あの後、夜が明けるまで清一郎さんが帰ってくるのを待っていたけれど、結局あの人は帰ってくる事はなかった。
一体どうしたというのだろう?
清太の大事な誕生日だったというのに、気合を入れて作った料理が全て冷めてしまった。
突然いなくなってしまった清一郎さんに私は内心苛立ちを感じずには入られなくなっていた。
「お母さん……」
不安げに私を見る清太。その声を聞いて私はハッとする。
どうやら苛立ちが顔に出てしまっていたらしい。
私は一変して笑顔を清太に向ける。
「大丈夫、怒ってないわよ清太。きっとお父さんは急に仕事先に何かあって、それで慌てて出て行ったんだと思うわ。心配しなくてももう直ぐ帰ってくるわよ」
そう私が声をかけると、清太は幾分、安心したような顔を見せた。
しかし日が完全に顔を出した頃になっても清一郎さんが帰ってくる様子は無かった。
そろそろ探しに行ったほうがいいだろうか?と私がそう考え始めた時だった。
コンコンと玄関の戸を叩く音が響いた。
清一郎さんが帰ってきたのだろうか?
はやる気持ちを抑えて私は玄関へと向かう。そしてその戸を開いて来客を視界に納めるも、その人は清一郎さんとは全くの別人であった。
しかし、私と清一郎さんにとっては
「まあ、慧音先生?お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ああ真澄、久しぶりだな。お前こそ息災で何よりだ」
かつて私と清一郎さんが子供の頃に寺子屋で学問を教えてもらっていた教師の上白沢慧音先生であった。
意外な人物の来訪に、私は驚きながらも先生を家へと上げた。
そして居間に敷いた座布団に先生を座らせると、私は先生にお茶を差し出した。
「すまない」
「いいえ。遠慮なく、ごゆっくりくつろいでください」
慧音先生のその言葉に私は笑ってそう答える。
先生はお茶に一口、口をつけるとゆっくりと今日の来訪内容を話し始めた。
「実は清一郎の事なんだが」
「え?あの人、今何処にいるのか知っているのですか!?」
「あ、ああ……。実は急に体の調子が悪くなったみたいでな。今永遠亭で治療中なんだ」
「永遠亭に……?」
それを聞いた私は内心疑問に満ちていた。
昨日帰ってきたばかりの清一郎さんは仕事で疲れているそぶりは見せていたものの、体調を崩している様子は無かったからだ。
長年彼と夫婦でいる私には彼が体調に異常があれば真っ先に気付けるようになっていたのだ。
それなのに彼が永遠亭に入院したということはどういうことだろうか?
しかもそのことを慧音先生がわざわざ言いに来たというのもおかしくはないか?
いぶかしむ私の様子に気付いてか慧音先生は慌てて口を開く。
「だ、大丈夫だ。清一郎はちょっとした風邪でな。すぐに治って帰ってくるだろう」
「はぁ……ただの風邪、なのですか……?」
「ああ……ちょっとタチの悪いのにかかったのだが、数日すれば退院できると、そこの薬師も言っているから安心しろ」
歯切れの悪い慧音先生のその言葉に私はますます不信感を抱かずにはいられなかった。
だが、かつての恩師の言葉なのだからと、一先ず今は信じようと私はそれを受け入れた。
「わかりました。慧音先生を信じます。あの人が今何処にいるのか分かっただけでも安心しました。……速いうちにお見舞いに行かないと……」
「ああいや……。その必要はない。ホントに直ぐに退院できるようだからな。お見舞いまで行く必要はないだろう」
「そう、ですか……」
まるで「お見舞いに行くな」と言いたげな先生のその言葉に私の中で言い知れぬ不安が渦巻き始めていた。
今日の先生は何かおかしい。ハキハキと喋るしっかり者の慧音先生、それが今日に限っては言葉は歯切れが悪く、妙に落ち着きがないという素振りを見せている。
ホントに清一郎さんはただの風邪なのだろうか。ホントに彼は永遠亭で入院しているのか。
考えれば考えるほど不安が膨らんでいく――。
