あるいは語られたかもしれない、彼と彼女の青春ラブコメ。 作:きよきば
夏の終わり、そして秋にかけては不思議な寂寥感が脳内を駈けぬける。
16回目の夏はもうすぐ終わり、2学期が始まるのだが、今日は夏休み最後の予定が入っており、俺は海沿いを走る電車に揺られていた。
さすがに休み中のためか車内は混雑していた。
夢の国の入り口を通り過ぎてひと駅進んだところで電車を降りる。改札を抜け、切符売り場の近くの壁に背中を預けると、約束の相手を待つことにした。
近くに知った顔はない。おそらく2、3本後の電車だろう。
ところで、あの花火大会から3週間ほどが経ったが、未だに俺は変わった関係を意識すると心拍数が上がるという有様で情緒が中学生並みであることを露呈していた。良い子のみんなはちゃんとそのあたりも成長しようね!すごく恥ずかしいから!
情けなさにため息をついた後、時間を確認しようとポケットのスマホに手を伸ばした瞬間、視界が暗転した。真横から伸ばされているらしい手が俺の視界を塞いでいるらしい。
「……おい、由比ヶ浜」
「わわわっ!まだだーれだ?って言ってないよ!?」
そういう問題じゃないんだよなぁ…
由比ヶ浜は一歩後ずさると自分の両手と俺の顔を見比べて怪訝そうな顔をする。
「うーん…なんでばれちゃったんだろ…」
「ばれるばれない以前にお前以外に誰がいるんだよ。…それに、由比ヶ浜の手くらいすぐ…」
「……へ?」
あれれー?おっかしいぞー?はちまんくんは何を口走ろうとしたのかなー?
…うん、脳内で冗談言っても意味ないな。知ってる。
「……じゃ、帰るか」
「ごまかした!盛大にごまかした!」
「ほう、盛大なんて言葉を知ってるのか。成長したな、由比ヶ浜」
「失礼だな!?さっきの続き聞かせてよ!」
「帰るか」
「そっちじゃないってば!」
いやあ、今日は暑いなぁ…夏は実はまだまだ終わらないんじゃないかなぁ…
かかなくてもいい汗をかいてしまった。
手の甲で軽く額を拭い、俺は由比ヶ浜に向き直る。
「…行くぞ」
「むぅ……うん」
頬を不満げに膨らませたままではあったが由比ヶ浜は頷いて俺の隣に立った。
「じゃあ、行こっか?」
「ああ、行くか」
駅前の広場には家族連れやカップルがおり、その向こうには大観覧車がゆっくりと動いていた。
大観覧車を横目に、由比ヶ浜と並んでメインストリートを進む。
もう夏は終わるがまだまだ気温が高いせいか、ソフトクリームやドリンクの販売スペースには行列が出来ていた。由比ヶ浜が目を輝かせているが、まあうん、後でね?
しばらく歩くと水族園のエントランスホールが見えてくる。
多少混雑はしているものの、入場に時間はかからなそうだ。
「暑いねー…」
「そうだな」
ぱたぱたと服の中に空気を送りこむ由比ヶ浜から思わず目を逸らし、俺は入場料を払った。
要は、この夏最後のイベントはデートである。
花火大会、誕生日、また花火大会とこの夏は出かけることが多かった。まぁそれぞれのことについて今はあえて言うまい。
2学期になる前にということで今日選ばれたのが水族園だった。涼しいし俺としても反対意見はなく今日を迎えたわけだ。
ドームの中へ入ると水族園へと続く長いエスカレーターがある。
先に乗った由比ヶ浜は後に続いた俺を振り返り、楽しそうに笑った。
俺も小さく笑みを返し、やがてエスカレーターを降りる。
そこには薄暗い空間にいくつもの水槽が並んでいた。
「おおー、魚だ!」
「ざっくりしてんな…」
うん、まあ確かに魚なんだけど。もっとサメとかなんとかあるじゃない?
