翔鶴には全く分からない。
湊が何故そんなに悲しい顔をするのか。
翔鶴は本当に死ぬ気で湊に思いを伝えた。
それなのに返ってきたのは、湊の心から傷ついた顔だけだ。
……やはり湊は翔鶴のことを――――
頭を激しく振ってその思いを掻き消す。
そんなことはないと。
しかし、それでは湊の傷ついた顔の説明がつかない。
翔鶴は透き通った水色の瞳を見た。
悲しそうな光で歪んでいる。
翔鶴は泣きそうになった。
結局自分はなんとも思われていなかったのかと、
勝手に舞い上がって本当に馬鹿みたいだと思った。
不意に、湊がため息を吐いた。
深く、長いため息だ。
そしてまた目が合う。
湊が口を開くのが、翔鶴にはゆっくりと見えた。
正直なところ、湊には何も言わないでほしかった。
本当に泣いてしまうから。
「あのさ……」
ぴくんと翔鶴の体が反応する。
何を言われるのか考えただけで心が砕けそうだった。
「いくつか……質問、良いかな……?」
「はい……」
なんとか返事はできた。
でも、まだ目を合わせることはできない。
「僕と翔鶴はさ……一緒に暮らし始めたの……何時、だっけ……?」
「え?」
思わず顔をあげた。
何故今そんな質問をするのか、
翔鶴には全く理解できない。
しかし、湊の目は真剣だ。
何か意図でも有るのだろうか。
「さ、三年と二ヶ月……いえ、もうすぐ三ヶ月です」
取り敢えず正直に答えてみる。
湊は黙って頷いた。
様々な感情が入り交じった、複雑な顔をしていた。
だが、質問の意味がまるでつかめない。
「……じゃあ、二つ目……」
翔鶴はこくりと頷く。
今の湊は、今までで一番、何を考えているのか分からなかった。
表情がありありと外に出ているためなのか、
かえってわからなくなっていた。
「僕の……性別って、翔鶴は……分かる?」
まるで意図が掴めない。
その質問の意味が全く分からない。
確かに女性みたいな優しい顔立ちをしているが、
湊は紛れもなく男のはずだ。
……そうじゃないと少し嫌だ。
湊からは、冗談を言っている雰囲気は出ていない。
だから翔鶴も普通に答えた。
「男性、です」
こくんと、また頷く。
どうやら正解のようだ。
「じゃあ、三つ目……」
翔鶴は、懸命に湊の考えていることを探しだそうとしていた。
何故、思いの丈をぶつけたのに悲しい顔をしたのか、
それを早く知りたかった。
その、何を意図しているのか分からない質問も、
どのくらい続くのか、見当もつかなかった。
「翔鶴の……性別は、何……?」
また、当たり前の質問をされた。
翔鶴の中で、ひとつの疑念が浮かぶ。
もしかしてごまかすつもりなのではと。
このまま、なあなあでやり過ごして、また日常に戻るつもりなのではないかと。
必死にその考えを頭から消去する。
湊はそんなひどい人ではない。
それに、覚悟もしていたはずだ。
もし、駄目だったとしたら、
それをしっかり受け止めると。
「女性、です」
だから誤魔化さずに答えた。
きっと何か意図があると思って。
湊は、黙って頷いた。
「じゃあ、最後の質問……」
いよいよ、か。
これで、ようやく湊の考えていることが何なのかを知ることができる。
断られるのか、受け入れられるのか。
怖いが、どうしようもなかった。
ずっと胸のなかにしまい続けた思いだ。
断られたら、泣いてしまうかな?
でも、それで湊を嫌いになるつもりなど無い。
たとえ湊が誰を選ぼうと、
それを受け入れる覚悟は有った。
「僕は男で……翔鶴は女の子……なんだよね……?」
心の中で必死に願う。
どうか、誤魔化すことだけはやめてほしかった。
「はい」
少し、口調が強くなってしまった。
苛立ちを抑えきれなかった。
自分の中の、嫌な感情が、外に出てしまったことが翔鶴には悔しかった。
湊が、また口を開いた。
「それで、僕と翔鶴は……三年以上、一緒に……暮らしてるんだよね……?」
それも、翔鶴が先ほど答えたものだ。
湊は一体、何を確認しているのか。
翔鶴には分からなかった。
黙って頷いた。
声に出して、また嫌な感情が外に出るのを避けたかった。
湊が、一瞬目を背けた。
会話をすること自体が少ない湊だが、
会話をするときは真っ直ぐに目を見つめるのが彼だ。
その彼が、会話の途中で目をそらした。
翔鶴には、その姿が怒っているのか悔しがっているのか分からない。
もう一度、真っ直ぐに湊は翔鶴を見た。
翔鶴の好きな、湊の透き通るような水色の瞳を見た。
「ねえ……翔鶴」
湊は少し、首をかしげる。
「それってどういうことだと思う?」
どういうことか……?
