「……困ったものだ。思えば、あの時とは状況が違いすぎたか。失うものの大きさが」
「しかし、ここは私にとっても惜しい場所だ……小さな装備程度なら私にも開発できるが……満足に戦えはしないな」
「ここでちまちまと新しい兵器を開発するのも悪くはない。無人で動く艤装とか……無理か」
―――――記念館「投錨の間」
何時間経ったか分からない。私は眠るように息を潜めて蹲っていた。
外では爆音が響いている。今、外に出れば危ないだろう。ここはただでさえ港に近い。一歩でも外に出れば、深海棲艦と鉢合わせになるかもしれない。誰かに救われることは、二度目はきっとないだろう。
だから、「投錨の間」に私は身を隠した。
ここは1000回以上訪れた場所で、私がもっともも好きな場所。
彼女たちが生きていたことを最も実感できる場所で、今と100年前を繋ぐ場所。私には家と同じくらい安らぎを覚える場所。
なにより、私の憧れが私を見守ってくれる、そんな場所。
「……どうしよう、かな。お父さんたちは妖精さんの話だと無事だし」
そう言えば、ここ港の近くなんだよね……危ない場所なんだよね。
昨日、父にぶたれた頬がふと気になった。手で触れると、そこに昨日の痛みは感じない。
「お父さんごめんなさい……また約束破っちゃった」
心配してるだろうなぁ。お父さんもお母さんもお婆ちゃんも。でも、きっと大丈夫。みんな無事だし、ここにいれば安全なはずだ。最悪の場合、あの地下に逃げ込もう。
じゃあ、ここじゃなくてあの部屋にいた方がいいのかもしれない。でも、あの場所に戻るのには勇気がいる。
ふと立ち上がろうとしたら、お腹と背中、それに肩と脚に痛みが走った。
そう言えば、ラクちゃんと喧嘩したんだった。きっと向こうは本気じゃなかったはず。手を抜いたはずだ。
でも、私を行かせないと言ったあの気持ちは本物だったはずだ。
その想いさえ振り切ってここまで来た私は今何をしている?
ゆっくりと腰を下ろして、その手を解いてしまった友人のことを思い出した。
ラクちゃんも怒ってるだろうなぁ。もう絶交かも。
ラクちゃんは現実的だ。艦娘が嫌いだ。でも、言ってることは大体正しい。
理想が現実に必ずしも追いつくとは限らないことも、憧れだけじゃいけないことも、知っている。それじゃ、何も守れないことを……何かを犠牲にして、自らを犠牲にしないと、何も守れないことを。
「この町は守りたいよ……でも、いざ戦う手段を手に入れたとなると……分からないよ」
覚悟が揺らぐ。思いの強さだけでは足は前には進まない。スタートのラインを超える程度の表現では足りない。
一体、彼女たちはどうやってこのスタートラインを越えることができたのか?
いや、どうやってそこに立つ勇気を手に入れたのか。
妖精の話だと、彼女たちは作られた存在だ。在りし日の戦船の魂と、共に戦った多くの英霊たちの魂を携えた存在だ。だとすれば、彼女たちの戦う理由はきっと変わらない。彼女たちが船であり沈んだあの時代から変わらない。
「国」のためなのか?
そんなはずはない。彼女たちはただの鉄の塊ではなかったのだ。平和を祈ったその身には他の想いがあったはずだ。彼女たちだって、最初は戸惑ったはずだ。人間の体を得て再誕した時には困惑したはずだ。
そこから戦いに挑むまで彼女たちには何か思うものがあったはずだ。それは一体何なのか?
