途端に現実感が薄れていった。
体の先端部分から血液がなくなっていくような感覚。
翔鶴はおぼつかない足取りで、湊の眠るベッドへと歩み寄った。
膝が力を失い、翔鶴の体が崩れ落ちる。
瞳から溢れ落ちる涙が、シーツにシミをつくっていた。
だが、大声をあげて泣き叫ぶ気にもなれなかった。
静かな環境が好きな湊に、泣き声は迷惑がられる気がした。
シーツの上から湊の腕に触れる。
そこからでもわかる、人の肌とは思えない異常な冷たさ。
それでも翔鶴は手を離さず、むしろ、ぎゅっと力を込めた。
別れの言葉。
何か言わなくてはいけないはずなのに、
ちゃんと、自分の心を伝えなくては後悔すると知っているはずなのに、
翔鶴の口は、間抜けに開いたまま、言葉を紡ぐ事ができないでいた。
一度口を閉じ、湊の顔を見た。
いつも見ていた寝顔と変わらない、穏やかな顔。
色褪せることのない、晴天の空を思わせる薄い水色の髪。
無意識に笑っていた。
涙を堪えたままだったから、恐らく見るに耐えない顔をしていただろう。
暖かい水滴が、翔鶴の頬を伝った。
「湊さん」
どうにかして絞り出した声は、恐ろしく震えていた。
それでも悔いを残すわけにはいかない。
もう、逃げるわけにはいかない。
「貴方は……言葉は、少ない、から、分かりにくいけど、凄く優しくて……」
視界が歪んで、何も見えない。
涙が溢れないように必死にこらえた。
先程よりもひどい顔をしているだろうなと、翔鶴は心のどこかで思っていた。
「だから、惹かれたんです。最初は、むしろあまりいい人と、思っていなくて、私、自分の気持ちに気づいたときに、どうして、こんな人をって、思ったんです」
いつからかはよく覚えていない。ただ、いつの間にか好きになってしまっていた。
湊の手を握る翔鶴の手の甲に、滴が溢れ落ちていた。
しゃくりあげながら、翔鶴は続ける。
「私ね、こんな、気持ちは、初めてだったから、どうしたらいいか、分からなくて……迷惑だったら嫌だって……ずっと、自分の心を、抑えてたのに……」
あのときの、秋祭りの事を思い出すと、今でも気恥ずかしくなってしまう。
それでも大切な記憶だった。
翔鶴は、その時の事を思い出すと、思わず吹き出してしまった。
「湊さん、分かりにくすぎです。気持ちは言葉にして伝えないと……全然……分からないん……ですよ……?」
言葉を続けるのが次第に難しくなってきた。
湊に対する想いが今にも破裂して、翔鶴の体を八つ裂きにしてしまうようだった。
「私の、怪我を、治すとき……どうして、ちゃんと教えてくれなかったんですか……?治療する側には、患者に、治療内容と、危険性を、説明する、義務があるって……学校で教わらなかったん、ですか……?」
次第に、心の躍動が大きくなっていくのを感じていた。
堤防が、決壊し始めていた。
呼吸が荒くなっていく。
「私の……記憶を、勝、手に、消したり……あげくのはてに、貴方も、深海棲艦の魂に食べられてしまうなんて……自分勝手過ぎるんですよ。いつもいつも……」
歯を食い縛った。
歯が割れんばかりの強さだった。
「『私のために』記憶を消したなら、『私のために』傷を治して深海棲艦の因子を取り込んだなら……生きていてくださいよ……『私のために』生き残って下さいよ……嫌だ、湊さん……置いていかないで……嫌だよ、やっと、一緒に、なれたのに……」
何かが砕ける音を、翔鶴は確かに聞いた。
心の堤防が決壊した音だと、辛うじて残る冷静さで分析した。
嗚咽が止まらなくなった。
言葉を紡ぐ事など、不可能になっていた。
ただ、しゃくりあげながら涙をこぼすしかなかった。
気づけば、大声で泣き叫んでいた。小さい子供のように。
泣いたところで何かが起こるわけでもないのに、翔鶴の体は、それ以外の選択肢を放棄していた。
湿ったシーツに、涙が滴る音が、妙に耳に残った。
全て、夢のような感覚だった。
自らの魂の在処が分からなくなって行く感覚。
体の先端どころか、からだそのものが無くなっていくような感覚。
しかし受け入れるしかなかった。
彼の、死を。
「あのさ、洋ちゃん……」
不意に、声がした。
翔鶴もその声を聞いた。
どこかしら気だるげにもかかわらず、何故かしっかりと通る声が。
驚きに嗚咽が止まっていた。
「収集つかないよ……これ……」
いつも眠そうにしている目が、違う理由で死んでいる。
しかし、その水色の瞳を翔鶴が忘れる筈もなかった。
ただ、心が全く追い付いていなかった。
いつの間にか湊はむくりと上半身を起き上がらせ、据えた目で翔鶴の後方、洋を見ている。
つられて翔鶴が振り向くと、してやったりな顔をして立っている洋と目が合った。
