マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
カンべぇが真実を告げると、彼を抱く手が一瞬だけ緩み、すぐにより強くなった。
そして、柔らかな乳房に押し付けられた彼の頭に、温かな滴がこぼれ落ちてきた。ぽとりと落ちては、彼の頭にじんわりと温めていく。
やがて、数滴の涙が届いたのち、湿った声がした。
「嘘よね……?」
「もはやボクはインキュベーターではないが、それでもウソをついてはならないという制約は活きている。残念だけど真実だ」
「助かる方法はないの……?」
「ないよ。しょうがないことなんだ。さっきインキュベーターに言ったけど、天罰なんだと思う」
「そんなのいやよ。せっかくこうして会えたのに……」
「そうだね。感情をおぼえたことに後悔はないが、もっと早くキミに会いにこなかったことには後悔している。まぁ、後の祭りだけどね」
泣く、という機能などないはずのカンべぇの身体だったが、彼は目頭が熱くなる感覚をおぼえていた。泣きたい、とも思った。涙が心の中の濁りを押し流し、汚れを洗い流すものだという認識はインキュベーターの共有知識には含まれてはいないが、教わらずとも彼はそう知った。
不意に、彼を抱き締める少女が大声をあげた。
「キュゥべえ、出てきなさい!」
しかし、魔弾で脅かされ追い出されたのはつい先ほどのこと、キュゥべえは姿を現すことも、声を返すこともしない。
マミは叫んだ。その声は、脅すような内容とは不釣り合いな色を帯びていた。
「出てきなさい! 出てこなければ、今後キュゥべえを見つけ次第撃つわよ!」
『やれやれ、脅迫とはキミらしくもないね。そいつの疾患の悪影響でも受けたのかい?』
テレパシー。次いで、カーテンの陰にインキュベーターの姿が映った。
「カンべぇは病気なんかじゃない。でも、今はそれはいいわ。キュゥべえ、この子を助ける方法を教えて!」
『ないね。ボクたちのエネルギーとなる物質はこの星には存在しないからね』
「ふざけないで。こうしてあなたたちインキュベーターが存在している以上、あるはずでしょう!」
『キミたちの文明でも、エネルギーをマイクロウェーブにして伝達することはできるよね。原理は同じだ。ボクたちの場合はそれよりさらに減衰せずに、比較にならない程の広範囲にエネルギーを供給するネットワークを構築している。そこからエネルギーを補充しているんだよ』
「それをカンべえに分けてあげることは出来ないの?」
『ムリだね。そうする意味がないということもあるが、そもそも、そうする権限がボクたちにもない』
「お願い……」
『用件はこれだけかい? 済んだならボクは行くよ。突然撃たれたら困るしね』
「待って」
「マミ、インキュベーターに頼むだけ無駄だよ。もういいんだ」
「……いいわけがないよ」
「いいんだ」
「私、あなたになにもしてあげられない……ごめんなさい」
「なんの。キミのその気持ちだけで充分だ。ボクを受け容れてくれて、本当に感謝している」
マミとカンべぇが言葉を交わす間に、インキュベーターはその姿を消している。
それは彼らの合理性に起因する行動であったが、カンべぇは消えてくれたことに感謝していた。自らの人生の幕を下ろす場面に、余計なものは立ち会わない方がいいから。
「残念だが、そろそろボクの力は尽きる。お別れだ、マミ。キミの腕の中で死ねるとは思ってもみなかった、幸せだよ」
言葉は返ってこず、ただ嗚咽と、そして治癒魔法の光だけが届いた。マミの胸の中から少女を見上げ、カンべぇは続ける。
「ありがとう。だけど、魔力がもったいないよ。もういいんだ。ボクの亡き骸はインキュベーターが処理するはずだから、どこにでも放置しておいてくれて構わないよ」
