ぐえー!
多分二人で過ごすようになってそれなりの時間が経って慣れてきた頃に訪れた最初のバレンタインの日かもしれない。
甲高い悲鳴のような音を立てる玄関扉を開きながらガスマスクで顔を覆ったサトルが私を振り返る。
「それじゃあいってくるよ、アイ」
「いってらっしゃい、サトル」
軽く手を振りながらマスクに覆われて表情の見えない悟を扉が閉まる最後まで見送る。
それにしても見送りの際に素顔で挨拶を交わせないのはやはり少し寂しいものだなどとどうでもいいことを考えながらキッチンへ向かい朝食の後始末を始める。
元の世界で仮面を付けて生きていた自分が言うことではないだろうが。
どうでもいい思考を打ち切り皿を洗いながら私は今日の予定に思いを馳せることにした。
この世界には色々愉快なイベントがあるが、今日のイベントはそんな中でも特になかなか愉快だ。
恋人たちの祭りの日に聖人を処刑し、その日にさらに重ねて恋人たちの祭りの日にするというのも皮肉が利いていて実に楽しい。
現代ではそんな伝承がどうねじ曲がったのか女性が男性にチョコレートをプレゼントする日になっているらしい。
チョコレートは甘くて美味しい。
私も日頃の感謝を込めてサトルにチョコレートをプレゼントしようと思ったのだが、プレゼントするチョコレートは手作りが良いとされているそうで…。
あいにく私にはチョコレートを手作りするための素材の入手先や設備がなく悩んでいたのだが近所でなんと『手作りチョコレート講習会』が開かれるという情報を手に入れたのだ。
早速サトルから貰っている1ヶ月分のお小遣いの半分に匹敵する参加費を払って参加申し込みをした。
そして今日、その講習会が開かれる。
そこで作ったチョコレートをサトルにプレゼントしたらどれくらい喜んでもらえるだろうか…。
そんなことを考えながら鼻歌交じりに皿洗いに洗濯、掃除など一通りの家事を片付けチラリと時刻を確認する。
時計の針が示しているのは8時少し過ぎ。少し早いが早すぎるというほどでもない。
「よし、キリもついたし着替えて出発するか」
ちょっとおしゃれな外出着に着替え、コートを羽織りゴーグルとガスマスクを被る。相変わらず視野が狭くて鬱陶しい。
まあそれでも着けて居なければ目立ってしまうので着けるしかないんだが。
玄関の扉に3つの鍵を掛け、薄汚れたアパートの通路を進む。
ニュースで見た天気予報では晴れとのことだったが…。
「ここに来て晴れている空なんて見たことがないな…」
人通りの少ない道を歩きながらどんよりとした化学汚染暗雲に覆われた空を見上げぼやく。
だが、そんな空の下で私は生きていく…。
◆◆◆◆◆◆◆◆
しばらくのんびり歩き今日の目的地である私とサトルが暮らすアパートより遥かに立派なマンションに到着する。
サトルに聞いた話ではこのくらいの住居に住んでいるのが正確に言うと違うけど一般的な意味での中所得階級らしい。
実際は下の上というところらしいが。
玄関脇のインターホンにメモしてきた部屋番号を入力し、名前と用件を告げ玄関の中へ。
私達の安アパートとは違ってこのマンションはホールまで空調が利いているのでガスマスクは必要ない。
開放感にホッとため息を吐きながら私はエレベーターに乗り込み目当ての部屋へと歩を進めた。
「いらっしゃい。あらまあ、なんて可愛らしい生徒さんかしら!」
目当ての部屋で再びインターホンを鳴らした私を迎え玄関の扉を開けてくれたのは上品で美しい中年の女性。
彼女が講師をしてくれる先生なのだろう。
健康的で人の良さそうな少しふくよかな顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「こんにちは、鈴木です。今日はよろしくお願いします。
「ええ、こちらこそよろしく。鈴木さん。さあ上がって」
コートを玄関脇のコート掛けに掛け、招かれるままにリビングに通される。
リビングには既に幾人かの女性が集まり談笑していた。
「開始までまだ少し時間があるからお茶でも飲んで待っていてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
席を決める前にリビングを見渡す。
うん、私が最年少(外見だけ)だな。すでに室内の女性たちから興味深そうな視線が向けられている。
すすすっとテーブルの隅っこの方に腰掛けるも、あっという間に女性たちに囲まれてしまう。
「かわいいー! お名前は?」
「え、えぇと、鈴木アイです…」
「へー、アイちゃんね! 今日のチョコは誰にあげるの? 彼氏? それともご家族?」
「えっと、世話になっている兄に…」
「お兄さんかー。かっこいいの?」
「……それほどは」
「アッハイ…」
なんて感じにお茶請けのお菓子代わりにされた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「では、これより手作りチョコレート講習会を開始します」
「「「よろしくおねがいします」」」
おもちゃにされてちょっぴり疲れ始めた頃、ようやく始まった講習会。
髪をまとめエプロンを身に着け気合を入れる私の前で講師の女性が手順を説明していく。
「まずはこちらにあるチョコレートブロックを細かく切り、ボウルで湯煎にかけてゆっくり溶かしながら…」
………手作りってそこからで良かったのか!?
