コードギアス ~遠き旅路の物語~   作:アチャコチャ

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 もう嫌い………(涙)


PLAY:25

 広々とした空間内に、小さく綺麗な音がビー玉のように零れた。

 

 隙間も空洞のない、質の良い木と木がぶつかる音。磨きあげられ、歪み一つない木製の小道具が奏でる単音の羅列は、それだけで音楽のように聞く人の耳を擽る。

 ほぅ、という熱い吐息が誰からともなく零れ落ちた。緊張と興味から呼吸すら潜めていた人達が揃って、感嘆と共に息を吐き出していく。

 聞こえるのは、それだけだった。

 広い室内である。人の気配も複数ある。なのに、場には静寂以外には、それしか音がなかった。

 

 それ程までに、人々は場の中心にて戯れる二人の遊戯に魅了されていた。

 

 音は続く。淀みなく、乱れなく。深い思考を必要とする遊戯でありながら、音は一定の調子を保ったまま、まるで会話をするように流れ続けていた。

 その流れが止まる。

 音と同じように、ある種の予定調和を保っていた盤上がここに来て、大きく動きを見せる。

 より深く、より複雑に。賢しき者でなければ、流れすら見通せぬ闇が盤上に顔を覗かせる。

 それを見て、彼は―――……。

 

 

 

 その日、神楽耶は珍しく緊張していた。

 何時もの和装よりも刺繍が入り、金の細工が目立つ着物は小柄な神楽耶には重く、嵩張る。

 だが別に、神楽耶をしてあまり袖を通さぬ程の高価な着物に緊張しているという訳ではない。問題はそんな高価な物を着なくてはならない今日という日にあった。

 こくり、と喉が鳴る。喉を通る唾が痛く、そこで喉がカラカラだと気付いた。

 これではいけない。これから沢山喋るのだ、喉が枯れていては満足に物も言えない。

 そう思い立ち、飲み物はないかと室内に視線を這わせる。しかし、やはり緊張からか、その視線は落ち着きなく、借りてきた猫のようにきょろきょろと顔が忙しなく左右に振れる。

(いけない………)

 そんな状態の自分に気付き、気合いを入れ直そうと頬をぺちぺちと叩く。そのまま、押さえつけるように頬に当てた自分の手がやけにひんやりと感じた。

 

 

 停戦交渉、と一口に言うが、時と場合によっては、その内容が唯の停戦に留まらず、休戦や終戦に繋がる事がある。

 戦況、経済、その他背景。停戦とは即ち、片方ないし双方に戦闘をしていられない問題が発生したから起こるものであり、その問題が解消出来ない、もしくは解消に国力や時間を費やして、余力や機を逸する場合があるからだ。

 今回の場合も、そのケースに当たるだろう。日本、ブリタニア共に停戦を望み、先に話を切り出したのがブリタニアである事から交渉の立場は日本が上になる。

 つまり、この交渉。上手く立ち回る事さえ出来れば、日本は国内からブリタニアの軍事影響力を完全に廃した上で停戦する事も不可能ではなかった。

 もし、叶えば、それは事実上の終戦であり、独立となる。正面切っての殴り合いでは勝機の薄い日本にとっては、正に千載一遇のチャンスと言えた。

 

 

(上手く、いくでしょうか………?)

 控え室に用意されていた水差しからコップに注いだ水に口を付け、神楽耶は心の中で独りごちた。

 この交渉の重要性は理解している。そこに臨む意気込みも本物だ。

 だが、ふとした拍子に覗かせる弱気を神楽耶は払拭出来ないでいる。今もそうだ。

 一気に水を飲み干し、コップを置く。少しは落ち着きを取り戻した身体から、緊張が深い溜め息となって抜けていった。

「大丈夫ですか? 神楽耶様」

 そんな神楽耶の様子に気を揉んだのか。らしからぬ調子の神楽耶に声を掛ける人物がいた。

「カレンさん」

 呼ばれ、顔を上げれば、神楽耶達、交渉役の護衛として付いて来ていたカレンが、心配そうな表情で神楽耶の顔を覗き込んできた。

「大分、その、……緊張しているように見えますが」

「……分かりますか」

 言葉を選び、心配してくるカレンに苦笑する。本来なら、大丈夫、と気丈に返すべきなのであろうが、気心が知れた同性だからか、あるいは誰かに弱音を晒したかったのか。神楽耶は否定しなかった。

