鉄火の銘   作:属物

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第四話【クエンチッド・ソウル・バイ・タービュランス】#1

【クエンチッド・ソウル・バイ・タービュランス】#1

 

ネオサイタマで路地裏と言えば、悪徳とマッポーの代名詞である。しかし、場所変われば品物変わる。例えばここ、ドヤ・ストリートの裏路地は、表通りよりも安全で人情味がある。かつてボディサットバの化身と謳われたあるボンズが、命を懸けて人々の悪心を鎮めたからだと言われている。

 

「ハァーッ、ハァーッ」そして今、シンヤはドヤ・ストリートの裏路地を、這いずるように足を引きずりながら歩いていた。肺の中に赤熱する炭屑を押し込まれたと、錯覚するほどの痛みと熱感が胸を内側から焦がしている。壁にもたれ掛からなければ体重を支えることすら難しい。

 

カラテ骨折の肺腑を焼き焦がす痛みと、ニューロン酷使の頭蓋をこじ開ける痛み。二重の激痛がシンヤの混濁する思考をさらに痛めつける。もはや自分が何処にいるのか、今が何時なのかすら不明瞭だ。調理中のアンコシチューめいて全てが煮崩れる中、ただ安全圏を求めてシンヤはさまよっていた。

 

(((■■、もう遅いからいい加減早く寝なさい)))カンテンプディングめいて柔らかく揺らめく現実に、過去の幻覚が上書きされる。(((お願いだから自分を傷つけるような真似はヤメテ)))いや、これは過去なのだろうか? 自分が見ている現実こそ幻覚ではないのだろうか。シンヤには区別が付かない。

 

(((皆にムカつきませんか? 周りにハラ立ちませんか?)))蛍光緑の誘惑に拒否する気力も、応える精神力も既に失せている。ただ倒れないためだけに、自転車めいてひたすら足を動かしづける。「ハァーッ、ハァーッ」どれだけの時間が過ぎたのだろうか。どれだけの距離を歩いたのだろうか。

 

「グワーッ!?」唐突にシンヤの歩みは停止した。黒い固まりに引きずる足を取られてバランスを崩し、立て直すこともできずに倒れたのだ。砕けた肋骨が激痛を叫び散らす。だが、幸運にもこれ以上の怪我はなかった。倒れ込んだ先の黒い固まりが、意外な柔らかさを持ってシンヤを受け止めたからだ。

 

「ウウッ」呻きながら身を起こせば、足を引っかけた黒い固まりが中身の詰まったゴミ袋であると見て取れた。それだけならネオサイタマ中にあるだろうが、一つの建物を埋めるほどの数のゴミ袋はそうはない。その隙間から重厚にショドーされた看板が垣間見えた。シンヤが霞む目を凝らす。

 

分厚い一枚板に達筆な「大徳寺」のエンシェント・カンジが刻まれている。オーガニック木材に確かなワザマエでショドーされた高級品だ。かつてはこの地で数多くの信徒の心を救っていた名残だろう。だが今はゴミの山に飲み込まれ哀れな姿を晒している。ショッギョ・ムッジョの響きが聞こえてきそうだ。

 

「ダイトク、テンプル? 痛っ!?」独り言を呟くだけで骨折したあばら骨が激痛で存在を主張する。肋骨の折れた背中を壁に付けないように注意しつつ、壁に手を付いて腰を下ろした。「ハーッ」安堵の息とともに、シンヤの意識が緩やかに薄まっていく。眠りの柔らかな誘惑がシンヤを包んだ。

 

(((休みたい。でも、安全な場所まで行かなければ)))灼熱の痛み以上にヤスラギを求める心が立ち上がる障害だった。疲れ切った体も心も休憩を切望している。このまま眠ってしまえば楽になれるだろう。だが、人通りの少ない裏路地には相応の危険がある。

 

ヨタモノ、重金属酸性雨、バイオ害獣。ニンジャとなったシンヤならベイビーサブミッションで処理可能だったが、重傷を負い消耗しきった今は別だ。「ヌゥーッ!」胸のオマモリ・タリズマンを握りしめて、シンヤは壁を掴み立ち上がった。途端に、これ以上動くなとニューロンを苦痛が走り抜ける。

 

(((少しだけだ、あと少しだけなんだ)))二度も騙されるものかと肉体が痛みという叫び声をあげるが、シンヤは歯を食いしばって耐える。死をそのまま受け入れるのなら、フラグメントに殺されればよかった。だが、シンヤは理不尽な死を拒否した。死なない、生きてやる。そう決めたのだ。

 