「艦娘って……なんなの?ねえ、教えてください」
見上げた空間に広がるのは、多くの戦いの跡が刻まれた艦娘たちの一部。
艤装という彼女たちの命のような存在が私を見ている。そんな空間で問いかければ、なにか答えが得られると思った。
「私にはあなたたちは憧れ――――どこまで行っても『憧れ』のまま。私にはあなたたちのようになる心がない。勇気がない」
突然、疲れが押し寄せた。
思えば、今日は散々な一日だった。親友と喧嘩して、町を走って、イ級を初めてこの目にして、必死で生き延びて、妖精に救われて、ここまで逃げてきて。
妖精に、艦娘になれる素質があると教えられて―――私の頭で収まる容量を超えることが半日の間に起き過ぎた。
「素質があると言われても……妖精さんが見えても……臆病な人間でしかない。私は弱いもん……」
疲れに身を委ねて、私は静かに瞼を閉じた。
背後にあるショーケースに体重を預け、ゆっくりと意識を手放していく。
すぐに視界は暗転して、意識は深く沈んでいった。どれほど疲れていたのだろう。
音も光も手放して、私の身体は休もうとする。
だが、それを拒むかのように誰かが私の手を引き上げた。
『――――今、君はスタートに立てた』
「え?」
その声は私の弱い考えを否定した。
*
ほどよく冷たい風が頬を撫でる。耳の奥でさざめく波の音が響く。
「えっ……えっ?なにこれ」
私は目を擦る。自分の目を疑い、それが現実かどうかを確かめるために。
しかし、私の目に映る景色は一切変わらない。眼前に広がる夜の海。月の光は水平線で広がってこちらに伸び、丸い満月が深い青のスクリーンに浮かび上がっていた。
そして、感じる気配。膝を抱えて座りこける私の隣に誰かが立っていた。
結構、高身長で下から見上げると艶やかに伸びた黒い髪が海風に靡いているのが窺えた。肩幅に足を開き、その眼は遥か先を見据え、胸の前で腕を組み静観と佇む姿は凛として美しく、勇ましくて力強い。
「―――――君は自分の無力さを知った。その無力さを受け入れた。スタート地点に立った。戦う者として」
「あれ?確かに聞こえる…夢じゃない…あなたは……?」
彼女はこちらを見下ろすとキョトンとした顔をした。
「訊かれたことに答えたまでだが…おかしかったか?少なくとも私はそう考えている。最初は誰だって無力だ。そのことは誰もが知っていることなんだと」
私は困惑していた。
一体、この女性は誰なのだろうか?私が訊いたことに対する答え?
ダメだ、さっぱり分からない。
それよりもここはどこだ?私は艦娘記念館にいたはずなのに、気が付けば全く知らない場所にいる。レンガ造りの建物、遠くに見えるクレーン、扉の開いたドック、周辺を照らす夜間灯。
そして、女性のすぐ側に置かれた――――41㎝連装砲を携えた艤装。
「……あっ」
「なに、迷うことはたくさんある。そもそも、戦いの先に答えなんてないんだ。だが、戦わずに仲間が散っていく様を見るのは後悔が残る。自分の弱ささえ乗り越え、友の隣に立ち、戦い、守る。明日も生きるためにだ」
それが私の戦いというものだ、と言って女性は私から目を離して再び遠くに目を向けた。
間違いない。
彼女たちの姿は写真として後世に伝わることはなかった。だから、その姿に確証こそないが……
その艤装を持つ者は艦娘史において数えられるだけしかいない。何よりもそれは、私が1000回以上目にしてきたものだ。
この人は―――――――
「でも、生きることは戦うことなんです。それは人間も私たちも同じ。いいえ、私たちが戦船として鉄の塊であったころから変わりませんよ」
背後からした声に私たちは振り返る。
「避けられぬ戦いの中で必死に運命に抗って生きていくのです。厳しいことかもしれませんが」
そこに立つのは、弓道着姿の女性。長く黒い髪に赤い袴を履き、まっすぐに私を見る目は力強く、射抜くような鋭さを持つ。
肩から飛行甲板を下げ、手には弓、背には矢筒を背負い、まるで戦に赴く弓兵のような佇まいであった。
「なんだ、お前も来たのか?」
「ええ、気になるものがありましたので。私もお力になれればと」
胸当てと飛行甲板に記された識別するための「ア」の文字は忘れもしない。
「どうして……あなたたちが……?」
「その答えは……すでに得ているのではありませんか?」
分からない。どうして私はこんな夢を見ているんだろう。
私がすでに得ている答え。こんな夢を見ている理由を私は知っているのだというのだろうか?