「駄目ですね。普段、偉そうに振る舞っておきながら、この様です」

「そんな事は………」

 漸く巡ってきたチャンスを前に泣き言を溢す情けなさを自嘲する神楽耶にカレンが否定の声を上げる。

 実際、よくやっていると思う。

 日本が復活してからの神楽耶の努力は並大抵では語れない。

 それこそ、ゼロに勝るとも劣らない働きぶりで、少しでも日本の立場を良くしようと、日々、他国の重鎮を相手に交渉を務める毎日だった。

 しかし、それでも、やはり年端もいかぬ少女である事には変わりない。自分の発言一つで、国の未来が閉ざされてしまうかもしれない。そんな重責を肩に背負う少女が泣き言の一つや二つ、溢したところで誰に責められようか。

 まして、これから相手にしなくてはならないのが自分達が信じる相手と同格の存在となれば、尚更である。

「神楽耶様………」

 だからこそ、何かしら励ましの言葉を掛けようとするカレンだったが、言葉が出てこない。日々、ゼロの凄さを目の当たりにしていれば、相手の強大さは嫌でも想像が付く。交渉役として、神楽耶に不満などありはしないが、アレを相手に安い言葉を口にしたところで、気休めどころか嫌味にしかならないだろう。

 それでも、何とか励まそうと、うーうーと唸りながら頭を捻るカレン。が、元来の大雑把な性格が災いしてか、その口から気の利いた言葉は中々出て来なかった。

 けれど、その姿こそが励ましになったのか。くすり、と神楽耶の口元に笑みが戻った。

「ありがとうございます、カレンさん」

「え? あ、はい………?」

 特に何もしていないのに礼を言われ、戸惑うカレンに更に笑みが募る。

「任せて下さいと軽々しく言えないのは、情けないですが……」

 そこで言葉を切り、気合いに満ちた表情で神楽耶は両の拳を握る。

「でも、無駄には出来ません。折角、ゼロ様が作って下さったチャンスですもの。未来の妻として、是非とも期待に答えませんと!」

「そ、そう、ですね」

 弱音を吐き出して、少しは気持ちが上を向いたらしい神楽耶が軽口を叩いて己を奮い立たせる。

 少しは役に立ったのか。いまいち、実感はないが、それでも、先程に比べれば、朱が戻った神楽耶の顔を見て、カレンも表情を綻ばせた。……多少、口の端がひくついてはいたが。

 

 コンコン、と控えめにドアがノックされたのは、それから暫くしての事だった。

 先のやり取りの後、そのまま、他愛のない話をしていた神楽耶とカレンは、その音に揃って顔をドアの方へと向けた。

 つるりとした表面の自動開閉式のドアは、現在、警備の点から内側からロックされていて開かれない。

 なので、此方側がロックを解除しないと外にいる人物は中に入る事が出来ないのだが、聞こえてきたのは先のノックが一回だけ。沈黙を保つドアからは再度のノックもドアを開けるよう促す声も聞こえない。

 おそらく、無作法だと思っての事だろう。扉向こうの誰かは律儀に室内からの応答を待っているようだった。

「………………」

 皆の視線が集まる中、一回だけ、大きく呼吸をする。隣からも気遣うような視線が感じられたが、今は応えずに、入口の側にて控えていた藤堂の確認を求める視線に頷きを返す。

 頷きに応え、藤堂がドアを挟んで隣に立つ千葉の方へ視線を向け、意思を汲み取った千葉が手早くロックを解除する。

 解除を示す軽快な電子音が鳴り、機能を取り戻したドアが外で待機していた人物に反応して、開かれた。

「失礼します」

 シュン、と開いたドアの向こう、立っていたのは女性の軍人だった。金糸のような髪をすらりと流し、きっちりと着こなした白の軍服は女性らしさを覗かせつつも、一分の隙も見られない。

 整えられた顔立ちは理性的に引き締まり、自信と知性を宿した瑠璃色の瞳が確認するように室内をゆっくりと巡った。

「お時間になりました。これより、私、モニカ・クルシェフスキーが皆様を会場までご案内します」

 洗練されたブリタニア式の敬礼に合わせて、その身を包む萌黄色のマントが静かに揺れた。

 

