マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
割れるような頭痛に苛まれて、マミは目を覚ました。
自分の姿を確認すると、レモンイエローの秋ものブラウスにプリーツスカートといういでたちだった。普段着のままで寝ていたと理解するしかないが、それはマミの普段の行動様式から考えるとありえないことだった。
自分の居場所を確認すると、自室リビングの三角テーブルに下半身をもぐり込ませる形でうつぶせていた。リビングで寝ていたと理解するしかないが、それはマミの普段の行動様式から考えるとありえないことだった。
計算上はマイナスにマイナスを乗じるとプラスになるものだが、ありえないにありえないを乗じてもそうはならない。そして、彼女の視野にはさらにありえないものが転がっていた。
手をつないで眠るふたりの少女。
ひとりは先日魔法少女になった美樹さやか。もうひとりは魔法少女候補の鹿目まどか。ふたりの後輩が、静かに寝息をたてていた。
見滝原中学校の制服は多少動いても乱れないつくりになっているのだが、よほど寝相が悪いのか、美樹さやかの制服はひどく乱れ、おへそが覗いていた。
鹿目まどかは着衣の乱れこそないものの、口元からよだれを垂らしている。
なぜこのふたりが自室で寝ているのか、マミには心当たりがなかった。
そして心当たりがないのは、彼女たちの存在だけではなかった。
無数の皿。
皿には漏れなく手つかず、あるいは半端に手のついた料理が盛られていた。
三角テーブルの上だけにとどまらない。床には足の踏み場もなく、家具の上には皿同士がおしくらまんじゅうをしているかのような状態で、そこかしこにと皿が並べられていた。
皿はマミのものではない。彼女の持つ食器類は総じて上品で控えめなものだが、並んでいる皿は赤や緑の派手な色に彩られ、中華料理店の食器によく見られる稲妻をイメージした雷紋が描かれていた。
まどかが起きているのか寝ぼけているのか判断しかねる仕草で腕を伸ばした。そして指先を匙のように使って餡状の料理をすくい、口元に運び、口の中に咥えた。
割れるような頭痛に苛まれた、生理的肉体的精神的、色々な方面から。
たしなめないと、と思うものの身体に力が入らず、上半身を起こすことさえできない。
そうこうしていると、まどかが先に身体を起こし、マミのそばに歩いてきた。足の踏み場もなく並べられた皿の間を、彼女専用の足の踏み場があるかのように器用に、軽やかに。
「起きました、マミさん?」
「鹿目さん、起きたも何も、なんなの、これ?」
「シャンパン飲み過ぎちゃいました?」
「シャンパンって?」
お互いの語尾に疑問符がつく、頭の悪そうな会話。
その後に、まどかはマミの頭――ふたつの縦ロールを作るために左右によせられ、つむじがむき出しになったてっぺんの部分――に手を添えて、えいっと魔力を送り込むようにした。
そんな、おまじないじみた仕草によるものか、マミの頭痛はゆっくりと治まり、かわりに昨日の記憶がクリアになってきた。
「思い出しました?」
満面の笑みを浮かべる鹿目まどかの姿が、視界いっぱいにあった。
◇ ◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇ ◇
たぶん、それは昨日の記憶。
見滝原のパトロールを終えたマミは、少し重い足取りで自宅のあるマンションへ向かっていた。
重い足取りの理由は、先日より別行動を取るようになった後輩魔法少女、美樹さやか。
こちらから歩み寄りたい、歩み寄らなければいけないという思いはあったが、どうするかの結論を得ることができず、彼女の足取りは重いものになっていた。
