屋内訓練所用に建てられたビル。その5階の一室の気温は他の部屋と比べ著しく低下していた。その影響をもろに食らうのは葵と耳郎の『敵側』ペアである。『ヒーロー側』である轟と八百万は八百万の作った防寒着を着ていることもあって身体の動きが鈍ることはない。
「ふっ!」
幾度となく行われた氷塊による攻撃。それを葵は髪の手により砕く。そのまま葵の動きは止まらず、髪の手で地面を掴みながら加速し、轟へ向かう。
「どうした? 動きが鈍いぞ」
蹴りを放つ葵だが、片手で簡単に防がれ足を轟に掴まれそうになるところで髪の手の拳が轟に迫る。それを轟が紙一重で避けると、追撃とばかりに自身の拳も加える葵。
ブン!と轟の脇から唐突に棒が突き出る。殴るための拳を受けに変え、突出してきた棒を先端を払い、棒の突きを避ける。だが目の前にいる轟に対しては無防備だ。轟が無防備な葵へと手を伸ばそうとするそんな二人を音の暴力が叩く。
バッと弾かれたように下がる葵と轟。両者の実力はほぼ互角で、相棒による差が大きくなってきていた。方や万能の個性と言われた八百万。方や音による広範囲攻撃を可能とする耳郎。遊撃の適性としては八百万に軍配が上がり、葵達は徐々に押されていた。
「あー寒い! ホントに風邪引きそうなんだけど!」
「我慢しろ。俺だって寒い」
二人が吐く白い息が物語るように、室内の気温はもはや真冬の外とほぼ変わりなくなっている。防寒機能を備えている戦闘服を着ている耳郎はまだしも体操着を着て動いている葵は、最早手足の感覚が無くなってきていた。
「早めに降参しないと凍傷になるぞ赤崎」
「悪いが、悪党としての誇りがあってな」
「ふっ。そうかよ」
「耳郎。次で取りに行く。あれやるぞ」
「え、あれ?」
「なにかやる気ですわね」
「油断するなよ八百万」
「最初からしてませんわ!」
「何で怒ってんだ?」
次で決める。轟はそう確かに葵の眼から迸る意思を感じ取った。八百万と漫才を挟みながらも、そう思った轟は出鼻を挫こうと葵と耳郎の足を凍らせようとした時───
「喰らえぇぇぇぇぇー!!!」
爆撃では済まないほどの音が衝撃となり、轟と八百万を吹き飛ばす。壁に叩きつけられる二人が見たのは、へたりこむ耳郎だけだった。
「ぐっ! あいつまた消えて───八百万!」
「私じゃありません!轟さん!」
しまった───。狙いは俺か! 轟はほぼ無意識に背後に氷の壁を形成する。そして轟は自分の判断ミスに気付いた。すぐさま氷を溶かそうと個性を使う、そのタッチの瞬間、氷の壁が砕かれ、大量の氷の礫が轟と八百万に飛来する。轟はなにも考えず、ただ目の前に火柱を形成するが、氷というものは火で炙られたからといって早々消滅はしない。
「ぐっ!」
「ぐぁっ!」
轟と八百万。二人の身体を氷の礫が打ちのめした時、轟の手首が引かれた。ぐるん、と遠心力をその身に感じた轟は壁に背中を叩きつけられる。バァン!と大きい音が響き、轟の肺から酸素が吐き出される。
「がはっ!」
その隙に葵は轟の手首に確保テープを巻く。続く標的は八百万、と言わんばかりに葵が八百万の方を向くと八百万は何かのゴーグルを付けており、葵の目の前には丸く黒い何かが放り投げられていた。
「赤崎、目を瞑って!」
───スタングレネ──。
そこから先は光の爆発により、遮られた。決して弱くない光の爆発に葵の視覚と聴覚は使い物にならなくなる。そんな中、遮光性の高いゴーグルを装着した八百万だけが動ける。その八百万が駆けるのは、本来の勝利目的である核兵器へのタッチ。それを成すべく核兵器へ向かうと、バッ!と目を瞑り、周囲の状況が分からないはずの耳郎が立ち塞がる。
「耳郎さん。なるほど音波をレーダー代わりにしているというわけですか」
「私だっていつまでも赤崎におんぶにだっこじゃないからね」
片方は核兵器を奪取すべく、もう片方は核兵器を死守すべく、生々しいキャットファイトが始まる───ようで始まらない。
対峙する二人の足を何か柔らかいものが掴む。
「え!?」
「な、なにこれ!?」
耳郎は音波によって、八百万は視覚によって自らの足が何によって掴まれているかを把握した。それは葵の髪の手だった。
この髪の手。音と光によって周囲の状況が全く読めない葵の苦肉の策だった。葵はこの髪の手で掴んだものを触覚で感じることが出来る。
───ん、なんか棒? 熱めの棒だな。そんなものこの室内にあったか?