「恋敵へのちょっとした復讐だよ」
ニヒルな笑みでそう言う洋。
後ろを向くと、いつも以上に死んだ目をしている湊。
まだ涙が流れ続ける腫れぼったい目のまま、翔鶴はゆっくりと立ち上がった。
「取り敢えず、話を聞かせていただけますか?」
自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
聞くと、案外すんなりと事は進んだらしい。
元々妖精と仲のよかった湊なのだが、
その甲斐あってか、深海棲艦の因子を取り除く作業が、思いの外順調に進んだらしい。
それでは面白くないと、ドッキリを仕掛けることになったらしい。
面白くないとはどういう事かと、翔鶴は内心ムカッとしたが、
洋の気持ちは分からないでもなかった。
恐らく立場が逆なら、翔鶴も似たようなことをしたかもしれない。
「分かりました。二人はしばらくそこで反省していてください」
二人が肩をびくんと震わせるくらい素晴らしい笑顔で翔鶴は微笑み、
目にも止まらぬ早さで湊の唇を奪った。
隣で「おお……」と洋が感嘆の声を漏らしたのが聞こえたが、無視を決め込む。
数秒ほどして唇を離すと、今度は洋に向かってべっと舌を出して、
「仕返しです!」
翔鶴は洋の私室及び執務室を出て、
久し振りに瑞鶴や他の艦娘たちに会いに行った。
翔鶴が出ていったあと、
洋と湊は、二人で正座をしていた。
少しの沈黙のあと、洋が切り出す。
「お前のその顔、翔鶴に見せてやりたかったよ……」
耳まで真っ赤にして口元を押さえる湊がいた。
「……お前は、翔鶴の事を愛しているか?」
湊にしては珍しく、視線が右往左往している。
「それは……まあ……」
それを聞くと、洋はふっと笑った。
「大切にしろよ?なにせ、私をふってまで選んだんだからな」
「……言われなくても」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
数時間後、食堂に集まる全艦娘に土下座する湊がいた。
原因は『艦娘の記憶から、湊の事を勝手に消去したこと』、
『翔鶴を不幸にしかけたこと』だった。
瑞鶴から散々叱られ、
――――洋もろとも。
摩耶、深雪あたりからは散々弄くられたが、暫くするとそれも止んだ。
そして、
それからは何もなく、無事に年を越す事ができた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
目覚ましのやかましい音を手探りで止める。
スイッチ一つで、眠りを妨げる忌々しい音が消えた。
そして、湊がもう一度眠ろうとしたとき、
腹の上に違和感を感じた。
見ると、翔鶴が馬乗りになって謎のどや顔で見下ろしてきていた。
ピンク色がメインのエプロンに、
ポニーテールに纏めた艶やかな銀髪。
一瞬見惚れていたのは秘密だ。
「……何?その顔……」
「今日こそ一度で湊さんを起こして見せます!」
まだ重い瞼を無理矢理こじ開けていたが、
やがて耐えられなくなり目を閉じると、いきなり唇に柔らかい感触が襲いかかった。
かっと湊は目を見開く。
視界に広がった白と、翔鶴の甘い匂いが湊を一瞬で覚醒へと導いた。
ぷはっと言いながら翔鶴が唇を離すと、
小悪魔めいた笑顔で唇を人差し指で押さえた。
「湊さんの弱点、洋さんから聞きましたから」
そう言って、翔鶴は湊の上から下りる。
「さ、早く起きてください。朝食、いただきましょう」
くるりと背を向け、部屋の外へと向かう翔鶴。
ポニーテールも、どことなく嬉しそうに揺れている。
なんとなく、面白くなかった。
「……翔鶴」
「どうしました?」
「……好きだよ」
虚を突かれた翔鶴は、驚いた顔と共に顔を真っ赤に染めた。
そして、むっと頬を膨らませる。
「……ずるいです」
「……お互い様……でしょ……?」
ベッドから這い出て、翔鶴の隣で一緒に歩く。
このなんでもない幸せが、ずっと続くように。
そう願った。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
後半、難産で更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。_(._.)_
ここまで大勢の方に読んでいただけるとは思っておらず、ひびっております(笑)
一応、この話はここでおしまいです。
ですが、今執筆しているもうひとつの艦これ作品のお話が非常に薄暗く、たまにひょっこり戻ってくるかもしれません。
その時はよろしくお願いいたしますm(__)m
ではまたどこかで(^o^)ノシ