―――次の日――――
チャイムが響き渡り、本日の全授業が終了する。
HRを終えて、担任の先生に挨拶をし終えて、みんなと同じように帰る準備をしていた私の目の前に、にっこりと笑った先生が立っていた。
職員室に強制連行である。
一人の少女を残して誰もいなくなった教室に戻り、涙目の私は机に突っ伏せた。
「あ゛あ゛ぁ゛……今日は最悪の一日だぁ……」
「何汚い声出してるのよ……」
「だって、学校に来るなりラクちゃんに殴られ、進路希望で先生に呼び出されて、理科の宿題は家に忘れて、黒板消しを頭に落とされて」
「半分は自業自得じゃない」
興味なさそうに私の言葉を流していく。
変な唸り声をあげながら、冷たい机に頭をぐりぐりと押し付ける。
「ラクちゃんが私を見た瞬間殴りかかったのを見たクラスのみんなの顔見たぁ?」
今日、学校に来るや否や、少し教室は騒々しかった。それは扉を開けばすぐにわかった。
明らかに不機嫌な人物が一人。
話しかければ殺されそうなその雰囲気に誰もが近づくのを躊躇っていた。
私の姿を見るや否や、助走をつけて大きく踏み込み、何か訳の分からない言葉を口走りながら鉄拳を鳩尾にめり込ませた。
身体が浮いたことに対する驚きより、真っ白になった世界の先で知らないお爺さんが河を挟んだ向こう岸で手を振っていたことに驚いた。
その後、朝のHRが始まるまで何かを喚き散らしていたらしいが、半分意識が逝っていたので全く覚えていない。
とにかく、その時のラクちゃんの剣幕は凄まじかったらしい。
「今じゃ私、ラクちゃんの親を殺したって言われてるんだよ~?」
「あんたの話聞いたとき、こっちは心臓止まりかけたのよ。親殺されたのと同じくらいの衝撃だったわ」
まあ、ラクちゃんが本気で心配してくれていたことは十分すぎるほどに理解した。
なんだかんだで、ラクちゃんは私を愛してくれているのだろう。愛されてるな、私。
と、茶番はここまでにして、私が先生に呼び出しを食らった例のものをラクちゃんに見せた。
「……で、やり直し。タッタラタッタ ターラーラー、進路希望調査の紙~!」
「いちいち突っ込まないわよ。もう全部その辺りの高校でも書いときなさい」
昨日はテンションがいろいろとアレだったせいで全く自覚がなかったが、やり直しになって当然だ。
朝、学校に来て机の上に「艦娘」などという言葉しか書かれていない紙が置いてあれば、誰でも困惑する。
幸か不幸か名前を書き忘れていたのだが、速攻で特定された。
「お前大概にしろよ?」などと呆れかえった先生に長々と説教を受けた後に、提出してから帰れ、と新しい紙を渡された。
「うん、そうする。ラクちゃん第一どこ?」
とりあえず、適当に埋めることにしよう。今の私はとりあえず、先にある目標だけは答えを得た。
その過程も大事かもしれないが、まだ今の時期に真面目に決める気にもなれなかった。
「私進学しないから…」
「うんうん、進学しないっと……えっ?ええっ!?」
『進学しない』の項目に丸を付けようとしたペンを止めて、私は驚きのあまり席を立ちあがってしまった。
「別に私の勝手でしょ?あっ、大丈夫。友達では居てあげるから」
「え?えっ?ちょっと待って……えー……」
ラクちゃんは成績優秀だ。と言うか、学年首位だ。二位は私だが。
先生たちも期待しており、是非とも有名な高校に進学させようとしたはずだ。私もそうなるものだと思い、同じ高校に行こうと頑張って勉強した。
恐らく、先生たちの反応も同じだったはずだ。
困惑しておろおろとしていた私からそれとなく目を逸らし、
「私にも夢はあるのよ……って、私の夢はどうでもいいのよ。さっさとその辺りの進学校でも書きなさい」
そうとだけ言った。
「えー、やだなー。ラクちゃんと同じ高校に行きたかったなー……」
それは本当だった。進学先などどこでもよかったが、できることならば、ラクちゃんと一緒の道を行きたかった。
今からでも考え直してくれないだろうか?
