ラクちゃんといつもの十字路で別れると、住宅地の中を一気に駆け抜ける。
木造の家屋が並ぶ既に真っ暗になった道でも、すれ違う人は皆知った顔なので安心だ。
私の顔を見て「今日も元気だね」とか「お手伝いかい?頑張ってね」とか優しい言葉をかけてくれる。
私はこの町が好きだ。とても優しい雰囲気に包まれるこの町で私は育ち、多くの優しさに触れて、この町が大好きになった。
港も、市場も、商店街も、住宅地も、学校も、公園も、その大好きな町の一部一部が私にとってはかけがえのない大切なもの。胸を張って故郷だと言える私の町だ。
さて、緩やかな傾斜の上り坂を駆け上がり、人ひとり通れるくらいの細い裏道に入ると、我が家はすぐそこだ。
私の家は正面に入口があるのだが、私はそっちから入ることはあまりない。いつもはこの道に面している裏口から家に入る。
今日はかなり急いで走ったせいか止まるに止まれず、ドアノブを掴んで通り過ぎようとする勢いを殺した。
薄い赤色の扉の前で汗を拭いながら息を整える。ふぅー、と長めに息を吐くとドアノブに手をかけた。
「ただいまー、ごめん遅くなった」
裏口から家に上がり、居間を抜けた先にある扉を開くと、同時に顔に生ぬるい空気が押し付けられる。
お酒、煙草の匂いに混じって、夕方の空きっ腹には少し苦しい美味しそうな香りを含んだ空気がヘルメットのように顔の周りにまとわりついた。
「遅かったわね。すぐに手伝える?」
割烹着を着た母が私の帰宅に気が付いたようで、野菜を刻みながら声をかける。
「うん、着替えてくる。ごめん、図書館で読み耽っちゃって……」
「また艦娘?相変わらず、熱心ね」
そう言って微笑む母に「へへっ、ごめん」と少し申し訳なさそうに笑うと、「あまり無理はしないようにね」と笑った。理解のある母で助かる。
とりあえず、部屋に戻って制服を上だけ脱ぎハンガーにかけ、下に着ていた汗ばんだシャツを脱いで丸めると、クローゼットから適当なTシャツを一枚選び、それに着替えてその上からエプロンを着ける。
洗濯しなきゃいけないものを洗濯機に叩きこんでから急いでお店の方へと戻った。
私の家は小料理屋を営んでいる。
元は父方の祖母がやっていた店を母が嫁入りと同時に受け継いだ。
父は漁師で仲間の人と一緒に沖の方まで出ている。獲ってきた魚などをこのお店で出しているが、
よく父の友人の漁師の人たちが獲れた魚介類を持ち込んでくるのでそれをその場で調理することもある。
「ラクちゃんがいてくれて、本当に助かった。閉館時間過ぎても読み耽っちゃってた。あっ、このお皿は?」
「向こうの人。ラクちゃんにあまり迷惑かけちゃダメよ?ちょっと待って、これもお願い」
「うん、お待たせしましたー」
ここでの仕事は注文を受けたり、料理を運んだりすることが基本。小鉢やおつまみなどの簡単に用意ができる料理は私が作ったりすることもあるけど、
基本的に母がやってしまうので、二番手としての仕事が多い。
「おー、お嬢ちゃん久し振りー」
がっちりとした厳つい体系の男性が私の顔を見て手を振る。
この店にいる人は大体常連さんなので、頼むメニューやお酒への強さまで大方把握している程度で知った顔が多い。
「いつもありがとうございます。牛すじ煮込みとごぼうの天ぷらです」
「ハッハッハ、少し背が伸びたかー?」
同席していた筋肉の逞しい男性が背を比べるように手を水平に振りながら声をかけてきた。
「おじさん、いつもそれ訊いてますよ。す、少しだけ伸びましたけど」
…少し伸びた。五ミリほど。た、体重は…秘密だ。
「すみませーん、注文いいですかー?」
「あっはい、ただいまー。では、失礼します」
「はっはっは、じゃあ頑張ってね!」
小さくお辞儀をすると、青年二人組の席へと向かう。
その席に向かうまでの間に常連の方々に声をかけられまくって、着いた頃には青年に苦笑いを浮かべられていた。
「……あの子がいるとやっぱり賑やかになるわね」
厨房にいた母は私の姿を目で追いながら、そっと呟いた。
「ふぅ……この時間は本当に忙しいね。これ注文ね……お婆ちゃんは?」