葵は正体をはっきりさせようと、葵本人は知らないが、耳郎と八百万の足に髪を這わせる。その瞬間、耳朗と八百万の二人の背筋がゾクゾクとした。
「「~~~~~~っ!!」」
どうでもいい話だが、葵は身だしなみにはそれなりに気を使う人間であり、普段から自分が個性でよく使う髪などはすぐに汚れてしまう。故に葵は神経質なまでに髪を洗う。葵の手により大切にされてきた髪は個性として使用されても、そこらの女よりキューティクルバリバリサラサラの艶がある髪をしているのだ。ようするに二人はとてもくすぐったかった。
耳郎は考える。流石にこの訓練中、味方を攻撃するのはまずい。ならこの責め苦を耐えるしかないのか。
八百万は考える。耳郎は今自らを掴んでいる髪の手に夢中だ。一方八百万自身の足を掴んでいる髪の手だが、拘束力はなく、動こうと思えば動ける。なら耳郎の一瞬の隙をついて飛び込めば核兵器にタッチできる。急がなければ、葵の視界が戻れば轟、八百万ペアは敗けが決まる。
───なんか片方の棒がじりじり離れようとしてる。まじでなんなんだこれ。気持ち悪いな。
二人の膝より上を髪がサワサワ、とくすぐる。途端に耳郎が膝を折る。好機!とばかりに八百万が核兵器に飛びかかる。
「ひぁ・・・!?」
耳郎がしまった、と上を見上げると空中でビクリと身体を震わせた八百万が落ちてきた。「えっ?」と疑問の声をあげる間もなくドターン!という音と共に二人は倒れ込み、八百万が耳郎を押し倒すような格好となっている。
耳郎が八百万を掴んでいる髪の手へと目をやると、髪の手は既に八百万の太ももを優しく掴んでいた。髪の手は急に動き出した物体を詳しく調べようとしているのか、ワサワサと八百万の太ももを更に上ってくる。
「ちょっ、いい加減に・・・!」
「ヤオモモエロすぎない?」
「えぇっ!耳郎さん、そんな反応ですの!?」
これ以上の進行は許すまじ、と八百万と葵の髪の手が争っていると、それを間近で見ている耳郎は、乱れてきた八百万の肢体に目が行き、少し顔を赤らめる。それを見て八百万が耳郎に対して少し引き気味になる。
───こいつ抵抗しやがるな。もうちょいで目が慣れるし、拘束しとくか。
ギュルン!と髪の手が形を変え、手当たり次第に八百万の身体を拘束していく。
『はい、アウトォォォォォ!!』
オールマイトはモニターを消した。考えることはなかった。これ以上はだめだということを本能的に察したのだ。今私はすごく立派なことをした、とオールマイトは自分で自分を褒め殺したくなった。と、同時に殺気を隣から感じた。その殺気はオールマイトがヒーロー活動をしていた時期も含めて、感じたことのない禍々しい私怨に満ちたものだった。
「うつせぇ・・・やおよろずをうつせぇ・・・」
最早何かに取りつかれたとしか思えない、幽鬼のごとき表情と歩調でオールマイトに詰め寄る峰田。そんな峰田に足をかけたのは、芦戸だった。
「えい」
「あっ」
べちゃり、と地面に倒れた後、峰田は動かなくなった。
「悪は滅びたね」
「なんだこいつ。すげえ怖かったんだけど」
「うぅむ。峰田にも引けぬ一線があったというわけか」
「いや。ただのアホだぞこいつ」
制限時間がきた瞬間に、オールマイトが再びカメラを映す。せめて、少年少女がマトモに見れるような絵面になっていてくれ・・・!! という期待を込めて。
また峰田が復活し、モニターに目を向ける。八百万の恥態をもう一度! という期待を込めて。