そんな気持ちを少し込めながらぶつぶつと呟いていると、「あーーーもう!」と声を上げた。
「早く書かないと私が書くわよ?もう私が書くわ。貸しなさい」
そう言って私から紙とシャーペンを奪う。
「え?ちょっ……」
やけに荒々しく奪ったと思いきや、ラクちゃんの雰囲気は一変した。
そっとペン先を紙に当てると、スラスラと文字を綴っていく。
荒々しくではなく、優しい雰囲気で、綴る文字にはどこか柔らかさがあった。
ただの高校の名前なのに、一つ一つの文字に優しさが籠っている。まるで彼女が祈りを込めて書いたかのように。
「―――ラクちゃん…」
「……何よ?」
「私応援するよ。きっとラクちゃんの夢だから、安心できる。どんな夢でも応援する」
「そう…ありがと」
たったの三校の名前を書くだけだったが、実際に経った時間よりもとても長い時間を過ごしていた気がした。
私はラクちゃんの将来像を思い描いていた。
簡単に想像できるものではなかったし、理想を押し付けた妄想でしかなかったが、ただ笑顔の彼女を描いた。
どんな夢であろうと、大切な友が紡いだ夢の先に、彼女が笑える世界があるならばそれでいい。
大切な人がいる未来に私がいるのならば尚更だが、その夢をこの目で見守ることができるのならば。
願わくば、その夢を護ることができるのならば――――
「……はい、こんな感じでいいでしょ?さ、帰るわよ」
ラクちゃんは書き上げると、その紙を私に返して鞄を持って立ち上がった。
見事に県内外の超名門校の名前が並べてあった。その文字を見るだけでたじろいでしまうような雲の上の存在が。
「うわぁ……引くレベルで超難関ばかり。まあ、夢は高い方がいっか」
だが、きっとラクちゃんが進むならばこの道を行くだろう。
きっとどの大学にでも、それ以外の道にでも進めるだけの教育を受けられるだろう。
「早くしなさい。置いていくわよ」
「あっ、待ってよ~」
紙を二つ折りにして、私は教室を出たラクちゃんの後を追った。
立てつけの悪い木の扉を開くと、廊下の窓の外には港が広がる。日の入りは逆方向なので水平線はほんのりと薄暗い。
それがいつもの光景だった。
「…………」
廊下に出て、最初に目に入ったのは鞄を落とした彼女の姿だった。
窓の外を見て、目を見開いて震えていた。額から汗が滲み出て、頬を伝って床に落ちる。
緊張感の張り詰めた彼女の雰囲気に思わず声をかけることさえ躊躇った。
妙に喉奥に絡みつく唾液を飲み込んで、恐る恐る近づいた。
「え?どうしたの、友ちゃん?窓の外に何か見えるの?」
ウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウウウウウウウ―――――――――――――
窓が震える。
その震えが私の体にも起きた。共鳴するように。
それはサイレンだった。港町で海岸からの退避を町中の人に伝えるような、災害が起こった時などに用いると父に聞いた。
津波などが万が一町を襲えば、一瞬で何もかも飲み込まれてしまう。
だが、津波なんかじゃない。当然、今日はサイレンの定期点検の日でもない。その日は町中に通達がいくようになっている。
じゃあ、何が起こっているのか。
「えっ……何が起きてるの?ねえ、ラクちゃん?」
けたたましく響き渡る異常な警報音。
その音が刹那、別の轟音にかき消される。
床が揺れる。視界が揺れる。町が揺れる。
空気が震えて、視界に映る全てが訳の分からない色に覆い尽くされていく。
咄嗟に耳を塞いで床に座り込んだ私は、周りの様子を慎重に窺いながら、窓の外へと目を向けた。
「何……あれ?」
黒い――――水平線まで真黒な海が広がっていた。
昨日までそこにあった青はなく、黒があった。
「……逃げよう。できるだけ内地の方に逃げなきゃ」
鞄を拾い上げたラクちゃんは、見せたこともない焦燥の色を表情に浮かばせていた。私の腕を掴むと、一目散に走りだした。
「ちょ、ちょっと、待ってよっ!!何が起きてるの!?」
「説明してる暇はない!そのくらいわかるでしょ!?あの海は危険!少しでも遠くに離れないと…」
走り出した。私は腕を引かれるままに。横目で見る窓の景色にぼんやりと煙が映る
違う――――燃えている。港の方だ。漁火ではない赤い炎が黙々と昇る黒煙の中で揺れていた。
私の脳裏を過ったのは、昨日訪れた港の様子。
スライドが入れ替わるようにして、お店に来てくれる漁師のみなさんの騒ぐ光景。
そして、今朝、家を出る父を見送った光景。
――――今日は一日中港にいる。帰りは遅くなる―――と言って父は家を出た。
私への忠告を含めていたのだろう。
ただ、今はその言葉の意味もスライドのように流れていった。
