目が覚めて、翔鶴が最初に見たものは真っ白な天井だった。
すべてを思い出した今、この家はあまりにも広すぎるように感じる。
寧ろ、彼の事を忘れていたときになぜ違和感を感じなかったのかと思った。
恐らく、湊が何かしらの工夫を施したのだろう。
彼の力は、艦娘の奥深くまで干渉出来るのかと、ほんのの少し恐怖する。
もしかしたら、記憶とか、脳の中とか覗いたのだろうか……
激しく頭を振ってその考えを追い出す。
頬が上気しているのがわかる。
大きく深呼吸をして心を落ち着かせると、
これからしなければいけないことを計画した。
翔鶴の、湊に関する記憶をすべて消去したのは、
恐らく彼の優しさだろう。
湊の変化には薄々気づいていた。
自らの負った傷が、そう簡単に治るはずがないものだということも。
脇腹の、傷のあった場所をさする。
もう、痛みは全くない。
「……よし」
と、意気込んだ瞬間に腹が盛大な音を奏でた。
「まずは、朝ごはんかな……」
朝食の用意を始める。
トーストを焼きながら、ベーコンエッグも作る。
今度は間違えないように、一人分を。
トースターが、パンの焼き上がりを知らせたのと、
ベーコンエッグが出来上がったのはほぼ同時だった。
ベーコンエッグを皿に盛り付け、
トーストを確認したときに、
ひとつの違和感を感じた。
若干、翔鶴の好みの焼き加減より焼きすぎたようだ。
丁度、湊の好みくらいだった。
「たまには、これくらいも良いかな」
翔鶴は少し微笑むと、この、少し焼きすぎたトーストも皿にのせた。
一人用にしてはやけに広い食卓で朝食を食べることにする。
トーストをかじると、ざくっという音が鳴った。
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取り敢えず、今自分のすべき事を整理する。
整理、と言っても一つしかないが。
今すべきこと。
それは明確だ。
湊に会いに行く。
どこにいるかも大体わかっている。
翔鶴と湊が所属していた鎮守府だ。
湊が人に頼ることなどほとんどないが、
その分、彼が頼る人物は限られてくる。
それは提督である洋だけだ。
自分ではないというところに少しの不満はあったが、
そんなことを考えても仕方がない。
一にも二にも、とにかく会わなければ分からないことが多すぎる。
ここから鎮守府まで、電車では一日以上かかってしまう。
他の交通機関は、まだ整備が行き届いておらず、
ここのような田舎ではどうしようもない。
準備は済ませた。
後は彼に会いに行くだけだ。
どんな顔をするのか想像する。
いつも通りの無表情だったらさすがに傷つくかもしれないと考えながら、
家を出て、冬の澄んだ空気を肺一杯に吸い込む。
少し高い丘の上に家があるので、町の様子がよくわかる。
臨海部にある町だったので深海棲艦の影響を大きく受けていた。
いまだに瓦礫の山の場所まである。
だが、犠牲者は一人も出なかったらしい。
翔鶴たち艦娘が戦い抜いた結果とも言えた。
その為か、ただでさえ復興で忙しいはずなのに、
町の人たちは翔鶴たちを快く受け入れてくれた。
……あと、湊が壊れた漁船を魔改造したのも後押しになったのかもしれない。
町の先の海を見た。
沢山の漁船が行き来しているのが見えた。
戦争が終わったばかりで、ぼろぼろになった翔鶴の心を、
この町の人々は、癒してくれた。
本当に感謝してもしきれないくらいだ。
だから、湊もこの町に連れ戻さなければならない。
表情を外に出すことの少ない、人から誤解されがちの彼を受け入れてくれたこの町に。
「……よし」
湊に会ったとき、始めに何をするのか思い描いて、
翔鶴は駅への道を進んでいった。
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鎮守府のある都心までは、やはり列車だと一日はかかるようだ。
その事に若干の憂鬱さを感じながらも、そうでもしなければ湊に会うことはできないと己を叱咤する。
列車は大分すいていた。
平日なので当たり前ではあるが。
冬の間、この地域はほぼずっと厚い雲におおわれている。
その鉛色の空を窓越しに見上げていると、まるで自分の心がそのまま空に写し出されている気さえする。
列車での移動のとき、絶対に向かいか隣にいた湊も今はいない。
小さくない孤独感を胸に感じながら、
列車の揺れに身を任せて、
翔鶴は目を閉じた。
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何もない空間だった。
真っ暗な空間なのに、自分の体は、はっきりと見える。
前方で何かが蠢いていた。
途方もなく大きな何かだった。
直感的に、それは
今はもう自分のなかにはないもの。
自分以外の誰か――――愛した湊に移っていったもの。
深海棲艦の思念。
そのもやの向こう側に、翔鶴の追い求めた水色を見た。
水のように真っ直ぐのばされた、柔らかそうな髪。
他でもない、翔鶴がはじめて好きになった彼。
黒いもやから幾つもの腕が、湊に向かって延びた。
翔鶴は叫び声を上げようとするが、びくとも動かない。
指一本すら動かすことができない。