注文票を渡すと、Tシャツの袖で額に滲む汗を拭った。まだそれほど暑い時期ではないが、
店内は空調を効かせても消せない熱気が充満していた。
「お父さんと一緒に港の会合に行ってるわ。今日はちょっと遅くなるみたい。豆腐持ってきてくれる?」
「うん。そっか……じゃあ、今日は書斎には入れてもらえないかなぁ」
「それとお父さんが『しばらく港の方には近づくな』だって」
冷蔵庫を開けて、ボウルに入った豆腐を手に取る。扉を閉めようとした手が、母の一言で止まった。
「えっ、どうして?」
「最近、変質者がうろついてるそうよ。危険だから絶対に行っちゃダメよ?」
開いた口から魂が抜けていくような気がした。港の周りには私のお気に入りスポットがたくさんある。週末は主にそこを回るのが私の主義なのだが。
それに近づくなと言われた私にとっては、まさに死活問題であった。
「……艦娘記念館」
豆腐を渡しながら尋ねる。
「だーめ、あのお皿とって」
はぁ…と深い溜息を吐きながら、食器のある戸棚へと向かい、指定された皿を一枚とる。
それを母に渡しながら尋ねる。次はもう少し大丈夫そうなところを。
「……英雄の丘」
「だーめっ、お父さんがいいって言うまで絶対に行っちゃだめ」
終わった。私の艦娘探求ライフが今終わった。
「はーい……週末の予定がなくなっちゃったなぁ」
豆腐に包丁を通しながら、私の様子を見かねたのか、母が提案してきた。
「偶には街の方に行ってみたりしたらどうなの?ラクちゃんとかと一緒に」
「人が多いところは苦手かな……うるさいし」
静かな場所で彼女たちの戦いの記録を読み、その世界に浸るのがいいのだ。
人の声や行き交う車の騒音で騒々しい街などに誰が好んで行こうか?
「じゃあ、お母さんと買い物にでも行く?」
「お母さんは私を着せ替え人形にするから嫌」
「……私も嫌われたものね」
残念そうにそういった母にちょっとだけ申し訳なく思ったのだが、まあ嫌なものは嫌だ。
一緒に市場で魚でも眺めていた方がずっと楽しい。
週末の予定をもう一度考え直しながら、母が皿によそった料理に仕上げをしていった。
「はい、これをそこの席の方にね」
「はーい、お待たせしました。揚げ出し豆腐です」
鉢巻を巻いた色黒の男性と、少し小柄な老人が同席して飲んでいた。よく見かける陽気な二人組だ。
「ほいほい、ありがとうな嬢ちゃん」
「―――そう言えば、港の方で何かあったんですか?」
「ん?あぁ、ちょっとな」
「しばらく女子供は水場に近づかん方がいい。そっちのホッケはわしのじゃ」
「あっ、はいどうぞ。変質者ですか……?それってどんな」
二人の表情の色が少しだけ変わった。酔いに染まった陽気な顔からちょっと困ったような顔に。
「あぁ……変質者ね。あれだ……素潜りしてる、まっぱで」
「……女が近づくのを待って飛び出してくるそうじゃ」
どうやら、言葉を選んでいたらしいが、どうも歯切れの悪い口調だった。
気になるものの、これ以上深く聞くのはあまり良くないだろう。直感的にそう思い、ここは退くことにする。
「へ、へぇ。それは会いたくないですね……」
「だから、しばらくは近づいちゃダメだぞ?おじさんたちがその変態を捕まえるまではな」
「残念ですね。記念館は好きだったのに」
「記念館も当分は閉鎖するじゃろうな。人を集めちゃいかんからのぉ」
「そうですか……」
席を離れる間際に老人に空いた徳利を渡され、おかわりの注文を受けた。
空いた皿も一緒に運び、一度流しに運ぶと別の人がまた呼んでいた。熱燗のお替りをメモすると、すぐにその席へと向かう。
「――――おい、また見つかったらしいぞ」
その途中、二人組の青年が小さな言葉で会話していた。
「――――また、黒い海か」
『黒い海』、そのキーワードに思わず反応してしまった。少しだけ足が止まり、耳を傾けてしまう。
「あぁ……玄さんとこが見つけたらしい。会合の理由もそれだ」
「この町にいて大丈夫なのか?」
「分からん。ただ親父が漁は続けるって」
「おいおい、死ぬなよ。黒い海に入った船がどうなるか知ってるだろ?」
