戦争は終わった。たくさんの人が死に、たくさんの艦娘たちが海の底に沈み、そしてたくさんの深海棲艦も同じ場所へと消えていった。
それからいくらかの年月が経った世界で、少しずつ平和と言うものが戻ってきた世界で、二人は暮らす。
互いに傷ついた心を、寄り添いながら癒していくように。
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枕元で目覚まし時計のけたたましいベルの音が鳴り響く。しかし、まだどうにも眠い。昨日はそれほど遅くまで起きていたわけではないのだが、まあ、朝が弱いのは今に始まったことではない。
もぞもぞと身をよじり、毛布から腕だけを伸ばして目覚まし時計を止める。至福の睡眠時間を妨げていたいまいましい音が止まり、もう一度毛布の中にくるまる。
あと五分だけ寝て、そのあとに起きればいいか。なんて事を考えた瞬間、何者かに毛布を揺らされる。
「起きてください
真っ白な髪の毛を真っ直ぐに伸ばした女性が、ユサユサと毛布を揺らしている。
「······何?」
布団から少しだけ顔を出して、その女性と目を合わせる。いつ見ても真っ直ぐにこちらを見ている、意思の強い目をしているな、と改めて思った。
「何じゃないですよ。もう起きて、朝御飯を食べなくちゃいけないんですから」
「······あと五分」
「ダメです。そう言って起きたためしなんて一度もないじゃないですか」
それでも彼は頑なに起きようとはしない。それならばと女性は布団をつかみ、力任せに剥ぎ取った。まだ暖まっていない、冷ややかな朝の空気に晒され、彼は身震いをしてゆっくりと起き上がった。
「···酷い。あと五分で起きるって、言ったのに···」
膨れっ面で頭上から見下ろしてくる白髪の女性を見上げながら、彼、湊は未だ夢うつつな様子で言った。
うっすらと水色がかったた髪の毛が、まるで典型的な実験の失敗をした化学者のようにボサボサになっており、同じ色をした瞳も、まだ日の光に馴れていないのか、半開きになっている。
「あのままだと、お昼過ぎまで寝てしまいます。さ、早く朝御飯をいただいちゃいましょう」
背を向けて寝室から出ていこうとする女性に向かい、彼は声をあげる。
「······おはよう、翔鶴」
翔鶴、と呼ばれた女性がくるりと振り向く。満面の笑みをたたえながら。
「はい、おはようございます、湊さん」
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やっとのことで寝室から出て、酷い寝癖を整え、顔を洗ってから良い匂いのする居間へと向かう。中心においてある背の低いテーブルの上には、二人分の食事が並べてあった。
トーストにベーコンエッグ、サラダ、ヨーグルトと、彼らの朝は決まって洋食となっている。
流し台で水の流れる音がしている。翔鶴がまだ洗い物の途中であるようだ。いくら朝が弱いとはいえ、先に食べ始めるなどといった無粋なことはせず、彼女の横に立って洗い物を手伝い始めた。
「私は気にしなくて良いですから、先に座っておいてください」
申し訳なさそうに彼女は言う。これも彼女の優しさなのだろうが、それで、はいそうですかとはならない。というより人間としてなってはいけない気がする。
「······目を覚ますのにちょうど良いし、やるよ」
「でも······」
「······やるよ」
彼女も渋々といった様子で、彼と一緒に洗い物を続ける。食器を洗い、台に立て掛けるという単純な作業だ。二人ですればあっという間に終わった。
「······朝食、食べよう」
「はいっ!」
心なしか、少し嬉しそうにして彼女は返事をする。
笑っている顔は、見慣れているはずなのに、いつ見てもきれいだ。と彼は思った。
湊が先に座り、翔鶴が続けて向かい側に座った。二人で同時に手を合わせ、
「「いただきます」」
朝食を食べ始めた。
トーストの焼き加減は、こんがりとしっかり焼き目のついている方が湊の好みだった。一方の翔鶴は、あまり焼かず、生のパンに近い方が好きだ。長めの付き合いで、彼女はその辺りも熟知している。
ちょうどいい加減で焼かれたトーストに、ベーコンエッグをはさんでマヨネーズをかけてからかじる。いつも通りの味。でも、とても幸せな味。
「······美味しい」
思わず、と言うように湊の口からこぼれ落ちた言葉を、翔鶴は聞き逃さなかった。
「いつもと変わらない手抜き料理ですけどね」
そう言いながらも、嬉しそうな様子は隠しきれていない。少し微笑ましく思う。
