??来たる。ワル代官とワル庄屋。嫁と姑(幼)序。
ふぁぁ、と大きな欠伸が出た。
全身が弛緩し、瞳が潤む。真上を越え、降り始めた午後の陽気は生温くも心地好く、なけなしの緊張感を奪われた黒の騎士団の末端員である男は、あー、と間の抜けた声を上げながら、その場にしゃがみ込んだ。
「おい、もうちょっとシャキッとしろよ」
あまりに緊張感の欠けた相方を見かねて、同じく黒の騎士団に属する男は、肩から下げた自動小銃の銃身を苛立たしげに指で叩きながら立つよう促す。とはいえ、そう注意する彼からして、片手の指から紫煙を立ち昇らせているのだから、説得力も何もあったものではないが。
「つってもよぉ、折角、黒の騎士団に入ったってんのにやる事がこんな所の警備なんてよぉ」
つまんねぇ、とぼやきながら、一応立つだけ立ち、怠そうに腰を反らす。
「こんなところ、誰も使わねぇだろうによ」
反らした腰を叩き、不満たらたらに振り返ると、門扉で閉ざれた東京内部に通じるゲートの中を覗く。
トラックが一台、何とか通れる程度の道幅のこのゲートの警備を命じられて、はや数ヶ月。一般居住区からも商業区画からもかけ離れた残念なこのゲートは、警備をしている男達のやる気のなさから分かるように、人の出入りが激しい時分にあっても、人一人通る気配もない。
だからこそ、良からぬ輩に利用される可能性もあると、こうして警備が配置された訳なのだが、所詮可能性は可能性。
期待するような刺激的な事件もなく、今日も今日とて真っ黒い暗闇だけを奥に漂わせて、ぽっかりと口を開けているゲートを覗き見た男は拭いきれない眠気に欠伸を噛み殺した。
「あー…、駄目だ。おい、コーヒー買ってきてくれよ」
「あぁ? んで、俺が」
おもむろに使い走りに使命された事に眉をひそめ、同僚は苛立ったように難色を示すが、男は悪びれる事なく、にかりと笑う。
「良いじゃねぇか。ほら、この間、煙草ないつった時に一本やっただろ?」
「………ちッ、仕方ねぇな」
煙草一本で、コーヒー一本とパシリ。割に合わないが、ただ突っ立っているのに飽きていた同僚は、待ってろ、と言うとコーヒーを買いに近くの自販機に向かう。
その背中にひらひらと手を振り、男は同僚の姿が見えなくなると再びしゃがみ込んで、空を見上げた。
「あー、つまんねぇ……」
もはや口癖となった台詞を空に吐き捨て、見上げ過ぎて首が痛くなってくると、今度は地面を眺めて適当に転がっていた石を意味もなく放り投げる。
カチリ、カチ、と音を立てて転がる石を見るでもなく、ただ視界に収め、止まると同時にお決まりの溜め息を溢し、再び石を手に取る。
「ゼロが東京を奪い返したって言うから、黒の騎士団に参加したってぇのに―――、よッ」
いよいよ、偉そうにふんぞり返ったブリタニア人共の顔を泣きっ面に変えてやれると意気揚々と黒の騎士団に参加してみれば。
これでは、解放の英雄どころか、ただの警備のバイトではないか。
ブリタニア人を爽快に蹴散らし、日本を解放した英雄の一人になれる事を夢想していた男は、現実の落差に不貞腐れ、不満を込めて石を放り投げた。
不格好に腕がしなり、指先から石が意味も目的もなく飛んでいく。
不満と共に力が込められた石は、しゃがんだままの体勢からの投石の割に、遠く大きく弧を描き、……警備員の詰め所の壁にぶつかると、
「んぁ………?」
石が弾む軽い音とは別に、何かが地面を擦る音に男は腰を上げる。
「なんだぁ……?」
特段、警戒心を抱いた訳ではない。警備員にあるまじき事だが、その証拠に男は肩から下げている自動小銃に手を掛けるどころか見向きもしない。