彼は早く死にたいと願った。これ以上彼女の涙も魔力も、自分にはもったいないと思ったから。
◇ ◇ ◇ ◇
二週間が過ぎた。
十一月も半ばとなり、街路樹も紅葉のピークを過ぎて葉の過半を散らしている。いろいろなものが散っていく季節にさしかかろうとしていた。
マミは毎朝、緑道のとある街路樹の前で足を止め、根元の土くれに手を合わせていた。杏子はその行為の理由を問うたことがあったが、マミは「ちょっとね」と言葉を濁し、寂しげな笑みを浮かべるだけだった。
それで納得したわけではなかったが、納得したふりをする、程度の感受性は杏子も持ち合わせていた。
その日も、マミは瞑目して手を合わせた。
合わされた白魚のような指を、風に煽られた落ち葉が乾いた音をたてて叩く。
この時期は山々から吹きおろす風が激しいが、今日はとりわけひどい。街路樹の枝がきしむように揺れては、紅い葉を風に奪われていく。
「葉っぱ、今日でなくなっちゃうかもね」
興味なさそうに相づちを打つ杏子。それを横目で見たマミはわずかに苦笑し、そして合掌していた手をほどいた。
「お待たせ、じゃ、行きましょ」
足元に置いていたスクールバッグを両手で持ち上げると、マミはゆっくりと歩き出した。
ガラスが割れるのではないかと思う程に、突風に叩かれた窓が激しい音をたてて揺れた。
昼休み、いつものように窓際に来ていたマミは、その音と振動に首をすくめる。
そして、視線を彼方で微睡む魔女に向ける。
――大丈夫よね。なにも動きはないもの。ただの強風。鹿目さんは関係ないわ。
朝から激しく感じていた風は、午後に入ってさらに勢いを増していた。
先ほどのように窓をきしませるような突風が幾度となく吹いている。
マミがお気に入りの街路樹たちは無事かな、と眉を曇らせたタイミングで、背後から明るい声が届いた。
「あ、マミ、注意報から警報に変わったよ。五限目はなしだね、帰れるよ!」
座席でスマートホンをいじっていたリンリンが、喜色を満面にたたえて声をあげる。
「そっか。古典の授業なくなっちゃうのは残念ね」
「いや全然」
「知ってます。同意を求めたわけじゃないわよ」
振り返り、笑う。そのシンプルな仕草の中に清楚さと艶やかさを同時に感じたリンリンは、ミスコン後に校内で囁かれている言葉『立てばマミさん座ればマミさん、歩く姿は巴マミ』を思い出し、心の中で肯定した。
マミがリンリンの机の横を通ると、春の日差しを思わせる芳香がふわりと広がる、そして春の花が綻ぶような温かな声。
「じゃぁ、帰る支度しなくちゃね。リンリン一緒に帰る? さすがに今日は部活ないでしょ」
「あ、そうするそうする。四〇秒で支度するから、ちょっと待って」
「それじゃ私が待ってもらう方になっちゃう。ごゆっくりどうぞ」
そうこうしているうちに、校内放送が警報発令に伴う帰宅指示を告げた。担任教諭も教室を訪れ、寄り道せずに帰宅するようにと注意する。
「それじゃ、先生、さようなら」
支度を整えたマミとリンリンは教諭に一礼し、教室を後にした。
教諭の指示に従い、クレープを味わう程度の寄り道に留めて帰宅する。
自宅に戻ったマミは、キュゥべえの来訪を受けた。
◇ ◇ ◇ ◇
見滝原に先んじること二時間、周辺のどの市よりも早く、風見野に警報が発令されていた。
それはつまり、風見野の方が見滝原よりも強い暴風に見舞われていたことを意味し、さらに言えば、凶事の中心が風見野にあることを意味していた。
午後には避難勧告を経て避難指示が発令。夜宵かおりは母とともに近隣の小学校に避難していた。
その避難地点から、郊外へ向けて数キロメートル離れた山中に、それは顕現した。