遅れて歩くポニーテールの少女も同じ気持ちらしく、無言のままだった。
ドアが閉まり、ふたりを乗せたエレベータが上昇を開始する。
何か話さないと、とは思うが、同行者を不安な気持ちにさせるようなことしか言えない気がして、言葉が詰まる。
そうこうしているうちに、エレベータが電子音を響かせ、目的のフロアへの到着を告げた。
コントロールパネルのボタンを押して、同行者を先に降ろさせる。続いて、マミも後ろ手に一階のボタンを押しながら降りる。
エレベータを降りて少し歩く間に、スクールバッグから自宅のカードキーを取り出しておいて、ドアの前に立つと慣れた手つきでカードをスキャンさせる。
靴を片付け、廊下を歩く、いつも通りの日常。
いつもと異なったのは、リビングのドアを開けてからだった。
「マミさん、これ作り過ぎじゃないの?」
同行者が、リビング一杯に広がる料理の山を認めて、呆れたような声で言った。
「わ、私、今日はまだご飯作ってないわよ。杏子ちゃんずっと一緒にいたんだから分かってるでしょう?」
「でも、マミさん以外に料理作らないよね」
「私じゃありません! そもそも、私はカーペットの上にじかにお料理置いたりしません!」
「確かに、この行儀の悪さはあたしでも引くわ……」
「えぇ、ちょっとひどいわね……って、そうじゃなくって。キュゥべえ、こんなとんでもないことはあなたの仕業でしょう? 出てらっしゃい」
リビングと廊下を分かつ敷居の前で立ち尽くしたまま、マミがインキュベーターの名を呼ばわる。足の踏み場もろくに見つからず、リビングに立ち入れない状態だ。無理に入ればどうなるか、少し想像してマミは背筋をぶるっとさせた。
『ご明察だよ、マミ。だが、ボクから説明するのはどうだろね。もうすぐ本人たちが来るから、直接聞くといい』
いつものように前触れなくマミの足元に現れた白いいきものが、鷹揚な態度でテレパシーを返す。
しかし返された方の精神は、その鷹揚さに神経を刺激される状態にあった。片膝を崩してしゃがみこむと、両の手で彼の耳から伸びる左右の触腕をそれぞれに掴む。
そして、両の手を左右に大きく広げた。
「ご託はいいから説明なさい」
『マミ! 耳ちぎれるよマミ!』
「あら、これ耳なのね。じゃぁ片方あればなんとかなるわよね?」
『今日のマミ怖いよ。いつもみたいに笑ってマミ。ほら、にっこにっこにー』
「よく考えたら、耳なんて両方なくても生きていけるわね」
『マミィィィ!』
キュゥべえらしくない反応だな、とマミは思ったが、それ以上思考することはなかった。来客を示すインターホンが鳴ったからだ。
しょうがない、といった感じで触腕から手を離して立ち上がる。インターホンに応答するならリビングだが、そちらにはおいそれとは入れないので玄関に向かった。
「はーい」
と応えてドアを開けかけて、あっと振り返り同居人に目線で「リビングのドアを閉めて」と促す。そして、ドアが閉まりリビングの惨状が玄関から見えなくなったことに安堵して、玄関のドアを開いた。
◇ ◇ ◇ ◇
訪問者は、鹿目まどかと美樹さやかのふたりだった。
美樹さやかはこれまでのいきさつもあってかバツの悪そうな顔をしている。一方の鹿目まどかは悩みなど何もなさそうな満面の笑みを浮かべていた。
明るい表情をそのまま言語化したような声で、まどかが言った。
「こんにちは、マミさん!」
「え、えぇ。こんにちは鹿目さん。どうかしたの?」
「晩ご飯を食べにきました!」
「何を言ってるの?」
「えっと、夕飯を頂きにあがりました!」
「別に丁寧に言いなさいって意味じゃないわよ?」
少し口調に険があると自覚したマミは、意識して頬をゆるめると明るい声を出す。
「ごめんなさい、ちょっとゴチャゴチャがあって……少し言葉がきつかったかも」
