ザァァ……、と水の流れる音がする。
控えめな電球色の光に照らされた、白い洗面台の中で蛇口から流れる水が緩く渦を巻いて、排水口に吸い込まれていく。
その様をぼんやりと見つめる。流れる水と、その音に、擦り切れそうだった精神が少しずつ落ち着きを取り戻していくのが分かった。
は…ぁ、と掠れる喉で深い呼吸を一つ。ゆっくりと吐き出すのに合わせて、瞳を閉じる。
数秒。まだ少しばかり早い鼓動にして三つか四つ。
瞳を開けて、鏡に映る自分の瞳にきちんと光が宿っているのを確認すると、彼女は蛇口を締めた。
叩き付けられた手が、執務室の幅広い机に高い音を立てる。
非力な腕、少女の小さな手で叩かれた机は、しかし、材質が良かったのか、大きな音を立てて部屋に響き、結果、それは応接用のソファで午睡に沈んでいた魔女の眉間に皺を作る事となった。
「んぅ…………?」
何やら口の中で唸りながら、愛用のマスコット人形を押し潰す形で彼女は身体を反転させる。
その動きは緩慢で、思考も半分、夢の中である。
昼寝にしては眠りが深いように思えるが仕方ない。
放っておけば、文字通り、死ぬまで働きかねない共犯者の魔王を程々でベッドに引き摺り込むために、共に夜を更かす事が多い彼女は、こうして昼寝でもして睡眠時間を確保しないと身体が持たなくなる。
ともあれ、小柄な身体には少々大きめのソファの上で、ごろんと転がった魔女は、寝惚け眼で、さっきの音は何だったのか、と音のした方に視線を投じた。
そこにいたのは、一人の少女。机に手を付いたまま、挟んで向かいにいる男を睨んでいる姿を見るに、この少女が先程の大音の原因だろう。
名前は分からない。――おそらく、知らない。
だが、この少女が『前回』の最後、ルルーシュの側に立っていた少女だということだけは分かった。
どういう状況かは分からない。でも、とりあえず、危険はなさそうだと回転の遅い頭で判断した魔女は、もう一度、身体を反転させると黄色い人形を抱き締めて、再び眠りに就いた。
視線を、真っ正面から相手に突き立てる。
おさげにしていた髪をまとめ上げ、ブリタニアの官服の上から好んで白衣を纏ったニーナは、この執務室に鼻息荒く乗り込んできてからずっと、その視線から力を抜こうとしなかった。
厚いレンズの奥に見える瞳は確かな意志を宿し、身体共々臆する事なく真っ向から相手を見据えている。
その僅かにも視線を逸らさない姿からは、およそ今までの彼女を連想する事は出来ず、彼女を知る者なら、その豹変ぶりに当惑を露にしていた事だろう。
何せ、自分の願望を言うのにすら、誰かの口添えを必要とする程に気の弱かった彼女である。
そんな彼女が、見知った顔とはいえ、異性を相手にここまで強気な態度に出れるだけの胆力があったなど、そこそこ付き合いの長い生徒会のメンバーですら知りはしなかった。
かくいうニーナも、自身にこんな一面があるなど思ってもいなかった。おそらく、少し時間が経ち、冷静さが戻れば、己の大胆さに顔を覆って崩れ落ちる事間違いなしだろう。
そんな根っこのところは、何も変わってはいないニーナが別の時間軸の事とはいえ、世界すら蹂躙した皇帝に物を申せるとすれば、その理由は唯一つ。
心から敬愛する姫君に関する事だけだ。
「何とかして」
「そうは言うがな」
じっとりとした響きを以て発せられるニーナの発言に、ルルーシュは手元の書類に淡々とサインを入れながら答える。
「ユフィの頑固さは筋金入りだ。俺が何か言ったところで素直に言うことを聞いたりはしないだろう」
「そんな事ない。だって、ルルーシュはユーフェミア様のお兄さんなんでしょ? なら、ユーフェミア様だって――」
「血縁にたしなめられた程度で、行動を改めるなら、コーネリアも苦労はしていないさ」
ナンバーズの皇族騎士への起用、行政特区。そもそも、他人の言うことに素直に頷く性格なら、過保護なコーネリアの忠告を聞いて、危険なエリア11に来る事もなかっただろう。
これまでにユーフェミアが引き起こした、前代未聞にして型破りな出来事の数々を思い出し、ニーナは一瞬、うっ…、と怯むも、それでも負けじと言い募る。