天に浮かぶ巨大な歯車。
そこから逆さに吊るされた巨大な貌無しの魔女。
かつて見滝原を襲ったワルプルギスの夜と呼ばれる魔女が、そこに浮いていた。
『マミ、杏子、風見野にワルプルギスの夜が現れた』
そう告げるためにリビングに現れたキュゥべえに、杏子が疑問を呈する。
「なんでワルプルギスが現れるんだ? まどかが倒しただろ」
『それはボクが聞きたいくらいだね。魔女が出現する状況というのはふたつしかない。使い魔が育った場合か、魔法少女が魔女となった場合だ。しかし、ワルプルギスの夜は昨年、初めて出現した。だから昨年のワルプルギスの夜は使い魔から育ったということはないはずだ、過去に同一の魔女が存在していないのだから、その時点で使い魔が存在しているはずがないからね』
「そうね」
腕を組んだままのマミが首だけを縦に動かす。
『しかし、魔法少女が魔女になったという可能性もまた考えにくい。あの時、見滝原にいた魔法少女はマミ、杏子、キミたちふたりだけだ。鹿目まどかはワルプルギスの夜の出現後に魔法少女となったし、その奇跡で生き返った美樹さやかもまた対象外だろう』
「回りくどいわね、何が言いたいのかしら?」
『そもそも、昨年のワルプルギスの夜にしても何故出現したかが不明なんだ。使い魔が育った可能性はない、魔法少女がなった可能性もない。それ上で今回のワルプルギスの夜だ。何故現れたか、分かるはずもないじゃないか。マミ、杏子、キミたちには何か心当たりはないのかい』
「私たちも突然現れたワルプルギスに、わけもわからず戦いを挑んだのよ。知っているわけがないじゃない。そもそも、キュゥべえが知らない魔法少女なんて、いるわけがないわよね?」
『ボクたちと契約しなければ魔法少女にはなれないからね。その通りのはずだよ』
正確には、六百年ほど昔に例外が発生したことはあったが、それは既に解決され、残滓もふくめて現在への影響は一切ないはずだ、とキュゥべえは続ける。もちろん、マミや杏子に不要な知識を与えるつもりはなく、心の中で、だが。
「普通に考えて、去年のワルプルギスに使い魔がいた。その使い魔が潜伏してて、今育った。って感じじゃねーの?」
『そうだね。昨年のワルプルギスの夜が何故現れたのかは分からないが、今回についてはそう考えるのが妥当かもしれない』
「もしそうなら、パトロールが不充分だったということね……。でも、反省はあと。今は戦わないとね」
――しかし、とキュゥべえは考えていた。
しかし、結界を必要としない強大な魔女は、過去の例をいくつ紐解いても『使い魔を有さない』。そして、昨年あらわれたワルプルギスの夜も同様に、使い魔の存在は確認できなかった。
このことから、使い魔が育ったという可能性は考えにくいのではないか。
だからといって披露すべき別案もなく、キュゥべえは口を噤んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「これがワルプルギスの夜……。この距離でもプレッシャーがすごいですわね……」
二キロメートルの距離からワルプルギスの夜を見た夜宵かおりは、ごくりと音をたてて唾を飲み込んだ。
三か月前に東京で戦った大型魔女と比較しても、桁がひとつ違うように思える。
しかし、だからこそ退くわけにはいかない。もたらされる災害規模も、東京とは桁がひとつ違うものになるのだろうから。
魔女は悠然と滞空している。
今のところ、という但し書きはつくが、魔女は特に悪意を撒き散らす素振りもなく、ただ浮いていた。
その様子からは、夜宵かおりを認識していないように受け取れる。存在を認識していないか、敵として認識していないかは不明だが。
