「箒……」
「悠斗……」
夕暮れが射す屋上で二人は再会した。丸一日、たった一日の時間だったが、お互いとても長い時間を過ごしていた気がする。
「あー……お邪魔虫は退散するからちょっと待っててくれ」
「一夏」
「……もう間違えんなよ」
「……ああ」
最後にそれだけ言うと屋上という舞台から姿を消した。残るのは悠斗と箒の二人のみ。
二人の間に静けさだけが残る。この一週間でまず見なかった光景だろう。少しだけ二人の距離が離れてしまった証拠なのかもしれない。
「治ったばかりなのに、またボロボロになったな……」
「うっ……」
歩み寄って来たのは箒からだった。一夏に殴られて少し腫れている頬を優しく撫でる。
別に咎めるように言われている訳ではないのに気まずそうに顔を歪めた。あれだけ心配させた矢先の出来事だ。また泣かせてしまうんじゃないかと思うのも無理もない。
「あの、その、ご、ごめん……」
咄嗟に出た言葉も酷く簡単なものだった。それしか思い付かなかったのだ。だがこの短い言葉に込められた思いは計り知れないものがある。
それを感じ取ったのか、箒は柔らかく微笑むと意地悪く問い掛けた。
「本当にそう思っているのか?」
「お、思ってる! ごめんなさい! すいませんでした! 俺が悪かったです! 許してください!」
「ふふっ、そんなに謝らなくてもいい」
必死になってぺこぺこと何度も頭を下げる姿に箒は昔の、離ればなれになる前の頃を思い出した。日溜まりの中にいたように暖かったあの頃を。
と、謝るのもそこそこに悠斗が真面目な顔で切り出した。
「箒。俺、さ……馬鹿だった」
「……それは知ってるが、今度はなんだ?」
「自分から約束した事を間違えてたんだ。好きな子とした約束を」
先程一夏に言われて漸く気付いた間違い。それを懺悔するかのように話し出した。
「正直、箒の側に行くためだったら俺なんかどうなったって良いって思ってた」
「ああ」
「毎回死にかけてぶっ倒れても、しょうがない事だって思ってたんだ」
「……ああ」
悠斗の瞳は真っ直ぐ箒を見つめている。悲しい事に本当の事らしい。事実、昨日の段階ではこれからも無茶をする気でいたからそうなのだろう。箒の胸が苦しくなる。
「でも、違ったんだ」
「何が、だ?」
「大事なのは……約束したのは側に行く事じゃなくて、その後の一緒にいる事だったんだ。そのためには箒は勿論、俺も大事にしなくちゃいけないってさっき気付かされたよ」
「悠斗……!」
「俺も、お前と一緒の未来に生きていたい」
苦しくなっていた胸が少しだけ軽くなる。嘘は吐いていない。本気でそう思ってくれているのだ。
この先も一緒にいるために、側にいるために箒だけじゃなく、自分も大切にすると言っている。そんな当たり前の事が嬉しかった。
「もう、無茶はしないのか……?」
「お前を泣かせるような事は二度としない」
未だ不安そうにしている箒に優しく語りかける悠斗。二度目の誓いは決して間違えたりはしない。先程から一切外したりしない視線がそう告げていた。
その目を見据えて、今度は箒が口を開く。
「……悠斗」
「何だ?」
「私はお前のために何をしてあげられる?」
楯無から聞いた五年間。どれだけの苦労があったかは、聞いただけでは全てを把握はしきれない。ただ、それでもどれだけ自分を想ってくれていたかは伝わった。
思えば箒は助けてもらってばかりだったのだ。愛情を与えられてばかりだったのだ。だから今度は自分からも与えられるようになりたい。
「何って……」
「悠斗の事だ、共に戦うのは許さないだろう?」
「当たり前だ」
はっきりと言い切る。守ると誓ったのだから、守る対象と共に戦うなんて悠斗が許さない。他は知らないが、悠斗にとってはそれが当たり前なのだ。そこは譲れない。
「でも何かしてあげたいんだ。悠斗のために私も」
「何かって、なぁ……」
そう言う箒の決意も固い。困った事にこの二人はお互い頑固だった。このままでは平行線、二人の話は交わらないのではないかと思っていたその時。ふと、悠斗の言葉を思い出したのだ。
