あるいは語られたかもしれない、彼と彼女の青春ラブコメ。 作:きよきば
気温が上がり、夏の入り口。
蒸し暑さの増す教室ではいよいよ学校に慣れきった同級生達が今日も今日とて騒がしい。
そんな教室にて、俺もまたいつも通りに席につき、ぼんやりと授業が始まるまでの時間を過ごしていた。
あれから、俺と由比ヶ浜の距離は多少、少なくとも最初の頃よりは確実に縮まった。
具体的に言えば土、日にも誘われるようになった。毎週というわけではないが、その頻度は高い。戸塚や雪ノ下と4人の時もあれば2人の時もある。ちなみに、俺と戸塚、由比ヶ浜と雪ノ下という2人組で出かけることもまあまああったりする。俺達はラーメンを食べに、あいつらは…まあ買い物でもしてるんだろう。
とにかくそんな変化があった。そしてその変化を悪くないと思っている俺がいる。
せっかくできた関係だ。楽しんでおくのがいい。
そして今日も、滞りなく授業が進む。
授業を受け、ベストプレイスで飯を食い、また授業を受け、ホームルームで解散。
まさにいつも通り。さて、今日は由比ヶ浜と雪ノ下と3人で勉強会をした後戸塚も合流する予定だ。今日の復習くらいは済ませておくか。
そんなことを考えながら教科書をバッグに詰めていると、目の前に1人の男子生徒が立った。
見覚えはある。たしか由比ヶ浜がこの教室に来た時ニヤニヤしていた男子グループの1人だ。
そいつは一見人の良さそうな笑みを浮かべて俺の前に立っている。悪いが俺はそういうのには騙されん。仕事を押しつけられるような気がしてならない。
「あのさ、ヒキタニくん」
誰だよヒキタニくん。
人に用事があるなら名前くらいちゃんと呼びません?いや、たぶんもう関わらないから訂正もしないけど。
「…あ?」
この手のタイプは下手に出るとつけあがる。ここはめんどくさそうに対応することでお前の話を聞く気はないアピールをしておく。
「ちょっと頼みがあるんだけど」
ダメかー…俺急いでるんだけどなぁ…
掃除やっといてかノートよこせかちょっとツラ貸せかどれかしら…
痛いのは嫌だなぁ…
返事をするのも面倒なので首の動きで続きを促した。めんどくさそうにどころか面倒だって言っちゃったよ。あらやだこの子策士!
「ヒキタニくんってさ、由比ヶ浜さんと仲良いじゃん?」
…ああ、なるほど、そっちか。断る。
どうりで俺なんぞに話しかけてくるわけだ。
おおかた由比ヶ浜に相手にされなかったのだろう。だってお前その気持ち悪い営業スマイルじゃ裏のある人間だってすぐわかるし。
もはや返事をする気も失せた。いや、違うね、最初からなかったね!
「だからさ、紹介してくんね?」
俺からの返事が無いことに何の違和感もないのかよ。ぼっち相手なら要求が通って当然だとでも思ってるのん?なんておめでたい発想だ。
だがここで逆撫でをしてしまうと話がややこしくなる。無難に切り抜けていくか。
「俺が勝手に何かするわけにはいかねえよ。すまん」
後ろのほうでお仲間が聞き耳を立てているのがわかる。つまり最悪大人数で圧をかけようって魂胆か。そのくらいしてやれよーから始まり、そうだそうだで繋ぐ交渉術と見た。
案の定、数人の男子生徒が白々しく「おい、どうした?」なんて言いながら俺を囲んだ。
「ヒキタニくん、メールアドレスくらい教えてやれよ、な?」
「こいつマジだからさ、俺からも頼むよヒキタニくん!」
いや、だから誰だよヒキタニくん。
あと何がどうマジなんだかさっぱりわからん。マジなら本人に直接聞けよ。教えてくれないなら諦めろ。
「いや、俺が勝手に個人情報ばら撒くわけにはいかないし」
知らず、低い声が出てしまうができるだけ普通の口調を心がける。喧嘩にでもなってしまえば勝ち目はない。