弓道着姿の女性は、悩む私の姿を見てか優しく微笑んだ。
「私たちは神の悪戯が生んだものではありません。多くの祈りと願いが、身体は朽ちても魂こそは戦い続けようとした多くの想いが作っているのです」
「それでも、人間の身体を得たというのは不思議な感覚だ。だが、悪くはないものだ」
その言葉にようやく彼女たちが何者なのかの確証を得た。
彼女たちは――――――
「怖いですか?」
「え?」
弓道着の女性は私の顔を見てそう訊く。そっと胸に手を当て、笑みは消え瞳は揺れる。
「時には多くの死を見ることもあります。多くの別れがあります。何度も挫けそうになります。守るはずだったものが、共に生きていくはずだった者たちが目の前で散っていく」
怖いですよ、私たちも、と彼女は言った。少し弱弱しく笑って見せながら。
「『あの時そこに私がいれば』と思ったことは数え切れないな。たられば、の話ならば数え切れないほどある」
少し視線が落ちて、横顔に悲し気な笑みが浮かんでいた。もう会えない、遠くにいる誰かを懐かしむような、そんな笑みを。しかし、彼女はすぐ顔をあげる。振り返らぬように、立ち止まらぬように。
誰かに「立ち止まるな、振り返るな」と背を押されているような強い光を眼差しに宿して。
「だが、そんな戦いの中で強さを知る。私たちは自分たちの弱さを知って、強さの意味を知っていく。失ったものさえ力に変える。悲しみも、苦しみさえも、踏み越えていく」
「失った人たちの優しさが、強さが、私たちに力をくれます。そして、誰も失いたくないという強い意志を生みます」
「怯えず、挫けず、大切なもののために戦い抜く想い……それが強さだ」
「私は……私は……」
きっとこの二人の言葉は本物だ。夢だとしても本物なのだろう。
多くの仲間を失い、それでも戦い続けてきた。その果てで得たゆるぎない強さ。
彼女たちを伝説たらしめる多くの武勇がそれを証明する。
だが、一つだけ納得できない。
私と彼女たちは違うのだ。どれだけ近づこうと同じになることはできない。
「失ってからでは遅い。お前は何かを失う前に、自分の弱さを知ることができた。争いのない平和な世界の中でそのことに気付けたんだ」
「ええ、自分の力に慢心せずに、あなたは自身を弱いと認めることができた」
私は弱い。それは彼女たちのいうような「弱さ」じゃないのだ。
「やめてください……私は自分の弱さを知っても、あなたたちのように強くはなれません」
力が強いのか?いや違う。
心が強いのか?いや違う。
本当の強さとは、己の弱さを知るところから始まる。それは確かにその通りだろう。
だが、私には「弱さに気付けるだけの強さを持っていた」としか考えることができないのだ。
「あなたたちには元々、力があった。強さを得るだけの力が。それは私にはない。たとえ、弱さを知ったところで何になるんですか?」
何度も言葉にせずに否定し続けたのは、少しの成長だったのかもしれない。
憧れと言う言葉さえ言い訳にし続けてきた私が、私自身を否定する。
「ならば、すべて諦めるのか?」
隣に立つ女性は小さな声でそう問いかける。
「何かしたところで何も変わりませんよ。私には何もないんですから」
「大丈夫……あなたならできるよ」
別の少女の声。他にも誰かいるのか。
この際だから、全部吐き出してやる。この人たちは私の「憧れ」なのだ。
だったら、全部聞いてほしい。
「だから、私は―――――」
立ち上がって振り返る。思いっきり息を吸って私は叫ぶように声をあげた。
振り返った先にいた優しく微笑む少女の姿に私は言葉を失った。
「大丈夫。あなたは私たちを愛してくれたから」
「あ……ど、どうして……?」
夢の中で目を疑うことも耳を疑うこともするとは思いもしなかった。
いや、夢なのかどうかは分からないが、少なくともこのビジョンで、私がこんなことを体験するとは思いもしなかったのだ。
そこには、紛れもなく私がいた。
「私たちの愛するこの町を愛してくれるから、あなたは強くなれる。愛する者があるから強く立てる」
動けなくなった私にゆっくりと歩み寄り、小さな子どもに絵本を読むかのような優しい声で、その少女は語る。
「どんな敵にも負けない強い想いがあなたの中にはある。今は気づかないかもしれないけど、それは勇気になる。どんな困難の中でも光る最強の武器に」
「……勇気?」
「私たちがあなたの背中を支えてる。あなたが愛する者たちすべてがあなたの背中を支えてくれる。あなたがしっかり立てる強さをくれる」
海風が強く吹き抜けて、私は咄嗟に髪を押さえて、眼を閉じた。
ゆっくりと目を開くと、多くの気配を感じた。夜闇に紛れてはっきりとその姿を見ることができないが、間違いなくそこに立っている。
海岸線に一列に。その全員が各々の艤装を身に付け。
「だから、あなたは戦える。私たちがそうであったように、誰かを護りたいと願い続ける限り、私たちは戦う」
一体、どこへ向かおうというのか?
