 

情報素子を奪い、ブラックスミスは去った。粉微塵に砕かれた死体とVHSの残骸だけが部屋に残されていた。

 

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

 

啜る。啜る。啜る。「ズズーッ! ズルッ! ズルーッ!」ラーメンとは何か。偽物と呼ぶ人もいる。情熱と呼ぶ人もいる。シンヤにとってラーメンとは『熱量』だ。冷え切ったエンジンに火を入れて、凍りついた神経を熱く溶かしてくれる。

 

飲む。飲む。飲む。「ゴッゴッゴッ!」それは肉体を駆動する燃料であり、それは精神を賦活する妙薬である。故に熱量は悦びであり、熱量は幸福である。汝、脂を讃えよ。糖分を讃えよ。カロリーを讃えよ! そう、美味しいモノは脂肪と糖で出来ている! 

 

「クハーッ!」世のうら若き女性達に殴り殺されそうな妄言と共に、シンヤはドンブリのラーメンスープを飲み干した。「毎度毎度美味そうに食うねえ」「実際美味いんですよ」隣の客と毎度毎度のやり取りを交わす。

 

リピーターになるかは解らないと以前に口にしたが、今や立派な常連客だ。「そういう貴方はそんなに食べませんね」「いや、楽しんでるよ。ただ、ゆっくりと楽しみたいのさ」レンゲに乗せたミニラーメンをつつき、隣客はケモビールを啜る。

 

「酒と一緒に、ですか。アルコールの味はわかりませんけど、美味しいんですか?」「そりゃぁもう。これこそ人生の歓びってもんだ。ドラッグだけじゃなく酒も飲まないなんて珍しいな。ナチュラリストか何かなのかい?」

 

「いや、何て言うんですか、こう、悪いことしてる気がして、飲む気になれないんですよ」未成年の身で酒なんか飲んだら、キヨミに怒られそうだ。居ないキヨミがどうやって怒るのかは知らないが。

 

「ハハハ! 若い子は悪い子したがるもんだが、アンタは随分と良い子だな!」「ワルぶったアウトロ・ワナビーが格好いいとは思えませんので。真面目に生きてる人間が一番涼しいですよ」

 

「そうか……そうだな、それが一番だ」隣客の纏う空気が色を変えた。シンヤは一瞬躊躇ってから言葉を口にした。「……それに家族に胸を張りたいんで、酒はやめときます」兄貴でございと踏ん反り返ってオセッキョしている身なのだ。大黒柱がワルを気取っちゃ格好がつかないし、何よりカッコが悪い。

 

「……そうさ、それがいい。そうしときな」隣客はそう呟くと無言で安サケを傾けた。店主も手を止めていた。しめやかな空気が店を満たしていく。メガロポリスの猥雑が遠く聞こえる。雄弁な静寂が響く。

 

「皆オサケ飲んでますカァー!」それを破ったのは雑音に等しい嬌声だった。不快と書かれたしかめ面三つが音源に向けられる。マケグミというには段違いに高級なスーツ、カチグミというには場違いな丑三つのらぁめん屋。

 

「ココおさけ飲めますカァー!」酒に呑まれた中流層だろうか。千鳥足な酔っ払いは錆びたパイプ椅子へと無遠慮に腰を落とす。「ねー、店長! オサケ! サケ! ないの! ?」キイキイ椅子と一緒に耳障りな鳴き声をあげる姿は、駄々をこねるお子様に等しい。

 

最早、アトモスフィアには奥ゆかしさの欠片もなかった。「ない」「エー!? ナンデー!? こいつ飲んでるじゃん! ナンデナンデ!?」店主のオブラート入り退出勧告にも気付く様子はない。奥ゆかしさの代わりに敵意と苛立ちが空気に混じり出す。

 

「ほれ、サケだ。これやるから帰んな」気を利かせた隣客が、ため息混じりにサケを差し出す。これで帰るなら重畳だろう。恐らくは帰らないだろうが。「要らな「やめな」アアッ!?」予想の通り、酔っ払いは帰ろうとはしなかった。

 

「オイオイ、サケを粗末にするんじゃない」「何すんだテメーッ! クビスッゾコラーッ!」そして今度は怒り上戸だ。腕を掴んだ隣客へ真っ赤な顔で怒鳴り散らす。当然、サケを投げ捨てようとした数秒前の記憶は綺麗さっぱり揮発している。

 

「弊社どこと思ってるワケ!? 御社どこよ! 四季報乗ってんの!?」だめだこりゃ。酔っ払いは脳髄まで安アルコールが回ってるようで、新種のサラリマンスラングをまき散らしている。こいつを物理的に黙らせるべく、シンヤは席を立とうとした。

 

「フリーランスだよ。それと……お 静 か に」隣客の動きはそれよりも早かった。ネクタイを締め上げて、安酒に濁った両目を覗き込む。「アッ、アッ、アッ、アィェッ!?」酔いは瞬く間に抜けた。主に股間から。

 

「アィェーッ! アィェーッ!」尿で移動経路を記録しながら元酔っ払いは逃げ去った。往路とは打って変わって、帰路は確かな足取りだった。「おいオヤジ、モップかなんかないか?」店主は答えずにモップをかけ出した。それと隣客の席に、サケとオツマミを追加する。

 

「いいよ、やるって……そう言ってもオヤジは聞かないよなぁ」二度目の嘆息は少し甘かった。口元の苦笑も柔らかい。「オヤジ、アリガト」「おう」 初めて耳にする店主の会話に、初めて目にした店主の反応だ。だがそれに驚くよりも先に、シンヤは考えるべきことがあった。

 

隣客は、ニンジャだ。酔っ払いを締め上げる動きでやっと確証を得られた。超感覚の訴えにようやく実証が出たのだ。さて、どうする。イクサか? 無意識が黒錆色した四錐星を手の裏に産み出す。隣客の箸が止まる。弛緩したアトモスフィアが再び張り詰めていく。

 

そしてシンヤは……意識的にスリケンを握り潰した。やめた。隣に居るのはラーメン好きの常連客。それだけだ。隣客がニンジャでもモータルでも何者でも同じだ。ここはラーメンを食べる場所であって、イクサの場所ではないのだから。

 

「お冷をいただけますか?」無言で差し出された冷水を煽り、トークンを置いて席を立つ。「ドーモ、ゴッソサンです」「マイド」店主の代わりに隣客の挨拶が聞こえた。片手を振って応えながら、シンヤは路地裏に消えた。

 

 

【ハードボイルド・ラーメン】#1おわり。#2に続く。


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