「さて、始めましょうか……!」
つぶやき、右手の呪装魔具を遠距離に適したモード、ホーリーレイへと変形させる。
強大な大型魔女を前にしては、蟷螂の斧と表現して差し支えない武器ではある。しかし、催眠魔法で眠らせてきた母を銃後にしたことで、彼女の闘志も魔力も臨界に達していた。
それを示すかのように、ホーリーレイがまとった魔力が周囲に作用し、陽炎のように景色を歪ませる。
だが、そのような魔力の高まりに対してもワルプルギスの夜は注意を払わない。ただ悠然と浮き、自らを中心として暴風を吹きすさばせるのみだった。
「六〇〇メートルまで接近。そこからその首、もらい受けますわ」
つぶやききを漏らし、決然たる視線を魔女の首へと叩き付ける。
彼女は厳しい表情のまま、暴風で薙ぎ倒された樹木が並ぶ山間部を駆けた。
向かい風は激しく、彼女の髪もドレスも重量を持たないかのように派手にはためく。
烈風に折られた樹木が弾丸として迫る。それを余裕を持って躱すだけの身体能力を、彼女は持っていた。
マミの動きを模した優雅な跳躍で、襲い来る弾丸をふわりと舞って避ける。次の瞬間には、杏子の動きを模した直線的な機動で、複数迫る弾丸の間隙を抜ける。
遥かに格上の魔法少女を模倣した動きは、それぞれオリジナルには程遠く、六〇点程度のデキでしかなかった。しかし、状況に応じてふたつの動きを巧みに織り交ぜることで、八〇点程度の回避運動を可能としていた。
それは、風に運ばれた樹木を避けるには充分な動きだった。被弾することなく彼女の考える有効射程距離まで駆けると、彼女は魔女の首に照準した。
「ファイエル……!」
ドイツ語である、と騙されたままに覚えている単語をつぶやき、光の魔弾を三連に撃つ。
ふわりふわりと空にたゆたうだけの標的を照準することは、彼女にとって難しいことではない。放たれた光矢は狙い過たず魔女の首を捉えた軌道で飛ぶ。
しかし、魔女の首を討つことはなかった。
魔女を守るように虚空に出現した魔力障壁が、光矢を弾いたからだ。――正確には、常時展開されている魔力障壁が、異物を弾くことで可視化した、となる。
そして、射撃に反応してようやくワルプルギスの夜が攻撃を開始する。
夜宵かおりの回避運動は、風に運ばれた樹木を避けるには充分な動きだった。けれど、ワルプルギスの夜の敵意ある攻撃を回避するには、拙い動きだった。
ガイドレーザーを思わせる細い光線が、彼女の胸に届いた。一瞬と表現するのもはばかられるほどの、ごく僅かの時間の後、そのレーザーから炎が噴き出す。
あまりの熱量によってもたらされる破壊は、焼ける音も焦げる臭いも伴わなかった。
ただ彼女の胸の肉が瞬時に炭化し貫かれた。
貫かれた箇所はこぶしひとつほどの穴となり、彼女の身体越しに向こうの景色を見せる。
ひゅう、とその穴を通る風が鳴った。
遅れて、烈風に折られた大樹が運ばれてきた。
彼女はそれを避けることはできずに直撃を受ける。飛ばされた彼女の身体は、別の樹木に叩かれ、さらには烈風に運ばれ、彼方へと転がる。
関節があらぬ方向へ曲がり、肌には無数の疵がついた。
そこに水の介在はなかったが、それは濁流に流される木の葉そのものだった。駆けた以上の距離を押し流され、ようやく彼女の身体は転がることをやめた。
◇ ◇ ◇ ◇
ワルプルギスの夜は、痛撃を受け彼方へ追いやられた魔法少女に興味を失ったのか、追撃は行わなかった。
僥倖だった。もし追撃があれば、かなりの確率でソウルジェムへ攻撃を受け、魂を散らしていただろうから。
しかし、魂を散らすことはなくとも、彼女は戦意のほとんどを散らしていた。