強いていうなら、ただの興味本位だろう。余りある退屈に心が刺激を求めて、ちょっとした雑音にも興味を傾けてしまったのだ。
ばりばり、と頭を掻き、立ち上がった男は緩慢な歩き方で音がした詰め所の方へ歩いていく。
途中、転がっていた石を蹴り飛ばす。蹴られた石は詰め所を逸れ、地面の凹凸にぶつかり、その裏へと消えていく。
……何も反応はない。
犬か猫でもいたのか、それとも気のせいだったのか。
そう思いつつも、僅かな好奇心に背中を押され、男は詰め所の裏、死角となっている場所を覗こうとして―――。
「おい、買ってきたぞ」
後ろから聞こえてきた声に動きを止めた。
「……何やってんだ? お前」
「あー、いや、……ちょっとな」
さして意味もなく、こっそりと詰め所の裏を覗こうとしている。
好奇心と暇故に、無駄に詰め所の壁に背を付けて、ちょっとだけ、それっぽく振る舞っていたところを見られた男は、ばつが悪そうに頭を掻くと、何でもねぇ、と言って詰め所から離れて同僚の方へ歩いていく。
同僚は、特に問い詰めなかった。どうせ、しょうもない理由だと察しが付いていたからだ。そんな理由を耳にして無駄に気力を奪われたくない。
だから、同僚は何も言わず、男に向かって缶コーヒーを投げた。
下手で投げられたコーヒーは、先程の投石よりも高く、半回転しながら男に向かっていく。
自然、受け取るべく男の視線が上を向いた。同僚も同じく。
軌跡を辿るように、やる気のない瞳が二人分、宙を舞う缶コーヒーに向けられ―――――
―――――――――――
――――――
―――
「――――!? ッてぇ!!」
額を襲った激痛に、堪らず男は蹲った。
余程、痛かったのだろう。何をするにも、口を閉ざす事を知らない男が無言で悶絶する様に、流石に心配になった同僚が声を掛ける。
「おい、大丈夫か? いきなり、どうしたんだよ?」
「………いや、…………なんか、……当たった、みてぇ……………」
「当たった?」
額を抑え、痛みに食い縛られた歯の隙間から絞り出された声に同僚が首を傾げる。
「当たったって、……何がだよ」
丸くなって痛みが過ぎ去るのを待つ男の背中に手を置いて、同僚は首を回して周囲を観察する。
だが、特に変わった様子は見られない。雲しかない空は元より、周囲の建物にも何かが落ちたような痕跡は見当たらない。
一瞬、狙撃という言葉が頭を過り、ひやりとした感覚が背中を駆け抜けるも、直ぐに否定して銃に伸びかけた手を下ろす。本当に狙撃なら、痛いで済んでいる訳がない。
一体何が当たったのか。結局何も分からないまま、同僚は念の為、もう一度ぐるりと周囲を見渡して、―――そこで地面を転がっている缶コーヒーに気付いた。
立ち上がり、近付いて拾い上げる。
地面を転がったせいで、水滴が付いた表面が砂利で汚れ、少しばかりへこんでしまっているが、それは間違いなく自分が投げ渡そうとした缶コーヒーで。
だから、同僚は首を傾げた。
「音、したか?」
250ml缶とはいえ、高いところからコンクリートに叩き付けられればそれなりに音がするだろうに、それらしい音を聞いた覚えがない。
男の奇声に気を取られて気付かなかったと言われればそれまでだが、的外れな方向に投げた訳でもないのに、男に向けた視界の隅にすら落ちるコーヒーが入らなかったのは一体どういう事なのだろうか。
そんな疑問を同僚が胸中で自問していると、漸く痛みが引き始めた男が、額を押さえたまま、のそりと立ち上がった。
「あー、くそ、……痛てぇ」
痛みに顔をしかめ、ノロノロと同僚の方へ近付いていく。
「平気か?」
一応な、と苦味のある声が返ってくる。
手で額を押さえているので直接視認は出来ないが、血は流れていなさそうなので、言うとおり、そこまで大事に至ってはいないだろう。
