駆逐艦《雪風》の手により幾度となく羅針盤の針は回り、その度に艦隊は進行方向を変えれ一寸先さえ見えない霧の中を進んでいく。
幼さが強く残っている少女の指先から生み出されるのは、どうしようもない絶望の中に針ほどの小さな隙間から漏れ出す希望の光を探すような途方もなく小さな確率の模索と選択。
限りなく100に近い確率を示す羅針盤。覆しようのないその結果を、羅針盤という装置が切り捨てた限りなく無に等しい確率を手繰り寄せる。彼女がやっているのはそんな行為だった。
ただ彼女のその力に明確な根拠と言うものはない。必ず活かすことができる保証もない。それこそが「偶然」の寄せ集めでありながら、彼女と言う存在そのものが「必然」であり得るという――――それを「奇跡」と呼ばずして何と呼ぶか。
少なくとも、彼女はそのようにして生き延びてきたのだ。
死に逝く誰かが引くことができなかった「生存」というカードを引き続けて。
白かった霧もやがて闇に包まれ始めた。
しかし、それはかえって好都合であって先を行く少女が携える探照灯の光がより鮮明に目に映る。迷うことなく彼女たちが進むには必要なその光をひたすらに追い続けるだけ。
時にそれは死神が死の世界へと誘うランプの明かりにも見えた。
身体に纏わりつくこの霧が、死神の鎌のように思えてる。
進む度に自らの血肉を自ら引き裂いているかのように感じるのはきっと道が見えないからだ。
振り切り難い不安。必要ないのに主砲の引き金にかける指に思わず力が入る。
隣に敵がいるかもしれない。背後の波を切る音は敵の足音かもしれない。
気が気でない。発狂しそうなほどの恐怖が心臓に爪を立てている。
それでも、彼女たちは進む他なかった。この霧の中に道などない。帰り道などもうどこにもない。進むべき道さえもピアノ線のように細い到底道とは呼べないものなのだ。
「
彼女たちの細い喉笛を掻くかのように、帰路を辿る細い糸を引き千切りながら。
*
幌筵を発った艦隊はアッツ島沖を進攻していた。
幾度とない軽空母ヌ級を基幹とする艦隊との会敵。しかし、高練度の艦隊は目立った損傷も大きな消耗もなく、正規空母級の敵を基幹とした艦隊との戦闘に入った。
「さぁ仕切るでー!攻撃隊発進!一気に決めてしまいー!!」
幼さの残る快活な声を響かせながらも、彼女の表情には歴戦の風格を見せる不敵な笑みが浮かんでいた。
他の空母たちが和弓と鏑矢での発艦を行う中で、彼女の扱う艤装はやや癖が強いものだった。
巻物の留め具がパチンと外され、ふわりと宙を漂いながら広がっていく。
陰陽師を思わせる赤い装束の彼女は懐から人型に切られた紙を複数枚取り出し、巻物の上に滑らせるように放った。まるで水を得た魚のように生を感じさせる動きで人型は巻物の上を進んでいき、離れる瞬間に炎を思わせる光に包まれて、その姿は金属の肉体を得て空を征く。
軽空母《龍驤》が放つ式神航空隊。他にも同様の手法で航空機を召喚する軽空母がいる中で、彼女の腕前は群を抜いていた。
攻撃隊の発艦を終えると巻物状の飛行甲板を巻き直し、邪魔にならないように腰の辺りに納めた。
彼方にある敵艦隊に向かう攻撃隊を目を細めて見送る。
「さあ、私たちもやるわよ!攻撃隊発艦!」
隣に立つ軽空母《瑞鳳》は弓に矢を番えて水平線に向けて放つ。
真っすぐ飛んでいく矢は光に包まれると同時に複数に分裂して航空機へと姿を変えた。
九七艦攻の後継機、艦上攻撃機『天山』。
初期の一一型であるがその性能は九七艦攻を凌ぐものであり、今回の作戦に向けて軽空母による作戦展開の為に開発を行われた機体であった。
同時に直掩機として零式艦上戦闘機52型が空を駆る。「零戦」シリーズの実質の最終タイプとして奮戦した暗緑色の翼を持つ戦闘機である。
航空隊が空に展開し、エンジン音が北海の上空に響く。
空に火花。敵航空隊との戦闘が始まった。
交差するようにこちらに向かってくる黒い影を見て、龍驤は密かに舌打ちをした。
「優勢と言ったところか・・・・・・敵さんしんどいで!気引き締め直しや!!」
旗艦を務める龍驤の声に艦隊が鼓舞される。輪形陣を保ったまま、彼方に見える敵艦隊と同航戦に持ち込み、最初の攻撃機が互いの艦隊に襲い掛かる。
「みんな!お願い!!」