 

 ブリタニアの大型空中母艦、アヴァロン。それが、今回の交渉の場として選ばれた場所だった。

 長らく争い続けてきた両国が、一応の友好を結ぶ場としては無骨で、華やかさに欠けるが仕方ない。今回の交渉にはスピードも必要だった。

 というのも、この停戦は両国にとっては好ましい話であるのだが、他の国々にとってもそうとは限らないからだ。ブリタニアの混乱が収束に向かう事もそうだが、ゼロを抱え、首都を取り戻し、今なお、ブリタニアと戦い続けている日本は多かれ少なかれ反逆の象徴として、世界に認識されている。即ちそれは、日本はブリタニアとの戦いの矢面に立っているという事でもあった。

 それが失くなるとなれば、面白くない国もあるだろう。ブリタニアの支配からは逃れたいが睨まれたくない、次の矢面に立たされたくない。そう考える国はおそらく片手の指では足りない。

 なので、余計な邪魔が入らぬ内に迅速に交渉をまとめなければならないのだが、両国の何処かでは角が立つし、第三国に頼れば肝心の速度を犠牲にしてしまう。

 よって、会場をアヴァロン、場所を東京とし、艦内警備をブリタニア側が、周辺警備を日本側が受け持つ事で、両者の納得と均衡を図った。

 

 

「しかし、まさかラウンズが来るとはね……」

 会議場となる大広間に移動し、その壁際に立った朝比奈は、円卓のテーブルを挟んで向かいの壁際に立つブリタニア側の護衛の姿にいつもの笑みが崩れるのを抑えられなかった。

「それも三人も、な」

 答える千葉の声にも余裕がない。表情こそ崩れていないが、それは保てているというより緊張から固まってしまっているという方が正しかった。

 日本側の護衛役として、壁際に並ぶのはいつもの顔触れだ。

 元々、軍人である藤堂と四聖剣。ナイトメアは元より生身であってもそれなりの戦闘能力を有するカレンに零番隊の精鋭と、黒の騎士団の中核を成す戦力がずらりと並んでいる。

 本来なら、ここに幹部代表として扇も並ぶ予定だったのだが、先日の件が尾を引いているのか、明らかに精彩を欠いている様子から、今回、その姿はなかった。

 対して、この場におけるブリタニアの護衛は、僅かに三名。

 だが、その三名が曲者だった。

 揃いの白い装束に、色違いのマント。共に、ブリタニア最強の騎士たるラウンズの証である。

 並ぶ色は、三色。

 一つは萌黄色。先程、案内人を務めたモニカは涼しげな表情で成り行きを見守っている。

 一つは深緑。三つ編みに結った金髪を垂らした青年、ジノは何が楽しいのか、カレンを見つけてから、へらへらと彼女に向けて手を振っていた。

 そして、最後の一つ。純白。

 汚れなきその色は、正真正銘の最強。紛う事なき王の剣の証。

「ナイトオブワン。ビスマルク・ヴァルトシュタイン………」

 片眼を塞いだ、藤堂や仙波よりも更に一回り大きい体躯の男が放つ存在感に当てられ、卜部の顔が険しくなる。

「この交渉はブリタニアにとっても重要なものだと重々承知していましたが……」

 よもや、ビスマルクまで、と溢す仙波の声にも隠し切れない驚きがあった。

 四聖剣の驚きは、尤もである。

 そもそも、今のブリタニアの情勢では、ラウンズは動かそうと思って動かせるものではない。一騎当千の彼等を無理に動かせば、状況の対応に穴が開いてしまう。

 それでは、本末転倒である。状況を好転させる交渉で、状況が悪化すれば元も子もないだろう。

 それが分からぬブリタニアではない筈だ。それでもブリタニアは、他をないがしろにしてでもこの交渉にラウンズを回してきた。ナイトオブワンという切り札まで添えて。

「それだけ警戒しているという事だろうな」

 ひけらかすように揃えられたラウンズ。その裏にある真意を感じ取った藤堂が、ラウンズから神楽耶の後ろにて控える仮面の男へ視線を移した。

 

 