小さく嘆息。その安堵を切っ掛けに、胸に引っ掛かっていた疑問がさらりと流れて消えた。
「ったく。一体、何だってんだよ」
「さぁな。お前があんまり眠てぇ眠てぇ言うから、誰かが気ぃ利かせてくれたんじゃねぇか?」
「んな訳ねぇだろ………」
まだ痛みが残っているせいで、男の反論には切れがない。
そのしおらしい態度に、くっくっ、と笑うと、同僚は、ほらよ、と汚れを落とした缶コーヒーを放った。
「取り敢えず、それでも飲んでしっかりと目ぇ覚ませや」
「ああ、わりぃ………、って、これブラックじゃねぇか!」
「何が良いとか言わなかっただろ?」
そう言いつつ、自分はちゃっかりと微糖のコーヒーを選んでいる辺り、コーヒーの選別に悪意を感じる。
恨めしげに、持ち場に戻りながら微糖缶のプルタブを開ける同僚の背中を一睨みして、深く溜め息を吐きつつ、後に続く。
「まったくコンチクショウ………」
仕事は暇だし、額には何か当たるし、痛いし。
おまけに、折角の
「ホントついてねぇ………」
プルタブをこじ開けて中身を呷り、口の中に広がる苦味に舌を出す。飲み慣れていない無糖のコーヒーは思っていた以上に苦味が舌に残った。
それでも、折角の奢りを残してたまるかと飲み慣れないブラックコーヒーを飲み干す事に男は必死で。
だから、気付かなかった。
先程、愚痴りながらゲートを覗き見た時は、確かに閉まっていたバリケードの門扉。
その門扉が、いつの間にか少しだけ開いている事に………。
緩やかに流れた空気が、赤い漆器の燭台の上で煌々と明かりを灯す蝋燭の細長い火を揺らす。
合わせて、御簾に映った影が瞬く。―――二つ。
僅かな光であっても人の姿を映す程に美しい光沢を放つ板張りの広間。その中央に一段高く用意された四方を中が見えないよう御簾で囲った畳の間で、桐原は向かいの人物との間に置かれた白と黒の丸石が並ぶ盤上を食い入るように凝視していた。
「む、ぅ………」
かつてブリタニアに日本が占領された時やキョウトが潰されそうになった時ですら、ここまで苦しげに唸る桐原は見なかっただろう。
普段の飄々とした態度も忘れ、砂漠から金砂を探すが如き真剣さで桐原は碁盤を睨む。
睨む。睨む。睨む。
胡座をかいて頬杖をつき、時折、じゃらじゃらと碁笥を掻き回し、けれど、視線だけはひたすら盤の上に。
チェスでは話にならなかった。
将棋でも惨敗を喫した。
なら、これならどうだと最後の頼みとばかりに持ち出した囲碁だったのだが、望みも空しく既に黒星が二つ。
これ以上負けられるか、と本来の目的である情報の交換や擦り合わせも忘れて、桐原は盤上から自らの石が生きる道を探す。
「――――ッ」
くわ、と目が見開かれた。
碁石を掻き回していた手が勢いよく握りしめられ、畳に石をばら撒かせながら指先に一つ挟む。
パチンッ。
軽い音を弾ませ、桐原は碁盤に石を放つ。
遂に見出した活路。絡まった細い糸を手繰るように、無数の死路の中から見つけ出した一筋の正解。それを探し当てた事実に震えつつ、興奮と共に叩き付けた碁石から指を離し、確かな手応えに僅かながら逆転の光を見た、………次の瞬間。
ぱち。
「―――――――」
物語であれば、今の桐原の一手を皮切りに半目を争うような熱い応酬が繰り広げられていた事だろう。
しかし、そこは人の想いの強さは理解出来れど、女心と機微には疎い魔王様。
起死回生に繋がる一手をノータイムで打ち返され、桐原は一息つこうと傍らの湯呑みに手を伸ばした体勢のまま石のように固まった。
「ぅ、…………ぐ、ぅ」
もはや、ぐうの音すらまともに出てこない。
湯呑みに伸ばしかけた手を膝に落とし、背中を丸めて脂汗が滲んだ顔を碁盤に近付ける。
