翔鶴姉成分が不足したので戻ってきました。
やっぱ可愛いですね、翔鶴姉。
「暑い……溶ける……もういやだ……」
身体中から汗を流し、いつも以上に死んだ目をしているのは、緑川湊、その人だった。
ふうふう息を吐きながら歩き、時折恨めしそうに前方を見る。
その視線の先には、目を奪われるような美しい純白の髪を肩の高さで結んでいる翔鶴がいた。
思わず漏れてしまった湊の声が届いたのか、若干睨み付けるようにして彼女は振り返った。
「何を言っているんですか湊さん!山頂まではまだまだですよ!」
彼らは今、近所の山に来ていた。
近所の山、と一口に言ってもかなりの高さがある山で、
それをほいほいと登っている翔鶴の体力を、
湊は思い知らされることとなっていた。
そもそもどうしてこんなことになってしまったのか。
湊は昨日の夜のことを思い出していた。
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それは夕食を終え、やることもなくなって惰性でテレビを見ているときだった。
と言っても、湊はほとんどの寝ているようなものだったので、内容はほとんど覚えていないが。
確か運動不足が健康に与える影響がどうとかいう、よくある内容だったのだが、
翔鶴は真剣な表情で見つめていた。
「そういえば、深海棲艦との戦いが終わってから、湊さんが運動することってすごく減りましたよね?」
それもそうだった。
元々、湊は運動を好き好んでするような性格をしていないため、
仕事の時の重労働以外にはじっとしていることが多かった。
「……そうだけど」
そういった瞬間、翔鶴の目が輝いた気がした。
嫌な予感がしたが、動くことは出来なかった。
「明日、山登りに行きませんか?この時期はすごく登りやすいんですよ!」
湊に、拒否する権利など無かった。
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木漏れ日すら皮膚を焼くようにじりじりと肌を痛め付け、
数十分前から膝が笑っている。
それなのに前方の翔鶴はすいすいと険しい山道を登っている。
というかなんだこれは。
「ちょっと登山に行きましょう」何ていう軽い感じで登れるような山じゃないぞど畜生め。
などという罵詈雑言が頭のなかに浮かび上がるが、
翔鶴の輝くような笑顔を見ると、そんな気も失せてしまうから不思議なものだった。
翔鶴はかなり本格的な装備で、山道を登っている。
どこからそんなものを引っ張り出してきたのか気になったが、
もう湊の口からは
それだけ疲れてしまったからだろうか、
「大丈夫ですか?」
翔鶴に気づくタイミングが遅れ、
彼女との顔の距離が、数センチのところまで来てしまっていた。
翔鶴は、いつもなら顔を真っ赤にして慌てるのだろうが、
テンションが上がっているのか、気づいていないようだった。
そのせいか「大丈夫」と答えるはずが、上手く言葉に出来ずに口ごもると、
それを見て、翔鶴は少し意地悪な顔をした。
あ、こいつ狙っていたな、と湊がむっとしかけたところで、
「少し、休憩にしましょうか」
天使から救いの手が差し伸べられた。
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できるだけ陽の照っていない木の影を選んで二人は座った。
湊はぐったりと木の幹に背を預け、死んだようになっていた。
座って体を休めると、少しずつ体力が戻ってくれような感覚がする。
湊のとなりの翔鶴は、何故か上機嫌な様子でにこにこと湊の顔を見ていた。
「……僕の顔、なにかついてるの?」
その視線にたまらず翔鶴の意図を訊くが、
「何でもありません♪」
輝くような笑顔でかわされた。
暫くすると、
「さあ、そろそろ行きましょうか。湊さん」
天使から悪魔のような宣告をされたので、
「う”え”」
表情で、仕草で、声で拒否を示したが、
なにも言わずに眩しい笑顔を向け続けられて、