それは、あの理由からだろう。
翔鶴が脇腹に受けた大きな傷の治療のためだろう。
何をわかりきったことを言っているのか、
翔鶴は本格的に分からなくなっていた。
だが、質問にはしっかりと答えることにする。
「私の、傷の治療のためです」
瞬間、湊の顔が少しだけ動いた。
それが表したのは、あまりよくない、負の感情に見えた。
失敗したと、翔鶴は本能的に感じていた。
何が彼を傷つけたか分からなかったが、
とにかく傷つけたのは間違いないだろう。
しかし、翔鶴は間違った事を言ったつもりはない。
湊は男で、翔鶴は女だ。
一緒に暮らしている期間は三年と二ヶ月で、
それは、翔鶴が戦時中に受けた大きな傷の治療のためだ。
また、泣きそうになった。
今度は何が良くなかったのか。
考えても、答えが出る気がしない。
「ごめん、少し……質問を、変えようか……」
湊が、質問をするために息を吸う音が、翔鶴には鮮明に聞こえた。
「男女が……三年以上も一緒に暮らすって……どういうことだと思う……?」
男女が、三年以上も一緒に暮らす……?
それも簡単だ。もうそれは付き合っているか、結婚しているか――――
がばっと音がしそうな勢いで、翔鶴は顔をあげた。
まさか――――
湊は、少し困ったような顔で笑っていた。
「
そんなことが有るのだろうか。
今まで翔鶴は、湊の事を鈍感だと思っていた。
しかし、
「あの、湊さん」
「……何?」
「何時から、ですか?」
「何が……?」
「その、わ、私のこと、す、好きになったのです」
「分からない……はっきりした時期は……よく分からない。でも……翔鶴と暮らし始める……前だとは……思う……よ……」
そんなに前からだったのか。
それならば、翔鶴とほぼ同時期なのではないか。
鈍感なのはどちらだ。
「てっきり……翔鶴も、そのつもりなのかと……」
「こ、言葉にしないと分からないことだって有るんです!」
洋は気づいていたのだろうか。
幼なじみの、心境の変化というものを。
何となく、気づいていそうな気がする。
そして、ずっとほくそ笑んでいた気がする。
それで、洋は翔鶴の事をプッシュしていたのか。
成功すると分かりきっていたから。
……洋には一生勝てないかもしれないと翔鶴は思った。
ふと、頬を何かが伝う感覚がした。
雨、にしては温かかった。
涙だ。
それを自覚したとき、嗚咽が迸った。
懸命に止めようとした。
それなのに一向に止まってくれる気配がない。
むしろ、ひどくなっていく一方だ。
失敗しても泣かないと決めていた。
でも、成功したときのことなど考えていなかった。
「そっか……」
湊の呟きが、翔鶴の耳に飛び込んできた。
まだ、微かな嗚咽で、湊は気づいていないかもしれない。
「まだ、言ったこと無かったね……」
収まることを知らない嗚咽の中、
翔鶴は懸命に湊の声を聞いていた。
一文字たりとも聞き逃したくなど無かった。
「……好きだよ……翔鶴。これからも……ずっと……」
止まらなかった。
翔鶴は湊の胸のなかに飛び込んでいた。
そこで、声をあげて泣いていた。
湊の服に、翔鶴の涙が染みを作ってしまう。
何となく、それでも構わなかった。
湊に、自分の証を付けられるなら、それならそれで良かった。
湊のシャツ越しに、心臓の音を聴いた。
……普通だ。
何だか凄くずるい感じがした。
湊の腕が翔鶴の背に回され、ぎゅっと抱き締められる。
首や顔に、湊の髪が当たって凄くくすぐったい。
それでも、その感覚が心地よかった。
落ち着いたところで、湊が体を放す。
名残惜しかったが、翔鶴も湊に、もう一度伝えなければならない。
湊の顔を見た。
月明かりに照らされた、見たことの無いくらい真っ赤な湊の顔があった。
恐らく、翔鶴もそうなっているのだろう。
とてつもなく恥ずかしかった。
胸一杯に息を吸う。
そして、真っ直ぐに湊の顔を見た。
その透き通るような、水色の瞳を見た。
「私も、好きでした。三年以上前からずっと……貴方の事が」