艦娘が伝説となった時代   作:Ti

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誰そ彼

「御雲、入るぞ」

 夜も更け静まった臨時基地。その一室はまだに光を落とさずに机に向かう男が1人。

 ペンが走る音だけが響く部屋にノックの音。眼帯をした怪しげな男が1人訪れる。

 

「どうした、こんな時に? 忙しいから手合わせには応じないぞ」

 そう言って横須賀鎮守府司令官・御雲(みくも)は、眼帯をした男佐世保鎮守府司令官・天霧(そらきり)の腰に目を向ける。いつものように帯刀していない。どうも見当違いだったかと次は顔を見た。

 

「流石にそこまで俺も馬鹿じゃねえよ」

 

「まあ、そこに座れ。天霧に出してやるのは少しばかり惜しいが、コーヒーくらい淹れてやる」

 御雲は席を離れると近くの棚から小さな袋を取り出して、給湯室の方に向かった。

 

「そりゃどうも……」

 自然に招き入れられたことが些か肌に合わず、部屋の片隅に置かれた小さなテーブルの前に座る。椅子は4つ用意されていたのだが、恐らくこの椅子は使われることはないだろう。

 

 少しして御雲が天霧の前にカップホルダーに紙コップを填めたカップでコーヒーを持ってきた。

 

「珍しい。アンタが紙コップだなんてな」

 そう言いながらも天霧は貰ったコーヒーを啜る。体面に座った御雲は自分の分をテーブルに置いた。

 

「予め用意したものだと毒を盛られる可能性がある。これは護衛が最寄りの町で買って来たものだ。ついでにお前に毒味をさせたのだが、大丈夫みたいだな」

 

「相変わらず俺への扱いが酷いねえ……話したいことは3つだ。なぜか今じゃなければいけない気がしてならねえから無理を通してこうして来た」

 

「なんだそれは?」

 大人になりきれない青年、そう言った印象しか持っていなかった男だったがこの時は雰囲気が違った。いつもは敵視しているはずの自分に何かの覚悟を決めたかのような表情で向かい合っている。敵意もない、寧ろ敬意すら窺える。

 

「胸騒ぎだ。重要な作戦中にこんなことを言うのは縁起が悪いのは分かっている。それでも感じちまったもんは仕方ねえ。思い立ったが吉日なんて言葉もあるもんだ」

 

「……珍しく深刻な顔をしていると思えば、それなりにまともな話のようだな。30分、それ以上はお前に割いている時間はないぞ」

 敵の1つの拠点を潰す重要な作戦中であった。海軍だけで動いている訳ではない。かつては有り得なかった陸空の協力を得て北方の地でこれほどの規模の作戦を展開している。

 1分でさえ惜しい。1分でさえ無駄にできない。それがこの作戦の総司令官たる存在の責任であった。

 

 だが、この時ばかりは譲歩すべきだと思った。

 寧ろ好都合だったのかもしれない。気の余裕を失って根を詰め過ぎていたような気がしていた。

 自分のコーヒーを啜る。そう言えば水分補給さえ怠っていた。いつもなら秘書艦が何かしら出してくれるものが今日はないせいだろうか。久し振りの水分に冷えてしまった身体が蘇る。

 

「充分だ。1つは先日の作戦の件だ。うちの駆逐艦のせいでアンタのところの戦艦が中破した。軽い損傷でもない。修理にもそれなりの資源を消費した。その謝罪だ」

 横須賀鎮守府在籍の戦艦《山城》の中破、戦艦にこれほどの損害を受けたことがとても小さな事とは思えなかった。それが部下である駆逐艦の失態が原因ともなれば、時代が時代ならば死を持って償っても仕方のないことだ。

 

「目的の艦隊は破壊した。恣意的な失敗で作戦に影響を与えたならまだしも、ここは北方海域。十分な練度を積んだ艦でも、不幸の重ね合わせで損傷することくらいある。俺もそんな簡単な作戦だとは思っていない。あまり気に病むな」

 痛手ではあった。だが、その程度のことを考慮できずにこの地に赴いた訳ではなかった。

 時には中破もしよう。大破もしよう。艦娘でさえ所詮は運に支配されてしまう存在なのだから。艦娘の提督たる自分たちが為すべきことはそれが最悪の結果に結びつかないように、選択することだけ。常に最適の選択をできるようにあらゆることを想定してこの地に赴いた。