彼女たちは何のためにそんな装備を身に着けているのだろうか……?
……護るため。
「最強の武器が私たちにはあるから―――――」
力なく垂らしていた私の手をそっと両手で包み、少女は笑った。
温かかった。そして、声を感じた。
あぁ、この声は知っている。
お父さん。お母さん。お婆ちゃん。ラクちゃん。クラスのみんな。学校の先生。港のおじさんたち。市場のみなさん。道ですれ違うおじさんやおばさん、公園で挨拶を交わすお爺さんやおばあさん、熱心に展示品を眺める私をそっと見守ってくれる記念館の館長さんたち。
その他にも、自警団の方々。交番のお巡りさん。病院の先生。消防署の消防隊の方々。
この町には声が満ちている。
私を見守る声が。私を包み込む声が。私を支えてくれた声が。
この声が深海に沈み消えてゆく。二度と声も光も届かぬくらき海の底へ。
ダメだ。それだけは絶対に―――――
ガシャンと大きな鉄の塊が動く音がした。
私の隣で海を見ていた女性が、傍らに置いていた艤装を身に着け、精悍な眼差しで私をみた。その反対側に弓道着姿の女性が立つ。ちらりと私を見て微笑むと、小さく息を吸って真剣な表情となる。
「私たちはこの町を愛している」
「この町を失いたくありません」
「たとえ、この身を失い、この拳を振るえずとも」
「たとえ、この身を失い、この矢を射れずとも」
「この町を愛する友として、あなたの背中を支えることならできる!!」
「この町を愛する友として、あなたの背中を支えることならできます!!」
多くの影たちが海へと進んだ。二人の女性もその後を追うようにして足を海面に付けた。
「だから、お願い――――この町を守って。未来を繋いで」
ぎゅっと手を握ると、彼女も海へと駆け込んだ。いつの間にかすべての艤装を身に着けて。
「大丈夫、安心して」
そして、振り返り私を見る。大きく横に手を広げる。私はそれに釣られて遠くを見た。
「私たちが付いているから!!あなたならきっと届くよ!!護りたい人にその手が。叶えたい夢にその手が!!」
私の視界一杯に広がる私の「憧れ」の隊列。
不思議な気持ちが。言葉だけで紡がれてきた彼女たちの存在がこんなにも近くにいるのだ。
本当はその姿をはっきりと見たいし、飛びついて話を聞きたいし、やりたいことは山ほどあるのに、卑屈になりすぎた私は自分が何が好きだったかさえ忘れ去ってしまっていた。
―――そこまで私は行けるだろうか?私にはなれるのだろうか?
誰かを護れる存在に。この世界を護れるそんな何かに。
「あなたは誰?どうして私の姿をしているの?」
「すぐに分かるよ。あなたは自分で答えを見つけ出す」
水平線から日が昇る。
訪れた暁は私の目に映る世界を徐々に白く白く染めていく。
意識さえ白く染まっていく世界の隅っこで、勇ましい誰かの声が響き渡る。
波として私の脳の中で揺れ続けるその声は、不思議と不快なものではなく、私を鼓舞させる力強さを持っていた。
*
きっとラクちゃんに話せば頭の病院に送り込まれるだろう。妖精のことも、展示ホールで見たことも。
『艦娘になる素質』なんて、まるで夢物語だ。幼稚な夢を綴ったちょっと痛い小説みたいな。
夢だ。こんなのきっと夢なんだ。私の見てるおかしな夢。
夢―――――私の夢は何?
