四ツ谷文太郎の幻想怪奇語   作:綾辻真

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前回のあらすじ。

イトハと赤糸の戦い、後半戦。
赤糸からの逃走中、突如イトハの行く先――その目の前に赤糸が現れ、イトハに向けて狂気の一閃を繰り出す。


其ノ十四

唐突に曲がり角から現れた大きな蜘蛛の脚――その営利に尖った先がイトハの眼前に迫り、イトハは大きく体を捻ってそれを避ける。

紙一重で顔からそれを避けきったモノの、狙いを外れた蜘蛛の脚は運悪くイトハの左二の腕を()()()()行ったのだ。

 

「――ッ!!」

 

袖をたすき掛けで肩口まで上げていたため、露出していた二の腕に一目見てもはっきりと分かる数センチほどの朱線が走った。

イトハはとっさに傷口を抑えると後方へと飛びのく、すると()()()()()()()()()()赤糸がこれは好機とばかりに蜘蛛の脚を振り上げて追いすがって来る。

 

「ハァッ!!」

 

イトハの腕についた朱い線を見て、赤糸は自然と笑みを深める。

ようやく。ようやくついに、この忌々しい小娘に一太刀浴びせることが出来たのだと思うと歓喜せずにはいられなかった。

だが、イトハはすばしっこくいくつかの部屋と廊下を横切ると途端に赤糸の視界から姿を消してしまった。

 

「チッ!何処行った小娘!!」

 

僅かながらも傷を負わせた途端にこれだ。喜びから一転して苛立ちがぶり返した赤糸は悪態をつき、その場で地団駄も踏んだ。

一方イトハは、現在赤糸がいる和室の二つ隣の部屋にいた。

その隅にある蝋燭のついた燭台のそばで身を潜め、息を殺している。

だが、そんなイトハの視界と意識は今、さざ波のように少しずつゆらゆらと揺らめき始めていた。

先程の赤糸から受けた微量の毒がイトハの体の中を回り、彼女を蝕もうとしていたのだ。

 

「ハア……ハア……ハア……!」

 

声を殺しながら落ち着いて小さく呼吸を繰り返す。

直後にイトハは素早くたすき掛けにしていた帯を解くと、左袖をつかんで勢いよくビリリと破り取っていた。

袖は左肩口から大きく裂けて取れ、その下からイトハの左腕が露になる。

そこには先程、赤糸に付けられた朱線が走っており毒が回っているのを示すかのように周囲が薄っすらと青色に染まっていた。

それを一目見たイトハは、左腕の肩口に先程たすき掛けに浸かっていた帯を巻き、帯の両端を肉が深く食い込むほどに右手と自身の歯できつく縛り上げた。

帯を止血帯とし、左腕の感覚が麻痺してきたのを感じるとイトハは手早く傷口から赤糸の毒を吸い出しにかかった。

口で傷口から毒を吸い出しては足元の畳の上に吐き捨て、そしてまた吸っては吐き捨て、それを数度繰り返す。

毒を打たれてから止血して吸い出すのに少し時間がかかった為、やはり体内にいくらか毒が回ってしまっていたが、それでもイトハは何とか意識を繋ぎ続け、自力で立つことが出来ていた。

顔じゅうに脂汗をかきながら毒を吸い出し続けるイトハ。不幸中の幸いか、多少毒は回ったもののそれ以上の悪化を防ぐことが出来そうであった。

イトハは毒の吸い出しを繰り返しながら、赤糸が今何処にいるのか神経を研ぎ澄ませる。

怒りと焦燥。そしてイトハに一太刀浴びせたこの機に乗じて一気に畳みかけようという腹積もりなのか、赤糸はその殺気を消してはいないようであった。

 

(彼女は……まだ、近くにいますね。しかし、あまりここでジッとしていると離れて行ってしまいかねない。……いえ、直ぐに方針を変えて尾花さんたちの方へ向かおうと考えるかもしれませんね)

 