「ゴチャゴチャ、ですか?」
「えぇ、帰ったら部屋にお料理がいっぱいで。って、これじゃ意味わからないわよね」
「いえ、わかります。わたしの奇跡ですから」
「奇跡?」
「はい」
まどかは笑みをいささかも翳らさずに返す。
そして明敏な頭脳でおおよそのあらましを推察したマミは、キュゥべえにしたようにまどかの両耳を引っ張ろうかしら、と一瞬だけ思った。
もちろんそんな思案は実行には移さない。マミはちょっとだけ頬がひきつる感覚をおぼえながら、上級生の声で応える。
「くわしく教えてもらっていいかしら」
「はい、もちろんです。あがってもいいですか?」
「あ、そうね。ただ、部屋には入れないと思うけど……」
◇ ◇ ◇ ◇
廊下で立ったまま説明を聞いていたポニーテールの少女が、興奮した馬のようにそれを揺らした。そして、その興奮がそのまま乗ったような口調で吐き捨てた。
「マジかよ。バカだバカだとは思ってたけどここまでとは」
「ひっどーい。さやかちゃんと同じこと言ってるー」
「ちょ、ちょっと私もフォローが思いつかないんだけど……」
「マミさんまで?! さやかちゃんとみんなの仲直りのきっかけを作って誉められるかと思ったら、まさかの総ツッコミが……」
芝居がかった仕草でふらふらとよろめき、廊下の壁にトン、とあたる。そのまま膝を崩して座り込もうとしたところで、マミが彼女を支えた。
影の魔女の結界の中、美樹さやかの自暴自棄と思える戦いを見るに耐えかね、鹿目まどかは契約したという。
その際に、契約の願いが定まっておらず、まぁいいや的に満漢全席を祈り、そんなものが自宅に出現したら一大事だからと、出現場所をマミの部屋に指定したとのことだった。
バカだとは思っていたけどここまでだとは、とはふたりの魔法少女が異口同音に唱えたことだが、マミは少し異なる。マミの場合は「バカとは思ってもいなかったけど、ほんとはバカだったのね」となる。しかし追い打ちをかけるようなことは本意ではなく、心の裡にとどめておくことにした。
「まぁ……それについてはお礼を言うわ。ありがとう、鹿目さん」
「えへへ、どういたしまして。じゃぁ、みんなで食べちゃいましょう!」
――満漢全席ねぇ。祁門なら中華料理にも合うかしら……?
頭の中で手持ち茶葉の相性を考えていたマミの思考を先回りしたように、まどかが言う。やはり、どこまでも明るく。
「飲み物もいっしょにお願いしたんで大丈夫ですよ、マミさん!」
「あー、マミさん、こいつシャンパンって頼んでたから、ふつうのお茶も淹れてもらった方がいいかもですよ」
◇ ◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇ ◇
「思い出しました?」
思い出したというより、新たに体験したような鮮明さを感じた。その感覚に少し疑問を覚えつつも、マミは小さく頷く。うつぶせたままの首肯なので、あごがリビングの床をコツンと叩いた。
「でも、お料理は昨日みんなで片付けたような気がするのだけれど」
「満漢全席ですから、食べた分だけ追加が出てきているのかも?」
「それは勘弁してほしいわ……」
「さ、起きてください、マミさん。残り、食べちゃいましょ」
「私ってね、けっこうご飯を楽しく頂く方だと思っていたのだけれど、思い上がりだったわ……」
昨日どれほどの量を食べたのかは、ずっしりとした胃の重みが強く主張していた。今日は一日なにも口にしないでも大丈夫じゃないかと思えるのだが、ざっと見た感じ、昨日と同じくらいの料理がリビングに満ちみちている。
これはもう食事ではなく拷問ではないかと眩暈をおぼえつつ、マミは上半身を起こした。
「あ、それよりあなたたち、昨日うちに泊まるってこと、ご家族に連絡はしているの?」