「で、でも、このままじゃ……ッ、ルルーシュは心配じゃないの?」
あまり芳しくないルルーシュの反応に焦りが滲む。
「食事はまともに摂られないし、最近は殆ど眠ってすら……、でも、私が何か言っても大丈夫の一点張りで……」
震えそうになる声を唇を噛んで押し殺し、ニーナは力なく俯く。どうにも出来ない不甲斐なさに身体を震わせ、必死に涙しそうになる感情を押し留めているその姿からは、彼女が演技ではなく本気で、今や主君とも言える少女の身を案じているのだと窺い知る事が出来た。
もっとも、そんな事は『前回』の時点で既に分かっていた事だし、そんな彼女だからこそ、ルルーシュは現状敵地にて寄る辺のない妹の数少ない味方となってくれるだろうと、本人の希望と合わせ、
「心配は、勿論、している」
そこで、今の今までそびえ立つ紙の山々を絶え間なく切り崩していたルルーシュの手が止まる。
顔を上げ、視線をニーナに向けたルルーシュの表情は淡白な返答の割に案じるように優しい。
「なら―――」
「だが―――」
更に言い募ろうとするニーナの言葉に重ねるようにルルーシュが口を開きかけた。その時だった。
「ルルーシュッ!」
大声で自分を呼ぶ声に被さるように、執務室の扉を勢い良く開け放つ音が響き、明るい色が室内に飛び込んできた。
話を中断し、ニーナと揃ってそちらに視線を向ければ、作法など知りませんとばかりに片手で乱暴に扉を開き、躍動を表すように、ふわりと柔らかい桃色の髪を靡かせた少女、――ユーフェミアがもう片方の手で中々厚みのある何かを大事そうに胸に抱えながら、パタパタとルルーシュの下へ駆け寄ろうとする姿が目に入った。
「ルルーシュッ!」
再度、名前が呼ばれる。数こそ多くはなかったが、それでも人前で喋る立場に在ったユーフェミアの張りのある声は、そこそこに広い執務室でも良く通り、ソファで睡眠を貪る魔女が煩いと言いたげにもぞもぞと動いた。
不機嫌そうに目元を擦り、寝返りを打って、耳栓でもするかのように黄色いマスコット人形に思いっきり顔を突っ込む。政庁に用意した自分達の部屋に引っ込めば静かに眠れるだろうに、それでも執務室で寝ようとする共犯者の姿を、視界と思考の隅に収めながらルルーシュは目の前にやって来たお転婆な妹を苦笑半分、親愛半分な笑みで迎えた。
「ユフィ、元気なのは結構だが、慎みは忘れないように」
軽くたしなめる。
別に皇女らしく振る舞えとまでは言わないが、スカートの裾を気にするくらいはして欲しい。
姉のように軍服ならともかく、女の子らしい格好をしているユーフェミアが激しく動き回れば、色々と目に毒な光景も生まれよう。この政庁にはルルーシュ以外にも黒の騎士団の団員やなんやらも多い。もし、彼等の目にそんなユーフェミアの姿が晒されようものなら、ルルーシュも兄として然るべき対応をしなくてはならなくなる。こう、悪逆なんちゃら的に。
「もう……ッ、そんな事より見てくださいッ!」
出鼻を苦言で挫かれたユーフェミアは、ぷくりと一瞬頬を膨らませたが、直ぐに気を取り直し上機嫌な様子で胸に抱えていたものをルルーシュに向かって突き出した。
「今度こそ、です! ルルーシュ! 確認してみて下さいッ!」
突き出されたそれは文書の束。分類するならば、企画書、提案書に該当するものが中々の厚みを持ちながらクリップで留められ、ユーフェミアの手の中でパサリと揺れる。
手応えがあるのか、更にずい、と見せびらかすように突き出し、胸を反らして、ふんす、と自信ありげに鼻を鳴らす。
ここ数日、寝食を忘れて作成したこれは、正に会心の出来と言って良い内容になっているとユーフェミアは自負する。
何度も駄目だしを食らい、棄却された案を検討し、より良いものに、ちゃんと人々の為になるようにと、心配するニーナが止めるのも構わず、一心不乱に書き上げた。
きっと大丈夫。今後こそ、ルルーシュは首を縦に振ってくれる。
期待を胸に、ユーフェミアは目を通そうと手の中の自信作を受け取る兄の姿を固唾を飲んで見守った。
何やら必死な様子のユーフェミアだが、では、何を必死にやっていたのか。
一言で言えば、金策である。