「初めまして、皇神楽耶殿」

 抑揚を抑えた声音。低く、しかし、すんなりと耳に通る声で胸に手を添えた金髪の男が、神楽耶の名前を口にする。

「此度の交渉に際し、ブリタニア皇帝シャルルより全権を預かって参りました。シュナイゼル・エル・ブリタニアと申します」

 完璧な微笑。仮面よりも仮面染みた微笑みで会釈するシュナイゼルに合わせ、神楽耶も小さく頭を下げる。

「日本政府全権大使、キョウト六家。その暫定代表を務めさせて頂きます、皇神楽耶です。本日はお会い出来て光栄ですわ、シュナイゼル殿下」

 並ぶ四人の老人より数歩前に歩み出て、負けず綺麗な笑みで挨拶を交わす神楽耶に、こちらこそ、とシュナイゼルがにこやかに返す。

「皆様の事は私も聞き及んでおります。我々の支配に晒されて、尚、その血と権力を絶やす事のなかった日本の古き血統。両国の未来を占うこの場に、貴女方以上に相応しい相手はいないでしょう」

「ええ、お互いの未来の為に。私どもも建設的な交渉になる事を望んでおります」

 微笑みと微笑みの応酬。最後に小さく笑い合い、挨拶という名の小手調べが終わると、途端にシュナイゼルの興味は神楽耶からその後ろの人物へと移った。

 それに気付いた神楽耶が、半歩横にずれ、後ろに控えていた人物を紹介しようと手で指し示す。

「ご紹介します。彼は………」

「ああ、結構ですよ。神楽耶殿」

「え?」

 紹介しようとしていたのを遮られ、神楽耶は目を丸くする。

 本来、神楽耶が紹介しようとしていた仮面の男には、この場に出席する権利はない。

 正体不明、国籍不明。日本人の藤堂達はともかく、ブリタニアが最も警戒するテロリストである彼は、居るだけでブリタニアを刺激する。

 その彼がこの場に居られるよう、納得出来る理由と肩書きを紹介がてら述べようとしたのだが、そんな建前は必要ないとばかりに神楽耶を遮り、シュナイゼルは目の前の仮面の男に微笑んだ。

「初めまして、……で良いのかな?」

 先程までと変わらない笑み。だが、崩れない完璧な微笑を形作る瞳の奥には、先程まではなかった熱が見え隠れしていた。

「シュナイゼル・エル・ブリタニアだ。こうして会えるのを楽しみにしていたよ、ゼロ」

 嘘ではなく、本当に楽しそうな様子でシュナイゼルがゼロに手を差し出す。

「こちらこそ。噂に名高いブリタニアの神童にお目にかかれて嬉しく思います」

 常に微笑みを宿し、友好な調子で話し掛けるシュナイゼルに対し、ゼロはその手を取りながらも、どこかそっけない。

 まるで、相手にしようとしていないような。そんな印象を受けたが、シュナイゼルは構わず言葉を重ねる。

「神童、と言うなら君の方が相応しいだろう。僅かな手勢でブリタニアに反旗を翻すや否や、我が妹を始め多くの猛者を蹴散らし、遂には我がブリタニアから支配したものを奪い返そうとしているのだから」

 ゼロの活躍は、そのままブリタニアが辛酸を舐めさせられた数になる。普通なら苦々しく思う事柄であるのに、称賛するシュナイゼルの口振りはとても面白い映画を観たかのように楽しげだ。

「果たして、何者なのか。我々を翻弄するその知略。未来を知っているかのような広い戦略眼。それらを何処で培ったのか。君の正体について興味は尽きないが……、今は置いておこうか」

 興味深そうに目を細め、滔々とゼロへの関心を語っていたシュナイゼルだったが、その正体については深く追究するような真似はせず、あっさりと話を切り上げると、さて、と一同を見渡した。

「これで役者は揃ったようですし、早速、本題の方に移りたいと思いますが……」

 いよいよである。

 緊張にひりついた空気を感じ取り、決意を示すように神楽耶は固く拳を握る。小声で会話を交わしていた護衛達も、ぴしゃりと口を閉じ、普段は飄々としている六家の老人達の瞳にも勝負師としての光が宿るのが見えた。