どこかで目にしたことがある。あぁ、そうだ。『黒い海』は多くの艦娘に拘わる書籍に登場する言葉だ。
だからこそ、勝手に反応してしまったのか。
「お嬢ちゃーん、こっちこっち~」
「何してるの?呼んでるわよ?早くなさい」
「あっ、ごめん……すみませーん!」
母の声に現実に戻された。思えば、変な場所で足を止めてしまっていた。
幸い、それがお客さんにどこか分からなかったのだろうと受け止めて貰えたようでよかった。
ただ、立ち去るその瞬間まで、私の耳は二人の会話から離れることができなかった。
「―――船が食われたような形して沈んじまうんだ」
去り際に聞こえた、本で読んだ一文と違わぬそのフレーズを、脳内で何度も読み返していた。
『―――《浸蝕域》:突如世界中の海洋に発生した海面の色が黒く染まっていく超常現象。迷い込んだ船などの船舶、海域上空を飛行する機体、そのすべてが通信が切断され、行方を眩ませた。後に、艦娘の誕生により近辺の探索が行われた結果、行方不明となった船舶の断片などを回収。その全てに形状の一致する破断痕あり。最深部への探索、また同海域で発生した戦闘記録、その後の経過などを鑑みるに、浸蝕域は――――』
『――――深海棲艦の発生源と思われる』
*
「……玄さんの見たものは確かなんですね?」
老婆は薄く口を開き、手元の古びた手帳の表紙を指で撫でた
「ええ、あれは日の当たり方とかじゃねえ。海の色が変わっていた」
玄と呼ばれた黒い顎鬚が特徴的な男性は少し興奮した様子だった。それでも、必死で自分が見たものを伝えようとしていた。
「今月に入って別の町でも同じような報告が出てる。とうとううちでも出てしまった」
細い目の若い男性は手元の紙を見ながら正面の白い髭の老人にそう伝える。白髭の老人は、訝しげな表情で老婆から男性へと目を移す。
「今のところ、女子供は近づけるなと町中に伝達はしておいた。問題はわしら漁師じゃ」
この場にいる男の中では最高齢のこの偉丈夫には、事の大きさを理解する一方で、
自分の生業に情熱を燃やす男たちというものを理解していた。
人生のほとんどを海の上で過ごしてきた老人には、海から離れたくても離れられない彼らの思いが分かるのだ。
「漁をしない訳にはいかんでしょう。この町は漁師が要だ。わたしらが船を出さなければ活気が消える」
禿げた頭に滲んだ汗を浮かべる男性がそう切り出した。
「近海だけでも続けるべきです。遠洋に出てる者たちには控えるか、気を付けるように言うしかないでしょう」
その言葉に賛同するように、若い男性も口を開いた。
「残念ながら、海の男の性というものですなぁ……我ながら呆れたものです」
玄と呼ばれた男性は腕を組んで首を横に振った。彼の言葉に居合わせた者たちは思わず息を漏らす。
その場にいた男たちすべてが恐らく退くつもりはないのだろう。
だが、この場で最も長く海に触れてきた老人だからこそ、この異変に人一倍敏感だったのだ。
普段は豊富な海産物を恵む母なるこの大洋ではあるが、激しい波の打ち付けるこの世界はただの命の宝庫などではない。
光の届かぬ世界が存在する。声も届かない深い深い暗闇がこの青の世界には存在する。
母なる海が人類にもたらすのは、命だけではない。自然災害がいい例だ。一歩間違えれば、この町さえも破壊する脅威だ。
そんな海が孕む危険性を、老人は職業柄冴え渡ってしまった直感が感じていた。
うーむ、と首を捻りながら、低い声を腹の底からひねり出した。
閉じていた目をゆっくりと開き、その先にいた一人の老婆に頼らざるを得ないことを悟った。
「――――それで、どうです?あなたの意見が聞きたい」
「……知り合いに連絡してみます。恐らく、向こうも気づいてはいるでしょうが、なんせ向こうにとっても不測の事態。対応に困ってるでしょう」
掠れた声で紡いだ彼女の言葉に老人は耳を傾けた。
「不測の事態?」
「ええ、すべて壊してしまいましたからねえ。あそこが一番よく知ってるはずです」
「な、なあ、婆さん。何が起こってるかはっきりと言ってくれねえか?」