そんなもの決まっている。堂々とラクちゃんの目の前で言い放って見せたじゃないか。
だったら、やるべきことは1つだ。
「―――――妖精さんッッ!!」
階段を駆け下りて部屋に飛び込んだ私はすぐにその姿を目で探しながら叫んだ。
「戻ってきたか。ちょうどよかった。今、無線で面白い話を聞いた――――っと」
その姿を見つけると、迫り寄って机を両手で叩いた。
「……どうしたんだい?もう君を艦娘にしようだなんて思ってはいないよ」
「私の夢はッッッ!!!」
走った分の息切れと、変に叫んでしまった分で、空気が足りず息が詰まってしまった。
呼吸を整えるために落ち着いて深呼吸をする。
呼吸が落ち着くと、不思議と頭の中も澄み渡っていった。だが、この身体の中心で高鳴る鼓動は収まる気配がない。
「……私の夢は、私の大切な人たちが笑ってくれる未来を作ること。艦娘がこの世界を守ったように、誰かの幸せを守れるような何かをすること。この世界でよかった、って言ってもらいたい。だから……だから……っ!!」
言葉を選ぶ。自分が何をやるべきなのか。
それは逆算だった。私がしたいことのために、何が必要なのかを。その答えは、
「―――――私の作る未来に、あいつらは必要ない」
声を絶やす存在を葬り去る。それだけだ。
過激な発想かもしれない。自分に都合の悪いものを排除していく考えは確かに危険だ。
でも、仕掛けてきたのは向こうだ。逃げ続けても死を待つだけだ。戦わなきゃいけない。
戦いには理由がいる。戦いには戦う術がいる。
理由は既に得た。後は、戦う術のみ。
「私は艦娘になる」
卑屈になりすぎた私の頭が夢から覚めたような感覚だった。
一気に靄が晴れていき、この身体に強い柱を一本打ち込まれたかのようなしっかしとした芯を感じていた。
憧れなどという言葉を言い訳と呼ぶのはもうやめよう。
イ級の姿を目の当たりにした私は恐怖を実感し臆病風に吹かれていたのだろう。
明確な死と言うビジョンが刻み込まれてしまった。だが、それでもその弱さを一歩目と彼女たちは言った。
何もかも受け入れよう。私が艦娘に憧れていたことも。戦うことが本当は怖いことも。ラクちゃんが言っていたこともすべてを。
そんなものよりも、私の想いの方が、今はずっと強いはずだ。
「……いいだろう。装置に横になるといい。事態が少し変わってきたからね、急ピッチで進めることにしよう」
妖精はあっさりと承諾した。
先程まで、もうあきらめたという感じだったのに、まるでこうやることを知っていたかのように、準備を始めた。
「……いいの?本当に私で」
「君には素質はある。だからと言って、成功を約束できるわけではないが……何でかな、失敗する気がしない。そこに靴を脱いで横になるといい」
横になってみて歯医者さんのベッドのようだと思った。
「これを頭に被れ。力はできるだけ抜いておくことだ。それと何も考えないこと。余計なことは考えない方がいい」
目元まですっぽりと隠してしまうヘルメットのような機械を渡され、妖精の言葉に従い頭に被って横になった。
深く息を吐いて目を閉じる。不思議と緊張はなかった。体の力はゆっくりと抜けていった。
すぐ近くでカチカチと装置をいじる音が聞こえる。
「妖精さん……私は艦娘に憧れていた。彼女たちのような英雄になりたいと思った」
「英雄か……物語の主人公、ヒーローやヒロインはいつだって特別な存在だ。彼らは周りとは違う。でも、彼らのような存在でない限り、物語は始まらないんだよ。まあ、彼らにもそうなった理由があるんだろうけどね」
ある人はそれをご都合主義というけどね、と言いながら妖精がコンソール板を操作するピピピという音が響いていた。
「主人公都合がいいように物語が進むからね。でも、それは物語のせいなんかじゃないんだ。物語は主人公に支配される。そうなっているんだ。その世界もね……主人公という存在には逆らえない。そもそも、そうじゃないと物語は生まれない」
「語り継がれる者にも語り継がれる理由があるんだよね、実話にせよ、創作にせよ」
「そういうことだ。まあ、何が言いたいかというと、都合がいいことが君には起こるだろう。そもそも、私がこんなところにいること自体が都合がよすぎるんだ」
「やっぱり偶然じゃなかったんだね。でも、それは……きっと私のせい」
だとしたら、私はなれるのだろうか?