モニターに映し出された絵は、ロープで天井に磔にされた葵を、下から轟が火であぶり、それを見て下卑た笑みを浮かべる八百万と、そんな三人を引いた目で見る耳郎だった。
一切の迷いなく、モニターを消したオールマイトは人知れず涙を浮かべた。
『(教師って難しいなぁ・・・!!!)』
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「来なきゃ良かった・・・」
あの凄惨な事件から数日経った休日。ワイワイガヤガヤと葵達1-Aヒーロー科に属するクラスメイト達は新しく出来た大型デパートへとやって来ていた。メンバーは発案者である、上鳴、切島、飯田、芦戸、峰田、葉隠の6名、それからその意見に賛同した緑谷、麗日、八百万、蛙吹、葵、瀬呂、常闇、尾白、轟、爆豪、障子の11名。計17名の大所帯である。
「む! どうしたんだ赤崎君! 元気がないみたいだが?」
「俺はあんまり人混みが好きじゃねえんだよ」
発案者その1である上鳴によると、今回こうして1-Aヒーロー科の大半が集まったのは、互いのことをもっとよく知ろうという、所謂親睦会みたいなものである。参加しなさそうなやつは強制的に召集だ、ということで朝っぱらから葵の家をピンポン連打していた。
轟や爆豪が集まったのはそういうわけである。青山や、砂糖、口田達はどうしても抜けれない用事のため不参加とのこと。
───それありなら俺もしとけば良かった。
と後悔しても後の祭り。葵ががっくり項垂れていると、葵の視界に誰かの靴が入る。その人物の靴の爪先が葵の方へ向いていることから、葵に用があるのは明白だろう。
葵がゆっくり顔をあげると、そこには普段とは違った麗かとした麗日がいた。
長袖の白いブラウスの上に袖無しの白と黒のツートンカラーのチェックシャツ。下はシンプルに紺色の膝までのスカート。頭には青いベレー帽を身に付けており、葵的には普通に好きな服装だった。
「・・・・・・」
「・・・・・どう、かな?」
麗かとした麗日を見て何の言葉もない葵に、痺れを切らした麗日は、葵に問う。あぁまあいんじゃね?と投げやりな態度を見せる葵。
「う・・・、ま、まぁ予想通り、予想通りよ私。そ、それで赤崎くん、話が───」
それを見ていた峰田が眼光だけで人を殺せそうな目を二人に向ける。
「まぁまぁ。落ち着けよ峰田」
「はーい!じゃあみんな集まってー!」
「何か始まるみたいだし、後でな」
「あ───」
これから行われるのはチーム決め。流石に大型デパートとはいえ、この大人数で回ることはできない。そのためのチーム決めである。なお、芦戸が眠気と戦いながら製作したためにどれを何個作ったかは覚えてないらしい。結果が、
「よろしくね赤崎ちゃん」
「おぅ」
「一緒だね! デクくん!」
「そ、そうだね!」
葵、蛙吹、緑谷、麗日のペアとなった。その後はペアで別れ各個解散となり、葵達はふらふらと一階へ到着する。
「さて、どこ行きましょうか?」
「どこでもいい」
「私も、よく分からないし」
「ぼ、僕も・・・」
「ケロ。凄まじいまでに協調性のないペアになったわね」
何かないものか、と蛙吹が辺りを見回すと1枚の用紙が目が入る。それはオープンして間もないこのデパートが客寄せの為に開催する、イベントのチラシだった。
「何か面白そうなのがやってるわね」
「あ、この人知ってる! すごい歌上手い人だよね!」