湊はしぶしぶ立ち上がった。
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少し休憩したからか、大分いいペースで登ることができていた。
翔鶴は、湊の隣で歩いている。
鼻唄を歌いながら登山をしているわけだが、
息切れをする様子が全くないのが、湊にとって不思議でならなかった。
とても楽しそうだ。
それなりの時間を共に過ごしてきた自信はあるが、
登山の趣味があるとは知らなかった。
多分、湊にとっての機械いじりと同じような感覚なのだろう。
そう思うと微笑ましくなった。
そんなことを思っていると、翔鶴の鼻唄が止んでいることに気がついた。
どうしたのだろうと、となりの翔鶴を見ると、
湊の顔を、じっと見つめる翔鶴がいた。
「どうしたの……? さっきから……」
「嬉しいんです」
「……嬉しい?」
何が、なのか分からなかった。
一体なんだろうか。
一緒に登山できたことなのか、
それとも運動不足の解消が出来たからなのか。
「湊さんも、とても楽しそうでしたから」
翔鶴はにっこりと笑ってそう言った。
自覚していなかった。
自分が今、どんな顔をしているのか意識を集中させたところ、
笑っていることに気がつく。
無意識のうちに楽しんでいたのか。
相変わらず身体中が軋み、
喉からは苦しい吐息が漏れ出しているが、
確かに楽しかった。
「……うん。すごく……楽しい」
今度は、はっきりと笑えている感覚がした。
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それからたっぷり一時間ほど歩いて、山頂についた。
見晴らしのいい、開けた場所だった。
久し振りに顔を出した陽光が降り注ぎ、
心地よい涼しい風が二人の間を過ぎ去っていった。
翔鶴は、巻き上げられた長い髪を片手で押さえている。
湊がその姿も良いな、と思ったところで翔鶴と目が合い、
さっと目を反らすが、
回り込まれ、いたずらな笑顔とかち合った。
「今、私に見惚れてました?」
湊は言葉につまった。
というかこの間の一件以来、
翔鶴はこんな調子だ。
このやろう、脳内桃色のくせに。
調子に乗るな、という意味も込めて、
湊は翔鶴の白い額にでこぴんをかました。
案外上手くいったようで、
ぴしっときれいな音がした。
「あう」と、翔鶴の口から間抜けな声がもれるが、
返事をしないのも悪いと思い、
「うん」とだけ返事をした。
狙い済ましたかのように風が止んだ。
翔鶴の頬が、ほんのりと赤く染まっていた。
これは深雪辺りの入れ知恵かなと思った。
自分の意思でやったにしては、まだまだ恥ずかしさが抜けきれていないようだった。
湊は深く息を吸って、吐いた。
爽やかな空気が肺を出入りし、
全てがリセットされた気がした。
湊は微笑んで翔鶴の頭を撫でてみた。
意識して表情を変えることなどないため、
上手く笑えている自信が無かったが、
翔鶴のさらさらした髪の感触を楽しんだ。
翔鶴がうつむいたため、どんな顔をしているのか湊には見えなかったものの、
耳まで真っ赤に染まっていたため、
表情を読み取ることは容易かった。
「ずるいです」と、微かに声がした。
風が吹いていたら絶対に聞き取れないくらい小さな声だった。
「ずるくなんて、ないよ……」さっきまでは忌々しかっただけの太陽も、
この場所では明るい気持ちにさせる光になっていた。
たまには、外に出るのも良いかな。
そんなことを考えながら言葉を繋いだせいか、
「だって、本当に綺麗だったから……」
そんなことを言ってしまった。
言ってから自分の言葉の意味に気づいたが、
時すでに遅しだった。
恐る恐る翔鶴を見る。
「ありがとう……ございます……」
薄く桃色に染まった頬と、
嬉しそうに三日月を作る赤い唇が、
湊の目に焼き付いた。
そんな翔鶴を見ながら、
湊は微笑していた。
今度は、上手く笑えているはずだった。
「湊さん、さあ、下山ですよ!」
「え”」