瑞鳳が更に矢を番えて放った。艦隊に迫りくる敵機を迎撃する戦闘機隊を空に放った。
「対空砲火用意クマ!!」
前方を進む軽巡《球磨》の声に合わせて3隻の駆逐艦たちが空に主砲を機銃を掲げた。
赤い目をした歪めた黒い鉄の板のような敵機が迫りくる。
「よーい、撃てぇ!!!」
球磨の合図と同時に空に弾幕が展開される。
機銃音と火を噴く主砲の音。空を飛ぶ羽虫のような敵機のエンジン音。それを追う零戦のエンジン音と機銃音。
海面を叩く20mm機銃弾。投下される爆弾が水柱を立てて大量の水飛沫が宙を舞う。
「はぁ・・・・・・なんて海よ、ここ。寒いし痛いし」
ふと、後方にいた巫女装束の女性が溜息交じりにそう言った。
ショートボブの黒髪に大きな艦橋を模した髪飾りを付けている。白い巫女装束の長い袖の袂が風に靡いて、袴と言うにはかなり短い赤いスカートが揺れていた。そして何より巨大な4基の35.6㎝連装砲。彼女が戦艦であることを証明していた。
扶桑型戦艦2番艦《山城》。横須賀鎮守府所属の戦艦であった。
「鎮守府に戻っても扶桑姉様はいない。こんな北の海にまで来ても扶桑姉様はいない。私が行く場所なんてどこにもないのよ・・・・・・はぁ、不幸だわ。沈んでしまいたい」
可憐さをまだ残す美人なのだが、いつも翳りのある表情をしている上に、ネガティブな発言ばかりしている残念美人だが、戦闘が始まればやや強気なところが目立つ。今はまだ死んだ魚のような目でぶつぶつと呟いていた。
「文句言ってる暇があったら撃つクマー!!」
「いいの?私が撃つと主砲が爆発するかもしれないわよ?」
「んな訳あるかクマぁー!!!」
その時、騒音に包まれる戦場の遥か彼方で海面を殴るような巨大な砲音が響いた。
しかし、迫りくる攻撃機と爆撃機の大群に気を取られいた艦娘たちはそれに気付けずに。
いや、正確には1人だけ。欝々としていた彼女だけが震える空気を感じ取り、海面から顔を上げた。
「・・・・・・ったく、もう」
突然艦娘たちの周囲の海が割れた。海の中から何かが飛び出してきたかのように海水が飛び散り、海面が地震でも起きているかのように震えていた。
「もう何なのよ!!これ戦艦の砲撃じゃない!!」
急襲した戦艦級の攻撃に駆逐艦《暁》は叫びながら、必死に回避行動を続けた。
砲撃だけに気を取られれば今度は航空機にやられる。駆逐艦の装甲、どんな一撃でも受ければ十分に致命傷になり得る。
「―――ッ!暁ッ!危ない!!」
水飛沫から顔を守っていた駆逐艦《
同じように顔を守りながら対空砲火を必死に続けていた黒髪の少女、駆逐艦《暁》は突然名を呼ばれ、雷の方を見るとぽかんとしていた。
何かが空気を裂いて迫ってくる音。気付いた時には回避は不可能だった。
帽子を抑えるように頭を庇って身体を屈める。それができる精一杯の防御だった。
爆発音と炸裂した光に前方を進んでいた球磨や中央にいた龍驤、瑞鳳たちも振り返った。
艦隊右翼、暁がいた場所で黒煙が上がる。
「ちっ・・・・・・ッ!」
今度ははっきりと舌打ちをして龍驤は焦りと怒りが混じった表情で飛行甲板を広げた。
乱雑に放り投げるように見えて丁寧に並べられていく式神たちが飛行甲板を滑っていき、瞬く間に航空機へと姿を変えていく。
「もういっちょお仕事や!はよ決めてきッ・・・・・・山城!自分大丈夫か!?」
攻撃隊が更に向かう中で龍驤は爆炎の中に立つ女性の名を呼んだ。
その背後で身を屈めていた暁がゆっくりと目を開いて自分の身に何が起きたのかをしきりに確認していた。無事だったと言う現実に驚いているのも無理はないだろう。
「はぁ、痛いわ・・・・・・やっぱり、不幸だわ。駆逐艦を庇って被弾するなんて」
鉄の破片で切れた頬。滲み出した血を手の甲で拭いながら彼女は溜息を落とした。
「や、山城さん・・・・・・?」
恐る恐る声をかける。やる気がなさそうに肩を落としている山城は細めた目の隙間から緋色の瞳を動かして暁を一瞥すると遠くの敵艦隊を見た。
「戦艦ル級が1、2・・・・・・1隻はflagship級ね。はぁ、あんなの相手にしなきゃいけないなんて不幸だわ」
「山城さんっ、被害状況は!?」
瑞鳳が叫んで呼びかける。呆れた顔をしたまま、炎を上げている自分の主砲に目を向ける。
