「…………」
音をたてないように、静かにリビングの扉を開けた。
空はまだ薄暗く、鳥の鳴き声一つ聞こえないほど静かだった。
「寒……」
シンク上の蛍光灯だけを点け、朝食の準備に取り掛かった。
朝陽が昇り始めた頃、リビングの扉が静かに開いた。
「ん……?」
様子を伺うかのような低い声。
私は声の方を見もせず、鍋の様子を見ていた。
「珍しいな。自分から朝食を作ってるなんて。どうかしたのか?」
「別に……」
「手伝うよ」
「いいわよ……。テレビでも見てなさい……」
「いや、そういう訳には……」
「邪魔なのよ……」
一瞬の沈黙。
「分かった」
提督はそうとだけ言って、ソファーに座り、テレビを見始めた。
「出来たわよ」
「おう」
朝食にしては凝った物を作ったなと、並んだ料理を見て思う。
おそらく、提督も同じことを思っているだろう。
けれど、お互いに口に出すことはなかった。
「いただきます」
「いただきます」
いつもの朝食。
最近はこの沈黙にもなれたはずなのに、今日に限っては色々な心情が浮かび上がってきて、私を苦しめる。
料理の味も感じれられないほどに。
「美味いな」
その提督の言葉を聞いて、咄嗟に出た言葉は。
「あっそ……」
朝食を済ませ、皿洗いもせずに、すぐに学校へ行く準備をした。
「今日はやけに早いんだな。朝食を自分で作ったのもそういう理由か」
「…………」
「言ってくれれば早くに作ったんだが……」
「……行ってくるわ」
「おう、行ってらっしゃい」
玄関を出て、少しだけ後悔した。
こんな時間……北上さんと登校できない。
かといって、家に戻るわけにはいかないし、北上さんを待つには早すぎる。
「……何やってるんだか」
朝方の冷えた風にあたると、頭も冷えて、自分の行った事の愚かさに嫌気がさした。
学校の教室にはまだ誰も居なくて、一歩踏み入ると、ひんやりとした冷気が顔を伝った。
「…………」
机に伏して、今朝の行いを思い出していた。
『今日はやけに早いんだな。朝食を自分で作ったのもそういう理由か』
別にそう言うことでいい。
そう思ってくれた方が、恥ずかしくない。
本当はそうであったと、自分を騙し、信じたいくらいだ。
「あぁ……」
駄目だ……急に恥ずかしくなってきた。
どうして、あんなことを思ったんだろう。
そして、それを実行したんだろう。
たった一度の思い付きであり、だからどうしたいと言う訳でもないのに。
恥ずかしい事だって分かっていたし、バカじゃないのと、心の中で自分を責めたくらいだ。
でも、それでも、都合のよい理由をつけてまでして、自分自身を台所へと立たせた。
そして、心の奥底で欲しがっていた言葉を提督から貰って、はしゃぎ、同時に、反発した。
『美味いな』
「うぅ……」
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
昨日の自分を殺したいくらいだ。
提督に自分の手料理を食べてもらいたいなどと、愚かなことを思った自分を。
教室には、徐々にクラスメイトが集まってゆき、気づけばいつもの賑やかな風景が広がっていた。
「大井っち、おはよう」
「おはようございます」
「どったの今日は? なんか早くない?」
「え、えぇ……ちょっと……」
「いつもの場所にいなかったからびっくりしたよー。休みなのかなって」
「ごめんなさい」
「ま、いいけどねー。休みの時とかは連絡頂戴ね」
「分かりました」
本当、何やってるんだろう。
家を出るまで、北上さんの事すら思い出せなかった。
それほどに――。
いや、無い無い無い……。
そもそも、どうして自分の手料理なんか食べてもらおうなどと考えたのか。
最初は、この前の件も含めて、何かお礼が出来たらと考えていただけなのに。
それが手料理?