「こんな人が来るんだ・・・。すごいなぁこのデパート」
「興味ねえな」
チラシの中にはデカデカと、歌姫、来場!と銘打たれていた。最近流行りだした歌手で、彼女の歌を聞いたものは励まされたり、元気が出たりとするという。
「あ、でもまだ少し時間あるわ。デパートをぐるりと回ってみましょうか」
「さんせー!」
葵達が最初に足を運んだのは、1階ということもあり、食品売り場のお菓子コーナーだった。
「わーこれ懐かしい。昔よくコレについてた人形のパーツ集めてたなぁ」
「麗日ちゃん。それ私もしてた。パーツ買い逃すと片腕や片足がない不気味な人形が出来たのよね」
あるあるー!と蛙吹、麗日がガールズトークに花を咲かせている傍らで、緑谷がチップスの袋を持ってワナワナと震えていた。
「何かあるのか?」
葵が緑谷の状態に気付き、声をかけるとバッ!と緑谷が葵の方へ向く。
「こ、これは発売後直ぐに人気が出て、瞬く間にお菓子コーナーから消えてしまい付録のカードは何万という値段で取引されている伝説のヒーローカード入りチップス! それが最後の1つ残ってるなんて・・・!」
感激のあまり、足元に水溜まりを形成している緑谷を引き気味に見ながら葵は、よ、よかったなと声をかけた。
「あ、私喉乾いたからちょっと飲み物買ってくるわ」
「ぼ、僕これ買ってくるね」
スタコラ、と二人はいなくなりお菓子コーナーに居るのは麗日と葵の二人となった。
「あ、あの・・・」
これ見たことあるなー、とオールマイトの髪の形をしたチップスが入っている袋を見ていた葵に決心したように麗日が声をかける。
「?」
「前は言いそびれて、さっきも言いそびれたけど、雄英のにゅ、入試の時、助けてくれてありがとうございました!」
ガバッと頭を下げて、麗日は葵からの反応を待つ。このことは麗日の中ではしこりとなっていた。簡単な礼は述べたが、あの日のあの行為以降、葵と目を合わせるのが気恥ずかしかった麗日は今の今までちゃんとした礼を述べる機会がなかった。
そんな時に、この親睦会の誘いがあり、これはチャンスだと意気込んだ麗日は参加を即答した。
葵からの返答がないことをおや、と思い麗日が頭を上げると、はぁ、と葵が溜め息を吐いていた。
「え、何その反応!?」
「いや別に。難儀な性格してるなぁって」
「ケロケロ。無事に仲直り出来たみたいね」
あーだこーだ話している二人のもとに飲み物を手に蛙吹が戻ってくる。
「仲直りって、別に喧嘩してたわけじゃないんだけどな」
「でもあの件は私忘れないからね!」
「だからあれは不可抗力だろうが」
「ごめーん! みんなー!」
そんな三人のもとに買い物袋を下げた緑谷が帰還する。
「そのカードが?」
うん、と頷く緑谷の手には黒い長方形の袋があった。中にヒーローカードが入ってることを麗日と蛙吹に告げると、面白そうね、開けてみましょうと蛙吹が言う。
ピリピリと袋を開け、四人の目に飛び込んできたのは、カード全てがホイル加工され、キラキラと光輝くオールマイトが映っているカードだった。
「オールマイトか」
「よかったね!デクくん!」
「緑谷ちゃん、嬉しくないの?」
カードを持ったまま固まる緑谷に三人が怪訝な顔を浮かべ、その中で葵がひょいとオールマイトのカードを緑谷の手から抜き取る。
「にしてもこれいくらぐらいするのかね。出久が言うには一枚何万円もするのもあるらしいしな」
「え、すごいわねそれ」