ここで足踏みしている暇は無い。一刻も早く動かなくては。

焦る気持ちを必死に抑えながら、イトハは毒の吸い出しを急ぐ。

本当なら、未だに左腕に絡まったままでいる赤糸から受けた蜘蛛糸の粘液も何とかしたかったが、一分一秒も時間が惜しい今の状況では後回しにする他ない。

幸いな事に蜘蛛の粘液は左腕に巻き付いて重りになっていると言うだけで、()()()()普通に動くのだから。

そうしてある程度毒を吸い出し終えると、イトハは先程破り捨てた着物の左袖を引き裂くと、それを包帯代わりに左腕の傷口に巻いていった。

キュッと傷口に巻いた布を口と右手でしっかりと結び終えると、イトハは最後に()()()()()()使()()()()()()()()()()()()――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チィッ!あのクソガキ一体どこに隠れた!?」

 

赤糸はそう声を荒げながら今いる和室に設置してあった明かりのついた行燈(あんどん)を蹴り飛ばす。

古くなっていたその行燈は赤糸のその一蹴だけで原形を留めずに破壊され、その中から火のついた蝋燭が畳の上に転がり出て来る。

火が畳を焼き焦がすよりも先に、その蝋燭は怒り心頭の赤糸が八つ当たりとばかりにグシャリと踏みつぶされ、同時にその火も消えた。

赤糸が蝋燭を踏み潰した音が響いた直後、室内には赤糸の荒くなった呼吸音のみがその場に残る。

イトハを見失った事に苛立ちを覚えずにはいられなかった赤糸だったが、荒れた呼吸が安定し幾分か冷静さを取り戻してくると直ぐに次の手が脳裏をよぎる。

 

(……そうだ。今なら反対側にいるガキ共を人質にとれるはず……!)

 

あの時確かにイトハに毒を打ち込んだ手ごたえを覚えていた赤糸は、今ならイトハは思うように動けまいと踏んですぐさま和室を飛び出して尾花たちのいる部屋へ向かおうと廊下を駆け出そうとする――。

 

――しかしその判断は今一歩遅かった。

 

 

「……何処へ行こうとしているのですか?獲物を前に背中を向けるなんて感心しませんね」

「……あぁん?」

 

背後で自分に向けて挑発するようにそう響かれた声に瞬時に足を止めた赤糸は、顔をしかめながら振り返る。

そこには予想通りと言うべきか、イトハが不敵な笑みを浮かべて赤糸を見据えて立っていた。

ようやく出て来たか、と言わんばかりに忌々し気に「フンッ!」と鼻を鳴らした赤糸は、身体をイトハの方へ向けて対峙する。

そして、イトハの様子を一瞥した赤糸は勝ち誇ったかのように小さく笑みを浮かべた。

イトハは不敵に笑みを浮かべてはいたものの、その顔にはかなりの脂汗が浮き出ており、体の方も僅かにだが手足が小刻みに震えている。

そして最後に自身が先程切りつけたイトハの左腕に着物の袖の布が巻かれているのを見て、毒がちゃんとイトハの身体に打ち込まれていた事を赤糸は確信する。

しかし、結構な濃度の毒を注入したはずなのだがそれでもなお、震えながらもしっかりと立っている所を見るに、どうやら見失っていたあの短期間の間にある程度の毒抜きが済んでいるとみて間違いないようであった。

 

(随分と手際が良い……と言うより、あの短時間でどうやって毒抜きして回復で来たんだか)

 

目を細めてイトハを睨みながらそう思考する赤糸。

だが、完全に毒抜きできなかった以上、相手はもはや全力で動く事は出来ない。

今のイトハは赤糸にとってもう脅威には値しなかった。

死に体の獲物。まな板の上の鯉も同然であったのだ。

 

「ハッ!……そんなフラフラな体で、まだ私とやり合おうってのかい?」

「ええ……あなたとの勝負はまだ着いてはいませんからね」

 

心底小馬鹿にしたような赤糸のその言葉に、イトハはそう返す。

はたから見ていても立っているだけで辛いはずだというのが丸分かりだと言うのに、気丈にも立ち向かう姿勢を崩さないイトハに、赤糸は面白くないと言わんばかりに顔を歪める。

 

「そんな体じゃあもうろくに動く事も出来ないだろうに。私に八つ裂きにされる覚悟でも決まったのかい?さっきまで逃げ隠れしてた臆病者のくせに」

「ちょっと隙を見せると、直ぐに毒やら人質やらを使おうとする卑怯者のあなたにだけは言われたくありませんね」

「フン!……その減らず口を今すぐ私の毒で呂律(ろれつ)が回らなくしてやるよ!」

 

そう吐き捨てると赤糸はすぐさまイトハに向けて構えを取る。

そして、そんな赤糸をイトハは静かに見据えながら両手をギュッと力強く握った。

 

(……チャンスは一度……!もう後は無い……。()()()()()()()()()()()()()……!)