俗っぽい話になるが、今の日本には金がない。
日本は、確かにトウキョウの一大決戦に勝利し、ブリタニアから首都をもぎ取り、国の名前を取り戻した。
だが、それで万事解決。めでたしめでたし、となる訳ではない。
八年。文字にすれば、二文字で終わる長い年月は日本から国家として一人で立つ力を奪っていった。
政府は力を失い、かつての街並みは破壊し尽くされ、追い立てられ、職を失くし、誰もが酷い生活を強いられるようになった。
失ったそれらを取り戻すのは、並大抵の事では済まない。
各地の復興支援に再建事業。廃墟のようなゲットーでその日暮らしをしている日本人がかつての生活に戻る為の支援活動、生活の保障。政府機関各組織の立て直し、地下鉄網の復活。
これから行わなくてはならない事は多くあり、そして、そのどれもが膨大な資金を必要とする。――が、長く国として機能していなかった日本に税収なんてものはなく、まずは先立つものをかき集める事からしなくてはならなかった。
その金策の一つとして、ブリタニアから援助を引き出し、日本の復興の一助とするのが今のユーフェミアの役目だった。
しかし、ブリタニアは紛うことなき敵国。いくら、支援が必要だからといって、彼の国から敵に塩を送るような真似をして貰う事は普通なら不可能に思えるが、実際はそうでもない。
勿論、国家としては無理だろう。だが、個々人、個々の企業となれば、話は変わってくる。
例えば、日本、――エリア11を拠点とする企業。
彼等はこのままいけば、悪徳、真っ当を問わず軒並み撤退しなくてはならなくなるだろう。
ブリタニア企業の中には、貴族と癒着して力のある大企業がひしめく本国を避け、エリアで大成した企業も多い。
だが、これから先、日本が独立に成功した場合。日本でブリタニア人の生活が保障されず、今のエリア11内でのイレブンのように扱われるような事にでもなったら。
今までを振り返れば、日本がブリタニアに便宜など図る筈もない。
トウキョウ租界が東京に戻ってからこっち、ブリタニア中で激化する反ブリタニア活動に苦労はあっても、まだ何とかやってこれたが、生活水準がそこまで落ち込む事になれば、完全に立ち行かなくなる。
ゼロがいる以上、必要以上に不当に扱われる可能性は低いが、仮にそこまで酷くならなくなったとしても、これから再び日本企業が台頭してくれば、同じこと。
彼等は日本から弾き出され、エリア11で成功したブリタニア企業の多くが得た功績の全てを失う羽目になる。
つまり、日本は復興の為の支援を。ブリタニアは今後の日本での生活の保障と立場の確立を。
共に利害は一致していた。
しかし、だからといって、両者が直接顔を合わせれば、上手くいくものもいかなくなる。
何せ、昨日の敵どころか今日も敵なのだ。恨み辛みが先立ち、交渉が難航するのは目に見えていた。
そこでユーフェミアの出番となる。
ブリタニアにとっては自国の皇族であり、日本にとっても唯一歩み寄りの姿勢を見せてくれた敵国の姫。仲介人として、両者の間に立つには、正にうってつけの人物だった。
ユーフェミアにとっても、この仲立ちを成功させる事は大きな意味を持つ。
日本人の助けとなり、ブリタニア人がこれからも日本で暮らしていく事が出来れば、日本人とブリタニア人として、共存の中から平等な関係を築いていける可能性も生まれるからだ。
それは、理想に適う。
だから、ユーフェミアは必死だった。自らの理想の為に懸命だった。
仲介を成立し、両者を繋げる為に、双方の要求を聞き、意見を調整し、折り合いを付けていく。
ともすれば、利益に走りがちな企業人を抑え、怒りから感情的になりやすい日本政府を宥めるのは中々に骨が折れる。そんな両者だからこそ、ユーフェミアが譲歩案を出せなければならないのだが、これが難しい。
何故なら、きちんと両者の釣り合いが取れていないと今後に支障を来たすからだ。たとえ、僅かでもどちらかに天秤が傾けば、それは後に不平不満を生み、新たな諍いの元となる。
そして、ユーフェミアの兄はその僅かを決して見逃さない。