「第4主砲大破。第3主砲も動きそうにないわね・・・・・・浸水がないのが奇跡かしら。まあ、沈まなければどうでもいいわ。いつの日か、扶桑姉様が受けた痛みに比べればこんなもの」
首に左手を当ててパキリと傾けて音を鳴らす。
「
「暁っ、大丈夫?怪我はない?」
ぺたんと海の上に座り込んでしまっていた暁を駆け寄ってきた雷が腕をとって立ち上がらせた。
まだ敵の攻撃は続いている。航空機の攻撃は龍驤と瑞鳳の航空隊の活躍により、ほとんどその火力を失っていた。それでも戦艦は攻撃機のみでは削ることができずに、徹甲弾が海面を砕いて巨大な水柱を上げていた。
「う、うん・・・・・・このくらいへっちゃらよ!」
「そう。じゃあ、早く離れなさい。いい加減、イライラしてきたわ」
「山城さん、ありがとうございます。ほら、暁早く!!」
「わわっ、急に引っ張らないで!!」
艦隊左翼の最奥に駆逐艦の2隻が下がる。本来は守るべき空母を中心に置き、駆逐艦は前方で護衛に当たるのだが今はそれが最善策だった。暁は至近弾による小破。山城も至近弾と直撃弾で中破一歩手前であったが、腐っても艦隊戦を前提として作られた戦艦級の装甲は簡単に沈むことを許してはくれない。
山城の主砲が動いた。照準を水平線の向こうに合わせる。
この艦隊、横須賀所属の山城を除けば佐世保所属の艦娘たちばかりであった。
そして、佐世保の艦娘たちにとっては戦艦級との作戦はこれが初であり、彼女たちは過去の記憶からその戦いがどのようなものかは辛うじて知っているものの、その他では演習の光景を眺めているだけのようなもので、実際にその場に居合わせたことは滅多にない。
そのため、その瞬間に確かに彼女が放った殺気に震えていたのも仕方がない。翳りのある端正な顔はこれまでずっと無表情に近い顔をしてたのだが、口角が吊り上がって笑みを浮かべたのだ。
狂気に思えるほどの不敵かつ不気味な笑み。それは狂気と呼ぶにはあまりにも儚い願いの実現に心を躍らせている結果として現れただけであって、生来彼女たちとはこう言うものであるはずなのだ。
儚い願いとは、戦場へ出ること。戦艦として、艦隊の主力として戦場に赴くこと。それだけであった。
その装甲と火力を誇りながらも戦場に出ることなく、その真価を発揮することなく、艦生を終えていくことになった戦艦は多い。航空機の時代と移りゆく戦場に戦艦の火力や装甲は、消費する資源に見合わなかった。
「第1主砲、第2主砲、よく狙って――――」
徹甲弾装填。狙うは戦艦ル級。空を飛び交う小さな羽虫たちには目も繰れずに、彼女の瞳はそれだけを狙っていた。
「てぇッッ!!!」
真っすぐに敵に向かって伸ばされた手に呼応するかの如く主砲が火を噴く。
轟音と衝撃が海面を抉るかのように凹ませる。山城自身の足元が沈み込むほどに。周囲に波紋が広がっていき、小さな津波が艦隊を押し寄せる。煙が砲口より噴き出す。
「狭叉・・・・・・私にしては上出来じゃない」
「は、はぁ・・・・・・初弾で狭叉しおった」
味方でありながら龍驤が驚く。球磨ですらぽかんと口を開けて砲撃の手を止めてしまっていた。
「・・・・・・あの生意気な駆逐艦の訓練も、少しは役に立ったみたいね」
横須賀での日々を軽く脳裏で巡らせながら砲角を調整した。薄ら笑みを浮かべる。
撃鉄が打ち下ろされる。九一式徹甲弾が4発放たれる。
緩やかな弧を描きながら巨大な砲弾は水平線上へと飛び、白い顔をした女性のような敵の腹部を貫いた。
*
「雪風っ、探照灯はまだもちそう!?」
近くにいるはずの雪風ちゃんに向かって叢雲ちゃんが叫んでいた。
ちらちらと光が揺れている。その辺りに雪風ちゃんは居るのだろう。
「はい!ちょっと厳しいかもしれません!!」
探照灯は無限に使えるものでもない。
探照灯の中には巨大な炭素棒があり、これに電気を流して放電させると白熱し、熱と同時に強力な光を産む仕組みだ。シャーペンの芯に電流を流してみるようなものだが、これが結構な短時間で消耗する。艤装からひょこひょこと妖精さんが飛び出してきて交換作業をしてくれるのだが、その様子は見ていて大変そうだと分かる。
「・・・・・・随分と暗くなってきたわね。無理言ってでも帰ればよかったわ」
叢雲ちゃんが愚痴るように呟いた。この視界の悪さ、声こそ聞こえるが電探で探知できる敵の絵は意を全く感じることができない。1歩隣を死が歩いている。そんな気分だ。