「はい、この週末はマミさんに勉強を教えてもらうから合宿だーって言ってます」
「みぎにおなじー」
へそを覗かせたままのさやかが、寝返りをひとつうってから片手を挙げた。
「そういえば、杏子ちゃんは?」
「あ……杏子ちゃんなら、あっち」
まどかが指差す方を見ると、中華皿に埋もれるようにして眠る少女の姿が――正確には、林立する皿の中からポニーテールの髪だけだが――が見えた。こちらはまだ眠っているようで、反応は返さない。
――さっきお部屋見渡した時、杏子ちゃんいたかしら……。
とはいえ、うつぶせたままの姿勢で、首もろくに動かせず視線を巡らせただけ。見落としていたのだろうと納得する。
「さ、食べましょう、マミさん!」
「寝起きでそれはちょっと……」
「そんな甘いこと言ってると、この週末で片付きませんよ!」
「張本人は鹿目さんよね?」
「犯人探しをしてる場合じゃありません!」
それ以上の反論が面倒になったことと、結局は食べ尽くさないと自分のライフスペースが正常に使えないことから、マミは小さく溜め息をついた後に、「はい」と応えた。
◇ ◇ ◇ ◇
二八時間が経過した。一昼夜が経過した、と表現してもいい。
もちろんずっと食べ続けていたわけではなく、料理に汚染されていないマミの寝室でゲームに興じたり、勉強をしたり、眠ったり、それとパトロールに出たりといったことを行いながら過ごした。
さておき、今はリビングにいた。リビングの三角テーブルには、大皿がひとつだけ。大皿をマミ、まどか、さやかの三人で囲み、時間が止まったかのように固まっていた。
「美樹さん、すこし食が進んでないみたいね。最後のお皿、どうぞ」
「いや、なんでですかマミさん。進んでないんだから勧めないでくださいよ」
「ダメだよ、さやかちゃん、ひとりだけ楽しようだなんて」
「楽してないしー! 豹の赤ちゃんあたしひとりで食べたじゃん!」
「ごめん……満漢全席ってこんなゲテモノだなんて知らなかったから」
「ゲテモノといってしまうのもどうかと思うけど、せめて、知らなければ気にせずに食べれたかもしれないのに。ねぇ、キュゥべえ?」
マミが何度目かの触腕ひっぱりで白いいきものを責める。
いちいち食べる前に、その皿は豹の赤ちゃんだ、その皿は猿の脳みそだ、その皿はオランウータンの唇だと、しなくていい解説を加えてきたいきものは、責められても悪びれる風もなかった。触腕のことで悲鳴をあげていないのは、彼が痛みに慣れたのか、マミが力加減に慣れたのか。
『最初に聞いたのはキミたちじゃないか、得体が知れないと食べづらいからって』
「最初に聞いたのって、さやかちゃんだよね?」
「だからなんなのよ」
「最初に聞いたのって、美樹さんよね?」
「だからなんなんですか!」
親友の問いにはくぐもった不愉快そうな声で応えていたさやかが、マミの問いには悲鳴のような叫びをもって応える。立ち上がらんばかりの勢いの彼女をどうどうと制すると、まどかはにっこりと微笑んだ。
「さやかちゃん、覚悟を決めよう?」
『犀尾、サイのペニスは淡泊で美味しいとボクの知識にはあるよ。さっさと食べたらどうだい。……あっ、マミやめて、ほんとうにちぎれる』
よく焼けたお餅のように、触腕がにゅいーんと伸びた。もちろん勝手に伸びたわけではなく、マミが力を加減することを放棄したからだ。
「あーっ、もう、食べればいいんでしょ食べれば! わかった、わかりました、汚れ役はあたしが引き受けますよーっだ!」
「わかればいいんだよ、さやかちゃん!」
「あんた、その言い草はないんじゃない?」
「美樹さん、あなたひとりに辛い思いはさせないわ。私もひとかけだけ頂いちゃう」