「光ってるし案外お宝カードかも?」
「最低価格、22万6千・・・」
ボソッと呟かれた言葉を、三人は聞き逃さない。
「こ、このカード一枚で!?」
「なんていうか、そういうのをコレクションしてる人たちってほんとすごい」
「こんな100円菓子に入ってていいカードじゃねえだろ」
流石の葵もこれにはびっくりしたようで、カードを傷つけないように慎重に、緑谷へと返す。もらう方の緑谷も、おずおずといった感じに受け取り、大事そうに鞄へしまう。
「そういや梅雨、さっき言ってた歌手のイベントは何時からだ?」
「梅雨ちゃんと呼んで。後15分くらいね」
「じゃあ先に向かっとくか。座れるなら座りてえ」
「スルーなのね」
こうして四人は1階中央にある、イベント会場へ足を向ける。イベント会場の設営は既に終了しており、ずらりと椅子が並べられていたが、席はどこも満席だった。
「あっ。あそこ空いてない?」
麗日が指差した先には二人ほど座れそうなスペースが空いていた。
「お前らで行けよ。俺と出久はここで立って見とく」
「私に名案がある」
「梅雨。お前そんなキャラだっけ」
ちなみにこういう場合、葵にとっては必ず良いことにはならず、今回の場合は緑谷すらその被害を被った。
「・・・・・・これがお前の名案か梅雨」
「名軍師梅雨ちゃん、と呼んで」
二人分ほど空いていたスペースは、緑谷と葵によって埋められ、その二人の膝の上に緊張のあまり、カチコチになっている麗日といつも通りの蛙吹がいた。
「緑谷ちゃん大丈夫? 重くない?」
「う、うん。蛙吹さん軽いから大丈夫だよ」
「名軍師梅雨ちゃん、と呼んで」
「あ、赤崎くん、重くない?」
「重い。てかお茶子って思ったより尻が───」
バチコン!と隣からビンタが飛んできて葵の言葉を封殺する。
「それ以上言うなら水攻めよ赤崎ちゃん」
「なんで今日はそんなに軍師キャラしてんだよ・・・」
異性に重いと言われてしょげる麗日の空気に、どうすんだよこの空気、と緑谷と蛙吹に攻められる葵。だが葵としては嘘偽りない本音である。膝の上に何もない状態と、麗日が座っている状態とじゃあ麗日が座っている方が重いのは明確である。
「あーお茶子。さっき重いとはいったが───」
あの無表情を極め、誰に対しても無愛想で思いやりの欠片もないと思っていた葵がフォローをしようとしている。その事に、緑谷も蛙吹も変わったなぁと───
「蛙吹よりは軽い」
バチコン!バチコン!と強烈な音が2発分会場に響いた。
「あ、もう始まるみたいだよ!」
「あ、そうだね。ほ、ほら!二人とも!」
この死んだような空気を少しでも回復させようと頑張る麗日と緑谷。
「らしいぞ梅雨」
「梅雨ちゃん、と呼ばなくていいわ」
そんな二人の努力むなしく、うわべの会話に興じる葵と蛙吹。そんなでこぼこな四人を差し置いて、音楽が流れだし、会場の雰囲気は盛り上がり始める。
「みんなー! 今日は唄のためにありがとー! そんなみんなのために唄、がんばりまーす!」
歌音 唄。彗星のごとく現れた彼女は、その類いまれなる歌唱力で、瞬く間に飛躍する。彼女の唄には聞いたものを元気にするという力があった。
彼女が唄い始めると会場の雰囲気は一層盛り上がる。気付けば、麗日なんか葵の膝の上でがっくんがっくん揺れて盛り上がっていた。蛙吹を見ても音楽に合わせて身体を小刻みに揺らしている。
葵と緑谷は目を合わせて、葵は仕方なさげに、緑谷はアハハ、と笑いながらまた歌音のステージを見た。