 だが、日本側の決意に反し、シュナイゼルは、ふぅ、とわざとらしく息を吐き出すと、きつく締まった首元を緩めた。

「ところで、ゼロ。話は変わるが、君はチェスを嗜んだ事はあるかな?」

「多少は」

 あまりに脈絡のない話題転換。突然、世間話のような話を切り出してきたシュナイゼルに、皆が唖然とする中、一人動じる事のなかったゼロの首が縦に振られる。

 それに満足そうに頷き、相好を崩したシュナイゼルは、合図でもするように片手を上げる。

「いや、実を言うとね。私も、ここまで国の進退に関わる難事には携わった経験がなくてね。恥を晒すようだが、些か緊張してしまっているようなんだ」

 いけしゃあしゃあと、そんな事を宣う主に内心で呆れながら、シュナイゼルの手に合わせて動いたカノンが、持っていたアタッシュケースを開いた。

「そこで、どうだろう? ゼロ、君さえ良ければ、緊張を解す為に、一つ手合わせをして貰えないかな?」

 開かれたその中に収まっていたのは、白と黒の象形の駒。そして、傷一つなく綺麗にマス目の引かれた、――チェス盤だった。

 

 沈黙が降りる。

 本題にも入らず、子供が遊びに誘うような気安さでゼロをチェスに誘おうとするシュナイゼルの言動に当惑する日本の傍ら、同じく真意を覗かせない黒の仮面はアタッシュケースの中身を一瞥すると、今度は首を横に振った。

「私程度の腕前では、殿下を楽しませる事は出来ないと思いますが」

「気にする必要はないよ。ほんのお遊びだ。それに、折角の場に、余興の一つもないのは寂しいと思わないかい?」

 そう思いませんか? と同意を求めてくるシュナイゼルに、神楽耶は窮する。

 意図が全く読めないのだ。

 確かに、大事を前にして、緊張と警戒で張り詰めている空気を和らげる為に、余興を挟むのも良いかもしれない。

 だが、この男がたかだかそれだけの為にこんな提案をしてくるとは思えない。

 しかし、特に理由もなしに提案を断れば、悪感情を抱かれる恐れがあり、後の交渉に響かないとも限らない。

 一体、何を考えているのか。本当に緊張を解したいだけなのか、それとも何かあるのか。

 それを探ろうとシュナイゼルを凝視するが、残念ながら神楽耶にはその裏にあるものを読み取る事は出来なかった。

 むしろ、逆に自分の方こそ見透かされてしまいそうで、神楽耶は逃げるようにシュナイゼルから視線を逸らすと、自らの傍らに立つ男を見上げる。

「それで、どうだい? 君が相手をしてくれれば、きっと、私もこの後の交渉で()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 普通に取れば、緊張が解れてリラックスして交渉に臨めると聞こえるが、おそらく違うだろう。

 暗に、彼はこう言っているのだ。もし、乗るなら、この後の交渉で手心を加えるのも吝かではない、と。

 実際に、するかどうかは分からないが、こう言われれば、応じずにはいられないだろう。そうやって、食い付きたくなるような餌をちらつかせ、分かっていても自分の思惑に乗ろうとするように誘導する。

 そう。あたかも、『決戦』という餌でコーネリアを誘った時のゼロのように。

「……分かりました。お受けしましょう」

 であるなら、これは当然の結末。

 分かり切っていた答えなのに、その言葉を聞いた瞬間、シュナイゼルは顔に張り付けた笑みが深くなるのを感じた。

 

 

 

 そうして、話は冒頭に戻る。

 

 カツン、カツン、と小気味の良い単音が響く度に、様変わりしていた盤上が、中盤を越え、より複雑に乱れた。

 互いの読み合いが極まり、煩雑な模様の描いた盤面。

 それを眺めていたシュナイゼルは、ふと一定の調子を保っていた手を止めると、隠すように口元に添えた。

 微笑みが崩れるのを抑えられなかったからだ。

 始まる前に、緊張を解す為とか、余興だとか、色々と言ったが、やはりと言うべきか、本当にそう思っていた訳ではない。

 単純に、戦いたかったのだ。ゼロと。

 直接、手を合わせて確かめかったのだ。奇跡の担い手と称される彼の力量を。漸く現れた自分と対等の打ち手なのか。それを見極めたかった。

 その結果は。

 僅かとはいえ微笑の仮面が崩れたシュナイゼルの姿を見れば、一目瞭然だった。

 

(いやはや………)