 

内心でそう決意を新たにしてイトハはカッと双眸を見開く。

それを合図にしてか両者が同時に動き出した。

ダッ!と廊下の床を蹴って走り出したイトハと赤糸の距離が瞬時に縮まる。

最初に仕掛けたのはやはり赤糸だった。

背中から生えた四本の猛毒にまみれた蜘蛛の脚が唸りを上げて突進するイトハへと振り下ろされる。

だが足の先端がイトハに触れるよりも先に、イトハは足に力を込める鵜と大きく跳躍した。

そして素早く赤糸の頭を両手でつかむと、まるで跳び箱を飛び越えるように赤糸の頭上を通過し、越えきる直前に両足で赤糸の後頭部を思いっきり蹴った。

 

「ガァッ!?」

 

赤糸はイトハが跳躍した直後から何が起こったのか分からず、後頭部に受けた衝撃で大きくよろけてしまい、倒れそうになる身体をたたらを踏みながらも何とか持ち直す。

だがその間にもイトハは、赤糸の頭を踏み台にして二段ジャンプを行った事で跳躍の勢いと高度がさらに高まることとなり、イトハの眼前には天井の板張りが視界一杯に迫った。

そしてぶつかる直前、イトハは両腕を交差させその衝撃に備え――。

 

 

 

 

 

――バキィッ!!!!

 

 

 

 

――次の瞬間、イトハの小さな体は天井の板張りを突き破って屋根裏の闇の中へと消えた。

 

「……へ?」

 

振り返った瞬間にその光景を目の当たりにした赤糸は、後頭部を足蹴りにされたことで湧き出た怒りが瞬時に消え失せ、代わりに()()()()()()()()()()()()()()衝撃を受けて目を見開いて呆然となる。

そして次の瞬間――。

 

「……あ、あぁあああぁぁぁぁぁああああぁぁぁーーーーッッッ!!!!」

 

何故か顔面蒼白となった赤糸はとち狂ったかのような叫び声を上げながら、なりふり構わず必死な形相を浮かべながらイトハの後を追って慌てて屋根裏の向こうへと飛び込んでいった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――イトハが紅魔館から四ツ谷会館にやって来てまだ間もない頃、仕事の合間に小傘からよく四ツ谷の今まで遭遇してきた事件や創ってきた怪談などの話を聞いていた。

特に怪談については、『最恐の怪談』だけでなく何気なしに人里の住人に語り聞かせるだけの『ただの普通の怪談』だけで今までに優に百は越えているらしく、四ツ谷の怪談に対するその知識量の異常性をイトハは伺い知れた。

 

そして小傘が話してくれたその怪談――正確には『最恐の怪談』の中に、『四隅の怪』というものがあった。

 

それはイトハが四ツ谷会館に来るきっかけとなった『吸血鬼の花嫁』の一つ前に四ツ谷によって創られた怪談であり、人里のとある女性に寄生していた下卑た男の二人が中心となった事件でもあった。

 

赤糸をジャンプ台替わりにして天井の板張りを突き破った瞬間、イトハはその『四隅の怪』の一件の中で男が寺子屋の天井裏に住み着いていたという話を思い出していた。

住む場所を失った男が昔泣かせた女を利用して寺子屋の天井裏に住処を作り、生活費の全てを女に貢がせていたという。

その話が、あの時イトハの左腕に赤糸が毒の蜘蛛の脚で切りつけた瞬間にイトハの脳内に飛来したのだ。

直前まで背後にいたはずの赤糸の姿が消え、天井から大きな音がイトハを追い越した直後にイトハの前方に赤糸が現れ回り込んでいた。

それはつまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事。

朝の内に屋敷の中をくまなく捜索したが、石壁に囲まれた周囲から出口らしきものが見つかる事は全くなかった。

 

という事は、出口がある可能性が残っているのは『床下』か『天井』という事になる。

 

そして先程、赤糸が天井を伝って回り込んだ事や、その赤糸がイトハが天井裏に消えた瞬間に絶叫を上げたのを見るに、『床下』か『天井』かの二択の内どちらに出口があるのかはもはやほぼ確定的であった。

 