馬鹿馬鹿しい。
自分の手料理を振る舞ったところで、何が感謝なのか分からない。
しかも、伝わってないし。
「そう言えばさー、この前、提督と阿武隈が二人で歩いてるところ見たんだよねー」
「そ、そうなんですか?」
「私も提督と二人で出かけようかなー。なんか買ってもらえそうだし」
「二人で……」
「大井っち?」
「え……あ……い、いいんじゃないですか?」
「でしょ? んじゃ、ちょっと誘ってみようかな」
北上さんが、提督とデートしたいのだという事にショックを受けた。
けれど、それよりも先に私の脳裏に浮かんだのは、今の生活の事だった。
阿武隈の時と同じように、北上さんが提督と結ばれたら、今の生活は終わるだろう。
終わる事はいい事だ。
いい事のはずなのに、少しだけ、気の迷いだとは思うけれど、嫌だなと思った。
休み時間。
阿武隈が深刻そうな顔をして私のところへ来た。
「大井さん……北上さんと提督がデートするって本当ですか……?」
「そのようね」
「まさか、北上さんが提督とデートしたいと考えていたなんて……。北上さんは提督の事が好きなんですかねぇ……?」
「それは分からないわ。北上さん、貴女と提督が一緒にいるのを目撃して、自分もやろうって言ってたから。奢って貰うためだとは言っていたけれど……」
「でも……北上さんと提督はケッコンカッコカリした仲だし……。あの人の考えてることが分かりません!」
確かに、北上さんは何を考えているのか分からない時がある。
もしかして、本当に提督の事を……。
「考え過ぎですかねぇ……」
「かもしれないわね。とにかく、そうだったとしても、人の恋は邪魔できないわ」
全力で邪魔してやりたいけれど、北上さんの幸せもあるし、あの人がもし北上さんを好きであるなら――。
って、あいつの気持ちなんて関係ないでしょ……。
「でもでも……そうですけど……」
「そんなに気になるなら、こっそりついて行ったら?」
「そ、そうですよね! 見るだけなら邪魔じゃないし……」
あら、冗談だったのに……。
北上さん、ごめんなさい……。
「もちろん、大井さんも行きますよね!?」
「わ、私は行かないわよ。別に気にならないし……」
「え? だって、北上さんですよ? 大井さんが北上さんの事気にならないだなんて……」
厄介なことになったわね……。
けど、ここで断ったら変に思われるし……。
……変に思われる?
何が?
別に、ここで断っても変じゃないでしょ。
隠したい事も無いのに、何が変に思われるよ。
『大井さんは……提督の事が好きだったんですか……?』
――あぁ、そう言う事……。
ばっかじゃないの……。
北上さんの事が気にならなくなったからって、「大井は提督の事が好きなのかもしれない」と阿武隈に思われる訳ないじゃない。
何を危惧しているのよ。
「…………」
「大井さん?」
「ん……分かったわ。けど、ちょっとだけよ? ちょっと見たらそれでおしまい」
「分かりました!」
悪いとは思いつつも、二人のデート日が近づくにつれて、私も二人の関係について気になりだしていた。
デート当日。
提督の朝食はいつもと違い、少な目だった。
「そんなので足りるの?」
「あぁ、今日は外で結構食べそうだから、抜いてるんだ」
「そう……」
提督から直接、今日誰と何処へ行くかは語られていない。
隠しているのか、ただ言わないだけなのか。
「夕食なんだが、冷蔵庫に作り置きしておくから、それを食べてくれないか?」
「え?」
「帰りが遅くなりそうだから、食べててくれ。俺は外で食べてくるから」
まさか夜まで……!?
夕方には解散するラフなデートかと思ってたのに。
北上さんも承知の上……なのかしら……。
「それじゃあ、行ってくる」
「えぇ……」
提督が家を出て数分してから、私も家を出た。
「あ、大井さん」
「阿武隈、早いわね」
「そんな事より、もう北上さん来てますよ。かれこれ三十分はああしてます」
「え?」
建物の影から覗くと、北上さんがスマホを弄って立っていた。
心なしか、しおらしさを感じる。
っていうか、阿武隈もそんな早くから……。
「提督はまだ来てないようですねぇ」
「私より早く出たのだけれど……」
しばらくすると、提督がやって来た。
「おう、待ったか」
「お、来たねー。私も今来たとこだよ」
三十分前には来てたのに、やっぱり北上さん、優しいわ。
「どう? 私の格好。決まってるでしょー」
「ああ、似合ってるよ」
「にひひっ」
そう言えば、北上さんの服装、いつもよりおしゃれな気がする。
「私にはあんなこと言っておいてぇ……」
「阿武隈……」
二人は、しばらく話し込んでから、移動しはじめた。
「行きますよ!」
「え、えぇ……」
「ね、提督。手つなごーよ」
「手か? 構わんが、いいのか? 年頃の女の子が、俺みたいなのと手繋いで」
「いいのいいの。それに、そっちの方がデートっぽいじゃん」
「デートか」
「デートだよっ」
そう言うと、北上さんは提督と手を繋いだ。
「にひひー」
「全く、変わらんなお前は」
変わらない……か。
私は見たことないな……あんな北上さん……。
「北上さん……やっぱり提督の事が好きなんでしょうか……」
「…………」
もしかしたら、そうなのかもしれない。