よく見ると水槽の目の前は大人達が空気を読んで子供に場所を譲っている。
俺達もそれに倣い少し離れた場所から眺めることにした。
遠目だとわかりにくいが、数種類の魚が水槽の中を泳いでいる。
男の子としてはハンマーヘッドシャークのフォルムをじっくりと見たいところだが、サメは特に子供達に人気のようだ。またにしよう。
「次、行くか」
「うん!」
施設名がそのまま駅名になるほどにこの水族園は大きい。ちなみに橋を渡れば名前がほとんど同じ海浜公園なるものがあるのだが、そちらは俺は行ったことがない。
全部巡るのには時間はかかるだろうが、まぁのんびりでいいだろう。
人混みの間をはぐれないようにしながら、俺と由比ヶ浜は次のフロアへ向かった。
水族園の中は俺達と同じく夏休み最後の思い出作りだろうか、家族連れが多く混んでいた。
すぐ隣にディスティニーリゾートがあるのだが、臨海公園もなかなかの客の入りだろう。
薄暗い空間に照らされる水槽はどれも人だかりができており、基本的に客が大人しいことを除けば特売日のスーパー並みに前に出るのは難しそうだ。
したがって俺と由比ヶ浜は少し離れた場所から見るしかない。
しかし小さな魚以外は割と普通に見えるので特に不満はなく、俺達は十分に楽しんでいた。
「ナーサリーフィッシュ?」
「…ん?」
唯一人の少ない水槽の前で由比ヶ浜が足を止めた。
暗くて地味な水槽の中でマイペースにふらふらするそいつは確かに子供が喜びそうな顔や動きはしていない。すぐに飽きて次へ行くか素通りするかどちらかなのだろう。
顔がなかなか気持ち悪いので仕方ないといえば仕方ない。
お前は悪くない、精一杯生きてるんだもんな。こんなとこに配置した飼育員が悪い。
この混雑の中圧倒的に不人気なナーサリーフィッシュだが当の本人が呑気に浮遊しているようだし、そっとしといてやろう。
その後通った水槽はだいたいどれも人だかりが出来ていた。もう少しナーサリーフィッシュ見てやれよ…
薄暗い空間を通り抜けると、魚に触れることができるコーナーに着いた。
さっきまでと違い行列が出来ている。魚の世界のカーストもなかなか残酷だ。
「ヒッキー、エイだよ、エイ!」
「お、おう…エイそんな好きなの?」
いやまぁ、エイをピンポイントで嫌いになりはしないけど。エイとカレイの違いがわからないくらいには好きと言ってもいいけど。あれ?ヒラメってどんなフォルムだったかしら?
「ほらヒッキーも触ってみて!超ヌルってするから!」
「ええ…それ聞いて触りたくないんだけど…」
「いいからいいから!えいっ!」
由比ヶ浜は渋る俺の手首を掴むとそのまま水槽に突っ込んだ。水の冷たさとエイのヌルヌルとした手触りが指に伝わる。
えいじゃねえよ。…エイだけにですかね。ウフフフフ。あれ、面白くなかったかな、うん。
しばらくエイの手触りを楽しんだ後、手を洗っているときゅーと鳴き声が聞こえた。
「ペンギンだっ!ヒッキー、行こっ!」
言うやいなや由比ヶ浜は俺の手をとって鳴き声のした方へ歩き始めた。
揺れるお団子が、弾けるような笑顔が窺える横顔が、言葉にせずとも由比ヶ浜の感情を俺に伝えてくれている。
俺はふと笑みをこぼして、夏の暑さも忘れてずんずん進む由比ヶ浜に続いた。
岩山ではペンギン達がプールに飛び込んだりすいすい泳いだりしていた。
数十分に一回ほど飼育員の解説付きでのイベントがあるようだがエイと触れ合っているうちに終わったらしく、今は特に何もない。
とはいえペンギンは人気が高く、多くの客が「可愛いー!」と見つめている。
実際ペンギンはただ歩いているだけで可愛いので俺も何枚かスマホで写真を撮ることにした。
ペンギンゾーンには半地下へと続く階段があり、そちらに解説のボードもあるらしい。
下からは泳ぐペンギンを見つめる客達の声が聞こえており、写真撮影もそこそこに俺達も下りてみることにした。
「わぁ、可愛いー!」
「…おお、超可愛い…」
さすがは水族園のスターである。超可愛い。
人間が泳いでも可愛くもなんともないもんなぁ…
当然ここでも俺は携帯のカメラを起動した。
横からのペンギンを堪能して半地下から上がる階段を進む。
そこにはペンギンが岩山に集まっており、気だるそうにも見える表情を浮かべている。
そちらも可愛いのだが、由比ヶ浜は少し離れた場所の寄り添うように立つ二羽のペンギンをじっと見つめていた。