もやが湊を取り込んで行く。
くるりと湊が振り返った。
その水色の瞳と、翔鶴は目を合わせた。
『君は大丈夫だよ。翔鶴』
声は届かなかったが、口の動きは伝わった。
嫌だと叫びたかった。やめてと叫びたかった。
それなのに、相変わらず体は動かない。
湊を取り込んだもやが、やがて強烈な白い光を発し出した。
目も眩むような光の中、翔鶴は目を瞑る事すら出来なかった。
視界が、真っ白に染まった。
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飛び起きるようにして翔鶴は目を覚ました。
時計を見ると、そろそろ目的の駅に着きそうだった。
胸に手を当てる。
恐ろしい勢いで心臓が動いている。
――――嫌な夢を見た。
無理矢理にでも気を落ち着かせる。
やがて、目的の駅に着いた。
ここから鎮守府まではすぐそこだ。
湊は恐らく洋の私室に居るのだろう。
彼の行動など手に取るように分かる。
その前に。
「まず、工厰に行かないと……」
そう言って、夕飯時で誰もいない鎮守府へと入っていった。
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洋は夕飯を終わらせると、工厰に向かっていた。
理由は、湊を救うため。
妖精達と深い信頼を結んでいた湊ならば、
彼の事をなんとかできるかもしれないと思っていた。
洋の妖精とのリンクの深さは、湊の足元にも及ばない。
それでも、
「やらないわけにはいかない……!」
工厰の扉に手をかけ、勢いよく開ける。
「ふぇ!?」
「ん?」
先客と目が合った。
銀髪を背中でひとつにまとめた女だ。
手には妖精を乗せている。
洋は、その姿を見て頭を押さえた。
「不味い。私も疲れているようだな……新年までまだ少しあるのに翔鶴の幻が見え出したぞ……」
「ま、幻じゃありません!私はここにいますよ、洋提督!」
洋の目の前に詰め寄り、見上げるようにして翔鶴が反発する。
それを見て、洋は目を白黒させるしかなかった。
「お前……何故……」
「そうです!私は――――」
「今年は嫌に新年の挨拶が早いな」
希望を持とうとした己を押さえて洋は言った。
翔鶴は記憶を消されているのだから、
きっと妖精には、ただ挨拶をしていただけだろう。
「違います!」
翔鶴は勢いよく洋の肩を掴んだ。
流石の洋も戸惑っているようだった。
「私、思い出しました。湊さんのこと、全部」
何を言っている?
記憶を取り戻した?
あの湊が処置を失敗しただと?
考えられるのはたったひとつの可能性だ。
……いや、むしろそれ以外には考えられない。
「……迷い、か」
「え?」
「お前が記憶を取り戻した原因だよ。恐らく、湊はお前の記憶を消すことを迷っていたのだろうな。特に湊のような妖精とのリンク力が高い人間では、妖精がその心を敏感に感じたのかもしれない」
「だから、私の記憶消去が中途半端になった、ということですか?」
「恐らくは」
翔鶴は胸の前で片方の拳を握りしめている。
「私、湊さんに会いに来たんです。……いえ、湊さんを治しに来たんです。湊さんが私を治してくれたように」
「……そうか」
翔鶴は両手を洋の方へ差し出した。
その、手のひらの上には胸を張る妖精がいた。
「対話は済ませました。皆さん、協力してくれるようです。艦娘の私では、湊さんを治すことは妖精さんの力を借りても出来ません」
「ああ、私もはじめから湊を治療するつもりだった」
「でも、洋さんは妖精さんとの対話は苦手ですよね?」
「……まあ、そうだな……」
翔鶴の手のひらから洋の肩へと妖精が移る。
そして、ぴしっと敬礼をして見せた。
それを見て翔鶴も自然と笑顔がこぼれた。
「……確率は高くない」
「分かっています」
「私も、湊のことが好きだったからな。全力を尽くすさ」
「えっと……?」
戸惑う翔鶴に、洋はいたずらっぽく笑う。
「気づいていなかったか?」
「だ、だって洋さんは私に協力してくれて……」
「ああ、何でしたんだろうな。あんな敵に塩を送るような真似を」
「す、すみません……」
「謝る必要はない。あいつが選んだのは翔鶴、お前だ」
歯を見せてわらう洋に、翔鶴はなにも言えなかった。
「湊は、私の私室にいる。積もる話もあるだろう?早く行くといい」
翔鶴は一度、礼をすると工厰の扉へ向かった。
「……そうだ、翔鶴」
「はい?」
「あまり過激な妄想はしないことだぞ?湊がドン引きしていたからな」
一瞬にして翔鶴がゆでダコになった。
この反応はいつ見ても飽きない。
「行ってこい」
「う~、はい……」
気を落ち着かせるためにも、外に出た。
全力で駆け出す。
ロングスカートで来たのは間違いだっただろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
階段をかけ登り、廊下を疾走する。
やがて、執務室の大きな扉に着いた。
それを吹き飛ばすような勢いで思いきり開け、その奥の扉を見た。
そこに、彼が居ることは明確だった。
勢いをつけたまま、その扉も思いきり開けた。
そして見た。
窓際にもたれかかる彼の姿を。
「湊さん!」
翔鶴のその言葉は、歓喜に満ちていた。