だが、物理的距離が近くなったからといって、良い手が見つかる訳もなし。
このまま正攻法で攻めても勝ちは拾えないと判断した桐原は顔を上げないまま、対面に行儀良く正座した仮面を取った英雄、――ルルーシュの気を逸らすべく、本来する筈だった話題を口にした。
「追い出される準備は順調かの?」
「ええ、今のところ滞りなく」
少々嫌味っぽく言ってみるも効果はなし。それでも、漸く入れた本来の目的にルルーシュの意識がそちらに切り替わった。
「大宦官とも話が付きました。スレイプニィルの竣工も間近ですので、残りの用件が済み次第、私は中華に拠点を移します」
「大宦官か……。最近、あやつらにブリタニアが接触したという情報もあるが」
独立を果たし、日本が復興への道を歩き出したように。
ゼロとの鍔競り合いから解放されたシュナイゼルの下、ブリタニアも大きく動きを見せ始めていた。
腐敗した貴族の粛清。過激派テロリストの鎮圧、エリア総督府の抑止と経済の回復。
ゼロが方々に働きかけ、少しずつ崩してきたブリタニアの情勢を瞬く間に立て直していく手腕は、複雑ながら見事と言えよう。
しかし、それでも他国に働きかけるのは時期尚早と言える。慎重、確実を旨とするシュナイゼルなら、もう少し態勢を整えるのに時間を割くだろう。
にも拘わらず、この時期での謀略の気配。何かあると思わない方が可笑しい。
例えば。ゼロの動きを読んで先んじて手を打ったのなら、大宦官の手引きは罠という可能性もある。
そう桐原は考えたが。
「問題ありません。穏便に中に入る事さえ出来れば、私にとっても彼等は用済みです」
「成程。全て織り込み済みか」
ゼロとブリタニア。世界を牽引するこの二大巨頭両方に良い顔をしたかったのか。それとも、ブリタニアへの手土産としたかったのか。
何にせよ、獲物を釣り上げるつもりで獅子身中の虫を呼び込んでは世話がない。
そも役者が違う。将来、ブリタニアとゼロに挟まれて慌てふためく大宦官の姿を想像して、桐原はくつりと嗤った。
「用済みと言えば、……あやつらもな」
ちゃり、と手持ち無沙汰に掬い上げた碁石が三つ、掌から零れ落ちて碁笥の中で音を立てる。
「この時期に、日本の重鎮が立て続けに事故で死ねば、神楽耶はともかく儂に疑いの目が向くのは避けられないと思っておったが……、お主が口実を作ってくれたおかげで面倒なく片が付きそうじゃ」
「いえ。私としても愚者を演じて貰う人材は必要だったので」
「愚者、の。……あやつらもブリタニアに占領される前は、もう少し日本の事を憂いておったものだが」
仮にも、日本権力の枢軸を担っていた者達だ。野心こそあれど、それでも昔はあの手この手で激動の時代から自分を守り、日本を守ろうと手を尽くしていた。
だが、今もそうかと言われると定かではない。
日本を愛しているのがハッキリと分かる神楽耶や、売国奴と蔑まれながらも面従腹背を貫いた桐原なら問題ないだろうが、たとえば、『前回』の大宦官達のように、ブリタニアから今以上の地位を約束された場合、他の面々はその誘惑に抗い切れるだろうか。
――無理だ。
ブリタニアに占領され、一度は全てを奪われる危機に瀕した彼等の保身と地位欲は一層強く、早期敗戦した日本への信頼は一層薄い。
より良い枝があると囁かれれば、きっと宿り木を変えるだろう。
そんな輩が、これから先も日本の権力の中枢に巣食う事を、どうして容認出来よう。
「…………必要なら、私が手を下しますが」
おそらくは、桐原に疑いが掛かる可能性を少しでも下げようと思っての提案だろう。
ひょっとしたら、今の短い会話で老人の中に懐古にも似た想いを見たからかもしれない。