最終的な譲歩案については、兄にアドバイスを貰い、幾度か原案を提出してみたが、ルルーシュのチェックは厳しく、今日まで彼の首が縦に動く事はなかった。
それでも今日。納得の出来るものが仕上がった。
今度こそ、と意気込むユーフェミア。
だが…………。
「駄目だな。これでは」
その一言に、ユーフェミアの顔から表情が消えた。
受け取って、僅か数十秒での返答である。ペラペラと書類を捲り、その類い稀なる才能で速読し、きちんと内容を吟味してからの返答ではあったが、端から見れば受け取って即却下という光景である。
何日も夜を徹して作成しての、結果のこれには流石のユーフェミアもショックを隠せない。
衝撃に何も考えられないのか、はたまた気力を支えていた期待がへし折られたからか、表情のないまま固まるユーフェミアの代わりに、隣にいたニーナが眉を吊り上げるが、彼女が怒りの声を上げるよりも早く、ルルーシュが言葉を続ける。
「方向性は間違えてない。内容もよく考えて練られている。日本とブリタニアの関係が良好だったなら、これで十分に及第点だっただろう」
パラパラともう一度、ユーフェミアの原案を流し見る。両国の実状をきちんと把握し、現実をしっかりと見据えて作成された案は、最初の頃に比べれば、格段の進歩である。
そう、悪くはない。悪くはないのだ。
「唯、……そうだな。ユフィ、君は少し
ルルーシュは、柔らかい物言いをしたが、率直にユーフェミアは日本人に甘過ぎる。
ユーフェミア自身、意識しての事ではないだろう。
願いか、愛か。――あるいは、負い目か。
ユーフェミアの作成した譲歩案には、所々に日本人に負担を掛けまいとする気遣いが垣間見えるのだ。
数字の上では問題ない。実利だけ見れば、両者の釣り合いは取れている。
あくまで気持ち。精々が甲斐甲斐しいとかその程度。
だが、今回のユーフェミアは中立に徹しなければならない立場である。であるなら、私情を交えるのはあまり良い事とは言えない。それに、紙の上ではその程度でも、実際に現実として動きを見せた時、どう作用するか分からないなんて事も、往々にして良くある事だ。特に、両者がいがみ合っているのなら、過ぎた気遣いは、傷になりやすい。
「で、でも、その程度なら……」
堪らずニーナが口を挟む。確かに、言っている事は正しいが、特区での事を思えば、ユーフェミアに完全に感情を排せと言うのは難しい事だろう。私心と言っても野卑なものではない。その程度なら、民衆も理解してくれる筈だ。
そう、口にするニーナだが、ルルーシュは何も言わない。ただ、静かにユーフェミアを見つめている。
ルルーシュとて、今回のこの一件だけで終わるのなら、こんなにもとやかく言いはしなかった。
しかし、そうではない。ユーフェミアの戦いはこれからも続くのだ。
ならば、何時までも私情を引き摺らせる訳にはいかない。今回は良くても、このまま吹っ切る事が出来なければ、いつか判断を誤り悲劇を繰り返す。
それをルルーシュは分かっていた。そして、ユーフェミアも………。
「分かりました。もう一度、やってみます」
「ユーフェミア様!?」
一言も文句を言わず、ルルーシュから折角の力作を受け取るユーフェミアに、ニーナが悲鳴のような声を上げる。
しんどい思いをして、漸くゴールかというところで振り出しになったのに、ユーフェミアの顔には不満などない。一度、へし折られた気力もあっさり元通り。さっき、部屋に入ってきた時のように強敵に挑まんとする闘争心の如き気力を漲らせる妹にルルーシュはふっ、と細く息を吐き出すとちょっとばかりの助言を添えた。
「さっきも言ったが、方向性は間違えていない。だから、後は――」
一端、切る。どう言えば、ユーフェミアが受け入れやすいか。続く言葉を数瞬考え、最適なものを選ぶ。
「―――信じろ」
もっと現実な助言がされると思ったのか。こんな場面でそんな言葉が兄から出て来るとは思わなかったユーフェミアは、ぱちくりと何度か瞬きをした後、口の中で転がすように、小さく繰り返した。
「信じろ………」
「そうだ。心配しなくても、日本人はそんなに弱くはない。……それは、君が一番側で見ていたのだから、良く知っているだろう?」
