『私、ユーフェミア・リ・ブリタニアは――』
薄暗い部屋に備えられたTVから、明朗な声が響いてきた。
それは、最近話題を独占している皇女、ユーフェミア・リ・ブリタニアの行政特区日本の設立を告げた時のものだ。
苦境に喘ぐイレブンに手を差し伸べた慈愛の皇女として、彼女の姿がマスメディアに取り上げられない日はなく、今や、彼女は救世主のように崇められていた。
事実、それはかつて日本人と呼ばれていた人々にとっては諸手を挙げて歓迎すべきことなのだろう。
しかし、全ての日本人がそれを喜んでいるわけではない。少なくとも、この部屋に集まった人々には……。
「申請が通った。ここにいる奴等全員、当日は特区に参加出来る」
リーダー格の男が、そう告げると部屋の至るところから、驚きとも称賛ともつかない声が上がった。それもそのはず。この部屋にいる人間の数は二、三人程度ではない。その全員を、今、注目の特区に参加させられるようにしたと男は言ったのだから、当然の反応とも言えた。
「武器の持ち込みの方も目処が立っている。後は決行するのみだ」
男の目がTVの方へ向けられた。その目に優しげな笑みを浮かべて民衆に手を振っているユーフェミアの姿が映る。
「これが、最大のチャンスだ。復讐を果たす最大の――」
「な、なあ? 本当にやるのか?」
男が喋るのを黙って聞いていた仲間の一人が、おそるおそる男にそう問い掛ける。
「怖くなったか?」
あくまで落ち着いた口調の男に、仲間の男が慌てて首を振った。
「そ、そんなんじゃないさ。ただ、このユーフェミアって皇女は日本人のために色々してくれようとしてるから、その……」
「ああ。特区は俺達にとっても良い話だろ? それを実現してくれるっていうなら、……復讐の機会も、相手も他の奴に変えて、また、待った方が得策だ」
部屋に集まった数人から、消極的な意見が飛び出す。
それに賛成する声、反対する声が次々と飛び交い、部屋の中が騒然としてきた。
「本当にそうだろうか」
その騒ぎの隙間を縫うように男の声が部屋にいた人達の耳に届いた。
「本当にユーフェミアは日本人を思っているのだろうか?」
「どういう意味だよ?」
一番最初に意見を出した男が代表して、リーダー格の男に疑問を投げかけた。
「なあ、特区を語っているときの皇女の顔を見たことがあるか?」
「は? あるも何も、毎日TVとかでやっているだろ?」
今もほら、と男が指差す先で、ユーフェミアが可憐な笑顔を振り撒いていた。
朗らかな邪気のない、純真な笑顔。――陰りのない……。
それに、男の組んだ両手がギュッ、と音を鳴った。
「何で、笑顔なんだ……?」
「な、何で、って――」
「あの女が与えようとしているのは、八年前俺達から奪っていったものなんだぞ…………ッ!」
食い込んだ爪が皮膚を破り、血が滲んだ。
「国の名前も、当たり前の幸せも、…人権も! 尊厳も! 自分達で奪っておいて、今も不当に奪い続けているのに、まるで無償で施すみたいに――、ッ! 罪の意識はないのか? 自責の念を感じないのか!? 俺はあの何も分かっていない無知な笑顔を見るたびに怒りが止まらなくなる…………ッ!」
男とて理性では分かっている。戦争に敗けたのだ、日本は。ならば、勝者に敗者が多くの物を奪われるのは仕方がないことだと。
だが、それは人としての尊厳や生き方まで奪われねばならないのだろうか。理不尽に虐げられ、奴隷のように扱われ、享楽や慰みものの道具にされ、彼らの気分一つで吹き飛ぶ、そんな軽い命であらねばならないのだろうか。
もし、今回のユーフェミアの行動がそんな現実を知り、それを憂いてのことなら、何故そこに少しの呵責も見えないのだろう。
皇族としての立場があるのは分かる。だが、慈愛の皇女と呼ばれるような少女なら、僅かにでもその笑顔に陰りを見たかった。――見せてほしかった。
そうすれば、男もユーフェミアのことを少しは信じられたかもしれなかった。
「だが、よ……」
「分かっているさ、あの皇女に悪気も悪意もないのは。でも、ブリタニア皇族の残虐さや気紛れは、俺達はよく分かっているはずだ」
その言葉に、部屋の中の空気が明らかに変わる。リーダー格の男にユーフェミアの擁護の言葉を投げ掛けていた男すら、その顔色が暗いものに変わった。
