とある幼稚園。子供達が賑わう校庭で、まだ五年程度しか人生を謳歌していない幼い子供が一人、既に腐っていた。
彼の名前は白井悠斗。この物語の主人公である。
「はぁーあ……どうせ、俺なんか……」
「っ!!?」
溜め息と共に彼の体から流れ出るどんよりとした暗黒オーラにたまたま近くを通りがかった園児が驚く。とても五歳児が出していいものではなかったからだ。最早貫禄さえあると言ってもいい。
こうなる切っ掛けはつい先程の事。
悠斗はこの幼稚園以前からの、ほぼ生まれた時からの付き合いである、とある男子とかけっこをしたのだ。
「かけっこだ! 一夏、今日こそは負けないからな!」
「おう! よーし、行くぞー!」
ただの遊びだと思っているであろう男子、織斑一夏は笑顔で受け入れ、悠斗は真剣な表情でゴールを見つめる。
今日の日のために鍛えに鍛えた足腰を披露する絶好の機会。そして今日こそ己の歴史に新たにして、初めての勝利の一ページを記す時。
……のはずだった。
「俺の勝ちー!」
「何でだ……!」
終わってみれば勝ったのは悠斗ではなく、一夏だった。しかもこれまでよりも差をつけられて。
納得いかない悠斗だが、この結果は当然と言えよう。何故なら鍛えに鍛えたと言ったが、実際はただ走り回って遊ぶのを優先してやっていただけ。そして、その横にはこの一夏の姿もあったのだ。
つまり、悠斗と一夏はずっと同じ特訓をしていたのだから差は縮まるはずもない。
更に言うならば、一夏には才能があった。勉強も、運動も、一夏は悠斗よりも優れている。同じ内容の特訓をすれば、才能がある一夏が有利になり、差が開くのは当たり前だった。
「悠斗、今度は何する!?」
「いや、俺はもういいや……」
「そっかぁ……じゃあまた後でな!」
それまで元気だったのが、少し寂しげな表情を見せて一夏は他の皆と遊びに行った。それを黙って見送ると悠斗は一人、隅っこでいじけていた。
「いいよなぁ……あいつは……」
まるで何処かの地獄を見た兄弟のように悠斗は校庭で遊ぶ一夏を見て一人ごちる。他の園児達に混ざってサッカーをしているのだが、そこでも彼は一際輝く活躍を見せている。
凡才である悠斗にとって、非凡である一夏は眩しく、羨ましい存在だった。
「はぁー……」
何度目か分からない溜め息を吐くと悠斗は空を見上げた。彼にとって一夏はどれだけ手を伸ばそうとも届かない、正しく雲の上の存在。
だというのに一夏はいつも悠斗の側にいる。むしろ居ない事の方が珍しいくらいだった。
遠くて近い。その距離が、悠斗が一夏を越えようと諦め切れずにいられた。いっそ突き放してくれればどれだけ楽だろうと思った事もある。だが一夏はそんな事などせずに落ち込む悠斗の側にいて励ましてくれた。
「いや、お前のせいだよ……」
一夏が励ましてくれる度にそう思っていた。だが面と向かって言う事も出来ない。
何故なら一夏には悪意などこれっぽっちもないのだから。純粋な善意でやっているため、それを踏みにじるなんて非道な行為をする気にもならなかった。当然憎むつもりもない。そんなのはお門違いであるし、すればきっと惨めになると彼は分かっていた。
だからせめて一夏の前で落ち込むのはやめて、こうやって人目につかない所でこそこそいじけるようにしているのだが――――。
「お、悠斗じゃん」
「んあ?」
それでも誰かには見つかるもので。俯いていた悠斗が間抜けな声と共に顔を上げるとそこにはそれなりに見知った顔ぶれがいた。ニヤニヤと厭らしい笑みを顔に張り付けて。
「ここにいるって事は今日も負けたみたいだな」
「知ってるぜ! こういう奴の事、負け犬って言うんだ!」
「「「まっけいぬ! まっけいぬ!」」」
「はぁ……またか……」