だが、桐原は必要ないと、犬を追い払うようにひらひらと手を振り、ゼロの提案を却下する。
「お主の手を借りるまでもないよ。ただ、奴等はともかく、抱え込んでいた人材と人脈まで失うのは惜しいからの。その吸い出しに少々時間が掛かっとるだけじゃ」
そこで、一つ間を置くように桐原は先程、手を戻した湯呑みに再び手を伸ばした。
「じゃが、それも間もなく終わる」
香り高い玉露を一息に飲み干し、その枯れ木のような顔には余りある野心と獰猛さを滾らせて、ニタリと顔に走る皺を更に深く、くしゃりと歪める。
「心配せんでも、お主が日本を発つ前には、あやつらが民衆を諌め、お主に詫びてくれるじゃろうよ」
―――ゲンブの奴に倣っての。
先に行われた交渉にて、破格の条件で国を取り戻す事が出来た日本政府だったが、被らなければならない不利益が一つだけあった。
ゼロの追放による、支持率の低下である。
策の都合上の問題であるとはいえ、日本の解放者であるゼロをその役目を終えるのと同時に切り捨てるような行為は、何も知らない民衆の反感と不興を多いに買った。
何しろ、ゼロだ。その実力と奇跡の価値を知らない者は、この日本には存在しない。
その奇跡を敬う者は不義理を責め、畏れる者は彼の者を敵に回すような行為を罵り、絶対の庇護にあやかりたい者はその恩恵を失った事を嘆いた。
勿論、この状況にあっても、ゼロが説得に乗り出せば鶴の一声で片は付く。
しかし、それで支持が上がるのは庇ったゼロだけだ。民衆は、ゼロが言うならと不満を抑えるだけで、解消させる訳ではない。
問題を根本から取り除くには、他でもない日本政府自身が分かりやすい形でケジメを取る必要があった。
例えば、そう。
ゼロの追放を積極的に支持したキョウト六家の三人が、その不義理を負って自決する、など………。
「日本の速やかなる解放の為、敢えて汚名を被り、その生命を以てゼロへの筋を通す。……あやつらには過ぎた名誉よな」
「そして、皇以外の六家が消える事で、貴方は労せずにキョウトを手に入れる事が出来る、と」
チャリ―――。
腹が暴かれる。
石を掻き回す音が止まり、桐原が瞳だけは剣呑に、しかし、口元は悪戯のバレた悪童のような笑みでルルーシュを見据える。
そう。桐原が他の六家の排除に踏み切ったのは、キョウトを完全に手に入れる為でもあった。
キョウトは、ブリタニアの占領下においても強い影響力を持ち続けた日本最大の権力機構。
それを手中に収めるという事は、即ち、日本を手に入れるに等しい。
キョウトを手に入れ、日本での絶対の地位と権力を確立する。
無能者の排除にかこつけてそれを達するのが桐原の目的だったのだが、ルルーシュはその事に気付きつつも確認するように指摘しただけで、それ以上何かを言う事はなかった。
どのみち、内憂にしかならないと判断した時点で彼等の抹殺は決定事項なのだ。なら、遅かれ早かれ、桐原はキョウトを手にしていただろう。
それに桐原が日本の権力の大多数を握る事は、決して悪い事ではない。
今はキョウト六家が最高意思決定権を持ち、彼等の合議で日本政府を動かしているのだが、神楽耶と桐原以外の六家が消え、桐原がキョウトを掌握すれば、神楽耶を頭に桐原が実権を握る形で、日本の統治機構を安定させる事が出来る。
そうすれば、今よりもスムーズ且つ強靭な意思決定の下、日本の復興は迅速に進んでいく事だろうし、これより先、
だから、ルルーシュは桐原の腹積もりに気付きつつも目を瞑り、その野心を見逃したのだ。
何だかんだ、ギラつく刃のように余りある野心を持ち合わせていても、その野心で国を傷付ける事だけはないと理解した上で。
「………………」