重傷の体で足を引きずり、バランスも保てずにユーレイめいてふらつきながら廃寺ダイトク・テンプルの中を目指す。ブッダの慈悲がほんの少しでも自分に向いてくれることをシンヤは祈った。ブッダが運命を左右する力などないと知りながらも、祈らずにはいられなかった。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

お堂の巨大な空間すらゴミの大軍団は覆い尽くしかけていた。悪徳の排泄物たるゴミが神聖であったろう寺社を飲み干す光景は、福音カルティストが唄うハルマゲドンめいている。「ここなら……」だが、シンヤに感傷を味わう余裕などない。脳裏に浮かぶのは精々、何処が身を隠し易いか程度である。

 

「ハーァ」ようやっと落ち着けるとシンヤは全身の力を抜き、太い柱に手を付いて腰を下ろした。再度の睡魔を、今度は拒否することなく受け入れる。睡眠でどの程度傷は癒えるのか。休んだ後はどうするのか。ソウカイヤはどう動くのか。無数の思考が泡めいて浮かぶも眠気に溶けて直ぐに消える。

 

「フーム、頭の黒いネコが迷い入ったか?」その耳に面白がるような笑い混じりの声が届いた。「イヤーッ」ニンジャ条件反射で回転ジャンプで音源から距離を取りつつ、デント・カラテ防御の構えを取る。「ヌ、ウゥーッ」だが、それだけでシンヤは残りの力を使い果たしかけていた。

 

膝から力が抜け、足が震える。立つことも難しくシンヤは片膝を突いた。ダメージは重篤という言葉を当の昔に通り過ぎている。相手がヨタモノでも勝機は薄いだろう。脂汗に混じって背中に冷たい汗が流れた。無意味と知りながら、荒い呼吸と共に上半身だけで構えを取る。

 

音源はブッダアイドルの居場所、ブッダ像を安置するお堂上座中央だ。しかし、一段高くなったそこにも無数のゴミ袋が積まれており、ブッダ像の姿は見えない。壁の隙間から入り込む街灯に照らされる黒色ゴミ袋が一瞬人影に見えた。そのゴミ袋が形を変える。墨色のカーシャローブをまとった人間であった。

 

しかし、ボンズというには少々毛が多い。頭は無精ヒゲめいた不揃いな短髪で覆われ、顎と唇にその無精ヒゲがまとわりついている。ボンズと言うよりはボンズ擬きの浮浪者だろうか。少なくともハックアンドスラッシュで日銭を稼ぐ強盗や、ファックアンドサヨナラを狙う前後殺人犯には見えない。

 

シンヤは油断無く構えを維持しながら観察を続ける。ボンズ擬きは顎の無精ヒゲをいじくりながら、その姿をニヤニヤと笑いながら眺める。「カーッカッカッカッカッ! ネズミを恐れるネコとは珍しい!」不意に喉を鳴らして笑いをこぼすと、それは直ぐに大笑へと変わった。

 

(((ニンジャであることを見抜いた!?)))確かにNRSは発症していない。可能性は大だ。シンヤは警戒のレベルを上げた。だが、上げたところで何かできるわけでもない。今のシンヤにはこのお堂から脱出することすら難しい。「アンタはここの管理人か何かか?」「似たような者よ」

 

やはりヨタモノの可能性は薄い。敵対的ニンジャでもないようだ。ならば、「ここで休ませてもらえないか?」「好きにせい。人は勝手に生きるもの。多生の縁があろうと人の間に意味などないわ」途端に興味を失ったように、ボンズ擬きはゴロリと転がった。黒いゴミ袋に紛れてもう区別が付かない。

 

「お礼はできないが明日には出て行く」シンヤには何日も休むつもりはない。ともかく一晩休息をとれればニンジャ回復力で多少は動けるようになるだろう。その後は……家族の元に向かうべきか、否か。シンヤの胸の内に迷いが走る。無意識のうちにシンヤはオマモリ・タリズマンを握りしめていた。

 

「迷って生きてなんになる。世の中は起きて稼いで寝て食って、後は死ぬのを待つばかりよ。諦めろ諦めろ」シンヤの胸の内を見抜いたのか、万物に価値無しと言わんばかりに軽い調子のボンズ擬きの声が放り投げられた。「アンタに、何がわかる」「何も。迷いに意味などないということだけよ」

 

怒りを滲ませたシンヤの言葉をボンズ擬きは何処吹く風で軽く受け流す。お堂の空気が重圧を覚えるほどのニンジャ圧力に押し潰される。だが、ボンズ擬きは一発屁を放ると、面倒そうに尻を掻いた。失禁と失神を同時発症するニンジャの憤怒も、このボンズ擬きにはバイオミケネコの威嚇と大差ないのか。

 