解説ボードによると二羽で寄り添っているペンギンは夫婦で、どちらかが死んでしまわない限り、同じパートナーと連れ添い続けるのだという。
それを読むと、俺も二羽のペンギンから目が離せなくなる。
「………」
「………」
隣を見ると、由比ヶ浜はまだペンギンをじっと見つめていた。優しい眼差しに微笑を湛えている。
俺はもう一度ペンギンに視線を向け、由比ヶ浜との距離を少しだけ詰めた。
由比ヶ浜は何も言わないまま、同じように少しだけ俺に寄る。互いの肩が触れ、混雑の中でも呼吸の音が聞こえた。
おそらく今、安易な言葉に意味はない。互いが詰めた距離、それがお互いの感情を代弁しているような、そんな気がした。
「……行こっか」
「…ああ」
詰めた距離はそのままに、俺達はペンギンゾーンを後にした。当然そんな距離感で歩けば互いの手がぶつかる。
建物に入るまでの数秒、お互いの手を探るように動かした後、俺の左手は由比ヶ浜の右手をしっかりと掴んだ。
背後からは二羽のペンギンの鳴き声が少し楽しげに聞こえていた。
最大の目玉であるペンギンゾーンを抜けると、さっきまでと違い明るいゾーンに海藻の水槽が見える。
大きなケルプにイソギンチャクなども見えるが、こちらは見物客はまばらだった。
まぁペンギンの後だから地味に見えるのも仕方あるまい。水槽の中では無数の魚の群れや派手な赤い魚が泳いでいるが、子供の興味はひかないらしい。
けれど今は人が少ない空間が有り難かった。
繋がれた手は離される気配も、そのつもりもなく、しばらくはこのままでいたかった。
先に見えるクラゲのゾーンからは多くの声が聞こえており、混雑が予想される。
ケルプを見ているのか、魚を見ているのか自分でもわからない。ただ由比ヶ浜と手を繋いでしばらくその場に立ち尽くしていた。
再び混んでいるフロアでは円柱形の水槽が並んでいる。
クラゲがふわふわと浮かんでいるようだが、水槽の前にはさほど人はいない。
このゾーンを抜ければレストランやショップがあり、ここが混んでいるのはそのせいだろう。
俺達はとりあえずクラゲを見ることにして、ライトアップされた水槽を覗き込んだ。
「ヒッキー、あれとかなんか花火みたいだね…」
少し離れた場所を指差しながら由比ヶ浜が俺を振り向く。
言われてみると花火に見えないこともないそのクラゲは、身体を畳んでは広げ、また畳んでは広げた。
花火、か。
たった3週間前の出来事だ、忘れるはずもない。
花火に照らされる由比ヶ浜の顔も、その帰り道も、鮮明に覚えている。
知らず、握る手に力が入った。
由比ヶ浜は一瞬驚いたような顔を見せたが、くすりと笑うと自らも握る手に力を入れる。
「えへへ…」
「……」
飛び交う子供の大声も、職員のアナウンスもどこか遠くから聞こえるように感じる。
依然として身体を畳んでは広げるだけのクラゲの水槽の前で、握る手の感触だけが俺の身体に確かに残った。
順路に沿って進むとレストランとショップのあるフロアに出る。どちらもたいへんな混みようで、この中に入っていくのは気が引けた。
左手に折れると自動ドアが見える。どうやらここで終わりらしい。
「ゴール!」
由比ヶ浜が元気いっぱいに両手をあげる。やめて?手繋がってるから俺の手も上がっちゃうから。すごく恥ずかしいから。
「どうする?もう一周しちゃおっか!」
「してもいいけどちょっと休もうぜ…」
とは言うものの、辺りを見ても休めるような場所は無い。
レストランもベンチも埋まっており、とても座って休憩できるような状況ではなかった。
「うーん…どっかないかな…」
言いながら由比ヶ浜はくるりと周囲を見渡す。俺も案内ボードに目をやるが、あいにく付近に休憩スペースなどはなさそうだ。
困っていると、由比ヶ浜が俺の袖をくいくいと引っ張った。
「ヒッキー、あれあれ!」
由比ヶ浜が指差した先には、大観覧車がゆっくりと回っていた。
ここの観覧車には小さい頃乗ったくらいで、高さがどのくらいかなどは覚えていなかった。
チケットを見ると直径111m、全高117mとある。それがどのくらいの高さなのかはわからないが、とりあえず高い、そして怖い。
全高いくらなんて言われても高層ビル何階の高さなんて言われてもまるでわからないが、いざ真下に立つとその大きさに驚かされる。
べ、別にビビってなんかないんだからねっ!