いつの光景だろう。私は幼い頃に船に乗せてもらったことがある。
港にいたおじさんたちはみんな私を可愛がってくれた。その鍛え上がった身体からは想像がつかないほど優しく抱き上げて船まで運んでくれた。
風を切って進む船の上では父が落ちないように抱き絞めていてくれた。
海風に触れた父の横顔は、いつもより逞しく感じた。
学校を飛びだした私は外の空気に触れた瞬間に、ラクちゃんの腕を引いた。
「待って……待って、友ちゃん!!」
「何よ!?早く逃げないと」
「燃えてるの…港が燃えてる…」
無理やり走らされて息が上がり切って、言葉が途切れ途切れになる。膝に手を当てて深い呼吸を繰り返して、肺の中に溜まった空気を入れ替えた。
「だから何?どちらにしろ、あそこは危険なの!?近づけないわ!!」
「ダメ……ダメだよ……あそこにはお父さんがいる……お父さんだけじゃない。みんないる」
何を言いたいのか察したのだろう。焦りの色が徐々にラクちゃんの顔から失せていった。
入れ替わるように、少しだけ悲しそうな顔をすると、眼を閉じて、小さく息を吐いた。
開いた瞼の奥にあった目はとても冷たかった。
「……こんなことを言うのもなんだけど、諦めて」
耳を疑うような言葉だった。
それがラクちゃんの口から出たことを信じたくなくなるほどに。
「そんな……っ!!できるわけないよ!!家族なんだよ!!」
「行けばあんたも死ぬ!!私の友達をそんなところに行かせられるわけないでしょ!!」
ラクちゃんは鞄を投げ捨てて足を少し開いた。
「行かせないわ。あんたを気絶させてでも絶対に止める」
あぁ、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。と言うより、こんな状況でこんなことになるなんて誰も思わないだろう。
「……ごめん。ごめんね。ラクちゃんは優しいよ。バカな私をいつも心配してくれる。昨日だって」
彼女とケンカしたことは一度もなかった。些細なことで口喧嘩をしたり、何かを取り合ったり。
ましてや、肉弾戦なんて、男子じゃあるまいし、したことなんてなかった。
気づいたら私たちはいつも二人でいた。仲良くなったきっかけは何だったっけな?今は思い出せない。
少し息を吐くと私は飛び出した。
傷つける必要はない。ちょっと怪我を負わせるかもしれないが、私が通り抜ければ終わりだ。
視界が一転した。
「―――――――――――ッ!!」
まあ、簡単に通してくれる訳もないのだが。
厄介なことにラクの家は軍人の家系だ。父親と兄は海軍に所属している。
その影響からか幼少期からラクは武道を教わっていた。女だからと容赦なく、自分の身は自分で守ることを求められた。
成長するにつれて技術も身に着けて、家の束縛も徐々に緩くなり、私とも付き合いやすくなった。
要は、男子高校生の不良集団に囲まれても一人で伸してしまうほどに強い。
何をしたかと言えば何もしていないのだが、思えば猪のように突っ込んだ私は馬鹿だ。
それでも、彼女を越える必要があると思った。止めようとする意志に答えなければいけないと思った。
腕を掴まれうなじを押さえられ、鳩尾を膝蹴りが貫き、体重の乗った足を払われ、浮いた身体を投げられた。
一撃目ですでに意識が消えかけたが、背中から落ちた衝撃と腹部を走った衝撃に板挟みになった内臓が言葉にならない痛みに悲鳴を上げた。
そのお陰で逆に意識が戻りかけていたのだが、すぐに馬乗りにされて襟足を掴まれた。
兄弟もいなければ、今まで喧嘩なんてしたことのない私に殴り合いの仕方なんて知らなかった。
ただ、必死だった私は、握られた右拳が私の顔を打つ前に、思いっ切り頭を振り上げた。
石頭に自信はなかった。寧ろ、ダメージの方が大きすぎて、視界が一瞬真っ白になる。
でも、身体に乗った重心の位置が少しずれて動きやすくなった。彼女を押しのけて立ち上がろうとしたが、すぐに後ろ襟を掴まれ、思いっ切り足を払われた。
クルン、と空中で回転し、危うく後頭部を強打するところだったが、回りすぎて俯せに倒れこんだ。
すぐに腕を取られ、腰の辺りで固められた。力を入れようとすると激痛が走った。
「行かせないわよ!!昨日約束したばかりじゃない!!私に言わせるんでしょ!?『この世界でよかった』って」
「そこを……退いてっ!」
「ふざけないで…あんたの腕折ってでも止めるわ」
「片腕くらいあげるよ…ッ!」
あぁ、つくづく私の武器は頭しかない。体の柔らかさと脚の速さには自信があるが、こんな状況じゃ頭しかろくに使えない。
何とか横目でラクの様子を窺う。腕を動かそうと抵抗するときに、やらせまいと固めた腕に力を入れる。