ルルーシュが絡まっていた視線を切るように、傍らのお茶に手を伸ばした時点で、自身の行動が黙認されたと理解した桐原は、碁盤に目を戻しながら、ゆっくりと鼻息を漏らした。
高い確率で切られる事はないとは思っていたが、それでもやはり息が詰まった。
故に黙認された事に安堵して然るべきなのだが、どうにも釈然としない。
まるで、微笑ましいものを見る親の前に立たされた子供のような。
そんな気分にさせられた桐原は、憮然と碁盤を睨みつつ、気持ちを切り替える為に、ふと疑問に思った事を口にした。
「そう言えば、一つ気になったんだがの」
「何でしょう?」
返答の前後に、お茶を啜る音が小さく聞こえた。
途中、冷めてしまったお茶を取り替える際、二連敗の腹いせに濃く入れ直すよう指示したのだが、ルルーシュは平然と口を付けている。
「………何、交渉の時の事じゃ」
嫌がらせも通じない様子に、一瞬言葉が詰まるも、直ぐに気を取り直して、言葉を続ける。
疑問にしたのは、あの日本の運命を決定付けたブリタニアとの交渉での事。
あの時の事を思い返して、桐原はゼロの追放に積極的に賛同した他家の者達の言動に違和感を覚えていた。
確かに、愚か者に相応しい言動ではあっただろう。
聞こえの良い言葉で、恩を仇で返す行為を正当化し、自分達が良い思いが出来ればそれで良いとばかりに、あっさりと目の前の人参にかぶり付いた。
言葉だけ聞けば、成程、確かに俗物の行動だろう。
だが。だが、と桐原は思う。
だが、
彼等の中で、日本と自分達はイコールで結ばれていない。桐原やルルーシュの懸念するように、自分の益の為なら、故国すら売り飛ばすだろう。
なのに、何故か。
確かに俗物ではある。あるが、あれでも桐原と共にブリタニアの支配下で自分達の財と権力を守り続けてきた者達だ。自身の不利益になる事には鼻が利く。
そんな彼等が、どうして、この展開を想像出来なかったのか。あそこでゼロの追放に率先して賛同すれば、後で自分の首を締める事になると本当に気付かなかったのだろうか。
神楽耶や他の者であれば、だから愚か者なのだの一言で済ますだろう。
だが、彼等の意地汚さを誰よりも知っている桐原は、だからこそ、と首を傾げた。
だから、彼は問い掛けた。確証はないが確信を持って。言い繕う事もせず、真っ直ぐに。
「お主……、
「…………いや、つまらない事じゃな。今の発言は忘れてくれ」
パチン、と。
話を切るように、桐原は碁石で碁盤を叩いた。
ルルーシュは、何も言わなかった。
何も言わず、――――ただ、笑顔だった。
その笑顔は何かある、けれど、何があるか分からないそんな笑顔で。
それを見て、桐原は退いた。
気付いたから。このまま、つまらない好奇心のままに笑顔の裏にあるものを暴こうとしたら、最後。
自分も、彼等と同じ運命を辿る事になると――――。
「そう致しましょう。……とはいえ、此方の方までそうはいきませんが」
「むぉッ!?」
ルルーシュが打ち返した一手に、桐原が奇声を上げた。
「ここまでですね」
盤上の石の並びを見て、ルルーシュは自らの勝ちを確信する。
趨勢は決した。ここから逆転する事は、シュナイゼルでも無理だろう。
「いや、待て、まだ………。いや、待った―――」
「残念ですが、時間ですので。その『待った』は受け付けられません」
尚も諦め切れない桐原が、後生とばかりに粘ろうとするも残酷なルルーシュの一言に、がっくりと首を項垂れた。
「では、これで。それと例の件、どうか忘れずに」
「……分かっておる。約束は違えんよ」
立ち上がり、横に置いておいたマントを羽織るルルーシュに、未練がましく勝負の付いた碁盤を見つめながら桐原は頷く。