「叢雲さん!」
雪風ちゃんが叫ぶ。
「何よ!?」
「羅針盤の示した針路が変わりません!!」
どうやら羅針盤の針を回したらしい。先程から十数回は針路を変えている。ジグザグ以上に複雑な動きをしている気がしたのだが、その羅針盤が今度は方向を変えることもなく、まっすぐ進めと言ってきたらしい。
「多分それはそのまま真っすぐ進めってことです!もうすぐ目的地に着くかもしれません!!」
後方から声が聞こえたのか夕張さんがそう説明した。
羅針盤を作ったのは、彼女と証篠提督だ。その仕組みについて知っている彼女が言うのならばそうなのだろう。
「目的地・・・・・・」
そうだ。私たちは闇雲に進んでいる訳じゃないのだ。
明確な目的地がある。この世界から存在を抹消され続けてきた地図にない島『天の剣』へと。
「全員気を引き締めなさい。この霧が晴れた向こうにあるのがただの海とは到底思えないわ。どんな敵が来るかもわからない。いつでも戦えるようにしなさい・・・・・・てか、全員いるわよね?」
「私はここにいるよ!」
「戦艦日向、ここにいる」
「吾輩もここにおるぞ!」
「夕張、ここにいます」
「雪風、健在です!」
全員の声が霧の中で叢雲ちゃんの場所が分からないままどこに向かう訳でもなく響いた。その一端を捉えた叢雲ちゃんが霧のどこかで頷いたような気がした。
次の瞬間、光が飛び込んできた。一瞬、探照灯がこちらに向けられたのかと思うほどに眩しく、目を両手で蓋うと一瞬で光は消え失せ、私の前には果てさえないように思える暗闇が広がった。
「・・・・・・えっ」
私を覆い尽くしていた霧が消えた。前にも、横にも、後ろにも。広がるのは黒い海と黒い空。
何か考えると言うことが一切できなかった。突然現れた新たな世界に急に立たされて呆然としていた。私の存在そのものがこの闇の中に淘汰されてしまうような虚無感。
「吹雪っ!何してるの!?」
後ろから腕を引かれた。そのまま体ごと振り返る。闇の中に少女が1人だけ立っていた。よく見知った空色の髪を持った少女が汗を頬に伝わせながら私を見ていた。
「・・・・・・あぁ、そうだ・・・・・・叢雲ちゃん。うん、そうだ」
夜目に慣れていないせいでしばらく周囲を見渡して誰かの影を捉えながらもそれが誰かまでまだ分からなかったけど、どうやら誰も欠けることなくここに辿り着いたようだ。
「ここが・・・・・・着いたのかな?」
足を動かすと足下で何かが揺れているのが分かった。ゆっくりと黒い水に波紋が広がっていく。
変わらない黒い海。変わらない静かな海。
「アンタ、あれが見えないの?顔上げて見てみなさい」
叢雲ちゃんに言われるがままに顔を上げた。星さえない空を仰ぐまで上がった私の視線は少し戻って水平線の方に向いた。はっきりと自分で分かった。目を見開いて、呼吸が止まりそうになったのに。
それは神話か。人が神の領域に至ろうとしたが故に神罰を受けたバベルの塔か。
それともソドムとゴモラを焼き尽くした神の怒りの火の残火が剣として残ったものなのか。
空高く伸び行く白銀の塔。いや白銀なんかではない。それは歪に色を滲ませてぽっかり空いた闇のような黒を持っていた。龍が取り巻くかのように何かが螺旋状に取り巻いてそこが黒く見えた。
その形は綺麗な筒と言う訳でもなく、直方体と言う訳でもなく複雑に凹み、突き出し折れ曲がっているモニュメントのようなデザインをしており、神が大地に突き立てた試練の剣のような存在感を一層強くした。星のない空の中で怪しげな銀色の光を放つ姿は雲の隙間から漏れ出す月光のようで神秘的な姿であった。
その下に広がる絶海の孤島。ひっそりとした気配から冷たい風が流れ込んできた。この場所こそが選ばれし大地でありながら存在を消された禁忌の地。開廷から隆起した岩盤化のようなその大地は宝石のような怪しげな緑色の光を放っていた。
口から冷たい空気を吸い込んで、空っぽになりかけていた肺をひんやりとした吸気が身体を冷やす。背筋から駆け上がってきた寒気が指先まで震わせた。
「あれが・・・・・・」
あぁ、そうだ。私たちは辿り着いたのだ、『天の剣』に。
きっと私の気のせいだろうが、あの大地は生きているように思えた。今にも動き出して私たちに襲い掛かって来そうな。