「マミさんも、ひとかけだなんて遠慮せず半分いっちゃってくださいよ!」
『しょうがないな。ボクが食べてあげようかい?』
ひょいと立ち上がると、マミの膝に近寄る。近寄ることで伸びていた触腕がだるんとたるんだ。
マミの膝に座り、水に濡れた猫のように顔を左右に振ると、掃除機の電源コードが引き込まれるような動きで触腕が収納され、本来の長さになる。
「ほんとに大丈夫、キュゥべえ、無理しないでいいのよ?」
「ダメですよマミさん、そんな逃げ道を与えるようなこと言っちゃ! キュゥべえは一度言ったことはやる男です! な、吐いた唾飲まないよな、キュゥべえ!」
「美樹さん、落ち着いて?」
『キミたちは、痛覚制御の応用で味覚制御もできるはずだよ。どうしてそんなに嫌がるんだい?』
「味の問題じゃないのよ、キュゥべえ……」
『じゃぁなんの問題だい、マミ?』
「分かって聞いてるでしょ、キュゥべえ」
収納された触腕が再び引き出され、「痛い痛い」と悲鳴があがる。
それを聞き、鈴を転がすように笑うマミ。彼女の意識からは、魔法で消されたかのように佐倉杏子の記憶は失われていた。
◇ ◇ ◇ ◇
週末が終わり、平日が始まった。
朝起きたら、白い同居人に「おはよう」と告げる。朝食とお弁当を作り、身だしなみを整え、朝食をとり、見滝原中学校の制服に袖を通し、星占いを確認する。
袖を通すとき、数ヶ月ぶりのことのように感じて、ずいぶん久しぶりだなぁとマミは思った。そして「週末はさんだくらいで大げさだわ。でも、週末いろいろとすごかったし、しょうがない、かな」と楽しかった週末を思い出して笑った。
学校に行き授業を受け、放課後に街中をパトロールして巡り、帰宅して三人でささやかなティーパーティをし、そして眠る。
そんな平日を繰り返した。
一〇日、三〇日と繰り返した。
それはすぐに日常となった。
ひとりで目覚め、ひとりで眠る日常だったが、後輩のふたりと密に過ごす日々は、彼女に寂寥を感じさせることはなかった。
魔女との邂逅は、ほとんどなかった。
グリーフシードの入手もほとんどないことになるが、ソウルジェムは濁りを見せることはなく、問題にはならなかった。
平穏な日常だった。
あるとき、マミは柔らかい色のパジャマを着て、枕を抱きしめて言った。
「キュゥべえ、魔法少女ってけっこう幸せな生き方なのかもね」
それを聞くいきものは、テレパシーで返すことはなく、尻尾をくねらせて応えた。その仕草は当たり前のことを言うなとたしなめているのか、寝惚けたことを言うなと嘲っているのか。少なくとも、マミには前者の意味しか思い至らなかった。
そして、今日、マミは委員長の魔女と対峙していた。
学校の帰り、まどか、さやかとパトロールをしていたマミは委員長の魔女の結界を見つけ、三人で中に入った。
大空に蜘蛛の巣状に編まれたロープ。ロープにはセーラー服のブラウスが、万国旗よろしく鈴なりになっている。まるで合宿中の学生が洗濯物を干しているような、牧歌的にも見える光景。
地上からロープを駆け上がりながら、風で揺れる髪を押さえてマミが声をあげる。声量は大きいものの、叫ぶような粗野な印象は全く与えない澄んだ声で。
「私と鹿目さんがフォローするわ、美樹さん、突撃をお願いね。あなたひとりに前線を任せるのは心苦しいけれど」
「いえいえ、平気ですってー。むしろひとりの方が、伸びのびやれますって」
ロープは細い。もしカブトムシがロープをつたって歩くなら、上り下りですれ違うことさえできないほどに。
その細さをものともせず、よく整備されたトラックを走るように軽やかに駆けるさやかは、片手をひらひらとさせて返した。受けたマミが戦闘中にもかかわらず微笑みを漏らすような、おどけた調子だった。
「ふふ、そうね。杏子ちゃんがいると、手柄の取り合いになっちゃうものね」