そう、ここにいる者達は、先のシンジュク、サイタマの虐殺で家族や大切な者を失った人達ばかりだった。
「あの悪魔どもと同じ血を引いている以上、これから先、ユーフェミアもそうしない保証なんてない。今日は良くても、明日は? 明後日は? 一年後は? ユーフェミアの気が変わらないなんて言えない以上、本当に日本を思うなら、……いや」
そこで言葉を切り、小さく首を振る。そして、小さく笑みを浮かべた。全てに疲れ、諦めた諦観の笑みを。
「言い訳だな。俺は日本のことなんて、もうどうでもいいんだ。恨みを果たしたい。この苦しみを、憎しみを少しでも、奴等に味わわせてやりたいだけだ」
そこで顔を上げて、男は目の前の、そして、部屋にいる人々を見回す。
「でも、これは俺の勝手な感情だ。それに無理に付き合う必要はない。まだ、明日を諦めていない、…生きる希望がある奴は下りてくれて構わない」
誰も何も言わない。水を打ったような静寂が部屋を満たした。
「俺は、……やる」
最初に口を開いたのは、男の目の前にいた男だった。
「そうだな、お前の言う通りだ。抵抗せず、静かに暮らしていれば小さな幸せくらい掴めるだろうって、そうやって八年間、堪え忍んできて……、ははっ! その結果が穴だらけにされた恋人と妹の死体だって言うんだからな。笑えるぜ……」
「俺もやる。シンジュクで苦しい思いをしながら、それでも誰も恨むな、と言っていたオヤジやオフクロを殺したブリタニアの連中を俺は決して許さない……!」
俺も、俺も、私も。次々に声が追随した。
反対する者は、――もはや、いなかった。
「決まりだ」
男が最後にそう締めくくった。
「一つだけ言っておく。この計画を実行すれば、成功してもしなくても、俺達に居場所はなくなる」
特区が水泡に帰すことをしようと言うのだ。どう考えても、ブリタニア人からも日本人からも恨まれる。
「全員、死ぬ覚悟で来てくれ」
光射さぬ暗闇で、熟成された憎しみが闇から這い出そうと動き始める。
それは行政特区日本が開かれる数日前の出来事……。
その日は晴れやかだった。
神聖ブリタニア帝国第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアが宣言し、推し進めた政策、行政特区日本は本人の自覚なしに大きく、そして、大勢の注目を集めていた。
それもそのはず。これは、強硬に侵略戦争を仕掛けていたブリタニアにとって類を見ない政策だった。
この政策の正否、そして、ブリタニアの姿勢いかんによっては、多くの国や政府がその対応を変えるやもしれない。今や、これは一国に留まらず、これからの世界の運命を決める、そんな命運を託された政策となっていた。
「……………」
そうして、世界中がその動向を見守る中、その中心となっているユーフェミアの顔はというと、あまり晴れ晴れとしたものではなかった。
開催宣言が迫っても、どこか落ち着きなくそわそわしている。
ちらり、と何度となく、未だ空席の席を憂いを帯びた視線で見つめていた。
この運命の日、ゼロの姿はまだ、どこにもない。
「………………」
「………………」
複座式とはいえ、決して広くないコックピット内で二人の男女が至近距離で見つめ合っていた。
鼻が時折、軽く触れるほどの距離で見つめ合う二人だが、二人の間に色っぽい雰囲気は一切ない。
男は自分の頬をその小さな両手で挟みこんできている少女に苛立ちと戸惑いを。
少女はそんな男に不安と心配を。
それぞれの思いを瞳に込めながら、長らく見つめ合っていた。
「おい、もういいだろう? そろそろ、会場に向かわなくては本当に不味い」
そう言って、その頬に張り付いた手を剥がそうとルルーシュは自身の手をC.C.の手に添えるが、彼女の手が離れる気配はない。その様子にルルーシュは溜め息を吐いた。
「何をそんなに心配しているのか知らんが、ギアスに異常は感じない。それは、お前の方でもそうなんだろう?」
「ああ……」
「なら、何が心配なんだ」
C.C.は答えない。もし、これが単純に答えたくないが故の曖昧な態度ならルルーシュも相応な対応が取れるのだが、彼女の瞳と頬に触れる手がたまに震えることから、本気で此方を案じていると感じられるため、下手なことが出来ないでいる。
だが、このままでは埒が明かないのも事実だ。もう、時間は差し迫っている。
