ただ、そこにいるだけで   作:ふぃあー

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十八

 いつも表情の浮き沈みが少ない湊にしては珍しく、

 

 

 

 目の前の人物が誰であるか理解できていない顔をしていた。

 

 

 

 それは、ずっと共に過ごしてきた女性に酷似した姿だった。

 

 

 

 それが一歩ずつ湊のもとへと歩み寄ってくる。

 

 

 

 肌で感じていた。

 

 

 

 いま、目と鼻の先で湊を見上げているこの女性は――――

 

 

 

「……しょうか――」

 

 

 

 その名前を呼ぼうとした瞬間、湊の頬がパァンと乾いた音を立てた。

 

 

 

 ヒリヒリと痛む。

 

 

 

 一瞬遅れて、張り手を食らわされたと理解した。

 

 

 

 深海棲艦になりかけの身であっても、

 

 

 

 艦娘の攻撃なら通用するのか。

 

 

 

 それを確認し、視線を下に移す。

 

 

 

 翔鶴の綺麗な顔が、湊を見上げていた。

 

 

 

「どうして――――」

 

 

 

 パァンと乾いた音が鳴る。

 

 

 

『僕のことを覚えているのか』と続けることはできなかった。

 

 

 

「なん――――」

 

 

 

 パァン

 

 

 

「ちょっ――――」

 

 

 

 パァン

 

 

 

「待っ――――」

 

 

 

 パァン

 

 

 

 一向に質問をすることは許されず、気づけば足を刈られ床に倒されていた。

 

 

 

 そして、のしかかられ、思いきり胸ぐらを掴み上げられる。

 

 

 

 怒りに満ちた翔鶴の顔が、湊の視界いっぱいに映り込んだ。

 

 

 

 ここまで怒った翔鶴をはじめて見た湊は、

 

 

 

 身を縮み上がらせている。

 

 

 

「どうして、こんなことをしたんですか……?」

 

 

 

 どうしてか?

 

 

 

 そんなことは決まりきっている。

 

 

 

 湊のことを覚えたままにしておけば、

 

 

 

 せっかく治りかけた心の傷が、再び開いてしまう。

 

 

 

 そんなことはさせたくなかった。

 

 

 

 だから湊は自分のことを忘れさせた。

 

 

 

 矛盾をできるだけ起こさないよう、

 

 

 

 近所の人々にも協力をお願いして。

 

 

 

 艦娘のメンテナンス時に記憶処理をして。

 

 

 

 一言で言い表すなら、

 

 

 

「君の幸せを……願ったから……」

 

 

 

「はぁ!?」

 

 

 

「ぴっ!?」

 

 

 

 翔鶴のあまりの形相に、変な悲鳴を上げる湊。

 

 

 

 だが、疑問は尽きない。

 

 

 

「あ……のさ、翔鶴」

 

 

 

「……何ですか?」

 

 

 

 胸ぐらを掴み上げたまま話を聞こうとする翔鶴に、

 

 

 

 湊はおそるおそる質問する。

 

 

 

「その……どうして翔鶴は……僕のこと、覚えてるの……?」

 

 

 

「迷いだって、洋さんは言ってました」

 

 

 

「迷い……?」

 

 

 

 怪訝な顔をしている湊に、翔鶴は頷く。

 

 

 

「湊さんは、私の記憶を消すときに、心のどこかに迷いがありませんでしたか?」

 

 

 

 迷い。

 

 

 

 ずっと好きだった相手の記憶処理。

 

 

 

 そのような行動を取るときに、迷いなど、

 

 

 

「無いわけ……ないよ」

 

 

 

 その言葉を聞いたとき、翔鶴の表情は柔らかくなった。

 

 

 

 胸ぐらを掴んでいた手を、ゆっくりと下ろし、

 

 

 

 そっと湊を横たえる。

 

 

 

 そして次の瞬間、湊の脇と膝の下に手を差し込むと、一気に抱き上げた。

 

 

 

 所謂『お姫様抱っこ』という状態だ。

 

 

 

 案外軽いと、翔鶴は思った。

 

 

 

 一方の湊は、何が起きたのかわからないという顔をしている。

 

 

 

 そして、タイミングを見計らったかのようにドアが開いた。

 

 

 

 入り口には洋が立っていた。

 

 

 

「お前にその格好はなかなか似合うな、湊」

 

 

 

「洋……ちゃん?」

 

 

 

「お前を治すために来た」

 

 

 

 湊が『どうしてここに?』と訊く前に答えた。

 

 

 

 そして、翔鶴に向かって、清々しい程のどや顔をして見せた。

 

 

 

 湊の心くらい私は簡単に読めるぞ、ということだろう。

 

 

 

 翔鶴は少しむっとなった。

 

 

 

 洋はそれを見ると、愉快そうに笑う。

 

 

 

 それにつられて、翔鶴も微笑んだ。

 

 

 

 若干のどす黒いオーラを漂わせながら。

 

 

 

 しかし、湊は焦りを隠しきれていなかった。

 

 

 

「ねえ……それってどういうことか……翔鶴は分かってるの?」

 

 

 

「分かっています。成功率は、決して高くないと」

 

 

 

「違う、成功率が高くないんじゃない。ほとんど無いんだ……」

 

 

 

 そこまで言うと、湊は唇を噛み締め、そして言葉を続けた。

 

 

 

「それと……下手に僕の深海棲艦の因子を刺激したら……手がつけられない化け物が生まれるかもしれない」

 

 

 

 翔鶴は湊をゆっくりとベッドにおろした。

 

 

 