「悠斗、決めたぞ」
「何だ?」
「私も守るんだ。お前のために」
「ぅん? 何を守るんだ?」
首を傾げたままの悠斗が問い掛ける。待っていたとばかりに浮かべる笑みは思わず見惚れる程綺麗なものだった。
「悠斗が帰ってくる場所を、だ」
「帰ってくる場所?」
「そうだ。私のために頑張って、戦って、そうして疲れてる悠斗が休む場所を私が守る」
守る、というよりは作るというのが正しいのかもしれない。一緒に戦えない代わりにせめて安らげる場所を。他の誰でもない、悠斗のために。
「……ああ、それはきっと箒にしか出来ない事だから頼むよ」
「うむ、任せておけ」
お互い微笑む。そのまま終わればいいが、二人とも言わなければならない事がある。
「……悠斗の気持ちも知らず、一緒にいたくないと言ってしまった」
「……俺は箒との約束を間違えていた」
「拒絶してしまった」
「泣かせた」
お互い苦い顔をした。過程はどうであれ、結果として相手を傷付けたのだ。
『でも』
「それでもやっぱり悠斗の側にいたい」
「俺もだ。箒の側にいたい。これからも、この先もずっと」
揃ったのは声だけではなかった。二人が示した答えも。自然と笑みが溢れて、どちらからともなく顔が近付き、唇が触れる。一日振りのキスだった。
「……血の味がする」
「口ん中切れてるの忘れてた……」
「全く……」
何とも締まらない。でもそれで良いのかもしれないと箒は思った。格好良いのもいいが、抜けているのもまた愛しく思える。これが、自分が愛した男なのだと。
久しぶりの悠斗の腕の中はやはり心地良い。感じていた寂しさなんてあっさり消えていく。こうなったのも――――
「……悠斗、頼みがあるんだ」
「おお? 何だ?」
「その、――――」
「……良かったわね」
夕暮れの屋上で仲直りの証として、二人が口付けを交わすのを影から見ていた楯無。その心は複雑なものだった。発した言葉のように素直に喜べないでいる。
「最初から勝ち目なんてなかったもの……」
誰に言う訳でもなく、一人ぽつりと呟く。
自分が好きになった悠斗という男はひたすらに箒にしか目が行ってなく、他人からの好意なんて気付かない。一途と言ってもいいだろう。楯無の好意になんて見向きもしない。
「はぁ、せめて同じくらいの時期に会ってたらなぁ」
出会った日が、スタート位置が同じだったのなら。そう思わなかった日なんてなかった。そうしたら悠斗はどちらを好きになっていただろうか。箒か、それとも楯無か。
「無理、なのよね……」
だが楯無は気付いてしまった。矛盾とも言えるこの想いに。そう、勝ち目なんて最初からなかったのだ、と。
「潮時ね……」
もう二人は大丈夫だろう。二度と進む道を間違えたりしないし、拒絶する事もない。手を取り合って二人でこれからの困難を越えていくのだろう。とすれば、先程一夏が言ったようにお邪魔虫は退散するのみ。
「さ、帰って支度しなくちゃ」
明るい声とは裏腹に重い足取りで前へと進み、階段を下りていく。これ以上あそこにいるのも辛かったのだ。好きな人が自分ではない女性を抱き締めて、キスを見るのなんて辛くないはずがなかった。
「あ、会長。お疲れ様ですー」
「えっ。あ、うん。お疲れ様」
道中、出会った楯無を慕う生徒に声を掛けられると平静を装って言葉を交わす。誰にも気付かれないでいれたのはさすがだと言えよう。
部屋に戻った楯無はこの一週間過ごした部屋を去るべく、持ってきた荷物を片付けていく。もうここにいても意味がない。自分の初恋は儚くも終わったのだ。
「うっ……あっ、うぅ……!」
早く片付けなければならないのに楯無の手が思うように動かなかった。次々と溢れる涙を拭いながら必死に手を動かす。いつあの二人が戻って来るかも分からないのだ。平然と振る舞わなければならない。笑顔で別れるためにも。
「ただい……楯無?」
「楯無さん……」
「お、お帰り……っ」
一通り楯無の荷物が片付け終わった頃、この部屋の本来の主である二人が帰ってきた。その手は仲睦まじく繋がれている。羨ましかった。でもそう思うのも終わらせなければならない。