もう一つだけ、ルルーシュは息を吐くと頬に触れるC.C.の手を強く握りしめた。
「いつになく心配してくれているのは有り難いが、俺は逃げ出すことは出来ない」
ルルーシュの言葉が共に漏れる息と共にC.C.の肌に触れる。
「忠告は必ず守ろう。左眼には常に意識を払う。仮面を外している時は迂闊な発言はしない」
ゆっくりとC.C.の手がルルーシュの頬から離れていく。
「約束しよう、必ず戻ると。だから、心配するな」
返事はない。だが、それに答えるようにC.C.の瞳がゆっくりと閉ざされた。
仮面を手に取り、コックピットの外に出ようとハッチを解放する。そして、手にした仮面を被ろうとしたところで。
「ルルーシュ」
名前を呼ばれた。
「何だ、――――ッ」
応え、そちらに視線をやれば、そっと近付いてくる少女の顔があって。
反射的に瞳を閉じると、左の眼の上に柔らかく温かいものが触れた。
「おまじないだ」
瞳を開ければ、そこには悪戯っぽく微笑む少女の顔があった。
「………今日は随分としおらしいな。雨でも降らせようと言うのか?」
「随分な物言いだな。それに、まじないは魔女の本分だ」
どう反応すれば良いのか分からなかったので、いつも通り皮肉を返せば、返ってきたのもいつも通りのそれで。
「では行ってこい。…しくじるなよ?」
「誰に言っている」
らしい笑みを揃って浮かべながら、二人は運命の舞台に足を踏み入れた。
会場に現れたゼロと共にユーフェミアが、一時会場から姿を消したことでざわめく会場内に男がいた。
『おい、ゼロが来たぞ』
「ああ、見ていた」
耳に付けた通信機から聴こえてきた声に男が答える。
『どうする? 計画は、このままでいいのか?』
若干の戸惑いを含んだ声音に、男はああ、と返す。
「ゼロの思惑は分からないが、俺達はもう止まれない。予定通り、計画は実行する」
了解、という声に通信を切る。
(そうだ、もう止まれないんだ……)
胸元の不自然な膨らみに服越しに触れる。それに応えるようにカチャリ、と音が鳴った。
夢に見る、とそんな台詞をよく聞くことがある。酷い体験をした人が、それを忘れられず夢という形で何度もフラッシュバックすると。
それを聞いて男は思った。
安い地獄だ、と。
夢で見る程度で済むなら、まだいい。寝ても覚めてもその光景を思い出すことですら、気安い。
何故なら、男にとってはあの日の光景は思い出すことではない。味わい続けることだからだ。
視界に映るあらゆるものが家族が流した血の色に染まっている。
鼻は何を嗅いでも血の匂いしかしない。
口にしたものは、死んだ家族の肉のように思えてしまう。
触れるもの全てが、体温を無くした彼女たちのようだ。
耳の奥底で、あの日家族が上げたであろう悲鳴がずっと聞こえている気がしてならなかった。
ああ、自分は壊れてしまったんだな、と男は自分でよく分かった。
そして、もう全うに生きられないのだということも。
だから、男には、もう、こうする道しか選べなかった。
取り合った手を離す。しかし、長い時間を掛けて再び結ばれた絆は解かれることはなかった。
本当は、その手を取るつもりはルルーシュにはなかった。
ルルーシュがここに来たのは起死回生の策を打つため。
ギアスを使い、ユーフェミアに汚名を着せることで特区をご破算にし、窮地を脱しようと考えたからだ。
しかし、それを実行することは出来なかった。
「でも、私って信用ないのね。いくら脅されたからって、私がルルーシュを撃つと思ったの?」
軽やかな笑い声と共にユーフェミアがそう拗ねたように口にする。
懐かしい感覚だった。もう二度と感じることはないと思っていた遠い日の感覚。
それを為したのは一重にユーフェミアの平和を、そして、愛する人達と共に在りたいという想いであり、ルルーシュの捨てきれなかった妹への愛情なのだろう。
「ああ。違うんだよ。俺が命令したら、誰だって逆らえないんだ」
ルルーシュも、その感覚を感じているのだろう。その口がいつもより軽かった。
「俺を撃て。スザクを解任しろ。何でもね」
そんな軽口にユーフェミアも笑う。冗談ばっかり、と。
幼い会話だった。まるで、あの日。世界を何一つ分かっていなかった童心だった頃のように。
「本当だよ」
だから。
「例えば」