桐原に、日本を独立させる方法として、例の交渉に関する話を持ち掛けた際、ルルーシュは自分が貧乏くじを引く代わりに、日本に対して幾つか条件を取り付けていた。
支援の継続と同盟関係の維持。超合集国の承認と参加。
そして―――。
「最大限便宜を図ろう。ユーフェミア殿下にも、もう一人の妹御にもな」
「…………結構」
それさえ聞ければ十分。
本日の邂逅の目的を果たしたルルーシュは、ゼロの仮面を被り、桐原に背を向けた。
その時だった。桐原が再びルルーシュに声を掛けたのは。
「………そう言えば、忘れておった」
「……何を、でしょう?」
瞬間、周りの空気が一気に温度を下げる。
契約成立後の騙し討ち。
使い古された展開に、よもやあるまいと思いつつも気配と目付きが鋭くなったルルーシュに、桐原は首を横に振る。
「そんなに警戒せんでもええ。一つ、頼みたい事があるだけじゃ」
「頼み?」
条件の追加だろうか。そう思うルルーシュに、再度、桐原は首を振って答える。
「大した事ではない。ただ、国外に出るお主に運んで貰いたいものがある。それだけじゃよ」
「……私を隠れ蓑に、極秘裏に国外に運び出したいと?」
「そう言う訳ではないんじゃがの。だが、お主に運んで貰うのが一番具合が良いというのはある」
いまいち、要領を得ない説明に仮面の下でルルーシュは眉を寄せる。
大した事でもなく極秘にする必要もないなら、ゼロを頼る必要はない。なのに、ゼロに依頼し、それが一番都合が良いという理由がルルーシュには掴めない。
考えられるとすれば、ゼロの戦力を当てにするものだが………。
(いや、無駄か)
そこでルルーシュは思索を打ち切る。ルルーシュと違い、桐原のような人間はどうでも良い事まで謀ったりするものだ。その手の輩の企みについて一々考えていてはどれだけ時間があっても足りない。
なら、ここは貸しを作っておくべきだと、最終的にルルーシュは判断した。
「……何を運ぶかの確認はさせて頂きます。それで構わないのなら」
「構わんよ。積み荷を確認して邪魔になると思ったら、その時は断ってくれて構わん」
では頼むぞ、と締め括り、それを合図にルルーシュの姿が御簾の向こうに消える。
数秒後。
微かに御簾に滲んでいた黒い影が薄闇に溶け、広間からゼロの気配が完全に消えた事を確認すると、桐原は、にぃ、と口の端を吊り上げた。
「………断れるならの」
してやったり、と陽炎のように揺らめく灯火の闇に消えていった男に呟くと、桐原は懐から携帯を取り出し、登録していた番号を呼び出した。
「儂だ。………ああ、ゼロの了解は取れた」
数回と待たず、繋がった相手に今しがた決まった内容を伝える。
「後はお主次第じゃ。精々、頑張ってくるといい」
用件を伝え、通話を切る。
これで、仕込みは完了。電話主のやる気はもう十分分かっているので、後は
「悪いが、やられっぱなしは性に合わんでの」
これでつけられた黒星の溜飲も少しは下がるというもの。
最後の最後に、少しだけ一矢報いる事が出来た事に満足感を覚えながら、今の一局を検討すべく、桐原は碁盤の上の石に手を伸ばした。
こん、こん、と小さな手の隙間から咳が零れた。
二回、三回、と繰り返し、最後に強く咳込んだナナリーは、その刺激に意識を浮上させた。
「…………」
はぁ、と湿った熱っぽい息を吐き出し、汗で濡れた枕を嫌うように頭の位置をずらす。
ずらすと同時に、また吐息が零れた。下半身が動かないナナリーには身体の位置を少しずらすだけでも重労働ではあるが、それにしても疲労が酷い。僅かに動いた身体はもう動かすのも億劫で、体力の失った身体は骨が抜かれたように力が入らない。
「ふ、ぅ…………ッ」