 

 気にしていない、と思わせるような御雲の声の軽さに、天霧も長引かせる必要はないと察したのだろう。小さく息を吐いた後この話題を早々に切ろうと決めた。

 

「そうですかい。じゃあ、この話はこれまでだ。2つ目、例の件だ。表に蜻蛉(あきつ)の野郎を見かけた。お前の護衛だろう」

 

「お前には必要ないだろうと大本営は判断して、護衛はなしにしたそうだな」

 

「居ても邪魔なだけだからな。俺から断ってやった……海軍将校が5人、陸軍将校が3人、JADF関連で3人。いずれも艦娘関連の部署の奴らばかりだ。単刀直入に訊くぞ。敵は何だ?」

 事は経験のまだ浅い若い提督たちに背負わされるにはあまりにも深刻であった。

 作為的に行われていることは明らかであった。だがまるで意図が読めない。ただ、とてつもない脅威であることばかり分かるだけなのだ。厳重な警備を掻い潜り、次々と軍人を殺していく得体の知れない存在。

 

「敵か……」

 御雲の沈黙は長かった。1分ほどだったのかもしれないが2人しかいないこの部屋に流れる時間にしては長すぎるものであった。口がやけに乾いた。天霧がカップに手を伸ばした時、御雲が口を開いた。

 

「天霧、この話はなかったことにしないか?」

 カップに手を掛けたまま止まった。沈黙を割いた御雲の言葉は、天霧の予想をはるかに超えるものだった。期待以上ではない。逆だ。天霧の知る御雲という男が口にするとは思えない逃避であった。

 

「……っ、チッ。じゃあ、勝手に話させてもらうぞ。俺が佐世保に着任してから呉と合わせて20件以上の密航船を処理してきた。中にはただの密輸や密入国なんてのもいたが、多くは石油、火薬、ボーキサイトなんてものだ。この意味が分からねえ俺じゃねえ。その出所はあの得体の知れねえブインの奴のお陰で見当がついた。あとは外交上の問題だったが今回の事件だ。現体制に大きな影響を及ぼしかねない、艦娘によって成り立っていた100年の平和が崩れ去るかもしれねえ」

 

 底知れぬ不安。同時に溢れ出す焦り。ここに留まっていては食われるという不安を拭いきれないのに、今にも掴まれそうな足を動かせずにいる焦りだ。野生の勘に近いものなのかもしれない。天霧は生まれつきそのようなものが自分の中にあるような気がしていた。だからこそ、眉ひとつ動かさない御雲と対照的に自分はこんなにも凸凹の感情を支配できずにいるのかもしれない。

 

「3つ目の話だ。艦娘の技術は本当に俺たち海軍だけのものなのか?」

 見当違いな質問だったような気がした。ただそれ以上に最悪の事態を想定できなかった。

 

「お前は何の為に法律なんてものがあると思う?」

 質問に質問で返されたことが天霧を苛つかせる。だが、時間を割いてもらっている立場、過去のように我儘に大きく声を挙げることはできなかった。相変わらず眉ひとつ動かさずカップに口を付けている。

 

「は?何の話だ……んなもん社会秩序の為だろう。法がなければ人間の判断の尺度なんてもの良心の呵責に全部委ねられちまう。それじゃ悪意に囚われたサイコ野郎どもをしばく事ができねえし、口が上手い奴に乗せられて国家そのものが潰されることもある」

 

「間違っちゃいないな。法律ってのは規範だ。『この通りにしなさい。そうすればみんな何も困りません』というものだ。それは総意でもある。妥協と譲歩の折り合いをつけたものでもあって、人に求める誠実さの基準を与えるものでもある。俺はそう思っている」

 

「違うのか?俺よりアンタは賢いだろう、それでいいんじゃねえのか?」

 

「ただ、その度に思うんだよ。その基準に収まらないものはいくつも存在しているだろうと。だからこそ『過ち』なんてものが生まれてしまう。裁きが必要となる。人の感情に斟酌をかける。完璧な法なんて存在しない。人間を何かの型に収めることなんて不可能なんだと。特に人間の感情と言うものは計り知れない。どこまでも抑え込むこともできれば、どこまでも広げることもできる。なあ、天霧よ」