畳み掛けるように続く予想外の言葉。でも、そう言われてしまえば納得で、何やら妙に胸に落ちた。
「………うん。……うんッ。うん!」
少しは心構えの参考になったのか。頷く度に喜色が滲んでいくユーフェミアの表情が最後に笑顔となって、弾けた。
「ルルーシュッ! 私、頑張りますねッ!」
握り拳を作り、元気一杯に宣言する。寝不足のせいか、妙に高揚しているユーフェミアは、えいおー、と気の抜けた声で拳を突き上げると、早速、作業に取り掛かろうと言うのか、脇目も振らずに執務室から去っていってしまった。
来てから去っていくまで、僅か数分。小さい頃から、ナナリーと共にじっとしているのが苦手だったな、と当時を思い出して、小さく微笑んでいると、ひんやりとした冷気と共に鋭い視線がルルーシュの頬に突き刺さった。
誰かは見なくても分かる。言いたい事も、言われなくても分かっている。
働き過ぎなユーフェミアを何とかして欲しいと言ってきた本人の前で、止めるどころか、一層煽ったのだ。本人がやる気に満ち満ちているのは結構な事だが、このままでは身体の方が持たない。今も、表情こそ生き生きとしていたが、目の下には確かな陰影があり、良く見れば、光沢が美しかった桃の髪からも艶がなくなっていたし、心なし細身の身体が更に細くなったようにも感じられた。
大分、無理をしているのだろう。無理、無茶に関してはルルーシュも他人の事をとやかくは言えないが、それでも妹を思えば、ニーナの言う通り、大事を取るように言うべきではあった。
でも、ルルーシュは止めなかった。
「君の心配は分かる。だが、今はユフィのやりたいようにやらせてやってくれ」
身の回りの世話と精々が資料をまとめる事しか出来ず、ユーフェミアの無茶を見ているだけでその負担を分かち合えない。
歯痒い思いをしているニーナには申し訳ないが、今は逆なのだ。
「もし、本当に駄目だと思ったら、その時こそ俺に言ってくれ。何があってもユフィの身を第一にすると約束する。だから、それまでは側でユフィを助けてやって欲しい」
「……どうして?」
泣きそうな、いや、殆ど泣き声でニーナが問う。
どうして、今では駄目なのか。
どうして、これ以上を許すのか。
もう、十分過ぎる程やっている。もう、十分過ぎる程頑張っている。見ていられない程、無理をしている。己を磨り減らす程、無茶をしている。
なのに、どうして――――?
「…………立ち止まっているより」
啜り泣く少女の声に、静かな声が答えと混じる。
「走っている方が楽な時もある」
空は晴れやかだった。
風も穏やかである。
風に乗って、トンカンと鉄が鳴る音が聞こえて、それよりも大きな活気ある声と大声で笑う人々の声が耳に楽しい。
自分が歩く横を、はしゃいで遊ぶ二つの肌の子供達が駆けていった。
誰かが自分に気付いて手を振ってくるのに、皇女らしさも忘れて、子供のように大きく手を振り返した。
楽しい。嬉しい。――そして、優しい。
どこもかしこも幸せだった。誰も彼もが笑顔だった。
燦々と照らす陽の光を両手を広げて全身で浴びて、夢見た世界を駆けていく。
――と。名前を呼ばれた。
優しい声。大好きな声。愛しい、声。
思わず、顔が緩む。
幸せな世界。共に見た理想の場所で、果たして彼はどんな顔でいるのだろうか。
胸が高鳴る。喜んでくれていると良い。そう思う。
そして、振り返る。
期待と、ちょっぴりの不安をスパイスに、一杯の笑顔で振り返った。
ぴちゃり、と真っ赤な血が嫌な音を立てて、顔に飛び散った。
銃声が煩く耳に響く。視界は靄がかかったように白く、血と硝煙の臭いが鼻の奥まで刺激を与える。
悲鳴が聞こえた。罵声が聞こえた。怨嗟が木霊した。
笑顔なんて何処にもない。幸せなんて何処にもない。あるのは地獄、一色のみ。
視界に何かの影が走った。
気付き、見上げようとするが、それよりも早く影の正体が、どさりと自分の前に落ちてきた。
小さい身体。血に塗れ、肌の色は何色か分からない。
手が伸ばされる。弱々しい力の抜けた小さな手が、小刻みに痙攣しながら、自らに向けて伸ばされた。
助けを求めているのか。それとも、別に――――?