「メールアドレスくらいで個人情報とか大げさだって!な?」
営業スマイル野郎はヒクついている鼻を誤魔化しつつ食いさがる。その言い方だとメールアドレス程度の個人情報も教えてもらえないってことだろうが。完全に脈なしだ、諦めろ。
さすがの俺もこのしつこさにはうんざりしてきた。教室を見渡したところで助けが来ることはない。戸塚は心配そうに見ているがどうしていいかわからない様子だしそれ以外は知らん。だが長引くと由比ヶ浜が来てしまう。今の状況でそれはよろしくない。
ここはとにかくこの場を抜けるしかない。
「…まあ、聞いとく」
こう言えば俺を止めることはできないだろう。乱暴にバッグを引っ掴み教室を出る。背後から「頼むぞヒキタニくーん!」なんて声が聞こえてきた。だから誰なんだよヒキタニくん。
教室を出て周囲を見渡すと、幸い由比ヶ浜のクラスのホームルームが長引いているのか廊下に由比ヶ浜の姿はなかった。
由比ヶ浜、そして雪ノ下と合流してサイゼへ向かう。女子2人は楽しげに会話をしており、俺はその後ろを少し距離を開けて歩いていた。
時折見える由比ヶ浜の横顔は楽しそうで、邪魔をしてしまうのは気がひける。後で聞くことにしよう。
しばらくそのまま歩いていると、不意に由比ヶ浜がこちらを振り返った。
「あ、ねえ、ヒッキー……ヒッキー?」
「…なんだ?」
何か話題を振ろうとしたようだが、俺の顔を見るなり訝しむような表情になった。
「ヒッキー、なんか怒ってる?」
「いや別に。全然全く」
全く怒ってなどいない。そんな理由もない。
ただ、こう…端的に言うと、あれだ。
ーおもしろくない。
「………」
「………」
「………」
「………」《ムスッ……》
今日の勉強会は静かだ。戸塚が合流してからも特に会話はない。
あ、シャーペンの芯が折れた。
カリカリと問題を解いていく。だがいつもよりペースが遅い。…あ、また芯が折れた。新しいのを入れとくか。
新しい芯を筆箱から取り出そうと顔を上げる。すると、俺以外の3人がじっと俺を見ていた。
「…どうした?」
「わわっ!なんでもない、なんでもないから!そ、そだヒッキー、ここ教えて!」
不自然なくらいの慌てようを見せ、ごまかすように教科書を手に由比ヶ浜は距離を詰めた。
「…戸塚くん。私たちは2人のぶんも飲み物を取ってきましょう」
「あ、そうだね。2人とも何がいい?」
「コーヒーで」
「えと、ヒッキーと同じの…ありがと」
雪ノ下と戸塚が俺たちのコップを持ってドリンクバーのコーナーに向かったのを見て、俺は由比ヶ浜に向き直った。
「で、どこだ?」
「あ、あれ?いつも通りだ…」
「いや、何がだよ。答えが間違ってるのはたしかにいつも通りだけど」
「失礼だなっ!?えっと、ここなんだけど…」
「おし、これか。これは…」
ドリンクバーにて。
「それで、比企谷くんは何をカリカリしているのかしら?」
「今日の放課後にクラスの子が八幡の所に行って由比ヶ浜さんを紹介してくれって言ってて、八幡は勝手にそんなことできないって言ったんだけど…」
「はぁ…それで?」
「何回もしつこく言ってて、その後からずっとあんな感じなんだ」
「そう…そういうことなら比企谷くんは責められないわね」
「それに八幡、自覚ないし…今日もだけど、たぶんずっと」
「……はぁ…とりあえず戻りましょうか」
「そうだね」
由比ヶ浜の質問に答え終わったころ、戸塚と雪ノ下が帰ってきた。
「はい、コーヒー」
「ありがとな」
勉強会が終わり、由比ヶ浜を家まで送る。こんなことももはや当然になった。
それにしても、今日はどうも眉間に皺が寄る。
特に会話が弾むこともなく、公園の近くまで来た。由比ヶ浜の家はここからそう遠くない。
「…ね、ヒッキー」
「なんだ?」
「なんか、あった?」
