バンバンバンバン……!!バンバンバンバン……!!
今日の仕事を終え、就寝に着こうとしていた矢先、上白沢慧音の自宅の玄関の戸が激しく叩かれた。
あまりにも強く叩いてくるので、慧音は何事かと、急ぎ玄関へと向かう。
閂を外し、戸を開けると一人の男が飛び込んできた。
一瞬警戒心を見せる慧音であったが、その男の顔を見た途端ソレは直ぐに霧散する。
「お前……清一郎じゃないか……!」
両膝に両手をついて片を上下させながら激しく呼吸を繰り返す元教え子である清一郎の姿がそこにあったのだ。
どう言うわけか、何故か裸足で
「どうした、そんなに慌てて……何かあったのか!?」
「……っ……っっ…………!!」
慧音の問いに、清一郎は口をパクパクとさせて必死にそれに答えようとする。
しかし、全速力でここまで走ってきたせいか、思うように声が出ないようであった。
「落ち着け!そこに水がめがある。それを飲んで一息つくんだ」
慧音にそう言われ、清一郎はそばにあった水がめに駆け寄って、上に乗っていた柄杓とかめ蓋を取ると、柄杓で中の水をすくってがぶがぶと飲み始めた。
そして、柄杓の水を一気に飲み干すと、荒い息をしながらゆっくりと深呼吸をした。
ある程度落ち着いたのを見た慧音は、再び清一郎に問いかけた。
「それで?一体全体どうしたというんだ……?」
慧音のその言葉に、呼吸を整えながら、それでも一生懸命に清一郎は言葉をひねり出した。
「はあ……はあ……!た、助けてください慧音先生……!妻が……!真澄が……!!――」
「――真澄がバケモノに取り憑かれてしまったんです……!!」
清一郎からもたらされたその知らせに、慧音は驚きを隠せなかった――。
清一郎から一通りの経緯を説明された慧音は、一先ず彼を近所の知り合いの家にしばらく泊めてもらえるよう頼んだ。
何せ慧音は独り身、家はときどき親友の妹紅が泊まりに来るため、決して狭いというわけではないのだが、幾ら元教え子とは言え、女の独り暮らしの家に男を泊めさせるというのは些か抵抗があったのだ。
清一郎をその知り合いの家に預けた後、慧音は日が昇るのを待って様子を見るために真澄の家を訪ねた。
真澄の容態の事は慧音自身も知っていた。以前、何度か彼女の目の前でも、そういった言動を真澄が行ったのも見ていた。
(……まずは会って、話をするべき、だな)
清一郎の話が本当なら事は清一郎と真澄の二人だけの問題では無くなるかもしれない。下手をすれば、近所に住んでいる者たちにも被害が及ぶ可能性があった。
真偽の程を確かめるべく、慧音は真澄の家の玄関戸をノックした――。
戸が開かれ、出迎えた真澄は慧音の顔を見るなり一瞬驚いた顔をするも、直ぐに笑顔を浮かべた。
「まあ、慧音先生?お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ああ真澄、久しぶりだな。お前こそ息災で何よりだ」
玄関先で二言三言、真澄と会話した後、慧音は真澄の家に上げてもらった。
一歩家の中に足を踏み入れた途端、慧音は家の様子が明らかにおかしい事に気付いた。
もう日が出ているというのに、未だ雨戸や障子が硬く閉められており、その薄暗い屋内のあちこちに人の背丈ぐらいはあろう
ろくに掃除をしていないのか薄っすらと埃が舞っており、室内の空気もどことなく重く感じた。
そして清一郎の言ったとおり、どこからか異臭が漂ってくるのを慧音の嗅覚が感じ取った――。
わずかに眉をひそめて慧音は前を歩く真澄に導かれるままに居間へと通される。そしてそこに敷かれた座布団の上に座ると、真澄は慧音の前にお茶を差し出して、自身は慧音の対面へと座った。
「すまない」
「いいえ。遠慮なく、ごゆっくりくつろいでください」
そう言って真澄は慧音に笑いかけた。作り笑いでもなんでもない、
こんな顔ができる者が、心に病を抱え、あまつさえ得体の知れぬ異形と同居生活を送っているということに、慧音は疑問を抱かずにはおれなかった。
だが慧音自身、彼女が病で起こした言動を間近で見ており、昨日駆けつけてきた清一郎の必死な様子から見てしても、それが事実なんだと判断せざるおえなかった。
内心の動揺を抑えるため、慧音は差し出されたお茶を一口飲む。一息ついて落ち着いた所で、慧音は何から話をするべきか思案する。
(……とりあえずは清一郎の事から説明すべきか?あいつも慌ててこの家から逃げてきたと聞くし……)
だがこの家にいる異形を見た恐怖で逃げ出してここには帰って来れないなどと、直球で言える訳がない。
自分でも抵抗はあるが、これも真澄と清一郎の為と割り切り、慧音は嘘を含んだ説明を真澄に語りだした。
「実は清一郎の事なんだが」
「え?あの人、今何処にいるのか知っているのですか!?」
慧音から発せられた「清一郎」という名に、真澄は身を乗り出して食いつく。
その勢いに一瞬面食らった慧音だが続けて口を開いた。
「あ、ああ……。実は急に体の調子が悪くなったみたいでな。今永遠亭で治療中なんだ」
「永遠亭に……?」
言ってしまってから慧音は内心、頭を抱えたくなるほど後悔する。
(何を分かりやすい嘘をついているのだ私は!?)