そう、見知ったというのは良い意味ではない。こうして一夏と勝負して負けると何処からともなくやってきては悠斗に罵倒を浴びせてくる三人。
悠斗が一夏に挑むのは昨日今日に始めた事ではないので正確には覚えていないが、それでも彼らと長い付き合いである事には変わりない。
「お前らも一夏に勝った事ないじゃん」
「「「まっけいぬ! まっけいぬ!」」」
「面倒くさいなぁ……」
勘違いしないで欲しいのは悠斗は決して落ちこぼれではない。だが優等生でもない。あくまで悠斗は普通なだけで、一夏が優れているだけなのだ。
そして目の前で馬鹿にしている三人こそ、実は普通より下の所に位置しているのだが、そこは子供。自分の事は棚に上げて、落ち込んでいる所へ一方的な数の暴力で自分達の意見は正しいと捲し立てる。
相変わらず人の話を聞かない連中に辟易していると三人の内、一人の肩が叩かれた。
「おい」
「まっけ、あ゛」
「「げっ!?」」
その声に、振り向いたその姿に三人は戦慄した。そこには一夏が憤怒の表情で立っていたからだ。
「また、か。何悠斗を苛めてるんだよ……!」
「あ、う……」
言葉を荒げないものの、語気に含まれた明確な怒りに肩を掴まれた一人が何も言えなくなる程怯えきっていた。一度、こっぴどくやられてから完全に一夏に苦手意識を持っているのだ。
「一夏、もういいって。で、どうしたんだ?」
「ん? ああ、やっぱ悠斗も一緒に遊ぼうぜ!」
「あー……分かったよ、ほら行くぞ」
正直な所、悠斗としては一人でいたかったのだが一夏が誘ってくるので諦める事に。こうなるとこちらが了承するまで延々と誘ってくるのは長い付き合いで分かっていたからだ。
それにこれ以上はこの三人が可哀想になってくる。一刻も早く離れてあげる必要があった。
悠斗が話し掛けただけでそれまで憤怒の表情だった一夏が人懐っこい笑みをするようになる。
悠斗が一夏を憎めない理由はここにもあった。彼は自身を無二の親友として接してくる。かげがえのない、大切な友人として。
そんな二人でも喧嘩する事はあるが、それでも少し経てばその日の内には仲直りしていた。
「よーし、悠斗パス!」
「ほらよ!」
「ナイス!」
一夏は悠斗から受け取ったパスで華麗にゴールを決めるとあっという間に点差を広げていく。
何だかんだで二人はすこぶる仲が良かった。
それにしても今回の悠斗の精神的ダメージは大きかった。家に帰るとソファーでだらしなく横になっているのだから余程である。帰ったら忘れ去っていたいじけゲージが再び急上昇してしまったのだ。
「なぁ悠斗ー、一緒にこれやろうぜー」
「えぇ……やだよ……」
「何で?」
「だって負けるもん……」
「はぁ?」
訳の分からない言い分に一夏は首を傾げていた。今一緒にやろうと言ったのは二人で共闘するゲームだっただけに余計だった。
一夏とは家が隣近所というのと一夏の両親は共働きで帰るのが遅いため、一夏の姉である千冬が来るまで悠斗の家で預かっている。
「ゆーくん、一夏くんと遊んであげなさい」
「えぇ……だってさぁ……」
「だってじゃないでしょー? 一夏くんが居るんだから遊んであげなさい」
「はーい……」
のんびりと間延びした女性の声が悠斗を優しく叱る。悠斗の母である深雪だ。
とても一児の母とは思えない程に若々しく、美しい。ウェーブの掛かった髪のようにふわふわと穏やかな雰囲気を持っていて、近所でも評判の女性である。
「叔母さん、ありがとう!」
「ちゃんとお礼が言えるなんて一夏くんは偉いわねー。一夏くんの分のハンバーグは奮発しちゃう」
「やった!」
「お、俺のは!?」
「はいはい、ちゃんとゆーくんの分もあるわよー」
「ありがとう、母さん!」
夕食が豪勢になると聞いてどんよりとした悠斗の雰囲気が晴れやかなものに。子供故に非常に単純だった。
まだ多少のダメージは残っていたが、一夏と遊ぶ分には差し支えない程に回復。