数分並んだ後に観覧車に乗り込む。
そして怖くなる。
小さい頃の記憶など当てにならないもので、こんな頼りない設計だったかしらとキョロキョロ室内を見渡してしまう。
少しずつ、ゆっくりと高度を上げていくというのは真綿で首を絞められるような気分だ。
「怖ぇ…」
小声の呟きが漏れてしまう。
聞かれていなければラッキーだと思っていたが残念ながら由比ヶ浜には聞こえてしまったようで、ガチで心配する表情をされてしまった。
ふえぇ…恥ずかしいよぉ…呟くならTwitterで呟けばよかったよぉ…
「ひ、ヒッキーだいじょぶ?」
「あ、ああ大丈夫だ。久しぶりだからちょっとアレなだけだ」
「うーん……こ、こうしたら平気、かな…」
顔を赤くした由比ヶ浜は立ち上がると俺の隣に座り、手を繋いだ。
いや、あの、なに?それは違う意味で平気じゃないです。
「まぁ、その、なんだ。平気だ」
「…そっか」
高度に慣れてくると、景色の楽しむ余裕が出てくる。
今日は天気が良いこともあり、レインボーブリッジやスカイツリーといった名所がよく見えた。
そして少し離れたところにディスティニーランド。昼間でも十分に絶景と言えるが、夜景もまた綺麗なのだろう。
「ディスティニーランド…」
ぽつりと由比ヶ浜が呟く。思わず漏れたであろうその声にはどこか期待の色が感じられた。
「…まぁ、この時期は暑いからアレだが」
「…へ?」
「……冬、行くか」
「……うんっ!行く!」
すぐ近くにある由比ヶ浜の顔がぱあっと明るくなる。俺としても悪い気はしなく、俺の肩にそのまま頭を預ける由比ヶ浜を黙って受け入れた。
足下は不安でぐらぐらと揺れている。けれど、手はしっかりと繋がれていた。
徐々に、観覧車は高度を下げていく。
同じところをぐるぐると回るこの場所に来ることはいつでもできる。
俺は、俺達は前に進まなければならない。
だから、やがて。
「…降りよっか」
「そうだな。…また来るか」
「うん!」
多少の寂しさはあったが、俺達は観覧車を後にした。
観覧車を降り、公園内を進む。
相変わらず混んでいる公園内では家族連れもカップルもそれぞれの時間を過ごしていた。
しばらく進むと大きな通りに出る。左手には駅が、右手には海辺と、ガラス張りの建物が見える。
時間にはまだ余裕があり、右に曲がった俺達はそのまま進みテラスになっている部分に出た。
東京湾を眺めることができる場所だが、暑いせいかここはさほど人がいない。カップルが数組いる程度だ。
雲ひとつない青空に、海が静かに揺れていた。
太陽はまだまだ高く、日差しが若干きついが、なかなか良い景色だ。
「あのー、すいません」
しばらく目の前の景色を楽しんでいると、1組のカップルが携帯を片手に声をかけてきた。
おそらく写真撮影だろう。
「…はい?」
「写真、撮ってもらっていいですか?」
「あ、はい」
返事をして携帯を受け取るとカップルから距離を取る。
逆光に気をつけながら、幸せそうな顔を浮かべる2人を画面に収めた。
「ありがとうございます!」
「いえ…じゃ」
「あ、そうだ!」
携帯を返し、由比ヶ浜の所に戻ろうとした俺を女性の方が呼び止めた。
「良かったら写真撮りましょうか?」
言いながら片手を前に出した。携帯を渡したら撮ってくれると言うのだろう。
確認をしようと後ろを振り向くとそこに由比ヶ浜の姿は無く、再度振り向くと既に携帯を渡し終えた後だった。やだ早い、ガハマさんてば超早い!