優れた治癒魔法で身体を回復させた後も、再び突撃することはせず、躊躇うかのようにその場にとどまる。
ぞっとした。
魔法少女の身体は、どんなに壊されても替えが効くパーツに過ぎない。少なくとも強力な治癒魔法を持つ彼女にとってはそうだ。
しかし、ソウルジェムはそうではない。
そして、先程の魔女の攻撃は、彼女には防御することも回避することも――もっと言えば知覚することもできなかった。
それはつまり、もし魔女の攻撃がソウルジェムを狙っていたら、彼女は絶命していたであろうことを意味している。
銃後にいる母を思えば、立ち向かう以外の選択肢はないはずなのだが、それでも彼女は立ちすくんでいた。
だから、駆け付けたマミが投げかけた次の言葉に素直に従わなかった理由は、意地というよりは虚栄心に属するものだったのであろう。
「夜宵さん、大丈夫? あとは私と杏子ちゃんに任せて、あなたは下がっていて」
「あ、あら、いらしたのですね。おふたりが着く前に、カタをつけるつもりだったのですが……。ですが、ここはわたくしの街、わたくしが守らないでどうするのですか」
「相手の力も分からないのか? アイツは強ぇぞ。去年あたしらが戦った時よりも強くなってる。お前じゃ足手まといにしかならねーよ」
「あなたが言った通り、ここはあなたの街。だからこそ、ご家族の近くにいてあげて」
マミが言葉を選んでくれていることと、真意がどこにあるかは、彼女には理解できた。それに、マミと杏子の判断が正しいということも。それでも、悪あがきめいた言葉が彼女の口から漏れる。
「足手まとい……なのでしょうか」
「そうは言わないわ。でも、あの魔女が強いのは確かよ。私も杏子ちゃんも、自分の身を守るので精いっぱいになると思うわ」
「あたしらに任せときな。アイツは一度倒してんだ。今度もうまくやるさ」
「夜宵さん、こんな状況で娘の姿が見えなかったら、お母様がどんなに心配するか、わかるでしょう?」
小さく、かおりが頷いた。
それは、悪い言い方をすれば、体のいい口実に飛びついたと言えるのかもしれない。母のためと自分を納得させることで、彼女は自尊心を満たしたまま逃亡することを選んだ。
「わかりましたわ。御武運をお祈りいたします」
「うん、お母様を安心させてあげて」
「でっかいグリーフシード持って帰るから、期待しとけよ」
呵呵と笑う杏子。マミも控えめに笑う。しかしかおりは笑う精神状態にはなれず、もう一度頷くと踵を反した。
ワルプルギスの夜と二キロメートル以上離れているとはいえ、吹きすさぶ風は激しい。その風に背中を押されるようにして、彼女の姿はすぐに見えなくなる。
彼女が視界から消えると、ふたりは表情を引き締めた。彼方に浮かぶ魔女へ視線を向ける。
「ちょうどいい距離だね」
「そうね。ヴェルシオーネ・イリミタータの射程内だわ」
「前と同じなら、魔力障壁があるはずだよ」
「大丈夫、まとめて撃ち抜いてあげるわ」
言うや、両手の掌を大地に押し付ける。そこから津波のようにリボンが全方位に向けて奔り、大地に根を張った。充分に強い根、すなわち基盤を確保すると、その上にティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータの砲台を築き始める。
「一二〇秒、ってところかしらね……」
「けっこう早くなったよね。さすが」
マミの全身がオレンジイエローの輝きに包まれ、砲台を組むリボンも同様の輝きを見せる――その魔力のたかぶりを感じ取ったのか。
彼方で、ワルプルギスの夜の口腔が煌めいた。
次の瞬間、一条の熱線が築かれつつあった砲台を貫いた。
瞬時にマミと杏子は左右に跳ぶ、さらにマミは絶対領域を展開、追撃に備える。