最初に私と阿武隈を誘ったのは、北上さんなりの考えがあったのかも。
いきなり二人っきりになるよりも、ワンクッション置こう……みたいな……。
いや、北上さんはそんな事しないとは思う。
けれど……。
「北上、お前、なんだか汗ばんでないか?」
「え? そうかな? ちょっと日が出てきたから暑いのかも」
「ん……確かに、今朝と比べたら少し暑いかもな」
「そうだよ。ほら、早く行こう?」
私の知らない北上さんがそこにいるのも事実だ。
北上さんは、あまり汗をかかない。
二人は街を散策しながら、時々食べ歩きをしていた。
仲良く歩く姿は、どう見ても恋人同士であった。
「私、見てるの辛くなってきたかもしれません……」
確かに、これ以上見たら、阿武隈が立ち直れないほどの展開もあるかもしれない。
「じゃあ、これで終わりにしましょう」
「あ……」
阿武隈が二人の方を見た。
私も、二人の方を見た。
北上さんが、提督の頬にキスをしていた。
「――クリーム、ついてたからさ」
「手で取ればいいだろ」
「手、塞がってるからねー」
世界の音が消え去ってしまったかのような錯覚を受けた。
「いくら手が塞がってるからって……。やっぱり、北上さんは……」
「…………」
「大井さ――」
「――帰りましょう」
「え?」
それからの事は、よく覚えてない。
気が付いたら、自室のベッドで寝ていた。
携帯には、阿武隈から、心配するメッセージがいくつか送られていた。
「…………」
北上さんの考えていることは分からない。
けど、もし私が同じ立場であったのなら、普通、あそこまですることは無い。
故に、北上さんは――。
「……18時」
リビングに降り、夕食の準備をした。
とは言え、作り置きを温めなおすだけだけど。
「美味しそう……」
いつかは、北上さんが男の人と幸せになるだろうと、心の奥底で覚悟していた。
北上さんが幸せそうであれば、北上さんが本気で好きになった人であるならば、応援していこうと、そう思っていた。
けど、まさかその相手が提督だったなんて。
「いただきます……」
静かな夕食。
いつもの事だけれど、提督がいない分、より一層静かで、逆に耳鳴りがうるさいくらいであった。
「美味し……」
どうして。
「…………」
どうして……。
「…………」
どうして……提督なのだろう……。
「どうして……」
どうして私は……こんなにも傷ついているのだろう。
提督が帰って来たのは、夜の9時を過ぎた頃だった。
私が自室でくつろいでいると、提督が部屋のドアをノックした。
「大井、ちょっといいか?」
「…………」
正直、今は会いたくないけれど、駄目と言って変に疑われるのも嫌だし……。
「どうぞ……」
外から帰ってきて、そのまま私の部屋に来たのか、荷物も上着もそのままだった。
「お土産買って来たんだ。ほら、駅前にスイーツ屋あるだろ」
「この前出来たって言う……」
「そうだ。お前、好きそうだと思ってさ、ほら」
そう言うと、小さなケーキを取り出した。
「前に四人でケーキ食べに言った時、こういうの食ってただろ。好きじゃなかったらスマン」
よく覚えてるわね……そんな事。
普通、誰がどんなの食べてたかなんて、覚えてるかしら?
「今日はすまなかったな。夕食、美味かったか?」
「えぇ……」
「そうか。良かった」
そう言うと、提督は立ち上がり、軽く挨拶をして出ていった。
「…………」
そう言えば、提督の料理で食べれないの無かったな。
結構、好き嫌いあるはずなんだけど。
「あ……」
そうか……。
このケーキもそうだけれど、私の事、ちゃんと見ててくれたんだ……。
戦時中は気にならなかったけれど、こういう細かい気遣いは、昔から結構あったように感じる。
『俺は大井と仲良くなりたいんだ』
「提督……」
日曜日の朝は、少し朝食が遅れる。
それでも、こんな時間に早起きしたのは、ジョギングをするためだった。
「…………」
静かに家を出る。
既に日が昇り始めているのか、空は藍色に染まっている。
「よし……」
体をほぐし、ゆっくりと走り始めた。
「はっ……はっ……はっ……」
しばらくすると、川沿いに出る。
土手にはコンクリートが敷かれていて、比較的走りやすくなっている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
足を止め、後ろを振り向くと、まるで夕日のような色をした朝陽が、眩しく光っていた。
「はぁ……んっ……」
別に、体型が気になったから走っているわけじゃない。
健康に気を遣っている訳でもない。
ただ、モヤモヤすることがあると、こうして体を動かしたくなる。
そうすると、幾分か気分が晴れた。
「あれ……? もしかして……大井さんですか……?」
聞き覚えのある声。
振り向くと、大和さんがジャージを着て立っていた。
「大和さん……!?」
「やっぱり大井さんだ。一年ぶりですね!」
それから、土手の芝生に座り込んで、昔話に花を咲かせた。
「毎日、ここで走ってるんです」
「こんな時間から……」
「朝走ると、目が覚めていいですよ」
そう言うと、大和さんは笑顔を見せた。
本当、美人よね。
体型も、女性の理想って感じだし、毎日走る事が美の秘訣なのかしら?