その若干の力みの際に上体が倒れる。思いっ切り身体を反らせて頭を振り上げた。
がちんとラクの顎を打つ。体を横に転がし振り落とすと、すぐに立ち上がってラクを見た。
怯む様子はない。
片膝を突いたが、そのまま低いタックルで私の足を払うか―――もしくは
地面を蹴って飛び出した。待ち構える。タックル……ではない。
経験則というものではあるが、恐らくラクに腹パンを入れられた回数は一番多い自信がある。
鍛えているのに、簡単に拳を振るう。細い腕から放たれるとは思わないその凶器の威力は凄まじい。
大きく踏み込んで―――多分、狙いは胸骨辺りだったのだろう―――振り抜かれた拳を私は予測した。
身体を半身にして避けただけだが、ラク自身避けられるとは思っていなかったのか、私の顔を見る目には驚愕の色が見えた。
柔道とか合気道とかやったことないし、私は武道とか格闘技はからっきしだが、伸びた右腕をとにかく握って前に体重の乗ったラクの身体を引きながら足を掛けた。
走ってる人に足を掛けるようなものだが、ラク相手だとちょっと変わってくる。
結局、私はどんな形であれ、彼女に何かを示さなければならない。思いついたのは、投げ飛ばすこと。
下手な形だが、ラクの身体は背中から落ちた。受け身を綺麗に取ったので、ダメージはきっと全くない。
ちょっと驚いた顔で私を見ると、すぐに殺気を込めて牙を剥いた。
「……もうやめにしよう?」
「……約束くらい守りなさいよ!!絶対にあんたは死なせない!!」
起き上がろうとする彼女の意思に従い、腕を引いて体を起こそうとして、ある程度の高さで突き放した。
突然バランスを失った身体は、もう一度地面に倒れ込む。隙と呼べるような隙じゃないが、私はスタートを切った。
「……ごめんね。行かなきゃ」
「待って……待ちなさい!!」
立ち上がろとしたラクに振り返り目を向けることもなく、私は走った。
小学校の頃から、私の方が足は速かった。だから、ラクは…ラクちゃんは私には追いつけない。
小高い丘の上にある学校の坂道を一気に駆け下りる。
大通り沿いを人の流れに逆らって走る。
そのまま商店街と市場を駆け抜けるのが最短ルート。
開けた世界が見えると、広い海沿いの公園がある。
「―――――――――――――ッッ!!」
足が止まる。全身の筋肉が緊張する。
金縛りのように固まって、一歩も動けなくなる。
開けた視界は赤く染まっていた。
一面を覆う白い煙を赤い光で染め上げる炎。熱気と煙に咽かえる空気。
空の頂点には黒い煙が広がり、まだ夕方の空を夜と見間違える。
私が硬直したのは、それが原因じゃない。
(なにあれなにあれなにあれなにあれなにあれなにあれなにあれ)
ぬるりと煙の中から現れた奇妙な形の「それ」。
黒光りするボディが地面に身体を引きずりながら這っている。引きずる度に金属の擦れ合う音が響く。
落ち着け……知ってる。私はあれを知ってる。写真で見た。
お婆ちゃんの書斎にあった資料の一つにあった。
でも、写真より気持ち悪いし、怖いし、なにより大きい。
写真と文章でしか見たことがなかったその姿。
興奮と、恐怖と、少しの畏怖。
恐ろしいその姿には、神々しささえ感じる。
大いなる生命の一端でありながら、我々人間とは明らかに違う異形。
形状で言えば、こんな魚がいたような気がする。
しかし、弾頭を思わせるその黒い頭部はミサイルのようにも見える。
よくよく見れば、後ろに小さな足が生えている。
だが、私が読んだことのある文献によれば、あれは全身筋肉。
魚に近いため、あの足で漕ぐことはない。
だとすれば陸上での活動も想定したのだろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
これが―――――駆逐イ級。
地面を這うようにして現れた真黒な塊。
おおよそ生命が宿っているとは考えられないその躯体には生命を表す眼の灯が揺れる。
揺れるその光が――――私を見た。
「―――――――!!」
「あっ」
目が合った気がしたが、気のせいじゃなかった。野生の生き物とは目を合わせてはいけないというが。
その瞳に仄かに点っていた青い光が激しく燃える炎のように光を増して焔を纏う。
「ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアア!!!!」
今、私は伝説を見ている。100年前に滅ぼしたはずの伝説の脅威と。
人類を絶滅まで追いやった史上最悪の脅威と。
100年という時を超えて、ここに再び―――――――
――――黒鉄の咆哮が轟いた。
あっ、ちょっと艦これっぽくなった気がする。