 

 

 

「それは世界に対しても同じことなんじゃないのか。そう思ったことはないか?」

 

「そんなこと考えたことねえよ。ただ……人間の感情が成り果てたものならいくらでも見てきた。アレがそうだと言いたいのなら、その通りだろうよ」

 

「あぁ、溢れ出してしまった者は……零れ落ちてしまった者は、世の理から外れて形を成してしまった」

 空いたカップを置いて席を立った御雲は近くの窓から外を覗いた。ブラインドを指で下げて外を見る男など刑事ドラマなどでしか見たことがないものだが、白い軍服で夜闇を覗く姿は随分と様になっていて癪だった。

 窓の外は海が見えているはずだ。海と空との境界さえあやふやな闇しか、この時間には広がっていないが。

 

「2つ目の質問に答えよう。これが敵だ。何度も分かっていたはずだ。いつの時代だって人間の敵は人間そのものなんだ。分かるか?誰のものであったのか分からない。それは紛れもない『感情』だ。両の手でも数え切れないほどの、人という器で支えきれないほどの」

 

「それじゃ今までと変わらねえだろ。俺が訊きたいのはそんなもんじゃねえよ」

 

「そして、感情は伝播する。受け継がれる。更には刻み付けられる」

 

「……それで?」

 

「流石にそこから先は俺も見当がつかん。ただ、敵は意外に近くにいる。もし心当たりがあるのならば、それが敵かもしれないな」

 

「仲間は疑いたくねえか?友人も血族も……違うな。疑えないんだな」

 

「あぁ、俺は意外と汚い人間だからな」

 

「それは知ってる。仕方ねえな、それでいい」

 

「3つ目への解答だ。それは分からない。元々艦娘の技術が人間のものではなかったのと同じように。混戦の最中、日本で見つけ出されたこの糸口を諸外国に提供していたことは周知のことだ。どこからか漏れ出したかもしれない。ブインのようにいつか訪れる有事に備えていた場所を偶然見つけて、それを偶然クレイン殿のような資格ある者が目覚めさせてしまうかもしれない。もしくは……」

 

「もしくは……なんで黙る?」

 

「自然発生したか、だな」

 変な笑みを浮かべてそう答えた。似合わない笑みに天霧は思わず顔が引きつった。

 

「艦娘が、か?『転生(ドロップ)』のことを言ってるなら勘違い過ぎるぜ。あれは艦娘の手で葬られることが前提のはずだ」

 

「あぁ、流石に俺も焼きが回ったか。忘れてくれ」

 そのまま御雲は執務机に戻った。世間話の時間は終わりだ、帰れとの意味だろうと天霧は察して席を立つ。

 

「いつか酒の肴にしてやる。邪魔したな」

 空いたカップをそのままにして、天霧は背を向けたまま礼の代わりに右手を挙げた。

 

「コーヒーは美味かったか?」

 扉に手を伸ばした天霧に御雲が言った。

 

「いや、うちの軽巡が淹れた奴の方が美味い」

 

「俺もそう思った。よくよく考えればコーヒーなんて淹れたことなかった」

 

「秘書艦サマが恋しいか? お前のところの優秀な駆逐艦が」

 

「どうなんだろうな。俺にはよく分からん。ただ、あちらが任務に力を注いでいる以上、俺もそう簡単に弱音を上げてなんかいられない」

 

「だろうな。お前がケツを蹴られる姿が容易に想像できる。じゃあな」

 部屋の外に出た天霧の歩みは少し早かった。少しでも早く御雲の部屋から離れたいと思わせるかのように。

 

 ある1つの頼りからだ。こんな時代に墨で書かれた手紙、そんなものが送られてきてからだ。

 本来こんな場所にいる訳のない自分がここにいるのが仕組まれたかのような気がしているのは。

 

 御雲や鏡は表側の人間だ。その祖先の艦娘が表舞台で人間社会の復興に尽力し、今に至る。

 一方で天霧は本来は裏の人間だ。同じ裏の人間でも証篠だけが少し違う。証篠は表と裏の両方の顔を持つ一族であるが、天霧は根っからの裏の人間―――人斬りなのだから。

 

 それがどうだ?佐世保の拠点の責任者、世界を救う艦娘という存在の司令官のような存在になった。

 一体いつからだ? 親にこの眼を疎まれ破門されたときか? 不良共をまとめて小さな反社会勢力の頭をやっていた頃、御雲に出会ったときか? どこから仕組まれていた?