 自然と口元が緩むのを止められないまま、シュナイゼルは内心で新鮮な驚きを味わっていた。

 思考の回転速度、読みの深さ、視野の広さ、勝負所の嗅覚。どれを取っても、ずば抜けている。

 ここまで卓越した頭脳の持ち主が相手となれば、成程、コーネリア達が敗北するのも無理はない。

 まず間違いなく、目の前の男は戦略家として稀有な才能を有している。そう断言出来た。

(それにしても………)

 はぁ、と口元を覆う手の隙間から熱い溜め息が零れる。

 一体、いつぶりだろうか。盤上の前で、こんなにも胸が熱くなるのは。

 優劣がはっきりすれば、直ぐに打ち筋が乱れる貴族達とも違う。躊躇っては駄目だと勝ち気に逸る挑戦者達とも違う。

 一手一手に心が踊る。自らの打ち込みに、相手が頭を下げるのではなく、打ち返してくるのがこんなにも待ち遠しいものだなんて、忘れて久しい感情だった。

 

(ああ、そうか。そうだったね…………)

 これが、楽しい、というものだった。

 

「随分と謙遜したね? その仮面といい、ひょっとして恥ずかしがり屋なのかな?」

 これ程打てるのに、多少はなどと嘯いたゼロをからかう。これもまたシュナイゼルには珍しく、特に裏もない、本当につい口から出た軽口だった。

「まさか。小心者なだけですよ」

「ふふ。それこそ、まさか、ではないかな? 小心者に一人で大国に挑むなんて芸当は出来ないよ」

 適当な発言で軽口を流すゼロに、シュナイゼルが小さく笑う。称賛だろうが挑発だろうが、等しく流していく。それもまた、シュナイゼルの好むところだった。

「しかし、意外だったね」

 改めて、盤上に視線を落とし、白と黒のせめぎ合いを眺めていたシュナイゼルは、ふと今気付いたかのように、ぴっ、と黒の駒を指差した。

「今までの君の戦略を見るに、君はもっと攻撃を好む人間だと思っていたのだけどね」

「殿下こそ。博打のような勝負手より堅実な手の方が性に合ってると思いますよ」

 平然と返された言葉に、シュナイゼルの笑みが変わる。

 それは思考を同じくしている、――()()()()()者への共感の笑みだった。

 おそらく、周りの者は分からないだろう。

 端から見れば、ただチェスを打っているだけのように見えるが、ゼロもシュナイゼルも、チェスと平行して情報戦を繰り広げていた。

 攻めを好むのか、守りを好むのか。勝機に大胆になるのか、慎重になるのか。

 策を好むか、直球を好むか。王道か、邪道か。

 戦い方や戦略の傾向。それらをチェスの打ち筋から悟られぬよう、両者とも巧みに打ち筋を変化させつつ、相手の打ち筋を暴こうと、様々な手を織り交ぜてお互いを試していた。

(そう言った意味では、読めない手もあるが……、まあ、構わないかな)