由比ヶ浜は妙なところで鋭い。
何も無かったと言えば嘘になるわけだが、どうしたものだろうな。
別に握りつぶしてもいいのだが、そうするとおそらく由比ヶ浜の方にあいつらが行くだろう。俺にしたように徒党を組んで。それは避けたい。
仕方ない、今日のところは帰ってから考えるか。
「…いや、大丈夫だ。何もない」
「……そっか」
建物の中に入っていく由比ヶ浜の姿が見えなくなるのを確認して自転車に跨る。
夜でも気温の高い季節ではあるが、自転車を走らせて感じる風が多少頭を冷やしてくれた。
まだ聞いてないでごまかせるのはおそらく長くても2、3日だろう。
…というか、なんで俺は由比ヶ浜のアドレスを教えずに終わらせる方向で考えてるんだ?あいつが良いと言えば教えて終わりなのに。
無意識に、頭がその理由を弾き出そうとするのを無理やり抑えこむ。きっとそうしていないと何かが決定的にズレてしまう。俺達の関係がズレて、最悪崩れてしまう。
得体の知れない感情から目を背けるように、俺は思考を手放し、ただ自転車をこぐことに集中した。
昨日のヒッキーは不機嫌だった。力入れすぎて何回もシャーペンの芯折ってたし、ずっとムスッとしてた。あたしが何か怒らせるようなことしちゃったのかなって思ったけど質問したらいつものヒッキーだったし一緒に帰る時だっていつもと変わんないし、いつも通り見えなくなるまで見送ってくれた。
あたしやさいちゃんやゆきのんのせいで怒ってたわけじゃないみたいだけど、何かあったのかな。困ったら頼ってくれたら嬉しいんだけど…
今日ヒッキーに会ったら聞いてみようかな、って思いながら教室に入ると、あたしの席の近くにさがみんがいた。最近あんまり話してなかったけど何か用なのかな。
こんなこと言いたくないけどあたしはさがみんがそんなに好きじゃない。
だけどあんまり避けるのもヘンだから普通に席についたら、すぐにさがみんが話しかけてきた。
「ねえ、結衣ちゃん」
「な、なに?」
「結衣ちゃんってさ、ヒキタニと仲良いんでしょ?」
ヒキタニ…?ヒッキーのこと?ヒキタニじゃなくて比企谷なんだけど…
「仲良しって言うかなんというか…」
あたしの返事を聞いてさがみんは机を指でとんとん叩き始めた。イライラしてる時の仕草だ。
「仲良いの?悪いの?」
「それは…友達、だけど…」
自然と声がちいさくなる。なんでヒッキーといる時みたいに普通にできないんだろ…
「そ。じゃあ紹介してよ」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわかんなかった。
紹介って…紹介、だよね?これが比企谷くんです、っていうのじゃなくて、友人の紹介で知り合った2人がー、みたいなあの紹介だよね?
…そっか、ヒッキー猫背直して眼鏡かけてるから、見た目もイケてるもんね。
「え、じゃなくて紹介。アドレスとか知ってるんでしょ?」
「知ってるけど…ヒッキーに聞いてみないと…」
「じゃあ聞いといて。明日また聞くから」
言うだけ言ってさがみんは自分の席に帰っていった。あ、あたしもう完全にグループ抜けてるんだ。…ってそうじゃなくて。
ヒッキーを紹介して、かぁ…
眼鏡があってもなくてもヒッキーはかっこいいし、何より優しい。不器用だけど。
みんながヒッキーの優しい部分知ったらモテモテになるのかな。
たぶん、ヒッキーのことが気になってる人は他にもいると思う。この前トイレで女の子のグループが葉山君とヒキタニ君どっちがいいかなんて話してたし。
ヒッキーの良いところをみんなが知ってくれるのは嬉しい。
嬉しい、けど…
ーなんか、やだ。
「……」
「……」
「……」《ムスッ……》
「……」《ムスッ……》
今日も勉強会。
