◇
俺は夕食を済ませ、縁側に腰を下ろして月を眺めていた。東京よりも空気がいいのか、星がくっきりと見えている。
それにコオロギがあちこちで鳴いているのでかなり幻想的な空間となっていた。
「なんじゃ、呑んでなかったのか」
不意に横から声をかけられた。いつの間にか俺の隣にじいちゃんが座っていた。
「うぉ、びっくりした!」
「すまんな、ワシ幽霊じゃから足音が出ないんじゃよ」
それもそうか。
というか分かってたのなら近づくときに声でもかければいいのに。わりと心臓に悪いぞ、これ。
「じいちゃん、次からは声かけてくれ。心臓飛び出るかと思った」
「うむ、分かった」
そこで俺たちは会話が続かなくなった。
それでも居心地の悪さは無い。昔はこうしてよく二人でコオロギの鳴き声を聞いていたものだ。
「あのさあ」
そしてその沈黙を破ったのは俺だ。
どうしても聞かなくちゃならないことがあるから。
「じいちゃんってさ、馬鹿でしょ」
「……否定は出来ないのう」
じいちゃんは今かなり厄介な状況に陥っている。
そしてそれを救えるのは俺しかいない。
「サクラさんから聞いたよ。このまま四十九日以上成仏しないでいると地獄に落ちるんだって?」
「ああ、そうじゃ」
この世とあの世のルールがある。
その一つが俺がさっき言ったように、死者が現世に四十九日以上留まりそれを過ぎて成仏しても地獄に落ちてしまうようだ。
そしてこのままいくとじいちゃんは四十九日以上成仏できず、地獄行きが確定してしまう。
「一週間前のあの日、何で成仏しなかったの?」
そしてその成仏できない原因。
地獄に落ちるかもしれないと分かっていても、どうしても成仏できなかった原因。
「………」
やはり言いたくないんだな。
成仏できない原因、つまりは現世に何らかの未練がある、ということだ。その未練というものが何となく分かる。
「俺が【お役目】を継ぐこと、なんだろ?」
「…まぁバレバレじゃよな」
じいちゃんは観念したように苦笑いした。
「そうじゃ、ワシはさっき哲也の意思を尊重すると言いながら、心では【お役目】を継いでほしいと思っている」
じいちゃんはバツの悪そうに、でも俺の目を見て真っ直ぐに本音をぶつけてくれた。
「それでもな哲也、ワシはお前の意思を尊重する。本当にやりたくなかったらやらなくていいんだ」
「…じいちゃんが地獄に落ちるなんて聞いたらやりたくなくてもやるよ、俺は」
少し意地の悪い答えを返してしまった。
だけど俺はじいちゃんに怒っているんだ。少しぐらいはいいと思うんだよな。
「うっ」
それにサクラさんからじいちゃんに口止めをされていたことも聞いていた。
だから、俺が気付かなければ知らないままだった。じいちゃんは本当に俺の意思を尊重するつもりだった。
だけど、それだからこそ俺は怒っている。
じいちゃんはあまりにも自分の事を考えなさすぎだ。
「じいちゃんはさ、いっつも俺の事を第一に考えてくれたよね」
「当たり前じゃ、哲也がワシの初孫なのだぞ。そりゃあ可愛かったさ」
じいちゃんは懐かしそうな顔をして月を眺める。
「だけど俺は幽霊が見えるから親からも腫物扱いで、そんな中唯一普通に接してくれたのがじいちゃんだった」
「まあのう、普通は霊視の力なんてものを人間が持つはずないからのう。人間社会で生きる場合は霊視なんてものは欠陥品みたいなもんだしのう」
「うわぁ、バッサリ言うね」
でもじいちゃんの言うことは事実だ。結果として俺も腫物扱いだったわけだし。
「ねぇ、じいちゃん?」
「ん?」
次の言葉を出すのに躊躇ってしまう。俺とじいちゃんの仲を引き裂く爆弾みたいなもんだ。
はっきり言ってこんなこと聞きたくない。このまま誤魔化してしまえばどんなに楽なことか。
それを聞かずに、誤魔化すのが一番いいやり方なんだと思っている。
だけど、じいちゃんは俺に本音をぶつけてくれた。だったら俺もじいちゃんに本音をぶつけるべきだ。それがじいちゃんに対する誠意なのだから。
それにじいちゃんに少しでも認めてほしいから。もうじいちゃんたちに守ってばかりの俺じゃないんだと安心させてやりたいんだ。
「………」
それでも言葉が詰まってしまう。
ああ、そうだ。どんなに覚悟をしても、それでも臆してしまう。俺はなんて臆病なんだ。
「………」
周りのコオロギの鳴き声も段々聞こえなくなっていく。
何も聞こえない、静寂があたりを包んでいる。
「あ、のさ」
どれだけ経ったのか分からない。それでもじいちゃんは何も聞かずに待っていてくれた。
本当に俺はじいちゃんに甘えてばっかだ。
だけどそれも終わりだ。いつまでも子供じゃないんだ。子供の俺に別れを告げよう。
「俺を助けてくれたのは、………【お役目】のためだったの?」
言った。言ってしまった。
俺とじいちゃんの仲を引き裂くかもしれない俺の本音。今まで育ててくれたじいちゃんに対する最大の侮辱の言葉。
だけど俺が抱いてしまった最大の疑問。霊視の力を持った俺に対してお役目を継いでほしいがために、俺を今まで助けてくれたのではないのだろうか。
考え出すと止まらなかった。不安で不安で仕方なかった。
じいちゃんはそんな打算的なことをする人じゃない。そんなことは分かりきっていた。
それでも一度でも抱いてしまった疑問は、自分でも止められないタチの悪いものとなってしまった。考えないようにしても、見ないようにしても、それが段々と大きくなって無視できないものとなった。
「哲也」
じいちゃんがゆっくりと言葉を出す。
聞きたくない、この場からすぐに逃げ出したい。
「そんなわけないだろう」
じいちゃんは笑っていた。
「ワシが【お役目】の為だけにお前を助けたなんて、そんなことあるか。ワシの孫だから、誰よりも優しいお前だから助けたんじゃ」
「じいちゃん」
「そもそもワシはお前に助けられたんじゃよ」
「え?」
そんなことは初耳だった。俺がじいちゃんを?