「ただいまー」
「お邪魔します」
「千冬姉だ!」
「え、ちょ、ゲーム途中なのに……」
そうして夕食まで二人で遊んでいると玄関の方から扉が開く音に次いで聞こえてくる明るい男性の声と女性の声。
一夏が自身の姉が来たと迎えに走る。この時から既にシスコンの気配が見え隠れしていた。
「千冬姉、お疲れ! 叔父さんもお帰りなさい!」
「ああ、ちゃんと良い子にしてたか?」
「勿論っ」
「父さん、千冬さんもお帰り」
「ただいま悠斗、一夏くん」
「ただいま悠斗」
悠斗の父、快斗は迎えてくれた幼い子供二人の頭を撫でる。子供が好きな彼にとってこの出迎えは喜ばしい事この上ない。
千冬ももう一人の弟と言ってもいい悠斗と一夏の出迎えにいつもの仏頂面が破顔していた。
そこにコンロの火を消した深雪も遅れてやってきた。
「お帰りなさい、あなた。千冬ちゃんもお疲れ様。一夏くんは良い子にしてたわよー」
「いつもお世話になってすみません……」
「気にしなくていいんだよ、千冬ちゃん。子供が困っていたら助けるのが大人なんだから」
「……私はもう子供じゃありません」
「僕からしてみれば充分子供さ」
そういう所もね。そう付け加えて快斗はゆったり微笑む。子供扱いされて少し不機嫌になる千冬だが相変わらず快斗には口で勝てそうになかった。
何せ、千冬がもっと小さい頃からご近所として仲良くしていたのだ。どれだけ大人ぶろうと快斗からしてみれば背伸びしている子供と変わらない。
「さ、ちょうどご飯も出来た事だし、上がって上がって」
「待ってました!」
「千冬姉、今日はハンバーグなんだって!」
「こ、こら! そこまでお世話になるわけには……」
夕食の支度が出来た事に悠斗だけじゃなく一夏までもが喜ぶと、さっきまでの不機嫌な様子が鳴りを潜めて、慌てて千冬が叱りつける。さすがにそこまでお世話になるのは気が引けてしまうのだ。
「いいの、いいの。むしろ二人が食べてくれないと作り過ぎちゃったから困っちゃうのよー」
「そうだよ、千冬ちゃん。それに今から帰ってご飯作ってたら一夏くんが待ちくたびれちゃうよ」
付け加えるなら快斗と深雪の二人は千冬が家事が出来ないのを知っていた。以前、物は試しにと包丁を握らせてみたら、えらく危なっかしい手付きでキャベツを切ろうとしていたので二人して大声を上げて止めたのは記憶に新しい。
「でも、っ」
それでもまだと引き下がろうとしない千冬から大きな腹の虫が鳴った。彼女も剣道部という運動系の部活帰りでお腹が空いてないはずがない訳で。
恥ずかしさで顔を真っ赤にしている彼女に快斗が優しく肩を叩く。
「決まりだね」
「はーい、じゃあ直ぐに用意しますからねー」
「お、お邪魔します……」
こうして白井家で食事を済ませてから家に帰るのが一夏と千冬の生活習慣となりつつあった。
休日、悠斗は快斗に連れてかれて外を歩いていた。目的地は快斗自身もどうやら初めて行く所らしく、しきりに携帯の地図を確認しながら目的地へと。悠斗は何故そこに向かうのかも聞かされていないので余計に分からない。
家から十五分も歩けばそこに辿り着いた。
「……神社?」
「うん。千冬ちゃんが言ってたのはここだね」
快斗は辺りを見渡すと千冬から聞いていた通りの目印が幾つもあった。間違いないと力強く頷くと漸く悠斗に何故ここに来たのかを話す事に。
「悠斗はちょっと精神的に弱いみたいだから何か精神的にも強くなれるのない? って千冬ちゃんに聞いたらここを紹介されたんだ」
「それが神社なの?」
「正確にはここで剣道をやってるらしいんだ。ちょうど悠斗と同い年の子供もいるみたいだしね」
「へー」
「(これはまずいね)」
悠斗の気の抜けた返事に快斗は危機感を覚えた。本来なら弱いと言われたら怒る所なのだろうが、悠斗は既に一つの答えに辿り着いてしまっていた。