バイオカカオ豆を入手するところからじゃなかったんだな…。
などと密かに驚愕する私。
――ちなみに原因はチョコの作り方を調べる際にイビルアイは「チョコ 製法」で調べたためである。
――彼女は未だ日本語が完全に堪能なわけではないのだ。
衝撃から立ち直った私はなんとか気を取り直し、チョコを作り始める。
サトルへの思いを込め丁寧に一つひとつの工程を進める。
溶かしたチョコを型に流し込み固め、トッピングをし、チョコペンで飾り付け文字を書き込む。
まだ余り上手に字が書けないため少し歪んでしまったが、それでも私の思いを込めた手作りチョコは順調に完成した。
そして講習会も終わり…。
「皆さんお疲れ様でした。別のお菓子作りの講習会も行っていますのでそちらにも是非参加してくださいね」
「「「ありがとうございましたー」」」
講習が終わったあともきゃいのきゃいのと盛り上がっている他の参加者の女性達を尻目に一目散に家に帰る私。
留まっているとまた何かおもちゃやお茶請け代わりに拘束されてお話責めにされてしまいそうな予感もしたのだ。
マンションから出て少し道を歩いたところで周囲を確認する。
「さて、さっさと帰るか…」
人目はどこにもない。浮かれていても吸血鬼の感覚は確かだ。
「《テレポート/転移》」
まあ、急いで帰ったところでサトルが仕事を終えるのは夜なんだから早く会えるわけじゃないんだけど。
大事なものを持った状態での帰り道というのはなんとなく、気が急くのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆
夕食の準備を終え暇を持て余しているとアパートの部屋の外からサトルの足音が近づいてくるのに気付いた。
ふっと口元が緩むのを抑え、軋みを上げる玄関扉を開いて帰宅するサトルを出迎える。
「おかえり、サトル!」
「ただいま、アイ」
笑顔で挨拶を交わし合う。
「食事の用意をしておくから、先にお風呂を済ましてきたらどうだ?」
「うん、そうするよ。よろしく」
「しっかり洗えよ」
「わかってるって」
汚れたコートやマスクを受け取りながらサトルを風呂に押し込む。
しかししっかり洗えと言ってもすぐ出てくる…なんだっけ、鳥の水浴び?なんだからなぁ…。
その後案の定すぐに風呂から出てきたサトルと食事を済ませ、食器を片付ける間にサトルをリビングへ追い出す。
この後のことを想像しながら上機嫌に皿洗いをしていると、ボソボソと聞こえてくるサトルの独り言。
「…アイは随分上機嫌だったな…。バレンタインのチョコで良いものを用意できたのかな…? バレンタインか…。アイから…。ふふふ…、ちょっと、いやかなり嬉しいかも…」
いつものことだが多分サトルはこの独り言が聞こえてないと思ってるんだろなぁ。
たまに普段は言ってくれないような嬉しいことを言っていたりして少し楽しいこともあるから聞こえていることは絶対秘密だが。
しかしサトルには既にチョコを贈るつもりなことはバレているようだ。まあ、私も隠しようがないくらい上機嫌だったしバレるのも仕方ないが。
冷蔵庫の中にしまっておいた可愛らしくラッピングしたチョコレートを取り出しリビングに向かう。
「お疲れさま。今日もありがとう、アイ」
「ああ、気にするな。サトルも毎日仕事を頑張っているんだから」
ソファーで寛ぐサトルの前に立つと、サトルも頭を上げ私を見上げる。
自分でも口元が上がっていくのが分かるのが少し恥ずかしい。
サトルもそれを見てか照れるように口元を緩める。
「メリーバレンタイン、サトル! はい、これ!」
私は目一杯の笑顔とともにサトルにチョコレートを突き出した。
尻切れっぽく見えるかもしれませんが終わりです。この後どうなったかはご想像におまかせ。
ところでお話の内容とは一切関係ないんですがチョコレートには媚薬的効果があるそうですね。関係ないですけど。
あと、どうでもいいことですが悟が帰ってきたシーンの「ふっと口元が緩むのを抑え」を第三者視点で書くと「イビルアイの頬がふにゃっとニヤけ」になります。どうでもいいですね。
次はひな祭り番外編かも…?
それともいい加減本編的時系列を進めるべきか…。