 そして、いとおしそうに彼の絹のような柔らかい髪を、指先で触る。

 

 

 

「その時は……私が落とし前をつけます」

 

 

 

「僕を……殺せるの?」

 

 

 

 翔鶴は悲しそうに微笑むと、首を横に振った。

 

 

 

「その時にならないとわかりません。でも、私に貴方を殺させるようなことはさせないでください。湊さん」

 

 

 

「私は、全力を尽くす」

 

 

 

 洋が、湊を見下ろした。

 

 

 

 小さいときからずっと変わらない、

 

 

 

 真っ直ぐで意思のこもった瞳をしていると思った。

 

 

 

「だからお前も全力で抗え。翔鶴を、悲しませるような真似はするな」

 

 

 

「……分かった」

 

 

 

「……湊さん」

 

 

 

 翔鶴の細い指が、湊の柔らかな頬に触れる。

 

 

 

 人間ではあり得ないほど冷たいと思った。

 

 

 

 そして、

 

 

 

 翔鶴と湊の唇の距離が、ゼロとなった。

 

 

 

 翔鶴の背後で洋の口笛が聞こえたが、恥ずかしさを我慢して続ける。

 

 

 

 そっと唇を離す。

 

 

 

 一気に襲ってきた羞恥心と、寂しさをぐっとこらえる。 

 

 

 

「わ、わわ、私、待ってますから、ぜ、ぜったいにかえってきてください!」

 

 

 

 ポカンとしている湊に向かって、早口で捲し立てると、

 

 

 

 翔鶴はそのまま俯いてしまった。

 

 

 

「私の前でそれをするとは、ずいぶんいい度胸じゃないか、翔鶴」

 

 

 

 にやにやした顔を、洋は隠すつもりもなかった。

 

 

 

 翔鶴は、ばつが悪そうに体をもじらせている。

 

 

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 

 

 少しあきれたように息を吐くと、湊の方を振り向いた。

 

 

 

「それで?恋人にここまでされてお前はどうするんだ、湊?」

 

 

 

 未だに呆けた顔をしている湊に、洋は笑いかけた。

 

 

 

 湊は唇を引き結ぶと、彼にしては珍しい決意のこもった顔つきになった。

 

 

 

「お願い、洋ちゃん」

 

 

 

 その湊に、洋は微笑む。

 

 

 

「お前が妖精とリンクする力は、他の誰をも圧倒している。奇跡が起こることは、十分にあり得る」

 

 

 

 一度目を瞑り、言葉を繋ぐ。

 

 

 

「後で艦娘全員に、『勝手なことをしてごめんなさい』と謝らせてやるから、覚悟しておくことだな」

 

 

 

 湊はゆっくりと頷く。

 

 

 

「翔鶴」

 

 

 

 洋は湊に背を向けたまま、翔鶴を呼び掛けた。

 

 

 

「外で、待っていてくれ」

 

 

 

 翔鶴は、その言葉に従い、洋の私室の扉にてをかけた。

 

 

 

 しかし、出ていく前に一度振り向くと、とびきりの笑顔で言った。

 

 

 

「大好きです、湊さん」

 

 

 

 

 扉の閉じる音が、大きく鳴り響いた。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 翔鶴には、ただ祈ることしかできなかった。

 

 

 

 それ以外にとるべき方法もなかった。

 

 

 

 こんなときだけ頼るなんて図々しいにも程があるかもしれないけど、

 

 

 

 それでも頼らせてください。

 

 

 

 

 神様、

 

 

 

 どうか、湊さんを助けてください。

 

 

 

 翔鶴はただ祈っていた。

 

 

 

 奇跡が起ころうとも、難しいことだと聞いた。

 

 

 

 それでも大丈夫だと思っていた。

 

 

 

 脇腹を、もともと大怪我のあった場所を擦る。

 

 

 

 私があの怪我から回復したのも、奇跡のようなものだ。

 

 

 

 だから今回もきっと大丈夫なはずだ。

 

 

 

 翔鶴は、そう自分に言い聞かせていた。

 

 

 

 懸命に。

 

 

 

 また幸せな日常に戻れることを信じて。

 

 

 

 今までにないほど懸命になっていた。

 

 

 

 深海棲艦との最終決戦でもここまででは無かったかもしれない。

 

 

 

 だから、正面の扉が開いて、

 

 

 

 洋の悲しみに染まった顔を見たときに、

 

 

 

 身体中の力が抜けていくのを、翔鶴は感じていた。

 

 

 

「……あいつは……頑張ったよ……」

 

 

 

 いつもの凛とした洋の姿はなく、

 

 

 

 ただ絶望にうちひしがれた声と姿だった。

 

 

 

 かなりの力を浪費したのだろう、やつれて見えた。

 

 

 

 ただ、その姿は力を浪費しただけではない、別の要因があった。

 

 

 

「あの……湊さんは……?」

 

 

 

 何があったかはもうわかりきっていた。

 

 

 

 それでも、希望は捨てきれなかった。

 

 

 

 ゆっくりと、洋は首を横に振る。

 

 

 

 翔鶴の口からは、もう何も出てくることはなかった。

 

 

 

 ただ、涙が止めどなく流れ出していた。

 

 

 

「別れの言葉を……あいつに言ってやってくれ……」

 

 

 

 翔鶴が部屋にはいると、

 

 

 

 泣き崩れる多数の妖精がいた。

 

 

 

 そして、部屋の中央。

 

 

 

 そこに湊はいた。

 

 

 

 翔鶴には、眠っているようにしか見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 次回、最終回の予定です。

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