が、何故か由比ヶ浜の機嫌がすこぶる悪い。おかしい、俺何かしたかしら…
そしてこれまた何故か雪ノ下と戸塚が頭を抱えている。疲れているのだろうか。今日は俺が飲み物取ってきてやるか。
「飲み物取ってくる」
「あ、あたしもいく…」
「戸塚と雪ノ下、何がいい?」
「…紅茶をお願い」
「じゃあぼくはコーラでいいかな?」
「はいよ。紅茶とコーラな」
由比ヶ浜と2人、ドリンクバーのコーナーへ向かう。紅茶のマシンに2、3人ほど並んでおり、少し時間がかかりそうだ。
その頃、テーブルにて。
「…何故由比ヶ浜さんまで…」
「うーん…クラスが違うとわからないね…」
「多少無理やりにでも言わせたほうが良いかしら」
「どうかな、うーん…」
「…私は由比ヶ浜さんと話すわ。戸塚くんは比企谷くんを頼めるかしら」
「わかったよ」
「ほれ、コーラ」
「ありがとう、八幡」
飲み物を置き、さっきまでと同じ場所に座り直した。
相変わらず由比ヶ浜は頬を膨らませており、ジトッとした目で俺を見ている。
「…なんだよ」
「…なんでもないよ」
なんでもないならそんな顔しねえだろ。あ、芯が折れた。
その後なんとも言えない空気のまま、勉強会は終了した。
その日、由比ヶ浜は雪ノ下が1人暮らしをしているマンションに招かれ、2人で歩いて行った。
そう遠くないとのことだから大丈夫だろう。
残された俺と戸塚は男2人、のんびりと歩いていた。
戸塚との距離もずいぶん近くなり、最近は戸塚から「このラーメン屋どうかなっ」と言ってくることもある。
まあ、なんだ。初めての男友達だと言っていい。
「八幡、この前の…」
そんな戸塚がおずおずと尋ねてきたのは由比ヶ浜を紹介しろと言われた時のことだった。
「…ああ」
「どうするの?」
「由比ヶ浜が決めることだからな、明日聞く」
そうなのだ。本来なら俺は全く関係無いのだ。あいつと由比ヶ浜2人の問題であって、俺がどうこうすることではない。
けれど、いやそれ故だろうか。この不愉快さは何なのだろう。
「…ねえ、八幡」
伏し目がちに問う戸塚の表情は俺からは見えない。
ただ、口には出さずとも、それでいいの?と言われているような気がした。
「なんだ?」
「ぼくはいつでも八幡の味方だし、応援してるからね」
「…ああ」
具体的なことは何1つ口にしてはいない。
ただ自分は味方だと、そう言っただけ。
それだけだが、少し身体が軽くなったように感じた。
「戸塚。由比ヶ浜も答えにくいかもしれないから悪いんだが明日の昼は2人にしてくれるか」
「うん!雪ノ下さんにはぼくから言っとくよ」
「すまん。代わりに今度なりたけに連れてくわ」
「そこ、美味しいの?」
「ああ。なんたって脂が…」
短いやり取りの末、時間を得た。由比ヶ浜が怒ってた理由も聞きたいしな。
その後は戸塚と別れるまでなりたけについて語り、家路についた。
その夜は寝つきが悪かった。
もう何度も自分に言い聞かせた。本来出番のない舞台なのだからと。これはあの男と由比ヶ浜の青春劇であって俺のそれではない。俺などあいつが勝手に持ってきた小道具に過ぎない。
けれどおもしろくないものはおもしろくない。
由比ヶ浜が男子に人気なことくらい知っている。ガードが固いことも知っている。
そして俺は醜いことに由比ヶ浜が嫌だ、と言ってくれることを期待している。
俺の決めることじゃない。関係ない。それなのにこんな願望を抱いている自分が気持ち悪い。
はっきり言ってしまえば、俺が伸ばして、掴もうとした手を横から掻っ攫われるのが気に入らないというアホな我儘だ。
それがわかっていてなお気持ちが変わらないのだから本当に気持ち悪い。
期待しているのだ。由比ヶ浜に話をしたらたまに見せる露骨に嫌そうな顔で教えないで、と言われることを。