 顎に手を添えて、盤上を確認しながらゼロの手を反芻していたシュナイゼルは、その中に意図の読めない手が複数あるのに気付いていた。

 流れから逸脱している、まるで高等数学の問題の中に算数や物理式が紛れ混んでいるような異物感。

 しかし、シュナイゼルはそれについて追究はしなかった。

 予想外の一手からの奇襲。ゼロお得意の戦法を仕掛けてくれるというなら願ったりであるし、何より何をしてくれるか見てみたいというのもあった。

「ところで、ゼロ」

 なので、シュナイゼルは別の方。もう少し分かりやすい切り口から攻める事を選んだ。

「君のキングは、少しばかり動きが目立つが何か拘りでもあるのかな?」

 カツ、と白の駒が動き、止まっていたゲームが動く。

 隠さなかったのか、隠し切れなかったのか。巧みに隠された打ち筋の中にあった、()()()動きをシュナイゼルは見逃さなかった。

「大した理由ではありませんよ」

 本来の打ち筋(スタンス)を見抜かれたゼロ。だが、特に焦りも動じた様子も見せずに、件の黒のキングを取ると、見せびらかすように二人の顔の高さまで持ち上げた。

「王が動かなければ、部下は付いて来ない。そう思っているからです」

 答えと共に、カツン、と一層高く駒音が鳴る。

「動かず、省みず。あまつさえ、()()()()()()()()。そんな王に価値はない。そう思いませんか?」

「……………成程。見識だね」

 肯定も否定もせず、けれど、何か引っ掛かったのか、すっ、とシュナイゼルの瞳に、一瞬、ほんの刹那、冷たい光が過った。

「王が動かなければ……、つまり、戦いの中でも矜持を忘れない。それが君という人間の本質という訳か」

 ぶつぶつと小声で呟きながら思案し、そして納得出来たのか。シュナイゼルは頷きながら、自らの考えを披露する。

「誇り高く、繊細。それ故に理性を愛し、獣性を嫌悪する。だから、一見無秩序に見えても、君のやり方には確かなルールがあり、君はそれを絶対に破らない。破る事を君自身の矜持が許さない。……違うかな?」

 即ち、それは常に合理的に判断を下せるという訳ではないという事になる。時に切れるカードを切ろうとせず、最善手であろうとも自らに定めたルールに触れれば、打つ事はない。

 怜悧狡猾に見えても、何処かに甘さを隠している。それがシュナイゼルの感じたゼロという人間の本質だった。

 だが、そんなシュナイゼルの評価を、ゼロは軽い笑いを孕んだ声で否定する。

「買い被り過ぎです。私はそこまで大した人間性は持ち合わせていませんよ」

「そうかな? では、試させて貰うとしよう」

 そう言って、盤上から摘まみ上げたのは、ゼロと同じくキングの白。

「私が言った事が間違いだと言うなら―――」

 そして、先程のゼロと同様、見せつけるように白のキングを二人の目線の高さまで持ち上げると、コトン、と静かに盤上に戻した。

「是非、取ってみせてくれるかな? この白を」

 黒の駒の前という、盤上に。

 

 ざわり、と。

 シュナイゼルの手に騒いだのは対面のゼロではなく、今まで黙って二人の勝負に見入っていた周囲の者達だった。

 それも、そうだろう。今のシュナイゼルの一手は悪手とすら呼べない、ふざけたものだ。

 ルールをよく知らない者でも分かる。敵の駒の前に自分のキングを差し出せば、どうなるかなんて。

 これで、勝敗は決した。後は、黒の駒が目の前のキングを取れば、それで終わり。

 つまり、施しのように差し出された勝利を、ゼロが拾えれば勝ちとなる。

「…………………」

 ゼロの手が止まる。迷う必要のない盤面で動かず、黙するゼロの仮面は、変わらず黒く、その奥に隠された表情を窺い知る事は出来ない。

 どんな表情で盤面を見ているのか。その胸中を想像しながら、シュナイゼルは優雅に手を組んでゼロの選択を待った。

 そして、動く。

 僅かな空白を置いて、伸ばした指先は―――、白のキングの前から黒の駒を退けた。

「……どうやら、正解だったようだね」

 周りがまた騒ぐ中、期待通り、という風にシュナイゼルは笑いながら、自らの駒を動かす。

 そこからは、一方的だった。

 無意味に退いた事により、布陣が崩れ、その隙を逃さなかった白の攻めに、瞬く間に黒は追い詰められていく。

 こうなる事を予測出来なかったゼロではあるまい。にも関わらず、退いたゼロの判断はシュナイゼルの推測が正しいという証明に他ならなかった。

「皇帝陛下なら、迷わず取っていただろうね……」

 淡々と呟いたシュナイゼルの声には、どことなく乾いた響きがあった。

 推測が当たった事への嬉しさ。推測通りでしかなかった事への失望。

 相反する気持ちを抱きながら、シュナイゼルは胸にいつもの感覚が広がっていくのを感じていた。

 結末の分かっている本を読んでいるような、()()()()()()()()勝利への道をなぞるだけになった現実に対する虚しさ。関心が薄れ、色褪せるように自分が空虚になっていく感覚。

 それが、ゼロ相手でも湧き上がって来てしまった事実に、シュナイゼルの口から様々な感情と共に溜め息が零れた。

「でしょうね」

 だが、そんなシュナイゼルと現実にゼロが食らいつく。

「差し出された手を払い、切り捨て、踏みにじる。そんな野蛮な行為、私にはとてもとても」

 シュナイゼルの背後で若干名の気配が鋭くなるが、それに構わず、ゼロは少なくなりつつある黒の駒を迷いのない手で動かした。

「確かに殿下。私は貴方の言う通り矜持に固執するきらいがある。でも、だからこそ、私は手負いの獣のように誰彼構わず噛みつくような手段ばかり取るつもりはありません」

 何を例えているのか。次々と黒の駒を取りつつ黒のキングを追い詰めていたシュナイゼルは、そこでふとした感覚に捉われた。

 網をすり抜けるように魚が逃げていくというべきか。追い詰めているのに、黒のキングは悠々と動いているようにシュナイゼルには見えた。

(まさか、先程の―――?)