天井裏に着地した瞬間、イトハは直ぐにぐるりと首を回して周囲に目を向ける。

すると直ぐに、少し離れた暗闇の向こうに小さな光が漏れている事に気づき、瞬時にイトハはそこへと向かって駆けだした。

 

「待てぇぇぇぇーーーーーッ!!!!」

 

駆け出して数秒もしない内に背後からそう叫びながら必死に追ってくる赤糸の気配をイトハは感じ取った。

だが、イトハはそれを振り切るようにして全力で走り続ける。

左腕に絡まる蜘蛛の粘液が重り代わりとなってイトハの足を引っ張る(かせ)となり、彼女の体力の消耗や疲労を無駄に高める事になってはいたが、それでもイトハは足が動き続ける限り走るのを止めない。

やがて闇の中に浮かぶ光の正体がイトハの視界の中で明確になる。それは木でできた、簡素な扉だった。

その扉の中から微かに光が漏れ、扉の輪郭を作り出している。

古いのか簡単な作業で作られたためなのかは分からないが、その扉は見るからに衝撃に脆そうで、()()()()()()()()()()()簡単に壊せそうであった。

それを一瞬のうちに観察してそう判断したイトハは、一か八かとばかりに迷う事無く扉に向けて足を強く踏み込んで飛ぶ。

そして、空中で体を丸めると背中から扉へとブチ当たった――。

 

 

 

 

――バキィィィッ!!!!

 

 

 

イトハの予想した通り、その扉の板は薄く、彼女の身体を受け止めきる事が出来ず貫かれて扉の向こうへの侵入を許してしまった。

 

「あ゛あ゛あ゛ぁあぁぁああああぁぁーーーーーッ!!!」

 

扉を壊して床を転がった瞬間、イトハの耳に赤糸の絶叫が届く。

しかし、それを気にする事なくイトハは急ぎ体を起こして周囲に目を走らせると――絶句した。

 

そこは二十畳一間分くらいはありそうな薄暗く簡素な造りの部屋であった。

まるで山小屋を思わせるような壁、天井、床、そのどれもが薄い木の板を釘で打ち付けただけの内部、その奥の壁には先程、イトハが破った木製の戸に対峙するかのようにもう一枚別の戸が取り付けられていた。

そして部屋には両手足を拘束するための鋼鉄の拘束具のついた、人一人を寝かせることが出来る木製の大きな台が四つ、部屋の四隅に置かれており、その台と台の合間を挟むようにして大きめの桶もいくか置かれ、中には見るからに拷問で使われるような鉄製の様々な器具が入れられていたのだ。

また、天井の梁にも鎖や太めの荒縄が何本も垂れ下がり、壁にも桶に入った器具と似たような道具が、まるで絵画でも飾るかのように壁の金具にいくつもかけられているのが目に入った。

 

異様な雰囲気を漂わせる部屋の中。そんな部屋全体をさらに異様に()()()()()()()()()が否応なくイトハの眼に止めさせていた――。

 

 

 

――それは、部屋全体にまるで赤いペンキでもぶちまけたかの様に染め上げる、()()()()

 

 

 

台や桶、器具、荒縄や鎖だけでなく、床や壁、天井のその全てがおびただしい大量の血液で部屋全体を(まだら)模様に染め上げていたのである。

 

そんな異様な部屋の光景を目の当たりにしたイトハは息を呑み、同時に理解する。

――ここが蜘蛛女が言っていた、例の【拷問部屋】なのだという事を。

 

それを察した瞬間、背後から追ってくるその蜘蛛女の殺気が大きく膨れ上がったのをイトハは感じ取った。

 

「――ッ!!」

 

振り返ろうとするよりも先に、体が勝手に床を蹴って前へとその身を転がせる。

ドスッ!!っという鈍い音が部屋の中に響き渡り、イトハは体を起こしながら背後へと振り返った。

すると先程までイトハが立っていた場所――その床に蜘蛛の脚が深々と突き刺さっている光景が目に入る。

そして、その蜘蛛の脚の向こうで鬼の形相で目を血走らせた赤糸の顔がそこにあった。

 

「クソガキィ……この場所を知られたからには、絶ッ対にここから生きて帰さないよォォォ……!!」

「元から生きて帰す気などないくせに、何を言っているのですか?」

 