「…おい」
「ま、まあまあ!せっかくだし撮ろうよ!」
「いや、撮るのはいいんだけど…」
うん、まぁいいか…
とりあえずさっきカップルが立っていた場所に由比ヶ浜と並ぶ。
「もっと寄ってー!」
携帯を構えた女性が片手で主に俺に対して寄れのジェスチャーを送る。
ええ…結構寄ってるんだけど…
しかしジェスチャーが止まらないところを見ると寄るまで終わりそうにない。俺は半歩ほど由比ヶ浜に寄った。
「まだ寄ってー!」
まだ寄ってーじゃありません。もう肩とか普通に当たってるじゃないですか。八幡くんは割といっぱいいっぱいです。
「ヒッキー、もっとこっち」
「いや、十分寄ってるだろ…」
「手繋ぐのは出来たじゃん!」
「ばっかお前、カメラ構えた人の前でやるのはまた別の問題でだな…」
ごねる俺に由比ヶ浜はふくれっつらを一瞬見せた。
次の瞬間、右に立つ俺の左腕に両手で抱きつき、頭を俺の胸あたりに置く。
「オッケー!はい、チーズ!」
「いやオッケーって…」
驚く俺をよそにシャッターは切られ、俺以外の3人は大成功とばかりに笑顔を浮かべた。
あ、彼氏の人いたんだ…
「はい、携帯」
「ありがとうございまーす!」
携帯を受け取り、写真を確認した由比ヶ浜は満足げな顔をした。
「ほらヒッキー、いい写真だよ!」
どれどれと確認してみると、驚く俺と幸せそうな笑顔の由比ヶ浜が写っている。
…まぁ、由比ヶ浜がこんな顔をしてるなら俺があれこれ言うこともないか。
ごく普通の男女の写真がそこにはあり、ごく普通であることが俺を安堵させた。
ひとつ息を吐いてテラスの柵に手を置く。
妙に疲れた気もするがまぁいいだろう。
「とりあえず動くか、ここ暑いし」
「ん、そだね。涼しいとこ行こっか」
振り返ると駅が見える。下に下りれば海辺に行けるのだが、暑いしできれば行きたくない。
小腹も空いてきたところで俺達は駅の方へと歩くことにした。
駅前の噴水広場まで歩き、ミスト状の水を軽く浴びる。
多少体を冷やしてから辺りを見てみたものの、実は葛西臨海公園の周りにはレストランなどはあまりない。水族園内のレストランやショップ、駅近くの蕎麦屋、後はハンバーガーショップ程度しかなく、そのどれもが今は混雑していた。
「うーん、どうしよっか?まだ時間あるし…」
腕時計を見ながら由比ヶ浜が呟く。
実際帰るにはまだ早い時間だった。
「まぁ昼は適当に買って済ますか」
「そだね。じゃあ戻ろっか」
俺達はまた来た道を戻り、遠くにクリスタルビューの見える大通りを進んでいった。
時は過ぎ、少しずつ日が傾き始めていた。
場所によっては閉館する場所もあり、客足は昼間に比べてまばらになっている。
すぐ隣の駅近くがディスティニーということもあり、アフター5はそちらに行く客も多いのだろう。
俺と由比ヶ浜は腹を満たした後、ショップを見て回った後水族園の中をもう一周した。
サメやペンギンを散々愛でた後出てくるとちょうど空の色が変わり始めたころだったというわけだ。
多少気温が下がっていることもあり、さっきまでのような暑さは感じない。
臨海公園と海浜公園を結ぶ橋は既に閉門し、クリスタルビューも閉館されている。
そのためか、テラスには誰もおらず、さっきまでの賑わいとうってかわってどこか寂しげに見えた。
「あー楽しかった!」
「そうだな」
由比ヶ浜はぐっと背伸びをするとベンチに腰掛けた。
俺もまたひと息吐くと由比ヶ浜の隣に座る。
東京湾は陽の光が反射して色を変えており、それは夏の終わりを告げているようでもあった。
太陽が沈んで行く様子を見ることなど普段しないせいか、俺も由比ヶ浜もその光景から目を離さない。
既に周囲に人の影はなく。
かといって言葉を交わすわけでもない。
しばらく、ベンチに腰掛けてぼんやりと海を眺めた。
「…夏休み、終わっちゃうね」
どのくらい経った頃だろうか、由比ヶ浜が小さな声を出した。
「ああ。まぁ、学校同じなんだからそこまで寂しがることもないだろ」