そんな甘ったれた身体に、ナナリーの固く閉ざされた瞳から涙が溢れた。
嗚咽を噛み殺しながら、羽毛布団を顔に押し当て、涙を隠す。
―――もう、意味なんてないのに。
調子が悪くなれば、ずっと側に付いて、自分を労ってくれる人は、もういないのに。
自分が目を覚ませば、優しく声を掛けて、そっと汗を拭ってくれる人は、もういないのに。
熱に魘されて苦しくても、安心して眠れるよう、ずっと手を握ってくれていた人は、もう自分の側にはいてくれないのに。
なのに、身体はその人を求めるように何度も調子を崩す。頭では分かっているのに、きちんと理解しているのに、身体はそんな事は嘘だと言わんばかりに、遠いあの人の気を惹こうと何度も何度も。
そんな身体が恨めしくて。それ以上に、体調を崩す度に微かな希望を抱いてしまう自分が恥ずかしくて。
だけど、生まれてからずっと抱き続けた想いは、自分ではどうにもならず。
結局、それ以外に縋るべきものを知らないナナリーは、叶わぬと知りつつも譫言のように、その名前を呟いた。
「お兄様………………」
そっ、と唇に乗せられたその名前に、返事を返したのは無音の静寂だけだった。
望んだ声は、聞こえない。
兄は、―――いない。
「ッ……………」
じわり、と溢れる涙を押し出すように新たに涙が滲み、そんな自分に辟易する。
何度も同じ事を繰り返して。何度も分かり切った答えに泣いて。
馬鹿みたいだ。本当に………。
布団の端を掴み、頭から被る。止めどなく溢れる涙を拭う気にもなれず、ナナリーは開かない目蓋を更に閉ざした。
眠ってしまおう、いつものように。
泣いていれば、そのうち泣き疲れる。泣き疲れれば眠りに落ちる事が出来る。眠りに落ちれば、何も考えずに済む。兄のいない世界を感じずに済む。
だから、眠ってしまおう。
嗚咽に震える唇から、全てを投げ捨てるかのように長く息を吐き出し、思考を放棄する。
全身を包む倦怠感と熱が曖昧になる意識に拍車を掛け、ナナリーは深い闇に身を委ねるように意識を手放そうとして―――、それを遮るように部屋のドアが開かれた。
僅かに戻ったナナリーの鋭敏な感覚に、人の気配が交じる。
咲世子が夕食を持ってきたのだろうか。それともミレイか、生徒会の誰かが見舞いにでも来てくれたのだろうか。
何にせよ、相手をする気力はない。来てくれたのに悪いが、このまま帰って貰おう。
「ごめんなさい。ちょっと眠りたいので申し訳ないですけど――――」
「そうか。なら、このピザは私が頂こう」
「え―――――?」
予想外。あまりに予想外の珍客に、ナナリーは被っていた布団をはね除けた。
途端に、チーズの刺激的な匂いが鼻を突く。
体調の悪いナナリーには、あまり歓迎したい匂いではないが、今はそれどころではないのか、気にした様子も見せずに布団から顔を這い出して、あらぬ方へ向けている。
会ったのは数回。声を聞いたのも同じく。
だけど、どうにも記憶に残った名前。
それはきっと、彼女の名前が耳に慣れない珍しいものだったからではない。
それはきっと、彼女が兄の、――――――だと名乗ったから。
「C.C.、さん…………?」
閉じた視線の先で、静かに魔女が笑った気がした。
夫のフォローに嫁出陣。
※キョウト六家に関してですが、調べると枢木家入れて六家とするのと枢木除籍後の吉野ヒロシを入れて六家とする二通りが出てきまして。
アニメの中でも囲炉裏囲んで密談している時は神楽耶を除いて五人いたんですけど、特区虐殺後にゼロと会った時は神楽耶含めて五人と、いまいち良く分からなかったので、この作品では枢木家を入れてキョウト六家の方を採用しています。なので、そのように解釈お願いします。