「ん……?」
部屋の様子が変わった事に気付いたのか、しきりに辺りを見渡す悠斗。対象的に箒は少しだけ表情を暗くさせて楯無を見ていた。
「どうしたんだ? 荷物なんかまとめて」
「お試し期間は終わりって事」
「お試し期間……?」
「そっ。まぁ、私が元の自分の部屋に戻るだけなんだけどね」
「は……?」
顔を隠すように拡げられた扇子には『お別れ』と何処か寂しく書かれていた。
理解しきれていないのか、悠斗は間抜けな声を出すと未だ顔を隠したままの楯無に向かって呆けたように話しかける。
「何で、だよ……?」
「元々私が無理言って住んでたのよ? 本来二人部屋だしね。私がいなくなるからってハメ外し過ぎちゃダメよ?」
「だからってこんな急に……!」
確かに二人部屋に三人で住むというのも、突然楯無がやって来たのも無理矢理だったのかもしれない。
だがそうだとしてもこれまで一緒に暮らしてきたのだ。ましてや箒と仲直りする切っ掛けとなった楯無を追い出すような真似なんてしたくなかった。
「いいじゃない、これで思う存分箒ちゃんとイチャイチャ出来るのよ? 喜びなさいな」
「……お前、何隠してるんだ?」
隠してるとは扇子の先にある顔の事ではない。悠斗が指したのは心の事だ。その事が分かり、楯無の心臓が跳ね上がるも直ぐにいつもの状態へ。
「何の事かしら? 私は何も隠してなんか――――」
「だったら!」
「あっ……!」
「やっぱりだ。お前、何でそんな無理してんだよ」
「っ」
ずんずんと近付いてきた悠斗に手を取られると楯無の隠されていた顔が露になる。
予想通りというべきか、普段と変わらないはずなのに目の前の男はどれだけ微細な変化であろうと見抜いてしまう。きっと知られたくなかったこの想いさえも。
「私は無理なんかしてないわ。何を勘違いしてるの?」
「……楯無、前にも言ったけど俺はお前のその作り笑いが大嫌いだ」
「作ってなんか……」
「箒の言ってたお願いが何となく分かってきた。何を隠してるのか、ちゃんと言え」
言われて静かにしている箒へと視線を向けた。ただ真っ直ぐ楯無を見ている瞳には何が描かれているのか。秘めていた恋心を暴いてまで。
「わ、私は――――」
「楯無さん」
それまで黙っていた箒が口を開いた。ひたすらに誤魔化そうとする楯無を鋭い目付きで睨み付ける。
「あなたの想いはその程度だったんですか?」
「その程度って……!」
「お?」
無茶を言わないで欲しい。もう諦めるしかないのに何をどうしろと言うのか。
箒の言葉は何とも理不尽なものだった。最初から勝っていた者に楯無の気持ちなんて分かるはずがない。沸々と怒りが込み上げてくる。
睨み返す楯無の視線にも負けず、箒は続けた。空気が変わった二人を交互に見る悠斗を置いてきぼりにして。
「何も伝えないままでいいんですか?」
「――――い……」
「う、ぅん?」
「本当の気持ちを誤魔化したままでいいんですか?」
「――――ない……!」
「ただ眺めているだけでいいんですか!?」
「良い訳ないじゃない!!」
「うおっ」
畳み掛けるように言ってくる箒に遂に我慢の限界が来た。悠斗に腕を掴まれたまま吠える楯無。諦めたい訳ではない。だが諦めなくてはならないのだ。そんな事も分からないのに好き放題言われて我慢出来るはずがなかった。
「悠斗くんは無茶するなって言ってるのに無茶するし!」
「えっ、俺?」
「悠斗は黙っていてくれ」
「あ、はい」
まさか矛先が自分だとは思いもよらず、悠斗が場にそぐわない声を出す。そんな声さえ無視しても楯無の怒りは収まらない。
「心配させるなって言ってるのに心配させるし!」
「う、ぐ……」
「箒ちゃんの事しか考えてないから他の人なんてどうでもよく思ってるところもあるし!」
「い、いや、そんな事は……」
「ちょっとえっちで、おっぱい大好きだけど!!」
「ちょ、おま」
何故か恋人の前で性癖まで暴露される始末。だが、それも次の楯無の言葉に霞んでしまった。