人との関わりの少ない人生だったせいか、心臓を絞めるようなこの感情の名前を俺は知らない。
携帯を取ろうとした手を止める。誰かに何かを話しても同じことだ。もう寝た方がいい。
ゆきのんの家は高校生の1人暮らしには大きすぎなくらいのマンションだった。
すごい。ぶるじょわ?ってやつだ。
「とりあえずそこに座っていてくれるかしら。紅茶を淹れてくるから」
「て、手伝うよ!」
「1人で十分よ。座ってちょうだい」
何か手伝いたかったけどゆきのんに言われた通りにソファに座った。わっ、フカフカだ。
そういえばヒッキーとさいちゃんはどうしてるんだろ。ラーメンの話してるのかな。
あたしもヒッキーとラーメン食べに行ってみたいな…太っちゃうかもだけど。
ゆきのんが2人ぶんの紅茶を持ってきてくれた。超美味しい。なんかこう…上品っていうか、超紅茶!みたいな。
ヒッキーにこれ言ったらまたからかわれそう。「超紅茶ってなんだよ…」とか言って。
「紅茶1杯で何故そこまで笑顔になれるのかしら…」
「うえっ!?あ、いやなんでもないよ!?そそそれで、どうかしたの?ゆきのん」
あたしそんなに笑ってたかなぁ。
てか絶対ヒッキーならちょっと呆れた顔でボソっとツッコんでくれると思う。うん。
「どうかしているのはあなたの方よ。今日の様子はまるで昨日の比企谷くんのようだったわ」
「え、あたしヒッキーみたいになってた?えへ、えへへ…」
「褒めているわけではないのだけれど…」
へ?あ、そっか。ヒッキームスッとしてたもんね。ちょっと可愛かったけど。
「それで、何をあんなに怒っていたのか、聞かせてくれるかしら」
怒ってたっていうかさ…
でもこれ言ったらゆきのんに嫌な子だって思われちゃわないかな…
「ええっと…怒ってたっていうわけじゃないんだけど…」
「けど?」
「ゆきのん、ちょっと嫌な話するかもだけどあたしのこと嫌いになったりしない?」
「そう簡単にはならないわ。…なったら追い出すけれど」
「怖いよ!えっとね…」
ゆきのんに全部話した。さがみんに言われたこととか、あたしが思ったこととか。
頷きながら聞いてくれたゆきのんはあたしが話し終えると紅茶を飲んでこめかみのあたりを押さえた。
「……」《比企谷くんと同じじゃない…》
「ゆきのん?」
どうしよ、嫌いになっちゃったかも。
ゆきのん陰口とか嫌いそうだし…
「少しだけ考えてもいいかしら」
「あ、うん!大丈夫だよ?」
《つまり2人とも互いを人に紹介しろと言われてそれが気に入らなかったというわけね。…もう答えは出ていると思うのだけれど…戸塚くんから明日の昼休みに2人にしようと連絡が来たし、比企谷くんの方は心配無いと思っていいのかしら?》
「由比ヶ浜さん?」
「なに?」
「明日の昼休みは比企谷くんと2人にするからきちんと話しなさい。何も言わないと何も変わらないわ」
「…そう、だね…うん、聞くよ」
やっぱり聞くしかないよね。
ヒッキーが喜んで教えたりしたらなんか、やだな。
断ってほしいって、教えないでほしいって思っちゃう自分もやだ。ヒッキーが周りを気にしないでいいようにがんばったのに。成果も出たのに。
なんでこんなにモヤモヤするんだろう。
ヒッキーが他の女の子とどんどん仲良くなって、付き合うようになったら。
そう思ったらすごく胸が苦しい。あたし、ズルい子だ。イヤな子だ。
でもさ…ズルくてもイヤなやつでも、嫌なんだ。めんどくさそうな顔をしながらやだよ、って言ってほしいんだ。
ヒドいこと言ってると思う。
もしさがみんが本気でヒッキーが好きだったらあたしが思ってることは本当の本当に最低だ。でも。
でもさ…
頭の中がごちゃごちゃしててもう何が何だかわかんない。
ねえ、ヒッキー。ヒッキーならこんな時どうする?