生来、慧音は嘘をつくのがとても下手だった。いや苦手とも言っていい。実際、以前起こった『折り畳み入道』の一件で射命丸から問いただされた時の事も考えて明らかであった――。
事実、今目の前に座っている真澄も明らかに首を傾げて慧音を怪しんでいる様子である。
それを見た慧音は慌てて口を開く。
「だ、大丈夫だ。清一郎はちょっとした風邪でな。すぐに治って帰ってくるだろう」
「はぁ……ただの風邪、なのですか……?」
「ああ……ちょっとタチの悪いのにかかったのだが、数日すれば退院できると、そこの薬師も言っているから安心しろ」
一つ嘘をつけば、どんどん深みにはまっていく。自分でも下手すぎるな、と肝を冷やしながらも、それでも慧音は嘘をつき続けていかなければならなかった。
だがそんな慧音の思いに反するかのように、真澄の顔からいぶかしむ表情は消えず、それどころかかえって疑惑の面が増しているかのように見えた。
内心冷や冷やする慧音。
だが次の瞬間、彼女から出ていた疑惑の目が霧散する。
「わかりました。慧音先生を信じます。あの人が今何処にいるのか分かっただけでも安心しました。……速いうちにお見舞いに行かないと……」
「ああいや……。その必要はない。ホントに直ぐに退院できるようだからな。お見舞いまで行く必要はないだろう」
「そう、ですか……」
一応、表面上は納得してくれたらしい真澄に慧音は内心ホッとすると同時に、後悔の念にさいなまれた。
元教え子にこれほどまでの嘘をついた事が今まであっただろうか。それも自分を「信じる」と言ってくれた者に対してだ。
次第に鉛のように気分が重くなっていく慧音。いづれこの埋め合わせはしないといけないな、と考え始めた時だった。
唐突に真澄の背後にあった襖がガタガタと揺れ、慧音と真澄は同時に肩を振るわせた。
(何だ……?)
明らかに風で揺れた感じではない襖を凝視し、慧音は真澄に問いかける。
「今のは……?」
「ああ、清太ですよ慧音先生。全くあの子ったら、何か悪戯でもしてるのかしら……?」
「清太、が……?」
いぶかしむ慧音であったが直ぐにハッとする。
清一郎の話では、真澄は肉塊の異形を「清太」だと思い込んでいるという。だとしたら、今しがた襖を揺らしたのが真澄の言う「清太」だと言うのなら……。
そこまで考えた慧音は段々と自分の中から血の気が引いていくのを感じた。
そんな慧音の様子に気付いていないのか、真澄は両手を鳴らし、一転して明るい声で慧音に声をかけた。
「そうだわ慧音先生。実は清太を寺子屋に通わせようと考えてますの。あの子も昨日でもう七歳になりましたから、勉学を身に着けるべきだと思いまして……」
「清太を寺子屋に……?」
ありえない。真澄の言葉に慧音は内心強く否定する。
清太が七歳になる所か、寺子屋に通う事になるなんてもはや絶対にありえない事だ。だって清太は、もう……。
「はい。……あ、そうだ。こう言う事は清太本人にも聞いてもらわなきゃいけませんよね?待っててください、今呼んで来ますので」
そう言って真澄は立ち上がり、背後の襖の前に立った。それを見た慧音は慌てて真澄の背中に「待て」と声をかけようとする。
しかし、それよりも前に真澄はその襖の戸を開け放ってしまっていた――。
この時になって慧音は、自分がまだ清一郎の話を完全に信じきれていなかったことを理解する――。
元教え子だった真澄が得たいの知れない異形を「清太」と呼び、我が子のように愛でているなど、にわかには信じられない事だったからである。
だがこの瞬間、慧音は清一郎の言っていた事が全て本当の事なのだと否が応なく納得せざるおえなくなった。
壁と床一面にぶちまけられた大量の血と汚物、吐き気を催すほどの異臭を放つ部屋の中心に、ソレは佇んでいた――。
青紫色の肉塊の異形――清一郎の言ったとおりの化物がそこに存在していた。
呆然とする慧音とは裏腹に、真澄はその部屋に何の躊躇いもなく入っていく――。