「そう言えば大和さん、昔好きだった男の人を探すんだって言ってましたよね。見つかったんですか?」
「えぇ」
「じゃあ、その男の人と?」
「いいえ、振られちゃいました」
そう言うと、大和さんは弱弱しく笑った。
大和さんほどの美人でも、振られることがあるのか。
「その人、駆逐艦と空母をメインで運用していた元提督で、今はその時の艦娘と暮らしているんです」
それから、大和さんの話を聞いていた。
聞く限り、北上さんが言っていた、艦娘と結婚したという提督の事だろう。
「そうだったんですか……」
「今でも好きなんです。その人の事が」
「でも、相手は……」
「えぇ……分かってます。新しい恋を見つけなきゃって、思ってはいるんですけど、中々難しくて」
大和さんとは違うけれど、私も似たような立場だから、恋の難しさは分かる。
他人を好きになる事は、簡単じゃない。
「こうやって走るのも、本当はモヤモヤした気持ちを払うためなのかもしれません」
それを聞いて、私は、大和さんになら話せると思った。
「大和さん……」
「?」
「実は……」
家に帰ると、提督が朝食を作っていた。
「おう、お帰り。走って来たのか?」
「えぇ」
「シャワー浴びて来い。その頃には出来るだろうから」
「分かったわ」
風呂場に向かい、シャワーを浴びると、足の疲れがどっと出た。
あまり走っていなかった事もあるし、大和さんと会えるし、休日の朝くらいは走るようにしようかしら。
「ふぅ……」
リビングに行くと、朝食に蚊帳のようなものがかけられていて、提督はテレビを見ていた。
私を待っていてくれたようだった。
「出たか。朝食の準備、出来てるぞ」
「えぇ、頂くわ」
走ったからなのか、朝食がいつもよりも美味しく感じた。
「……ねぇ」
「ん?」
「もし、このまま私に相手が見つからなかったら……あんたどうするの……?」
「どうするって……。見つけるまでこの生活を続ける。そう約束しただろ?」
「でも……あんたの将来だってあるじゃない……。あんたにだって……好きな人の一人や二人……いるんでしょうし……」
北上さんと阿武隈の事だ。
「んー……まだいないけれど、そういう人が出来る日が来るかもしれないな……」
まだいない。
北上さんの事を隠しているのか、それとも本当にいないのか……。
「だが、そうだったとしても、俺はお前の相手が見つかるまで一緒に暮らすつもりだよ」
「…………」
「もし、お互いにそういう奴が見つからなかったら……」
「……?」
「このまま一緒に暮らすか」
そう言うと、提督はニッと笑った。
冗談なのか本気なのかは分からない。
けど、なんだか安心できる笑顔だった。
「お前さえよければだけどな」
「……ごちそうさま」
何の返事もせず、自室へと戻った。
「…………」
『このまま一緒に暮らすか』
「まさか……本当にそんな事言うなんてね……」
…………私は、大和さんに全てを話した。
…………「なるほど……それで提督と暮らしているんですね」
…………「えぇ……」
…………「まさか、大井さんが提督と暮らしているなんて……」
…………「自分でもびっくりだわ……」
…………「でも、今の話からして、大井さんはちょっとだけ、提督の事が好きになってるんじゃないですか?」
…………「……無い無い。無いわ……」
…………「提督との生活が無くなったらと考えると、辛くないですか?」
…………「…………」
…………「北上さんが男の人を好きになるのはいいけれど、それが提督なのは嫌じゃないですか?」
…………「…………」
…………「私は、そう言うのが恋だと思ってますよ」
…………「恋……」
…………「もし、今の生活が無くなるかもしれないと不安に思ってるのなら、提督に直接聞いてみたらどうです?」
…………「え?」
…………「もし、提督に相手が出来たら、この生活はどうなるのか、って」
…………「…………」
…………「きっと、大井さんを安心させる答えを、提督は出してくれると思いますよ。そうですね……こんな事言うんじゃないでしょうか――」
あの時、大和さんが言ったことを、提督はそっくりそのまま言った。
大和さんの言っていたことは、正しかった。
だからこそ、私は戸惑った。
『提督の事が好きになってるんじゃないですか?』
無い。
無いと信じたい。
信じたけれど……。
「…………」
そう言う事であるのならば、全ての辻褄が合う。
北上さんと提督の仲を見て、傷ついていた自分。
今の生活が無くなるんじゃないかという不安。
提督に振る舞った手料理の意味。
それら全てが。
「うぅ……。嘘よ……嘘よぉ……」
私は、提督に恋をしているのかもしれない。
――続く。