ヒッキーと話したい。
だから携帯を持って電話帳を開いてヒッキーの電話番号に指を当てようとした。
けどかけられなかった。
「…由比ヶ浜さん」
「……うん」
ゆきのんの綺麗な声が聞こえる。今まで聞いたことないくらい優しい声。お姉ちゃんがいたらこんな感じなのかな、って思った。
「正直な気持ちを包み隠さずに話しなさい」
「…うん、ありがと」
久しぶりに2人の昼休み。
良く晴れたせいで少々日差しがきついが、幸いそこそこ風が吹いていることもあり暑さはさほど感じない。
由比ヶ浜の隣に座ってパンを口に運ぶ。何の味もしない。
由比ヶ浜は小ぶりな弁当箱をつついている。箸が進んでいない。
やがて、どちらからともなく途中で昼飯を片づけて顔を合わせた。
『あの…』
「な、なんだ?」
「あ、あたしは後でいいよ。ヒッキーからで」
どうぞどうぞ、というジェスチャーを受けて、まずは俺の用件から済ませることにする。
「そ、そうか。じゃあ……実は同じクラスの男子に由比ヶ浜を紹介しろって言われてるんだが「やだ」…………え?」
「メールアドレスとか「やだ」OKわかった」
即答どころか言い切ってすらいないのにNGが出た。
ぶんぶんと首を振りながらの拒絶に俺はあっさりと撤退を決めた。元々粘るつもりもなかったが。
物陰にて。
「わあ、八幡嬉しそう…!」
「由比ヶ浜さんのこととなると本当にわかりやすいわね…」
「俺の用件は以上だ。由比ヶ浜は?」
「あ、えと。ほら、前言ったさがみん…相模って子がさ、ヒッキー紹介してくれって「いい。いらん。やめろ」………へ?」
「えと…あ、アドレスとか「断る」うん、わかった」《パァァァ…!》
由比ヶ浜はともかく俺を紹介しろなんてよほど趣味が悪いか罠かのどちらかだ。どちらにせよノー。否定の三段活用だ。
やはり物陰にて。
「わっ、由比ヶ浜さんも嬉しそう!」
「ここまでとは思っていなかったわね…」
「ぼくたちはもう教室に戻ろうか?」
「ええ、戻りましょう」
「お互い用件は終わりか?」
「そだね。えへへぇ…」
これでいいのかはわからない。
ただ、本当に良い人で絶対に会った方がいいと思うなら俺はもう少し粘るし、由比ヶ浜もあんなにあっさり引き下がらないだろう。相模とやらの話は前に聞いたしな。
不思議と、昨夜の絞めつけられるような感覚はない。あとは教えないで欲しいらしいと伝えれば終わりだ。それはそれで難題ではあるのだが。
とりあえず、さっき残したパンを頬張る。しっかりクリームの甘さがした。
ホームルームの後、全く気は進まなかったが男子生徒の所に行きNGだった旨を伝えた。
「いやヒキタニくん、そりゃねえよ!いいじゃんアドレスくらい!」
「いや、本人が嫌だって言ってるし…」
だからいい加減気づけ、アドレス教えてくれない時点でアウトだろう。
あと誰だよヒキタニくん。
「チッ、いいよなあヒキタニくんはアドレス教えてもらえて」
それを俺に言ってどうなると言うのだ。
あと素が出てきてるぞ、ボロが出る前に逃げるか最後まで良い人っぽい演技貫くかしろ。
あと誰だよヒキタニくん。
「じゃあ」
「待てって。本当は聞いてねえんだろ?」
ここまで執念深いとストーカーとかになりそうで怖い。
あともう完全に素だろお前。
困っていると男子生徒の取り巻きが現れた。ああもうすごく面倒だ。
「なあ、ヒキタニくん。もう一回だけ聞いてみてくんね?」
もう一回聞いたとして結果が変わるとは思えないんですがそれは…
「いや、由比ヶ浜に悪いし」
「いーや、その顔は聞いてないな!頼むよヒキタニくん!」
聞いてないのはお前だ。人の話をまるで聞いてない。
あと誰だよヒキタニくん。
尚も食らいつく男子生徒をどうしたものかと思案していると、後ろの方でガラっと椅子を引く音がし、小さな足音が近づいてきた。
「あの…八幡はちゃんと由比ヶ浜さんに確認してたよ?ぼくが証人だよ」
突然の戸塚の登場に男子グループは固まり、モゴモゴと文句を言い始めたがさっきまでの勢いは無い。
え、戸塚にかかると君たちチョロすぎません?それはそれで俺にダメージ入るよ?