分からないが、伸ばされた手を無視する事は出来ない。せめて、その手を取ろうと手を伸ばしかけた時だった。
鋭い銃声が轟き、地面に刻まれた弾痕が線を引くように自分と投げ捨てられていた誰かとを永遠に分かった。
硝煙と砂埃が視界を完全に遮る。
目の前で起こった光景の意味を理解出来ず、ぼんやりと立ち尽くす自分の身体に、ぱすんと何かが当たって地に落ちた。先程伸ばされた、自分が取ろうとしていた手、――だけだった。
土煙の中から、大きな機械の人形が飛び出してきた。
その手には数秒撃てば、人間など原形が分からない肉の塊に変えられる大型の銃を持ち、その銃口が、まるで自分に見せつけるかのように逃げ惑う人々の方に向けられる。
――思わず、叫んだ。
やめて、と。逃げて、と。
でも、口から飛び出した言葉が音になる事はなかった。
だから、誰の耳にも届かない。誰も自分に気付かない。
出来る事は、唯、人間が肉の山になるのを見ている事だけだ。
限界だった。
声が出ないのに叫びながら、全てを振り切るように走り出す。
地面に伏した虚ろな目と目が合った。
もう動かない母親の腕の中で泣きじゃくる赤子の姿が目に入った。
暗い感情に濁った瞳で自分を睨み付ける男の姿が目に映った。
走り抜ける自分を無表情に見つめる、沢山の日本人の顔が目に焼き付いた。
その中で。
自分に背を向けて歩く、大切な人の姿があった。
堪らず、名前を呼ぶ。でも、聞こえないだろうから、駆け寄ろうと必死になって足に力を込める。
彼は振り返らない。
自分ではない、何処か別の所に行こうとしている彼の背中目指して、走って。走って。走って――――、届いた。
彼が振り返る。背中に触れた自分の手に気付いて、振り返ってくれた。
安堵に息が零れる。不安と恐怖しかなかった心の中に、じんわりと安心感が広がっていく。
振り返った彼が笑う。――笑ってくれた。
何時もの笑顔で、こちらを安心させるような笑みで。
自分に笑い掛けながら、彼が何かを言おうと口を開いた。
跳ね起きた。
突っ伏していた机から飛び起き、その衝撃で広げていた資料が、バラとなって床に広がる。
しかし、ユーフェミアには、今、それを気にしている余裕はなかった。
「――――ッ、――――――ッ」
息が、出来ない。
過剰な精神への負荷に呼吸機能が麻痺してしまっていた。
掻き毟るように両手を喉にやって、無理矢理喉を動かす。
「………………ぜ、ッ、ひゅぅ――――ッ」
掠れた声と共に僅かに空気が喉を通った。それを皮切りに、呼吸が機能を取り戻し始める。
だが、それで終わりではなかった。
「――――――ぅ」
今度は嘔吐感が喉を支配する。胃がひっくり返ったように締め付けられ、中にあるものを全て押し出そうとするかのような感覚がユーフェミアを襲った。
とても、耐えられるものではない。
口を手で覆いながら、ユーフェミアは急いで洗面所に駆け込んだ。
思いっきり捻った蛇口から、水が勢い良く流れて落ちていく。
その様子を眺めながら、小さく呼吸をしながら息を整える。
時折、また嘔吐感が込み上げるも、殆ど空っぽだった胃からは胃液だけしか出て来ず、その胃液も枯れ果てると、もうえずく事しか出来ない。
……どれだけ、時間が経ったか。
身体が落ち着きを取り戻し、呼吸が楽になる。
漸く過ぎ去った悪夢の爪痕に、ユーフェミアは深く息を吐き出した。
眠るのが惜しいと思った事はあった。
幼い頃、大切な兄妹の所に遊びに行った時、夜が更けるまで遊んでお喋りして、もう寝ようと言う兄に腹違いの妹と一緒になって、よく愚図ったものだった。
でも、眠るのが恐いと思うようになったのは、このエリア11に来てからだった。
……いや、誤魔化すのは止めよう。
あの日。特区を始めようとして、終わった日。