自らの言葉に違和感をおぼえ、「あれ?」とマミが呟く。即座、マミの思考を遮るようにさやかが声を荒げた。
「ではではっ、突撃しますっ!」
「フォローは任せてっ、さやかちゃん!」
「そうねっ、フォローするわ!」
応えるまどかの語勢に押されるように、マミも大きめの声を出した。そしてその声に応えるように、仏像の後光よろしくマスケットが彼女の後背に立ち並ぶ。
「パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」
ヘカトンケイルが百本の腕を自在に蠢かせるがごとく、白銀色のマスケットが無軌道に動く。全てのマスケットに共通することはただひとつ、射線の先に使い魔の姿を捉えていることだけだ。
ぱんぱんぱん、と軽やかで間延びした炸裂音を響かせ、無限の魔弾が射出される。全ての魔弾に共通することは、やはりただひとつ――。
さやかを襲わんとしていた使い魔たちが、そこかしこで花火のように爆ぜ散った。
「うひゃー、すっごいですねぇ、マミさんのインフィニータ」
「美樹さん、油断しないで。魔女のスカートの中に新手がいるわよ!」
「大丈夫ですよー、そこまで深入りしませんからー」
駆けながら、さやかがサーベルを肩の高さに、水平に寝かせて構える。そして左手をサーベルの腹に添えるようにあてがい、左手の指とサーベルの切っ先を照門と照星のかわりにして、委員長の魔女のスカートの奥深くに照準を定める。走ることによる振動を腕を上下させることで打ち消し、継続して照準を合わせ続ける。
委員長の魔女を指呼の間に捉える。サーベル部を撃ち出してトドメを刺すに充分な距離に。
発声はなく、短い呼気のみを印として、さやかがトリガーをひく。
装飾過多な護拳を手元に置き去りにし、刃の部分が飛翔する。
湾曲した刃、飛行に不向きなウェイトバランス、そういった物理的な事実を魔法でねじまげ、サーベルは大気をつんざいて一直線に駆け抜けた。駆け抜けた先にあったのは、スカートの奥に秘められた委員長の魔女の弱点だった。
さくりと、静かな音がした。
それはサーベルが、魔女の体躯を貫いた音。魔女の息の根を止めた音。
間を置かずして、結界が崩壊を始めた。
◇ ◇ ◇ ◇
「やりましたよ、マミさーん!」
快哉をあげて、さやかがマミの胸に飛びついてきた。
「やりましたね、マミさん!」
まどかは、背後から飛びついてきた。
園児に懐かれる保母のような光景だった。マミの頬が緩む――その温かさにほだされ、先ほどおぼえた違和感が、雪が融けていくように小さくなろうとする。
あるいは、杏子のこと以外の違和感であれば、そのまま融け消えてしまっていたかもしれない。
「よく頑張ったわね、美樹さん」
優しく微笑み、美樹さやかを、そして鹿目まどかをゆっくりと身体から引きはがして、彼女たちに言うというよりは、独りごちるように言葉を漏らした。
「でも、おかしいわ。杏子ちゃんがいないもの……」
さやかが目配せをした。それを受けて、まどかはかぶりを振る。言葉はなくとも、まどかにはさやかの言いたいことは分かったし、さやかにはまどかの考えが理解できた。
「そうですね……ちょうどいいタイミングです。そろそろ楽しい時間もおしまい、かな。全部お話ししますね」
先ほどまでのひとつ年下の後輩のオーラではなく、気圧されるようなオーラをマミは感じた。しかし、後ずさる必要はなかった。なぜなら彼女の感じたオーラは禍々しいものではなく、神聖で気高いものと思えたから。
マミが口を開く。全部をおうむ返しにしたいところだったが、とりあえず最初の部分を。
「ちょうどいいタイミング?」
「はい。もうすぐ、マミさんの帰る場所ができますから」