教室を離れると戸塚は旨に手を当てて深呼吸をした。
「怖いね、ああいうの…」
「無理しなくて良かったんだぞ」
緊張のあまり呼吸すら忘れていたらしい。
そして俺も忘れていたが戸塚聞いてたのかよ…
「ううん、無理だってするよ。ぼくは八幡の味方だもん」
「…そうか」
「うん!」
戸塚、かっけえなぁ…
あ、後はあいつか。
さがみんにヒッキーがアドレス教えたくないって言ってることを伝えたら、やっぱりというかなんというか、怒り始めた。
「ちょっと、結衣ちゃんほんとに聞いた?」
「きっ、聞いたよ!ちゃんと聞いて、それで…」
「アドレスも教えないとかおかしいじゃん!ウチの悪口とか言ったんじゃないの?」
「そんなこと…」
途中からさがみんの友達も入ってきて3人でいっぺんに喋ってくるからどうしていいかわかんなくて、怖くて、謝ることしかできなくて。
でも謝ったら謝るくらいならちゃんと紹介してよとか言われて。黙ったらシカト?とか腕組みながら言われるしでほんとにどうしようもなくなって。
…助けて…
助けて、ヒッキー…
「ちょっと結衣ちゃん、聞いてんの?」
「ぁ…う……」
次瞬きしたら涙が溢れちゃうんじゃないかなってくらい、視界が滲んでたらガラっ!て音がして教室のドアが開いた。
由比ヶ浜のクラスの教室は珍しくドアが閉まっていた。にも関わらず女子のものと思われる声が聞こえてくる。2、3人で由比ヶ浜を責めていると考えるのが妥当だろう。
反論する声が聞こえてこない。
いくら本当のことを言っても、頭に血が上っている人間には通用しない。
というか原因俺だし。
あと、まあ、なに。約束、あるし。
さっきの教室でのやり取りでヒットポイントは風前の灯火だが、最後の力を振り絞ってドアを開け、由比ヶ浜の席へと向かう。
案の定由比ヶ浜は女子3人を前に涙目になっていた。
というか来たはいいけど俺喧嘩してもたぶん勝てねえよなぁ…よし、逃げよう。
「由比ヶ浜、行くぞ」
「ふぇっ…?ひっきぃ?」
いまいち状況が飲み込めていない由比ヶ浜はいったん置いておき、女子3人に向き合う。
…どれが相模だよ。そういえば知らねえよ。
まあいいか、逃げよう。
「あー…由比ヶ浜呼んでこいって言われてるから、悪い」
とりあえずこの場を切り抜けられればいい。
俺は左手に由比ヶ浜のリュックを持ち、右手で由比ヶ浜の左手を掴んで小走りで教室を出た。
何故ってまあ、俺が手引っ張って逃げるって約束だし。
教室を抜け、廊下を進み、階段を降りてそのまま下駄箱へ。
靴を履き替えて外に出たところで俺は由比ヶ浜に話しかけた。
「俺自転車とってくるから」
「……」《ぎゅううう…!》
由比ヶ浜は俯いたまま握る手に力を込めた。
よほど3人に追い詰められたのが怖かったのだろうか、その手は震えており、少しの間とはいえ放置していくのは憚られた。
仕方ない、公共の交通機関で帰ろう。
「…帰るか」
頷いた由比ヶ浜の手を握ったまま学校を出る。
いつも送る道を歩いていると由比ヶ浜は少しずつ落ち着きを取り戻し、表情も明るくなってきた。
「大丈夫か?」
「うん。ありがと、ヒッキー…約束、守ってくれて」
赤くなった目と頬で、由比ヶ浜は笑った。
心底ほっとしたような、嬉しそうなその顔から数秒目が離せなくなる。
なんとか目を逸らし、頬をかいて短い返事を返す。
「…おう」
こうして由比ヶ浜紹介騒動は幕を閉じた。
今後あの男子生徒が由比ヶ浜にしつこく付き纏う可能性はあるが、その時は…平塚先生にでも丸投げしよう。
そして、俺はどこか安心していた。
同時に、今までなかったくらいに心臓が高鳴っていることも自覚していた。
それは、由比ヶ浜といると出てくる症状。こうして手を繋いでいる今も、倒れそうなくらいに心臓が過剰に反応している。
きっともう長くない。抑え込んだ感情を抑えきれなくなる時が来てしまう。
その時俺は、どうなっているのだろう。
まあ、それはその時の俺に任せるしかないか。
とりあえず今は由比ヶ浜が落ち着くまで待ってから家まで送ろう。
「ヒッキー、もうちょっとこうしてて、いい?」
「…ああ」
歩くペースはいつもよりずいぶん遅い。
しかしなんとなく、今日はこのくらいのペースでいいと思った。
まだ夕方というには早く、空も明るい。
隣を歩く由比ヶ浜が手をもぞもぞしている。ああ、引っ張って逃げたときのままだから少し歩きにくいもんな。
1度、軽く手をほどき。
由比ヶ浜と顔を合わせた後。
繋ぐ手は、互いの指を絡めた。