そして異形の前にしゃがむと、優しくそれに語りかけた。
「清太、今慧音先生っていう寺子屋の先生が来ててね。清太を寺子屋に通わせようって話があるの」
――……ア゛ァァーー……
「そう。一杯勉強して一人前の大人になる所。清太と同じ歳の子供たちも一杯いるから、直ぐ友達になれると思うわよ?」
――……ア゛ァァーー……――……ア゛ァァーーァァーー……
鴉の様な奇声を上げて真澄の言葉に答える異形。いや、慧音から見て真澄と異形の会話はまったくと言っていいほどかみ合ってなかった。
清一郎の言うとおり奇声を発する異形に一方的に真澄が語りかけている。
それを理解した時、慧音は肉塊の異形が空洞のような口を異常なほど大きく開けたのを見た。まるで目の前にいる真澄を飲み込もうとしているかのように――。
その光景を見た慧音はすぐさま立ち上がると、汚れるのも構わず部屋に飛び込み、真澄の肩を強く掴んだ。
「っ!?け、慧音先せ――」
「――離れろ」
「え?」
「それから離れろ、今すぐにッ!!」
そう叫んだ慧音はすぐさま真澄と肉塊を引き離しにかかる。
だが真澄は慧音に背中を向けてそれを妨害する。
だが慧音はそれでも肉塊から真澄を引き離そうとするのを止めない。
――……ア゛ァ……――……ア゛ァァァーー……ァァ……!
「止めて下さい慧音先生!清太が怖がってます!!」
「離れるんだッ!!!」
真澄が止めるのも聞かず慧音は肉塊に手を出そうとする。今の慧音には真澄と肉塊を離すこと以外頭には無くなっていたのである。
そんな慧音を一瞬の隙を着いて真澄が突き飛ばす。
「ああっ!?」
血と汚物にまみれた畳の上にベチャリと慧音は悲鳴と共に尻餅をついた。
その隙に真澄は肉塊を抱え部屋を飛び出した。一瞬送れて慧音も追いかける。
そして台所で追いついた所で、慧音は真澄に包丁を突きつけられたのだ。
「真澄!?」
「清太に何をするんですか慧音先生!!先生がこんな事をするなんて思いませんでした!!」
「違う!!聞いてくれ真澄!!」
「出てってください、今すぐ!!ここから!!」
「待て、私の話を――」
「出て行けッ!!!!」
慌てて慧音が説明しようとするも、真澄は聞く耳を持たず、包丁を振り回して慧音を追い立てる。
そしてついには慧音を玄関から外へと追い出し、真澄は慧音を締め出したのだった。
「真澄、聞いてくれ!それは清太じゃない!清太じゃないんだッ!!」
バンバンと戸を叩きながら、必死に玄関越しに慧音は声を上げる。
しかし、何度声を上げても家からは何の返答もなかった――。
「うぅぅ……」
それから少しして、人気の無い路地の民家の陰で、一人膝を抱えてすすり泣く慧音の姿があった――。
元教え子に嘘をついたこともそうだが、その教え子に包丁を突きつけられ、家から追い出された事がよほどショックだったらしい。
誰に気付かれるでもなくシクシクと泣き続ける慧音に、唐突に声がかかった。
「……け、慧音先生?どうしたんですかこんな所で……!?」
「……まったくいい歳した女教師が日の高いうちからこんな所でマジ泣きしてるなんて、ドン引きレベルだぞ?」
「よ、四ツ谷さん、そんな言い方は……」
聞き覚えのある男一人と、少女二人の声に、慧音は泣きはらした顔を上げる。
そこにはやはり、予想通りの三人が立っていた。
大きな赤い唐傘を持ったオッドアイの少女に、黒髪の大人しそうな美少女、そして同じく黒髪で腹巻を巻いた長身の男がそこに立っていた。
慧音が何かを言おうと口を開きかけた瞬間、長身の男が瞬く間に険しい顔を見せる。
「慧音先生……。先生のその服についてるのって、もしかして……血か……?」
真澄に突き飛ばされた時についたスカートの血のりを目の当たりにし、その男――四ツ谷文太郎は重い口調で慧音にそう問いかけた――。
慧音先生視点からの話でした。
四ツ谷文太郎とその一派、本格的に登場です。