まるで地獄の底から怨嗟の声を上げるかのように呻く赤糸のその言葉に、イトハは冷ややかな目を赤糸に向けながら冷静な口調でそう返すと同時に、ゆっくりとした動きで後退して()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――!」

 

それを見た赤糸は、イトハの次の行動に気づき慌てて床を蹴ってイトハとの距離を詰めようとする。

しかしそれよりも先に、イトハが後ろ手で戸の取っ手口を掴むと、体を反転させると同時にその戸を大きく開けさせ、全速力でその向こうへと駆け出していた。

見た感じその戸はただの引き戸であり、南京錠などが取り付けられている様子も無く、イトハの思った通りにあっさりと開けられることが出来たのだ。

拷問部屋の隣には同じような木製の部屋が広がっていたが、この部屋は先程とは違い生活感があった。

畳の敷かれたその部屋にはふかふかの布団が隅にたたんで置かれており、他にも着物など衣服を収納するための和箪笥や小物入れ用の茶箪笥。部屋の中央には小さなちゃぶ台に湯呑と急須。そして、鉄瓶(てつびん)の乗った火鉢がそこに置かれていた。

それを見たイトハは直ぐにこの部屋がいつも赤糸が私室として使っている場所だと直感する。

すると視界の端に先程とはまた別の戸がある事に気づき、今度はその戸を開けて進もうと身体を戸のある方へと向きを変えた。次の瞬間――。

 

「ガァァァキィィィィーーーーーッッッ!!!!」

「――ッ!!」

 

背後からの恐ろしいほどに怨嗟の籠った叫び声と殺気に気づき、イトハはとっさに横に飛ぶ。

その瞬間、イトハのいた場所に赤糸の蜘蛛の脚が横一閃に空を切る。

すると赤糸は休む間もなく憤怒の形相のままイトハに向けて追撃を続けた。もはや体裁を整える余裕も無いのか乱れた髪を振り乱しながら飢えた獣のようにイトハを追い続ける。

対するイトハの方も、それを必死にかわし続けた。

赤糸の蜘蛛の脚がイトハに当たらずに空振りする度に、その流れ弾が箪笥や木の壁に深い爪痕を刻み、布団を裂いて羽毛が飛び散り、火鉢と鉄瓶をひっくり返す。

 

こんな狭い部屋――ましてや自分は左腕が封じられ、赤糸(あの女)の毒で本調子ではない状態。

 

このままでは直ぐにやられる。と判断したイトハは、中央に置かれていたちゃぶ台を思いっきり赤糸の方へと蹴り上げた。

ちゃぶ台がひっくり返ると同時に、そこに置かれていた湯呑と急須も宙を舞う。

すると急須の中に残っていた冷めきったお茶が外へと零れ、赤糸の顔にかかる。

 

「うわぷっ!?」

 

突然の事に思わず赤糸が反射的に目をつむった瞬間、今度は湯飲みが赤糸の額にヒットした。

 

「ッ!!~~~~~~~ッ!!!!」

 

余程痛かったのか、赤糸は湯飲みの当たった箇所を手で押さえてその動きをいったん止める。

すると数秒後には肩をワナワナと震わせて、手で顔をさえたままギロリと血走った目でイトハを睨みつけていた。

 

「クソガキィィ……も゛う許ざんんッッ!!!!」

 

今までのイトハにやられた分も含め、頭がずぶ濡れになった上に湯呑で小さなこぶまで作る羽目になった赤糸の理性は、瞬間的に完全に消し飛んでいた。

怒りに任せて声を上げながらイトハに突進し掴みかかる赤糸。

そんな赤糸に、イトハは毒の影響で脂汗を浮かべる顔に小さく笑みを浮かべると赤糸の手が自身に触れそうになるタイミングを見計らってヒョイッと横へとかわしていた。

 

「!?」

 

イトハが横に飛んで赤糸の視界から消え失せると、そこには先程イトハが開けようとしていた戸が赤糸の視界一杯に広がっていた。

怒りに任せて突撃していたその勢いは目標(イトハ)を見失っても直ぐに止めることが出来ず、赤糸の身体はそのまま戸にぶち当たった。

 

「があぁっ!??」

 

当たった衝撃で苦悶の声を上げる赤糸、それと同時に戸が破れ、赤糸の身体は壊れた戸と一緒に部屋の向こう側へと消えて行った。

 

「ハア……ハア……」

 