語り継がれる存在に――――伝説として語られる彼女たちのような存在に。
ふと、身体がベッドに沈み込むような感覚がした。ちょっとだけ触覚がおかしい。ぼんやりとした感触しか感じなくなる。
「さて、始めよう。最後に……君の名前を聞いておくよ。知ってると思うけど、君は艦の記憶を背負う。混濁して君は自分の名前を忘れるかもしれない」
「私は―――私の名前は、
「……分かった。いい名だ」
「ありがとう」
ガシャンとレバーを下ろす音が聞こえて、私の身体は装置ごと動き始めた。
「すぐに意識が薄れていく。20分くらいしたら勝手に目が覚めるだろう。変な夢も見ると思うが、変に考えちゃダメだ。じゃあ、お休み」
何も聞こえなくなる。何も見えなくなる。意識があるのにすべての感覚が消えていく。
その意識も徐々に薄れていく。五感のすべてを失った世界で意識を失っていくのは、とても不思議な気持ちだった。
とても、不思議な光景だ……真っ白な霧の中にぼんやりと立っているみたいな。
海を、空を割る轟音が響き、鉄を砕く音が鼓膜の奥で反響した。不快な音。揺れる身体に定まらない視界。
自分の意識以上に大きく感じる身体と、自分の目では到底捉えきれない世界を見渡す私の視覚と聴覚。
規則的に響く機械的な音が波打つ世界に広がっていき、走るノイズが形となって私の意識に伝わる。
波を割いて進むこの体は全身に風を受けて、熱いほどに高まる英霊の士気を冷まそうとしていた。
この鉄の体が融けるほどに熱い。
大日本帝国海軍ワシントン条約下特型駆逐艦第三十五号駆逐艦
一九二六年六月十九日舞鶴工作部より起工一九二七年十一月十五日進水一九二八年八月十日竣工
二段式甲板革新的外洋航行性能駆逐艦の重武装化の実現12.7cm50口径連装砲3基7.7mm機銃2基61cm三連装魚雷発射管3基9門艦本式タービン2基2軸艦本式ロ号専焼缶4基
第十一駆逐隊編制
一九三一年第二十駆逐隊編制
一九三五年第四艦隊事件
一九三六年第十一駆逐隊編制第二航空戦隊編制
一九四〇年紀元二千六百年特別観艦式
一九四一年第三水雷戦隊編制マレー半島上陸船団護衛ボルネオ島攻略戦クチン攻略作戦船団護衛
一九四二年エンドウ沖海戦バタビア沖海戦北部スマトラ掃蕩作戦アンダマン攻略作戦
ベンガル湾機動戦ミッドウェー海戦ガダルカナル島の戦い
一九四二年十月十一日 サボ島沖海戦 沈没
一気に文字が流れ込んでくる。不規則な順に『私』の記憶を塗り替えていく。
鉄の塊、硝煙の匂い、潮の香り、油の匂い、冷たい魚雷、知らないはずのそのすべてが懐かしい感覚へと変換されていく。
青く…青く…溶けていく。私は海に抱かれている。
ゆっくりと沈んでいき、私は『私』に出会う。
青と黒の境目、暗い海の底で、私の目に映る一番星のように輝く一つの光。
その形は美しいまま残っていた。少しの傷もなく、海の底で静かに眠っている『私』。
そっと触れた船体は心なしか暖かく感じた。多くの人の温もりを感じた。多くの人の声を感じた。
笑い、泣き、叫び、歌い、囁き、怒鳴り、
呟き、祈り、励まし、紡ぎ、恨み、語り、勇み―――
幾多の声は私の中に溶けていく。溶けそうになるほどに、この身体は熱を帯びていく。
二X三九年 横須賀工作部により建造第五次東京湾防衛作戦
二X四一年 沖ノ鳥島沖戦闘哨戒、鉄底海峡攻略作戦
二X四二年 ピーコック島攻略作戦、AL/MI作戦
二X四三年 第二次SN作戦FS作戦、第二次本土防衛作戦
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二X六五年 横須賀工廠にて解体
連休中には一章は完結させる予定です。
ようやく艦これタグ詐欺が終わります…ふぅ