 

 まあ、今は仕組まれていたのかなんてどうでもいい。どちらにせよ自分は都合のいいような場所に居てしまったために利用されてしまっているのだから。不思議とそれが悪い気持ちでないのは、利害の一致の為か。

 

「最後の最後で誤魔化しやがったな」

 足を止めて、遠く離れた御雲の部屋に左目を細めた。

 ポケットから小さな端末を取り出すと素早く番号を入力し、発信した。こんな辺境でも電波が届くのは技術の賜物だろう。北の果てから西の果てへの電波が飛ぶ。

 

「俺だ、クソジジイ。御雲はシロだ。いや、グレーだな。黒にならないように必死に白を混ぜてやがる。コーヒーにミルクをぶち込んで苦さを紛らわしてるみたいにな。あぁ、全くだ。ガキみたいなことしやがった。あ?さっき不味いコーヒー飲まされたからだよ。うるせえ、殺すぞ……へえ、俺にはどうしようもねえぞ? それほどの地位の奴に顔合わせてもらえる資格すらねえからな……じゃあな」

 手早く会話を終えると海の方に向かって端末を投げ捨てた。遠くで水が跳ねた音がした。

 

「大人らしく振る舞ってる大人が、一番ガキっぽいのは変わらねえな……」

 波の音と、風の音。冷たい刃のような風が頬を掠めて裂くような冷気を伝える。

 明日はいよいよ敵の集積地を叩く。陽動部隊の展開もあり、作戦海域は一気に広がる。北の海に鋼鉄の嵐が訪れる。それを予期させるかのように海が荒れてくれればよかったものを……。

 

 海は静かだった。

 胸の中のざわめきが音になって聞こえるほどに。

 

 

 

    *

 

 

 

 彼女たちは様々な理由で集められた。が、そのほとんどは親を失った子どもたちだ。親の親族も皆死んだ身寄りのない子どもたちを秘密裏に軍が集めて、1つの孤児院で生活させていた。

 丘の上にある、鉄柵と高い石壁で囲まれたその場所を多くの人は知らなかった。海軍の研究基地のような扱いを受けていたのではないかと言われている。一般市民が近寄ることなんてできなかった。更には軍に所属する者たちの中でも限られた者たちしかその存在を知らなかった。

 

 間違いではない。それは研究基地だったのだから。

 いや、研究基地というよりは、モルモットを収めた籠のようなものだったのかもしれない。

 上は成人近い者もいたらしい。下は言葉を覚えたばかりの子。男女問わず、人数は100以上いたとも。

 何もかも曖昧でしかないのは、そこが驚くほどに記録として残されていないからだ。残った記録でさえ海軍の強い圧力により全て隠されてしまっている。

 

 そこに1人の少女がいた。名前は残っていないから私は彼女を「少女A」と呼ぶことしかできない。

 少女Aはとても快活な性格の子で、歳の割りに見た目は随分と幼く、それでもお姉ちゃん気質で皆の世話を見ていたその施設のリーダーのような少女だったらしい。どんな子どもたちにも優しく接していて、何より彼女は新しく来た子どもたちに「名前」を与えていった。

 

 それが少女Aの愛の形であり、少女Aとその他の子どもたちを結ぶ血よりも濃い絆だったのだろう。

 時には母のように、時には姉のように。子どもしかいないその孤児院は少女Aのお陰で塀の外の世界とは違って、とても明るい光に満ちた綺麗な世界だったのだろう。

 

 施設では時々大人が来て、食料を置いていくらしい。その他はAIによって管理されていたとか。

 決められた時間に起き、決められた時間に食事をし、決められたことを学び、決められた分だけ遊び、決められた時間に入浴して、決められた時間に寝た。『決められた』という言葉さえ気にしなければ、そこは本当に楽園だったのだ。

 

 海から遠く、深海棲艦の脅威も余程の事がない限り及ぶことはなく、ただ少女Aと彼女の「家族」は喜びのある日々を過ごしていたのだ。

 

 