 違和感に僅かに目を見張る。しかし、その手は止まらず、いや、止められず。盤上、白の駒はその隅に置かれた黒のキングへと迫った。

「人であるなら」

 コツン、と白の駒が置かれるのに合わせ、盤上の有り様とは裏腹に、焦りのない余裕ある声が黒い仮面から零れた。

「時には、知性ある結末も模索してみませんと」

「ほう? では、君の言う知性ある結末とは、例えば、どんなものかな?」

「そうですね………。差し当たり、貴国、――いえ、両国に、今、私が望むのはコレでしょうか」

 そう言って、ゼロは自分の手番でありながらも駒を取ろうとせず、チェス盤を差し出すように手を指し広げた。

「終局です」

 黒のキングは、ギリギリチェックを掛けられていない。

 本来なら、まだゲームは終わっていないのだが、ゼロは終局を宣言した。

 そう。それは、自らの手番に、しかし、打てる手が何も残っていない場合、そこでゲームを終える事が出来るチェスのルールの一つ。

「対等。その終わりを以て、余興とさせて頂きましょう」

 

 ステイルメイト(引き分け)。―――それが、今回の勝負の幕引きだった。

 

 

 ゲームが終了しても、暫く誰も言葉を発さなかった。

 シュナイゼルがキングを差し出した時はゼロの勝ちと皆が思った。ゼロが退いて追い詰められた時はシュナイゼルの勝ちだと思った。

 だが、勝負は皆が予想しなかった結果で終局を迎えた。

 追い詰められ、首の皮一枚残る形で黒のキングは生き残り、白は優勢に在りながらも黒を取り逃がした。

 この結果、どちらを称賛すれば良いのか。

 劣勢ながら引き分けに持ち込んだゼロか。いや、だが追い詰められたのは事実。

 ならば、追い詰めたシュナイゼルか。でも、途中の奇抜な手でゼロが退かなければ、負けていた。

 一体、どこまで計算でどこからがそうでないのか。

 所詮、余人たる彼等には、盤上で起こった全てを理解する術はなかった。

「―――ふふ」

 分かるのは二人。対面に座して、思考と思惑を交えたゼロとシュナイゼルだけだろう。

「期待通り。いや、それ以上だった。とても楽しませて貰ったよ、ゼロ」

「此方こそ。思った通り、貴方が優秀だったお陰で、有意義な時間を過ごす事が出来ました」

 暫し、盤上を眺めていたシュナイゼルが顔を上げ、心底楽しめたという表情で称賛するのに、称賛で返す。

 そうしたやり取りを終えて、漸くゼロから関心が離れたのか。シュナイゼルは立ち上がると、何時もの薄い微笑みを顔に張り付け、観戦者と化していた本来の出席者達に向けて、軽く頭を下げた。

「長らくお待たせしてしまい、申し訳ありません。これより、両国の未来の為、停戦とそれに伴う各種条件を詰める交渉に入りたいと思いますが、宜しいですかな?」

 殊更、丁寧な口調。柔らかい、完璧な笑み。

 そこに、今の勝負で垣間見た熱も感情もなく。

 先程よりも、完璧に見える人形のような笑みに身体が震えそうになるのを堪えながら、宜しくお願いします、と神楽耶も頭を下げた。




 長くなりましたので、前哨戦で切ります。
 本当は交渉最後まで書くつもりでしたが、普段は何も感じてないポーズしている癖に、弟を前にした途端、私ともあろう者がドキドキして参りましたと兄がはしゃぎ始めまして、つまり何が言いたいかと言うと全部シュナ何とかとか言う奴のせいなんだ。

 そんな訳で、(作者にとっての)地獄のシュナイゼルタイムはまだ続きます。出来れば、次で終わって欲しいけど……、欲しいけど………ッ(震え)

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