緊張の糸がこそばゆいのか、堪らず玄と呼ばれた男性が口を開いた。
「お、おお俺たちは知らない世代だ。話こそ受け継いできた。だが、詳しいことは知らない」
続けて、禿げた男性も息を止めているような苦しみから解放されたというような口調で老婆に尋ねた。
「私の……祖母の残した手記に似たようなことが書かれています。『黒い海』のことも。あまりよくないことですね……」
若い男性は自分の母であるその老婆の言葉に静かに耳を傾けていた。
彼女からこんな話を聞くことは滅多になかった。実の息子であったが、未だに母がここにいることをはっきりと理解してはいないのだ。
「ただ、私もすべてを知っている訳ではありません。残った祖母の手記を元に受け継いだだけ」
手に持っていた手帳を懐かしむように撫でる。
「……それだけの時間が流れてしまった。今は海軍に託すほかありません。本当は、船は出すべきではないでしょう。でも、一隻も出さずにいれば町の者たちに妙な不審を生みます」
ふぅ……と息を吐くと、落としていた目線を持ち上げて、集まっている男たちを見渡した。
「この町の漁師たちは、嵐でも船を出そうとする大馬鹿者が昔からいました。そんな町です。余程のことがない限り、この港に船が並ぶことはない」
男たちは皮肉めいたその言葉に思わず失笑する。こんな事態ではあるが、我ながら普通の漁師としてはありえぬことをしてきた。
「ですが、若者たちよ。忍耐は必要なことです。海軍の方がはっきりと情報が集まる。今は待とうじゃありませんか?」
「母さん。海軍に何かできるのか?俺たちは本当はこの町から逃げなきゃいけないんじゃないか?」
若い男の言葉に禿げた男性が立ち上がった。
「馬鹿言うな。町を捨てられるわけがねえだろ!」
「だが、海軍が信用できるわけでもねえ。あいつら何をしてるか全くわからねえからな。じっとはできん」
玄と呼ばれた男が諫めるように手を出しながら、自分たちの長である老人にそう言う。
「家族はどうなるんです!私たちは目に見えない何かと対峙している。心配じゃないんですか?」
「心配じゃないわけないだろ!だが、俺たちは漁師だ!海から離れてどうなる!!」
まあまあ、と玄と呼ばれた男性が宥めようとする。
若い男性が再び口を開こうとしたとき、老人が立ち上がった。
「言い争って何になる。今は何もわからん。婆さんの言う通り、海軍の連絡を待つしかない。皆もよいな?明日は……仕方がない。何か適当なことを言って不審がられないようにしよう」
老人の言葉にやや不満が残っている様子ではあったが、禿げた男性は腰を下ろした。
若い男性は言おうとしていた言葉を止められ、代わりに溜めていた空気を押し出すように長く息を吐いた。
周囲の男たちはどうやって町に誤魔化すかを検討し始めた。
その中に紛れずにぼんやりとしていた若い男性に玄と呼ばれた男性が声をかけた。
「竜さん、アンタのところの娘、スイちゃんだったか? 気をつけろよ。あの子は海を愛しすぎている」
「あぁ、ちょうど今心配してたところです。強く言っておきます。目を離すと飛び出してしまいそうだ」
「元気がいいのはあの子のいいところだが……少し危なっかしいところがある」
「艦娘が……大好きだと。彼女たちが作り上げたこの平和の中ですくすくと育ってしまった」
若い男性は胸の前で拳をグッと握りしめた。
「あの子の生きる時代は平和であってほしかった」
この時代に生きる者たちは幼少の頃から彼女たちの逸話を語り継ぐ。それは彼女たちが築き上げた栄光だけではない。その時代の様子まですべて、悲惨な現実の広がる世界を語り継いでいた。それは人間同士でこのような世界を作らぬようと戒めたものであると言われているが、状況が変わればその逸話の意味は一変するのだ。
再び地獄の窯が開く。
艦娘たちが伝説と呼ばれた傍らにあった人々の暮らしは決して平和と呼べるものではなかった。だからこそ、平和を愛するように教わった。だからこそ、平和をもたらした彼女たちに感謝する。
人類最後の希望のその裏にある絶望―――その存在を忘れた者はいなかった。
勢いが欲しいです…