「そうだけど…今年の夏はいろんなことがあったからさ…」
おそらく同じ日のことを思い出しているのだろう。
間違いなく人生を大きく変えた日。
夏の終わりに訪れる寂寥感をさらに大きくする要因として十分過ぎるくらいだ。
何か言おうと口を開いたが、適切な言葉がわからずにすぐに閉じる。
代わりに、ベンチに置かれていた由比ヶ浜の手の甲に、そっと左手を重ねた。
これから訪れる秋も、それから先の季節も一緒にいられるようにと祈りながら。
「ヒッキー…」
「由比ヶ浜。俺は……お前が好きだ」
考えるよりも先に、口が動いていた。
その言葉に、音に偽りは何1つ無く、まぎれもない俺の本物の気持ち。
「…うん、あたしもヒッキーが好き」
まっすぐに俺を見つめる由比ヶ浜の視線もまた同様だった。
照れくさくて視線を逸らしたくなるが、それは違うとなんとか踏みとどまる。
「う…そ、そうか…」
「うん、そうだ」
にこっと笑う由比ヶ浜。
重ねた手が向きを変え、互いの指が絡まる。
「…ゆ、結衣」
「…は、はち…八幡」
つっかえながらも互いの名を呼ぶ。
由比ヶ浜が俺に少し近寄り、そっと瞳を閉じた。
長い睫毛が、赤い頬が、小ぶりな唇が、目の前にある。
俺は短い呼吸で必死に自分を落ち着かせ、由比ヶ浜の唇にそっと唇を重ねた。
「………」
「………」
おそらく、時間にしてほんの数秒。10秒にも満たないだろう。
そのほんの数秒は、俺の心にたしかな温もりを残した。
唇を離すと、由比ヶ浜は優しく俺を抱きしめる。
男とは違う、柔らかな女の子の、由比ヶ浜の温もりが身体全体に広がった。
俺はおっかなびっくりという調子ではあるがなんとか腕を由比ヶ浜の背中に回す。
力が強すぎても弱すぎてもいけないような、ともすれば壊れてしまいそうなほどに小さなその身体が、どうしようもなく愛おしい。
「えへへ…ヒッキー…」
耳のすぐ横から由比ヶ浜の声が聞こえる。
彼女だけの呼び方で俺を呼ぶその声は優しくて、照れくさくて、けれどずっとこうしていたいと俺に思わせる不思議な響きだった。
何か言わなければと思うが、こんな時のセリフなど知らない。知っていたとしても適当な言葉を言うのは憚られる。
だから、伸ばした腕に少しだけ、ほんの少しだけ力を加えた。
いつまでもこうしているわけにはいかない。そんなことは百も承知だ。
夏休みは終わるしこれから先受験のことも考えなければならない。というか普通に家に帰らなければならない。
けれど、今だけ。せめて、今日のあともう少しの間だけはこの温かさに包まれていたいと、そう思った。
太陽は間も無く沈む。目を開ければ辺りは暗くなっていて、観覧車には灯りが点いていた。
あと少し経ったらまた駅へと歩こう。
夏の終わりには不思議な寂寥感がある。
気温が下がること、夏にはイベントが多いこと、家族で出かける機会が多いこと、理由は様々だろう。
そしてきっと思い出が多いほど、心に残れば残るほどそれは強くなるのだと思う。
そういう意味では、確かに俺もなんとも言えない寂しさを感じる。
この夏はもう帰ってはこない。
けれど、秋が来て冬が来て、春を迎えて。
その時隣に由比ヶ浜がいてくれれば、また新しい思い出が出来ていくだろう。
しかしこの夏が色褪せることは無い。あの日の帰り道も、今日も。
だから大丈夫だと、自分に言い聞かせつつ。
「…そろそろ行くか」
「…うん」
海へと沈む夕陽に代わりイルミネーションが夜空に映える。
俺達は互いの身体から腕を離し、手を繋ぎ直して振り返った。
遠くに駅の灯りが見え、そちらに続く大通りをぼんやりと照らす。
左手にはライトアップされた観覧車が俺達を見下ろしている。
俺は由比ヶ浜と一度視線を交わした後、ゆっくりと駅へと歩きはじめた。
一瞬由比ヶ浜の横顔を見て、軽く天を仰ぐ。
歩を進める2人の背中を優しく押すかのように、どこか遠くからきゅー、と幸せそうな鳴き声が聞こえた気がした。