「でも、私は箒ちゃんのために一生懸命頑張る悠斗くんが大好きなのよ!!」
秘めて終わらせるはずだった想いを遂に告げた。楯無の矛盾はこれだったのだ。
箒のために頑張る悠斗が好き。つまり箒ありきの好意だったのだ。否定した矢先に気付いた事だった。
「……何ぃぃぃ!!?」
そして悠斗が何故か知っているはずなのに声を上げて驚いている。まるで初めて知るかのようなリアクションだ。嫌な汗が楯無の頬を伝った。
「ほ、箒ちゃんから聞いてたんじゃなかったの!?」
「お、俺が言われたのは楯無の話を聞いて、受け入れてやってくれって事だけだ!」
「受け入れてって……!?」
どういう事なのかと二人とも箒を見ると腕を組んで得意気な顔でしきりに頷いていた。
「これだけ悠斗を想っている楯無さんなら私は良いと思っている」
「そ、それって……」
「悠斗、私と楯無さんと三人で恋人になってくれないか?」
「え、えぇぇぇ!?」
彼女からの堂々たる公認二股宣言は更なる動揺を悠斗に与えた。
というか、よくよく考えてみればあれだけ献身的に支えていてくれていたのだ、何の見返りもないのに。普通に楯無は明け透けな好意を悠斗に向けていたのだ。話の流れから察するに気付かなかったのは悠斗だけなのだろう。
「悠斗くん……」
「わ、分かったから泣くな!」
泣きそうな目で悠斗を見つめる。震える声は不安をこれでもかと教えてくるようで。
慌てたように返事をするのはいつものフェミニスト的なものから来るかと思いきや。
「その、散々泣かせておいてなんだけど……」
「うん……」
「俺は楯無にも泣いて欲しくないんだ……だから泣かないでくれ」
「~~~っ!!」
困ったように頬を掻く。好きかどうかは分からない。でも悠斗にとっては箒と同様、泣いて欲しくない人だった。たった二人の特別。
その事を知っていた楯無は喜びに打ち震えた。好きな人の特別になれていたのだから嬉しくないはずがない。
「ほ、箒ちゃん! き、キス、キスしてもいい!?」
「ええ、勿論ですよ」
「悠斗くん、キスしましょ! 熱烈なやつ!」
「あ、ああ……」
確認するや否や興奮を抑えきれないかのように鼻息を荒くして求める。正直、若干引いてしまっていた。
箒とは何度もキスしていたとは言え、当たり前だが楯無とはこれが初めて。悠斗も緊張しないはずがなかった。
「じゃ、じゃあするぞ」
「うん、来て」
正面から抱き合ったまま、悠斗から顔を近付けていく。何故彼女の目の前でやらなくてはならないのかと一瞬考えるが、今ではどちらも彼女だったと深く考えない事にした。
『ん……』
目を閉じたままでいる楯無の唇に悠斗の唇がそっと押し当てられると声が漏れた。そこまでして、漸く目の前にいる彼女への愛しさを悠斗は実感したのだ。箒に勝るとも劣らない愛情を。
片や楯無は愛しい人からされるキスの心地好さ、愛されている事の実感、そして叶うはずがなかった自らの恋の成就にほろりと涙を流す。勿論、悲しくてではない。その真逆である嬉しさで。
「楯無……うお!?」
「ゆ、悠斗!?」
唇を離した瞬間、悠斗はベッドに押し倒されていた。その上に倒した張本人である楯無が覆い被さる。まさかの自体にけしかけた箒も声を上げて驚いた。
「楯無、んぐぅ!?」
「ぷはっ、悠斗くん、悠斗くん……!」
呼び掛ける声さえ無視して楯無は悠斗の口を自らの口で塞ぐ。一度してしまえば歯止めなんて効くはずがなかった。今まで散々見せつけられて来たのだからその反動は計り知れない。
キスをしながら寝ている悠斗の体にぐいぐいと体を押し付けていく楯無。自慢の大きな胸はその柔らかさを視覚で教えるように潰れ、足も絡ませているが、それでもまだ足りない。ならば――――
「た、楯無さん! 抜け駆けはずるいですよ!!」
良からぬ気配を感じ取った箒も参戦。さすがに悠斗の初めては自分でありたいという思いは譲れなかったようだ。
翌日、辛そうに腰を抑えている悠斗と内股になってぎこちなく歩いている箒と楯無の姿があった。バカップルが増えたと噂になるが間違いではない。