葵と緑谷は本来こういった場所には慣れていない。だからステージに集中せずに周りを見ていた。だからこそ、この場所でたった二人だけが異変に気付けた。不気味に舞台横に立つ、二つの黒い影に。
突如としてステージに煙幕が投げ込まれる。
「え、なに?」
「出久!」
「う、うん!」
飛び跳ねるように席から起立する葵と緑谷。
「わっ!」
膝の上にいた麗日と蛙吹が前に押されるが、前の椅子の背もたれの縁を掴んで、前の人との衝突を避ける。
「二人とも急にどうした───」
「僕は避難の方を! 赤崎くん、向こうは頼める!?」
「任せろ」
「麗日さん、蛙吹さん! 僕と一緒に避難を呼び掛けてくれる!?」
「わ、わかったよ?」
「赤崎ちゃんは?」
「元凶の方を任せた。僕らの中で一番力があるのは赤崎くんだから!」
翼を作り出し、上空からステージへ滑空し、翼から巻き起こる風で、ステージの煙幕を吹き飛ばす葵。だが、犯人達の姿はなく、また歌音の姿もなかった。
「ちっ。誘拐目的か!」
───なら出来るだけ人目につくのは避けたいはず。なら奴らの逃走経路は・・・近くの非常階段からの地下!!
事前に1階の地図を見ておいて良かった、と葵は非常階段へ駆け込む。耳を済ませばカンカンカン、と急ぎ足で地下へと向かう足音が3つ。実行犯と歌音のものと推測した葵も、急ぎ足で犯人を追う。
地下駐車場に到着した葵が左右を見渡すと一つの影を見つける。それは歌音を誘拐した犯人の片割れだった。
「囮置いて逃げる算段か。逃がさねえぞ」
「いやぁドクターに聞いた通りだね君」
ドクター。その言葉を聞くだけで葵から嫌な汗が吹き出る。
「どく、たーだと?」
───いやあいつはオールマイトにぶちのめされたはず。二度と再起できないように徹底的にやられた後、俺がこの手で。
「その様子だとドクターが生きてるってことを知らずに今までのうのうと生きてたってわけだね」
随分とまぁ、平和ボケしちゃって───お兄ちゃん。犯人が葵に飛びかかる。その時、ちょうど緑谷達が地下へ到着する。
「smash!」
「おぉっと!」
咄嗟に飛び出た緑谷はソフトボール投げの時と同じく、指先のみに個性を発動させ、牽制目的で犯人に手を伸ばす。その緑谷の牽制を犯人は常人ではありえない動きでひらりと避ける。
「だ、大丈夫赤崎くん!?」
「あ、あぁ」
そういいながらも動悸が荒く、冷や汗が止まらない葵を麗日達はとても大丈夫そうには見えなかった。
「麗日さん、相手は一人だ! 恐らく目の前の人は囮なんだろうけどここで無力化しておくと後の犯人は辛くなるはずだ。今、ここで───」
「やめろ、出久。あいつとお前らじゃ相手にならない」
飛び出そうとした緑谷の手を掴み、離さない葵。それを怪訝そうに見る麗日と蛙吹。そしてそんな彼らを楽しそうに見る犯人。
「何言ってるのさ!今ここで犯人を捕まえないと、誘拐された人が───!」
「だったら!」
珍しい。葵からすれば珍しいまでの大声だった。葵が大声で怒鳴る、それを初めて聞いた緑谷は言葉を紡ぐのを忘れる。
「お前はあいつを殺す覚悟があるか?」
「キャハ」
葵が指差した先にいたのはこちらを見てクスクスと笑う犯人。よく見ればフードが少し脱げ、赤い前髪がチラリと確認できる。
「あの人を───殺す?」
緑谷 出久に突きつけられた選択。緑谷の脳内にはいつも快活に元気よく笑うオールマイトの姿が浮かんだ。