怒りがシンヤの口をついて出た。「諦めろ? 意味がない? ブッダム! ふざけるな……」「何故怒る」ボンズ擬きが真剣な声音で問いかける。体勢は不真面目そのものだが、言葉は真面目である。「大切なものを他人に嘲笑られて怒らない奴はいない」シンヤの宝は家族だ。それを侮辱されれば当然怒る。

 

だがシンヤの言葉に帰ってきたのはボンズ擬きの笑い声だった。「カーッカッカッカッカッ!」「何が可笑しい!」怒りが痛みを吹き飛ばし、気づけばシンヤは立ち上がって構えを取っていた。「ならば怒る必要などない。ただ大切にすればよい。ワシが笑ったのはオヌシの迷いよ」「ッ!?」

 

その言葉はシンヤの構えをすり抜けて心臓を貫いた。「真に大切と思うならばそれを守ればよい。そうでないなら捨てればよい。行動すれば自ら然りとインガオホーは帰る」「それは」反論の言葉は出なかった。迷うだけ無意味、行動こそ肝要。事実である。だが、それですまないから迷っているのだ。

 

「……失敗するだろうことでも、その結果大切な者を傷つけることでも、行動すべきと?」思わずシンヤは迷いを吐露していた。自分はフラグメントに勝てなかった。トモダチ園の皆を傷つけた。皆の助けになりたい。だが、可能か不可能かも不明で、拒絶されるかもしれなかった。迷いの根はそれだった。

 

「知らん、オヌシの勝手じゃ」ボンズ擬きの返答はニベも素っ気もない。全てを下らぬと嘲う虚無的な無常感。「例え救ったつもりでも、救われるかは相手の勝手。皆勝手に生きておるわ。助けたくば助ければよい。意味など何処にもないがな」その奥には己の全てが燃え尽きた灰色の諦念が漂う。

 

その声に未来の自らを見たのか。気づけばシンヤの口から叫び声が上がっていた。「……知るか、知るかよそんなこと! 俺は家族を守りたいんだ! 死なせたくないんだ! もう一度会いたいんだ!」大声を出して立ち眩んだシンヤは、柱に手を尽きバランスを整える。

 

疲労と消耗と重傷で朦朧とした意識を、ボンズ擬きの言葉が大いに揺さぶったのだ。同時にシンヤの発した言葉がボンズ擬きの記憶を揺さぶった。(((衆生を、民草を救いたいのです!)))彼の耳の奥に聞こえるのは、かつてブッダの救いを信じていた己自身の声だった。

 

ボンズ擬きは身を起こし、柱に手をつくシンヤを見つめる。だが、その目に写るのはシンヤではなくかつての光景だ。「……救おうとも救われん。例えその手が受け入れられようとも、相手如何で意味など失せる」(((出来るのはほんの一助。助けどころか邪魔にしかならんこともある)))

 

生涯只一人と仰いだ師の言葉が、自分の言葉と重なって響く。「そんなの知らねぇよ。家族を助けたい。それの何が悪いんだ」(((それでも救いとなりたい。間違って、おりますか?)))応える過去の自分自身。アーチボンズの妾の子という堕落したブディズムの象徴。生まれた意味を探していた。

 

「オヌシが助けたいのは自分じゃろう」(((オヌシが救いたいのはオヌシ自身であろう)))最早ボンズ擬きの心はここにない。二度と戻らない過去にいる。迷えるドヤ・スラムをケミカル薬学で救った破戒ボンズとして、救いに救いを求めて高名なテンプルを飛び出した、若きレッサーボンズを諭している。

 

「そうかもしれない。けど俺は家族を助けたい。それに、間違いは、ない」(((否定は出来ません。それでも私は彼らの一助となりたいのです!)))体力の限界に達したシンヤは前のめりに崩れた。肩で息をしながら、震える肘で身体を支える。その姿は、弟子入り志願のドゲザをした己に他ならなかった。

 

遙か遠い目のボンズ擬きは、ゴミ袋の隙間から一本のトックリ・フラスコを取り出した。「父王に愛されるあまり何も知らぬ王子がいた。老いを、病を、死を知らず。故に生きるを知らぬ男がいた」『般若』の二文字がショドーされたそれを握り、心ここにあらずとふらつきながら立ち上がる。

 

「父王の死と共に全てを知り、男は悩んだ。病は恐ろし、老いは厭わし、死は呪わし、生は苦しき」ふらつきながら説話を呟き歩く姿は、重篤薬物中毒カルティストのそれだ。ある意味それは正しい。ボンズ擬きは記憶に飲まれ現実を忘れ、今は無き過去にトリップしているのだから。

 