「ワシの妻、雪子が先に逝って現世にとどまっていた。幽霊となった雪子に話を聞いても何も話してくれず、日々が過ぎてしまった。もう手詰まりじゃった。それを哲也、お前が雪子を成仏させたんじゃよ」
「俺が!?ばあちゃんを!?」
割と衝撃の真実だった。
俺自身何も覚えていない。ばあちゃんがいたことは覚えているが顔ぐらいしか思い出せない。
「最後になってようやく雪子は言ってくれたよ。ワシを残して逝くことが未練だった、とな」
それからじいちゃんは語り出した。
ばあちゃんは俺に「すごく遠いところに行く」と自分が死んだことを暗に伝えたようだ。そしてじいちゃんを残して逝くことが惜しいとも言っていたようだ。
それを俺が能天気に「じいちゃんならばあちゃんを迎えに行くよ」とか「じいちゃんならすぐに行くよ」と言っていたらしい。まああれだ、俺はばあちゃんの言葉をそのままの通りに汲み取り、子供特有の悪気なくそれを言ったんだと思う。
それを聞いてばあちゃんは爆笑し、何だか悩んでいたことが馬鹿らしくなったようだ。そしてじいちゃんに会いに行って全てを話し、成仏したようだった。
「だから、哲也には感謝してもしきれないのだよ」
「…そっか」
「ワシは雪子に叱られたよ。【お役目】現役のワシがまだ子供の哲也に助けられてどうする、とな」
全然覚えてないんだよなぁ。ばあちゃんとのこと。
「だから、雪子が成仏したその時から、お前が困ったときは必ずワシが助けると誓ったんじゃよ。だから、【お役目】だからとか関係ないんじゃよ」
胸の重みがスッと無くなった。
だから次の言葉も難なく言えるはずだ。もう俺は迷わない。
「じいちゃん。俺、【お役目】を継ぐよ」
「……命の危険もあるぞ」
「それでもだよ。俺、頑張ってみようと思う」
「……そうか」
いつの間にかコオロギの鳴き声が戻っていた。
「ねぇ、じいちゃんの【お役目】の話を聞かせてよ。すごく興味があるんだ」
「そうだのう、何から話せばいいのやら。そうだ、サクラと初めて出会った時のことでもいいかのう?」
「すごい聞きたい!というかサクラさん以外の人もどうやって出会ったのさ?」
「まぁ出会うというより、創るという方が正確かのう」
じいちゃんの話は明け方まで続いた。
まるで子供の頃に戻ったようだった。
◇
そして夜通しじいちゃんの話を聞いていた。
空は少し明けかかっている。
「哲也、しっかりな」
じいちゃん、それにサクラさんたちが俺の目の前に立っていた。
じいちゃんの未練は無くなった。だから、これでお終い。別れの時だ。
「うん。大丈夫、じいちゃんより上手くやるよ」
「ふん、先ほどまで本音を言えずにビクビクしていた小僧が偉そうに言うわ」
「【お役目】を継いでいないのに霊を成仏させた実績のある俺だ、老人はゆっくり休んでいるがいいさ」
悪態をついていないと感情が高ぶってしまう。
最後はじいちゃんの姿をしっかりと焼き付けたい。だから最後まで泣かない。
「テッちゃん。鉄次郎様の未練を晴らしてくれてありがとう」
サクラさん。
「ジジイがまだ未練があるってんなら私らが引っ叩いても連れて行くからよ、テツ坊は心配すんな」
ヒマワリさん。
「テツ君、私の宝物。大事にしてね」
そしてツワブキさん。
俺はツワブキさんからヒゲめがねと三方向に伸びるアレを受け取る。え、このパーティーセットって宝物なの?
「哲也、ありがとうな」
「俺こそありがとうね、じいちゃん」
そしてじいちゃん、サクラさんたちが光に包まれていく。
「ばあちゃんに宜しくね」
「うむ」
昨日の夜に言いたいことはお互い言い尽くした。
「最後に、哲也の笑顔を見せてくれんか?」
「お安い御用さ」
だから満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、今度こそ逝くか」
「そうですね」
「今度こそ三途の川で一杯やろうよ」
「ヒマ姉、それ言うとまた何か起きそう」
そして四人は光となって消えていく。
今度こそじいちゃんはこの世からいなくなってしまった。
「ボタンさん」
「はい」
もういないから我慢しなくてもいいよな。
さっきから我慢しているから辛いんだ。
「一人にしてくれないか?」
「かしこまりました。ご立派でしたよ、哲也様」
ボタンさんはそのまま家の中に入っていく。
「…ぁ…ぁぁ……ああああああああああ!」
堰を切ったように涙が止まらなかった。