それを見たイトハは荒くなった呼吸を整えながら、赤糸の後を追って部屋を出て外へと飛び出した――。

 

「ぁ……」

 

その瞬間、()()()()()自身の体を包み込み、イトハは思わず声を漏らす――。

 

 

 

 

 

――そこには屋敷の()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

円筒状に屋敷を囲む岩壁がイトハの頭上を高く高くそびえ、その先が闇に覆われて全く見えない。

しかし屋敷の外の空気は本物で、イトハは思わずブルリとその身を振るわせる。

 

今、イトハが立っているのは屋敷の屋根の上だった。

屋根の一部が改築され、まるで玄関の出入り口のようなモノが作られており、イトハは今そこに佇んでいる。

そのイトハが立つ足場には太い荒縄と木の板で作られたつり橋がかけられており、その橋の向こう側は岩壁に大きくくり抜かれた横穴へと延びていた。

そして、その横穴の奥からわずかに光が漏れているのが肉眼でも視認でき、イトハから見てもどうやらそこが出口であることは間違いなさそうであった。

ふとイトハは横穴に向けていた視線をわずかに下げる。

つり橋の手前の方にうつ伏せに倒れた赤糸の姿があった。

その赤糸が倒れている周囲――つり橋の渡し板や荒縄にはいくつもの木の破片が落ちたり引っかかったりして散乱している。

先程、戸口に体当たりした赤糸が勢い余って壊れた戸の破片と一緒にそこへ倒れ込んでいたのだ。

 

「っく……うぅ……く、そぉ……!!」

 

全身の痛み耐えながらイトハの目の前で赤糸は起き上がろうとする。

しかし、それよりも先にイトハが動いた。

すぐさま全速力で駆け出すと赤糸の手前で跳躍すると、赤糸の後頭部を軽く蹴ってそのまま彼女を飛び越え、つり橋から横穴へと駆けこんで行った。

 

「グブゥッ!!??」

 

突然、後頭部に衝撃を受け、赤糸は木の渡し板に強烈な口づけをしてしまう羽目となり、悶絶する。

そんな赤糸の様子に気づく事なく横穴へと駆けこんだイトハは、息を荒げながらも必死に出口へと向かって駆ける。

しかし、度重なる戦闘での疲労、左腕に鉛のように巻き付いた蜘蛛の粘液、そしてごく微量とは言え神経毒を受けてしまった事で、イトハの身体はもう限界に近くなっていた。

 

「ハア……ハア……ハア……ハア……!!」

 

徐々に走るスピードも遅くなり、息の荒さも目立つようになる。

視界も少しずつぼやけ、体が自身の意志に反してフラフラと揺れ始める。

そうして出口付近に近づく頃には、もはや足取りもおぼつかず、歩いているのと大差ない速さにまで減退してしまっていた。

しかし、イトハはそれでも全身に滝のような汗を流しながら、力を振り絞って前へ前へと必死に足を動かす。

 

そうしてようやく、横穴の出口――その縁を手を掴んで顔を上げると広大な地底世界の景色が広がっていた。

旧都の中から見た事のあるその地底世界の景色に、イトハはようやく脱出できたのだと確信する。

ホッと安堵の息を漏らしたい気分になったイトハだったが、それを直前でグッとこらえる。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()、まだ油断するわけにはいかなかったからだ。

イトハが周囲を見渡してみると、どうやらここは切り立った断崖、その崖の上に面しているようだった。

今、イトハがいる横穴の足場から崖を添うようにして一本の道が何処かへ向かうように続いている。

残念ながらその道がどこに繋がっているのかは肉眼では分からなかった。

おまけにどれだけ遠くに目を凝らして周りを見ても、地霊殿のある旧都の建物どころかその灯りすら何処にも見えない。

 

(まさか……結構遠くまで連れ去られて来たのでしょうか……)

 

そんな一抹の不安を心に宿しながらも、イトハはとりあえず移動しようと歩き始める。

 

 

 

 

しかし、その直後――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ゾクリ……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ッ!???」

 

突如、背後から背筋を震わすほどの殺気が膨れ上がり、イトハは反射的に振り返る。その瞬間――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ドスッ……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――目を大きく見開いて固まるイトハの右二の腕に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()




えっと……お久しぶりです。

前回の投稿からだいぶ経ってしまいましたが、最新話をここに投稿させていただきます。

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