上には上がいて、どう頑張ってもしょうがない。それを本能的に理解していた。だから自分が弱いと言われても何とも思わない。今更ながらここまで放置していた事に快斗は後悔していた。
兎に角、悠斗の手を引き、道場まで歩くと開けられていた扉から中の様子が窺える。
そこで悠斗は目にした。
「はっ、はっ、はっ」
「――――」
「む?」
一生懸命に竹刀を振り下ろす少女の姿を。忘れかけていたひたむきにやる事の美しさ。曇りのない、強い意志が込められた眼差しに悠斗は引き込まれていた。
言葉を忘れ、ただただ見惚れていて。瞬きをする時間すら惜しく感じ、もっと目に焼き付けていたい。竹刀を振るのをやめても悠斗は少女を見続けていた。
「すみません、柳韻さんいらっしゃいますか?」
「私がそうですが……ああ、千冬くんが言っていた新しい門下生の話ですかな?」
「はい。この子を……悠斗?」
「……え、あ、う、あの……よろしくお願いしますっ」
そう思い始めた所で自分の父親に現実に戻された。二人の会話を何も聞いていなかった悠斗は勢い良く頭を下げる。
何故か少女に見惚れていた悠斗は今更になってその事に恥ずかしくなり、首筋まで赤く染め上げた。何故見ていたのか、それは今の悠斗には到底分からない。
だが本人にも分からない事情を察した大人二人は目配せ。
「箒、私はこの人と話してくるから素振りを続けていなさい。それが終わったら休んでていい」
「はいっ」
「悠斗もここにいて見学しててね。どんな事をやるのか見た方が早いだろうし」
「う、うん」
大人二人が道場から出ると箒と呼ばれた少女はまた素振りを再開。それをまた眺める悠斗。何度見ても彼が最初に感じた想いは変わらなかった。
暫くすると素振りを終えたのか、箒は悠斗の元へやってきた。
「ここに入門するのか?」
「た、多分」
「そうかっ。門下生は私と千冬さんしかいなかったから嬉しいっ」
「――――」
目の前の少女が微笑むだけで悠斗の心臓はこれでもかと動き出す。突然の事態に何が起きたのか分からず、それを誤魔化すようにして悠斗は必死に口を動かした。
「あの、その、き、君は何で剣道をやってるの?」
「む? うむ、よくぞ聞いてくれた」
悠斗の問いに箒は力強く頷くと持っていた竹刀を掲げて宣言した。
「私は日本一の剣士になるのだ!」
「無理だよ……。君より強い人はいっぱいいる」
真っ直ぐな瞳で竹刀を見つめる箒。本当に日本一になれると信じているのだろう。
だがそれを悠斗の本能の部分が否定する。そんなのは無理だと。なれるはずがない。思うだけなら良かったがつい口にしてしまった。後悔してももう遅い。
怒らせてしまっただろうか。
恐る恐る悠斗が見上げると、彼女は彼の心配をよそに笑っていた。
「怒って、ないの……?」
「その通り、今の私より強い人はいっぱいいるだろうからな。怒るのもおかしいだろう」
「じゃあ何で笑ってるんだ?」
「お前はこの言葉を知らないからそんな事が言えるんだと思ってな」
「この言葉?」
首を傾げている悠斗に箒は目を逸らす事なく、言った。それは彼が心の何処かで望んでいた言葉だったのかもしれない。
「諦めなければ夢は必ず叶うのだ」
「…………それ、何処で覚えたんだ?」
「うむ、テレビで言っていた」
どこぞの勇気を愛する魔王のような発言にがっくりと項垂れる。
しかし、悠斗は思う。自分も諦めなければ、頑張れば、いつか一夏に勝てるのだろうか。分からない。でもこの少女の言葉をこれ以上否定したくなかった。
「そういえば名前を言ってなかったな。私は篠ノ之箒だ」
「俺は白井悠斗だ。よろしく篠ノ之」
「こちらこそよろしく頼むぞ、白井」
こうして少年、白井悠斗は自分の運命を変えてくれる少女、篠ノ之箒と出会った。