 彼女たちが集められた理由が果たされたのは、突然だった。

 大量の大人たちが施設を訪れた。そして、10人ずつ車に乗せて連れて行った。

 その日からずっと10人ずつ。まるで家畜を出荷するかのように連れて行った。

 連れていかれた子どもたちが戻ってくることは、一度たりともなかった。

 

 ある日、少女Aと歳の近かった少女Bが連れていかれた。少女Bは小柄ではあったが少女Aよりもずっと落ち着きがあって、運動が得意だった。少女Bが連れていかれてから、少女Aの顔には徐々に影が差すようになってしまった。

 

 

 少女Aも当然連れていかれる日が訪れた。彼女が連れていかれたのは残された20人の中からだった。

 施設に残された残り10人の子どもたちも、今まで連れていかれた幾人もの子どもたちも、皆が皆心配だった。一体連れていかれた先に何があって、皆はどこでどのようにして生きているのだろうか。

 

 

 着いた先もまた施設であった。知らない子どもたちもそこにはいた。少女Aはこの時初めて自分たち以外にも集められていた場所があったのだと知った。

 

 

 そして、少女Aは連れていかれた先で――――少女Bと再会した。

 

 椅子に座ってぐったりとした少女Bを囲む複数の大人たちを掻き分けて、少女Aは飛びついた。少女Bに反応はなかった。手も頬も冷たかった。目は虚ろとしていた。見たことのない少女Bの姿だった。

 

 少女Aはすぐに複数の大人たちに取り押さえられて、ある部屋へと連れていかれた。

 自分の施設の子どもたちも、知らない子どもたちも、皆がベッドの上に寝かされて身体を拘束されていた。そのベッドの後ろには何かよく分からない大きな機械があったのだと言う。

 

 少女Aも無理矢理機械に拘束された。そして――――実験が始まった。

 

 

 皮膚を全て剥がしとられるかのような激痛。

 骨の内側を抉られるような激痛。

 全身の血管が焼けるほどに早く巡る血流、破裂しそうな心臓。

 神経を針で削られるかのような痛みと、脳を手で握り潰されているかのような嫌悪感。

 

 すべてが絶えず訪れ続け、少女Aという人間を壊していく。

 痛みを痛みと捉える事さえままならず、自分の境界線さえあやふやなった先で、少女Aは全てを失った。

 

 

 目覚めたのは少女Aだけだった。両腕の感覚がほとんどなかった。記憶さえぼんやりとしていた。

 

 なぜ自分はここにいるのか。

 なぜ両腕は動かないのか。

 そもそも自分は何者なのか。

 

 大人たちが自分の周りに集まってくるのが分かった。ただ身体の制御が上手くできず身動きが取れなかった。

 いくつかの質問をされた。覚えていることを1つずつゆっくりと思い出させられた。

 

 ただどうしても思い出せないものがあった。

 子どもたちとの日々でさえ霞がかった向こうの景色になってしまっていた。代わりに脳に埋め込まれたような知らない記憶。到底、人間の記憶とは思えないほど鮮烈で強烈な刺激に満ちた記憶。色も匂いも音もフラッシュバックのように襲い掛かって、自分のものではない感情が心を蝕んでいった。

 

 私は何者なのだろう、と少女Aは何度も問いかけても思い出せやしない。

 代わりに与えられたもはや人間とも呼べない歪な身体と刻み込まれた鋼鉄の記憶。

  

 

 

 少女Aは、『名前』を奪われた。家族との輝かしい日常と共に。

 

 血の繋がりのない子どもたちを唯一繋げていた、『名前』という絆を。

 

 

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 なぜ、私がこれほど鮮明に語ることができるのか。

 志童さんに少女Aの事について聞いたからだ。ただそうとだけ言えればよかった。

 私が聞いた話はここまで鮮明ではなかった。もっと曖昧で「こんなことだったらしい」程度。どのような場所で、どのようなことを見て、どのようなことを感じたのか。そんなことまで志童さんが知っている訳がない。

 

 志童さんの話を聞きながら私は同時に目の前で見ているかのような現象に陥ったからだ。追体験しているような気分で、全てが終わった時には私は気を失ってしまっていた。

 これは私の記憶だ。私ではない私の記憶であって、私の知るどの記憶でもない記憶だ。

 

 私の中に居る知らない誰かの記憶だ。

 

 

 『少女A』―――――あなたは誰なの? 

 

 

 

 

 

 


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