あれからずっと、眠るのが恐かった。
夢の中の自分はあの日のあの場所のままで。どれだけ現実で時間が流れようと、夢の中ではそこから動けないでいる。
そして、見せつけられるのだ。
自らの所業を。その愚かさを。
見せつけられる度に、責められて、その度に弱気が心の底から顔を出す。
「――――――」
顔を上げる。鏡に映った自分は生気に欠けて、今にも死にそうな程に弱々しい。
それを払拭しようと、無理矢理笑顔を作ろうとする。
でも、気力の足りない今のユーフェミアには口の端を僅かに持ち上げた歪な笑みしか作れない。
その笑みは、まるで嘲笑だった。
鏡の中のユーフェミアが、ユーフェミアを嘲笑う。
また、繰り返すつもりなのか、と。
また、同じ過ちを繰り返すのか。また、思い上がって誰かを傷付けるのか。また、理想を口にして、多くの命を無為に散らすのか。
また。
また。
また――――。
鏡の中の自分が囁き掛ける。もう、やめろと。
自分には何も出来ない。夢を見るだけ無駄。余計な事はせず、唯黙ってお飾りになっていろと囁き、ユーフェミアの心を挫こうとしてくる。
思わず、頷きそうになる。
でも――――……
「――――――ッ」
おもむろに。
ユーフェミアは自分の顔に思いっきり水を掛けた。
弱気な自分を叱咤するように、両手で流れっぱなしで冷えた水を掬い、叩き付けるように。
「……信じる事をやめない」
何度も。
「……想う事をやめない」
何度も。
「……諦めて」
もう一度、顔を上げる。
そこに映った顔は濡れ鼠の様だった。勢い良く、大量に水を掬っていた為、袖や襟元は水びたし。水を吸った前髪が顔に掛かり、滴がポタポタと滴り落ちていた。
でも、表情には力が戻っていた。
「たまるもんですか…………ッ!」
睨み付けるように鏡の自分に吐き捨て、ピシャ、と両手で顔を叩く。
愚かではあるのだろう。不様でもあるだろう。
弱気な自分が言うように、夢の中の彼等が言うように。
色々と足りない自分は、きっと何度も躓いて失敗して後悔もするだろう。
でも、それでも決めたのだ。
だから、弱い己に負ける訳にはいかない。罪の意識を言い訳に投げ出す事は出来なかった。
そう自分に言い聞かせ、手で顔の水気を拭い、瞳を開ける。
そこに、弱気な自分はもういなかった。
軽い音を立てて、扉が閉まる。
扉に押し付けていた身体は扉が閉まった事で傾くのを止めると、今度は下の方へと下がっていく。
ずるずると扉に身体を預けながら、膝から崩れ落ちるようにして床にへたりこんだニーナは膝を抱えて、先程の光景を思い出していた。
限界までやりたいようにやらせてやってくれ。
納得はいかずとも、一応、その言葉に従ったニーナだったが、やはり、心配なものは心配だった。
時刻は既に日付が変わってから長針が二回りしている。
ここ最近は、そんな時間でも割り当てられたユーフェミアの部屋から明かりが消える事はない。いや、本当に夜の内に明かりが消えているのかも怪しい。
ちょっと様子見がてら、必要なら夜食か何かを用意しよう。そう思い、こっそりとユーフェミアの部屋を覗きに来たニーナが見たのが、自らの罪にのたうち回る敬愛する人の姿だった。
「………何で」
ぽつり、と呟かれた。
何で。どうして。
それは、最近の彼女の口癖になりつつある言葉である。
何で、あそこまでやるのか。どうして、あそこまでやろうと思うのか。
つい最近。今の今まで、普通の学生だったニーナはあれほどにボロボロになるまで、何かを成そうとした経験はない。
なので、分からない。元より、人との関わり合いを不得手とするニーナには、信念と覚悟を以て、理想に挑まんとする人間を理解しきるのは、博士号を取るより難解な問題だろう。
ただ、そんなニーナにも分かる事が一つだけあった。