「逃れんと迷い、苦行して迷い、賢者を訪ねて迷い、一人ザゼンし迷い、迷い、迷い、迷いの果てにサトリを得てブッダとなった」開祖の説話が終わると共に、うずくまるシンヤの前でボンズ擬きは立ち止まる。その頭上でトックリ・フラスコが傾いた。壁の隙間から漏れる街灯が無色透明の滴りに反射した。

 

強烈なアルコール臭がお堂のゴミ臭を塗り潰す。「サケ臭ぇ!?」空間を染め上げる程のアルコール臭を頭から被せられたシンヤとしてはたまったものではない。苦痛を忘れて思わず叫ぶ。「サケではない。ハンニャ・ウォーターだ」平然とボンズ擬きが応える。「何だ急に! それはサケだろ、俺は知っているんだ!」

 

前世の記憶を紐解けば、生臭坊主の言い訳集にそんな名前が出てくる。飛ぶように跳ぶから兎は鳥の一種だの、猪ではなく山にいる鯨の肉だの。人間は正道を行くより抜け道を探す方が多い。楽だからだ。「戒律で禁じられとるからサケは飲めん」だからシンヤにはボンズ擬きの単なる方便にしか聞こえない。

 

「だから般若湯って、サケの……隠語だ…………ろ?」しかしここはネオサイタマだ。前世の日本とは色々と異なる。唐突に床がトーフの柔らかさを帯びた。「ハンニャ・ウォーターじゃ。サケではないと、そう言った」ボンズ擬きの声もモチめいて伸びる。現実全てが泥じみて軟らかい。

 

大半の薬物に耐えるニンジャ耐久力も、消耗に消耗を重ねた今では分が悪い。ヨロシサン製薬の研究員からブディズム界に身を投じた異色のボンズが、生涯を掛けて作り上げた依存性も中毒性も無いサトリ補助薬『ハンニャ・ウォーター』。それはシンヤのニューロンを否応なしに内面側へと開いていく。

 

ドゲザ体勢のまま五感全てを閉ざしたシンヤを眺めながら、ボンズ擬きの口から言葉が転がり出た。「……ワシは、何をしている」亡き師が残したハンニャ・ウォーターはこれで最後だ。最早、この世には堕落ブディズム界が師を叩き出して作った、極度の危険性を持つ粗悪品の偽物しかない。

 

だが、それは自分がドゲザして弟子入りを請い願った日もまた同じだった。ブッダレジェンドのカンロめいて振りかけられたハンニャ・ウォーターは、当時でも専用の施設でだけ生産できる希少品だった。それを惜しげもなく振りかけられた自分は、己の腹の底を覗きサトリの一端を得た。

 

後にその理由を聞いたが「オヌシが迷っておったからだ」と師は笑うだけだった。迷う者は人の数と等しい。自分に使わなければ、別の可能性があっただろう。それでも恩に報いたいと、幾多の人々の救った師を真似て、人々を救おうと手を差し伸べた。職を世話し、病を癒し、食事を作り、悩みを解いた。

 

だが、救おうとした人々の大半は、救った端から自ら滑り落ちていった。喜びの涙と共に我が子を取り上げた夫妻は、その子供をオイラン宿に二束三文で売り渡した。真面目に働くと誓った元浮浪者は、ヨタモノとなりNSPDに射殺された。何のために己は居るのか。いつも同じ疑問がコダマしていた。

 

そして僅かな数の救われた人は、救いの手が無くとも立ち上がって歩き出していた。ある孤児は大学のゴミ箱から拾い集めたテキストでセンタ試験に合格した。一人の元サラリマンは安酒場からニーズを見抜いて、人気タチノミバーを起業した。何のために自分はここに居るのか。常に同じ問いが響いていた。

 

救おうと救えぬ人々に落胆する度、救われなくとも己を救う人々に無力を知らしめられる度、師はアタリマエよと笑って杯を差し出した。その恩師は自分が救ったはずの強盗犯に刺し殺された。末期の瞬間まで師はこれが当然と笑っていた。

 

「ブッダは誰も救わん、誰も救えん!」血を吐くようにボンズ擬きは叫んだ。「否! 誰一人として誰かを救えぬ! 己自身しか、救えぬのだ!」全てに絶望して、生きることも死ぬことも止めた。ただ時と共に朽ちるのを待っていた。だが、灰色をした諦めの底には未だ熾火めいて赤熱する思いがあった。

 

それを呼び起こしたニンジャならば、救いなきマッポーの世を、救われぬなにかを変え得るのか。「ソモサンッ!」いにしえのゼンモンドー・チャントを持って、ボンズ擬きは問うた。

 

【クエンチッド・ソウル・バイ・タービュランス】#1終わり。#2へ続く


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