幼いあの日に立ち返った心が、拙い冗談を口にしてしまいそうになるのも、不思議ではないだろう。
「日本人を――――」
不意に。
誰かの唇の感触を思い出した。
「どうかしたの? ルルーシュ?」
いきなり、左眼を手で覆いながら自分から目を背けたルルーシュに心配そうにユーフェミアは声を掛けた。
「………いや、何でもないよ」
軽く笑顔を見せて答えながら、ルルーシュは仮面を被り直した。
「そろそろ、戻ろう。主催者がいつまでも姿を消していたら、皆が不安になる」
「あ、そうね」
はた、と思い出したようにユーフェミアは微笑み、ルルーシュに先んじて会場に戻ろうとする。
名残惜しくはあったが、でも、これからはまた昔みたいに何時でも会えると思うと心が弾んだ。
「ふふっ」
小さく笑い声をあげ、くるり、と華が広がるように身を翻す。
「これからよろしくね? お兄様?」
「……ああ」
愛らしい笑顔を浮かべる腹違いの妹に、仮面の下から返ってきた声は優しかった。
「どうやら、無事に終わったみたいだな」
コックピットの中から外の様子を窺っていたC.C.がぽそりと呟いた。
ユーフェミアの後。それに続くようにゼロの、――ルルーシュの姿が見えた。
その瞬間、C.C.は肺に溜まった空気を全て吐き出すほどの息をして、コックピットの背もたれに身体を預けた。
罰なのかもしれないと思っていた。
あの日、自分に罰が下されたのではないかと。
過去ということは、それはつまり、一度は道筋が決定されたということ。だから、自分が何をしても結局何も変えられず、また、ルルーシュが死ぬ瞬間に立ち合わなくてはならないのかと。
でも、未来は変わった。変えられた。
今、この瞬間、世界はC.C.の知るかつての未来を逸れて、新しい明日に向かって歩み始めているのだ。
はあ、と息を漏らす。ふと、頬を伝う冷たい感触に、C.C.は自分が泣いていることに気付いた。
泣き笑いのような表情でC.C.はモニターを見る。
そこに映るルルーシュの姿を、そっと指先で撫でた。
「……良かった」
まだまだ、これからやらなければならないことは沢山ある。未来が変わった以上、もう『前回』の知識も当てにならないだろう。
それでも。今は、今だけは――――。
束の間の喜びを感じていたかった。
『お集まりの皆さん!』
会場内にユーフェミアの声が響き渡った。後ろにゼロを従えて、会場に声を張るその姿に男は目を閉じた。
「…………先に逝く」
一度だけ通信機のスイッチを入れて、一言だけ呟いた。
会場の人々がユーフェミアに意識を向けている隙間を縫って男は事前に調べておいた所定のポイントに向かう。
ユーフェミアの声が続く。ちらり、と横目にその姿を見れば、幼い言葉ながら日本人への想いを語るユーフェミアの姿が見えた。
――本当は分かっていた。
色々言ったが、彼女が本当に日本人を思っていることを。ゼロが側にいるということは彼も認めたのだろう。なら、間違いない。
分かっている。
あの少女に罪はない。他者を思いやれる心優しい女の子だ。
その少女を恨みを晴らすためだけに、その手にかけようというのだ。
どっちが悪人か分かりきっている。
(ああ、分かっているさ………!)
それでも、もう止まれないのだ。
ブリタニアへの、ブリタニア皇族への憎しみが、怒りが、恨みが、不信が。この身体に、心に染み付いて剥がれない。
黒い衝動が沸き上がる。
あの日、この胸の内に巣食った醜い獣が表に出ようと荒れ狂う。
ずっと抑えてきたその衝動を。
男は抑えるのを、――やめた。
高らかと両手を広げたユーフェミアが声を張りあげる。
さあ、思い知るがいい。
『今日! この日、この輝かしき日に!』
俺達の憎しみを。
『私、ユーフェミア・リ・ブリタニアは――』
奪われる悲しみを。
『行政特区日本の設立をここに』
「お前も知れええぇぇぇ!! こぉぉねりあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
誰がそれにいち早く気付いたのか。
騎士か。将軍か。それとも――。
その瞬間、時間がゆっくり流れたように誰もが感じられた。
世界が見つめるその先で、――――鮮血が舞う。
今日。この日、この場所で。
再び、血が流れた――――……
何が悪かったのかと問われれば、ルルーシュならば、世界と答えるのでしょうか……。