それは、何があろうとユーフェミアは諦めず、もし、彼女に付いていこうとするなら、彼女と同じ道を歩まなければならないという事である。
果たして、そんな事が自分に出来るのか。
そう考えて、――首を横に振る。
付いていきたいと思う。力にだってなりたい。
その想いに嘘はない。でも、その気持ちとは裏腹にニーナは、あまりユーフェミアの力になれていなかった。
普通の一般人であるニーナには、ドレスの着付けの仕方が分からない。正しい礼儀作法も分からない。
紅茶の淹れ方なら何とか分かるが、それでも素人の域を出ず、料理の腕前もカロリー用品で済ませる事が多かった為、まあ、言わずもがなだった。
唯一、力になれているとしたら計算、それと資料集めとまとめくらいだろう。そのあたりは日々の研究で慣れていた為、役には立てていると思うが、言ってしまえば、それしか出来ていない。
他に、何が出来るのだろう。
気付けば、思考が熱を帯びていた。自分を振り返り、ニーナは己の中に出来る事を探す。
だけど、何も思い浮かばない。端から、大した人間ではないのだ。自分に出来る事などたかが知れている。
そんな自分が、イレブンを始め、沢山の人の助けになりたいと足掻くユーフェミアの役に立つなど――――
「――――――あ」
不意に、脳裏に閃くものがあった。
暗闇に慣れた目が、うすぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる机の上のパソコンに向けられた。
あるかもしれなかった。
自分にしか出来ない方法で、役に立つやり方が。
立ち上がり、ふらふらと机の前まで移動し、電源の落ちたパソコンの画面を、そっと撫でる。
つるりとした感触を返してくる画面を撫でながら、ニーナはある事を思い出していた。
生徒会仲間であるルルーシュに、ユーフェミアの補佐役を願い出た時、ルルーシュはあっさりと承諾してくれたが、一つだけ条件が付けられた。
それは、ニーナの研究について。その内容を公表する時は必ず自分の許可を得て欲しいと、そういうものだった。
どうして、ルルーシュがそんな約束を取り付けたかは分からない。
でも、研究そのものをやめろとは言われなかった。なら、研究を進めれば、何かユーフェミアの役に立つかもしれないとニーナは考える。
「……出来る、……かもしれない」
頭の中で研究内容を思い出し、ユーフェミアの願いに添えるかどうかを考えて、―――今度は首を縦に振る。
まだ漠然としているから、確かな事は言えないが、もし本当に自分の仮説が正しくて、研究が成功したならば、新たなエネルギーを作り出せるかもしれない。
そうなれば、必ずユーフェミアの助けになるだろう。
「私の研究が……、ユーフェミア様のお役に…………」
口に出すと、実に甘美な響きだった。
自分の好きな事が、自分の好きな人の役に立つかもしれないのだ。嬉しくない訳がなかった。
居ても立ってもいられなくなり、今すぐにでも研究したい気持ちになり、――はたと気付く。
(そっか。ユーフェミア様は、こんな気持ちだったんだ……)
はからずも、分からないと思っていた感情の一端に触れて、ニーナは表情を綻ばせた。
うん、と一つ頷き、決める。
手早く邪魔にならないよう、髪をまとめ上げ、壁に掛けてあった白衣を羽織り、ニーナは椅子に座ると、未だ暗いままのパソコン画面を見つめた。
今はまだ、どんな
でも、必ず、良いものにしようとニーナは決意する。
敬愛するあの人の苦しみが、少しでも減るようにと。
自分を救ってくれたあの人が、いつかきっと、また心の底から笑えるような未来を作る為にと。
確かな想いを胸に抱き、それを形にする為に、ニーナは電源スイッチを押した。
頑張れ、女の子。