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朝食を終え、二人で洗い物を終えた。
「······今日は、呼び出し、ないの?」
元艦娘の翔鶴は、不定期で鎮守府からの呼び出しを受けることがある。深海棲艦との戦いが終わったといっても、まだ残党は多く残っているのだ。それの鎮圧のため、艦娘という存在はまだまだ必要となりそうだ。
「はい、ありません。今日は、と言うより今日も、一日平和な日が続きますね」
角度をあげた陽光が降り注ぐ縁側で、翔鶴は湊を振り向きながら言う。白い肌と、白い髪が、光を反射して少し眩しい。それでも、彼女のその姿は、とても美しかった。
「鎮守府の皆さん、言っていましたよ?湊さんが艤装を整備したら、絶好調だって」
「それが、僕の本職だから······」
突然、翔鶴は湊の頬を人差し指で押す。んう、と、間の抜けた音が彼から漏れ出した。
「嬉しそう。湊さんの笑っている顔、私は好きですよ」
「僕、今笑ってた······?」
翔鶴は頷く。可愛い、と彼女はそう思った。
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ここは田舎で、周りには特になにかがあるわけではない。秋の手前、蝉が鳴かなくなってからしばらくがたつ。
ふと、となりに座っていた翔鶴を湊は見た。艦載機の妖精さんと、親しげに話している彼女がいる。
彼女は誰に対しても平等だ。いま彼女ら(?)に向けている笑顔と、いつも湊に向ける笑顔は何ら変わらない。一緒に暮らし始めるまでそう思っていた。いや、実際はそうだった。
でも、最近は違う。湊に向ける笑顔と、他の誰かに向ける笑顔は、曖昧で、雰囲気的な部分だが少し違ってきていた。
彼女の『特別』になれた気がして、少し嬉しい。
「どうしたんですか、湊さん?私の顔に何か付いてます?」
「······いや、何でもない、よ」
そうは言ったものの、翔鶴にごまかしが効かないということは湊も十分に理解していた。じとりとした目線でこちらを見上げてくる少し焦りながらも、包み隠さずにすべて明かす方が得策だと彼の結論は至った。
「······僕と翔鶴の距離が、少し、でも、縮まってたら嬉しいな、って············ね」
いきなりの恥ずかしい言葉に、翔鶴は耳まで真っ赤になる。彼はたまにとんでもない爆弾発言をやらかすから心臓に悪いと思う。
現役の頃、まだ翔鶴が艦娘で敵と戦っていた頃から、彼のことは知っていた。いつも工厰に籠り、自分達の艤装を油にまみれながら整備するどこか弱々しい彼の姿。
おまけに、今も同じだが、感情表現が希薄ときたものだ。彼の印象は、翔鶴にとってあまりプラスではなかった。
それでも、人生はどうなるのかは分からない。現に、今こうしてあまりいい印象を持っていなかった人と、共に暮らしているのだから。
「ふふっ」
「······どうしたの?急に」
急に笑った翔鶴に、少し怪訝な顔をしながら湊は問う。
「何でもありません」
何もないことはないだろう、と思うが、訊いた所で教えてくれそうにもない。
湊は空を見上げる。雲ひとつない秋晴れがどこまでも続いていたが、今日は風が涼しく、過ごしやすい日になるとか天気予報が言っていた気がする。
そういえば、先日久々に深海棲艦と戦った昔馴染みの艦娘から艤装の修理を頼まれているのを思い出した。
湊はゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
「何処かに行かれるのですか?」
「うん、ちょっと作業場まで」
届いている艤装は吹雪型だったか。そういうことを考えながら、彼は作業場まで歩を進める。
「湊さん!」
湊が振り向く。薄い水色の、男性にしては少し長めの髪がさらさらと風に煽られた。
「行ってらっしゃい」
彼はほんの少しだけ笑った。
「······行ってきます」
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こうして、何もない平凡な一日が過ぎて行く。
元々、文字通り命を削ってその日を生き延びてきたのだ。このくらいの幸せはあっても良いのではないかと二人は思う。
これは、翔鶴型航空母艦一番艦、翔鶴と、元鎮守府直属の整備員、
特に何もない、平凡な一日を綴ったお話。
ありがとうございました。
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