意を決して口を開こうとしたその瞬間、私の背後にあった襖の戸がガタガタと揺れた。
突然の事に私と慧音先生はビクリと肩を震わせる。
「今のは……?」
「ああ、清太ですよ慧音先生。全くあの子ったら、何か悪戯でもしてるのかしら……?」
「清太、が……?」
いぶかしむ慧音先生に私は「ええ」と頷く。
そして今が好機とばかりに、このおかしな空気を一先ず変えようと私は両手を鳴らす。
「そうだわ慧音先生。実は清太を寺子屋に通わせようと考えてますの。あの子も昨日でもう七歳になりましたから、勉学を身に着けるべきだと思いまして……」
「清太を寺子屋に……?」
「はい。……あ、そうだ。こう言う事は清太本人にも聞いてもらわなきゃいけませんよね?待っててください、今呼んで来ますので」
そう言って私は立ち上がると、隣の部屋の襖を開け、そこにいた清太に話しかけた。
「清太、今慧音先生っていう寺子屋の先生が来ててね。清太を寺子屋に通わせようって話があるの」
「寺子屋?」
「そう。一杯勉強して一人前の大人になる所。清太と同じ歳の子供たちも一杯いるから、直ぐ友達になれると思うわよ?」
「ホント?」
私の話を聞いた清太の顔がパッと明るくなる。そんな清太を私は微笑ましく思いながら続けて口を開く。
「ええそうよ。だから一緒に慧音先生の話を聞き――」
そこまで言った瞬間だった。私の肩を何者かがガバッと強く掴んできたのだ。
「っ!?」
何事かと私は振り向き――そして次の瞬間には全身を凍りつかせた。
慧音先生がいた。
しかし先程までとは違い、今の慧音先生は明らかに様子が一変していた。
その顔は感情が抜け落ちたかのような無表情で、両目だけがコレでもかというほど見開かれていたのだ。
「け、慧音先せ――」
「――離れろ」
「え?」
「それから離れろ、今すぐにッ!!」
そう叫んだ慧音先生は私の腕の中にいる清太と私を無理矢理引き離そうと手を掛けてくる。
私は反射的に清太をかばうように、抱きしめながら先生に背中を向けて清太を守る。
それでも先生は私から清太を引き離そうとするのを止めない。
突然の事態に腕の中の清太も泣きじゃくり始める。
「うわぁん!!お母さん、怖いよぉぉ!!!」
「止めて下さい慧音先生!清太が怖がってます!!」
「離れるんだッ!!!」
私たちを引き離そうとする先生から、私は必死に清太をかばう。
一瞬の隙を突いて私は先生を突き飛ばし、清太を抱えて台所に走る。
そこに置いてあった包丁を掴むと私は一息置いて追ってきた慧音先生にそれを突きつけた。
包丁を突きつけられ、先生は大きく動揺する。
「真澄!?」
「清太に何をするんですか慧音先生!!先生がこんな事をするなんて思いませんでした!!」
「違う!!聞いてくれ真澄!!」
「出てってください、今すぐ!!ここから!!」
「待て、私の話を――」
「出て行けッ!!!!」
そう怒鳴り散らし、私は包丁を振り回して先生を家から追い払う。
先生が玄関から外に出た瞬間、私は玄関の戸をぴしゃりと閉め、閂で戸を固定する。
その瞬間、戸がバンバンと激しく叩かれ始める。
おそらく外から先生が叩いているのだろう。しかしそれを無視して私は包丁を持ったまま居間で泣きじゃくる清太を抱きしめ、戸を叩く音が止むのを息を潜めて待ち続けた。
一体何が起こっている?慧音先生のあの変貌。清一郎さんの行方不明。色々な事が一度に起こって整理が追いつかなくなっている私がいた。
「……お母さん」
その声に私は視線を落とす。そこには私の腕に抱かれ、涙で顔をグシャグシャにした清太の顔があった。
……そうだ。何が起こっているのかわからないけど、この子は私が守らないと。
清一郎さんがいない今、この子が頼りにできるのは私だけだ。
私は清太の不安を払拭するかのように強く抱きしめる。
それは外で慧音先生が戸を叩くのを止めるまで続いた――。
前回の『其ノ二・表』の前半部分の文章内容が少し気に入らなかったので、修正させてもらいました。