続けざまに熱線が二度閃き、砲台を基盤もろともに溶かし尽くした。
その次の熱線は、マミを狙って放たれた。
絶対領域すら貫いて、炎がマミを襲う。
しかし、絶対領域も無為に破られているわけではなかった。熱線を受けたリボンは、一瞬の拮抗状態を維持した後に炎を通している。それは流水をティッシュペーパーで受けるような儚い抵抗ではあったが、マミが余裕を持って回避するためには充分な時間稼ぎであった。
リボンのドームの中で、断続的に走り抜ける熱線を踊るように回避しながら、ヴェルシオーネ・イリミタータのために高めていた魔力をクールダウンさせる。
マミが魔力のたかぶりを静めると、ワルプルギスの夜の攻撃も止んだ。
「すごい反応距離に、射程距離ね……」
「アイツがまとってる魔力で分かってはいたけど、前よりかなり強いね」
「ええ。どうやら魔力でこちらを見つけてるみたいね。魔力を抑えたら攻撃が止んだもの。さて、どうしましょうかね」
「突っ込むとして、避けれそう?」
言外に、自分は回避できると前置きしての質問。そう前置きするだけの実力を、佐倉杏子は有していた。
「完璧には無理そうかしら。ソウルジェムを防御しつつ、致命傷を避けて進む感じかしらね」
「……いや、それは危ないよ。あたしが突っ込む。たぶんワルプルギスの攻撃はあたしに来るから、マミさんはここから長距離射撃を」
突然、マミが笑った。
「なに?」
「杏子ちゃんも、ずいぶん考えるようになったなって思って」
「えー、前からじゃん」
「そうだったかしら?」
「そうですー。じゃぁ考えついでに、ヴェルシオーネって魔力抑えながら作れる?」
「魔力の多寡は作る時間に直結するわね。たとえばさっきの半分程度に魔力を抑えれば、倍の時間」
「じゃぁ、それで。それなら確実にあたしの方を狙ってくると思う」
「杏子ちゃん、魔力で狙ってくるとしたら、たぶん、ファンタズマは……」
「そうだね。でも、クアンもあるし大丈夫だよ。心配しないで」
そして、親指を弾いて鳴らすような気負いのない所作で、ディスティーノ・クアンティスティコを発動させる。
杏子の横にもうひとりの杏子が立った。どちらが本物か、という命題をおきざりにした、「都合のいい方が本物」であるふたりの杏子。
その上でマミをも上回る身体能力を持っている。杏子に攻撃を命中させることは、ワルプルギスの夜をもってしても容易なことではないはずだ。
「上の歯車を狙う?」
「いえ、まずは逆さ吊りの魔女の頭部を撃ち抜くわ。炎をどうにかしないと、少なくとも私は厳しいもの」
「了解、んじゃ、行ってくるよ!」
逆風を裂いて、杏子が走った。
駆けるごとに逆風は強まり、すぐに樹木が混ざりはじめる。
さらに距離を詰め、先ほど夜宵かおりが熱線を受けた距離まで近寄ると、大きな樹木や石塊までが風に運ばれてくる。
相対速度にして毎時一五〇キロメートルを超えるそれらを、夕暮れ道で蚊柱を避けるような気安さで回避しつつ、杏子はワルプルギスの夜の注意を引くため、魔力を解放した。
彼女の身体からルビーレッドの魔力が迸り、駆けるとそれは流星の尾のようにたなびく。
ワルプルギスの夜が、杏子の魔力に反応を示した。
熱線が一条、二条と走り、大地を溶かす。
だが、杏子は髪の一本すら炎に焼かれることなく、それらから身を躱していく。
「無駄に正確に狙ってりゃ、かえって避けやすいってもんだぜ!」
笑い犬歯を覗かせる余裕さえ見せた彼女は、大身槍に魔力を込めて投擲する。
彼我の距離は約二〇〇メートル、その距離を大身槍は放物線軌道を描かず一直線に飛ぶ。狙うは、魔女の口蓋――
「まぁ、そううまくは行かないか」
迎撃する熱線を真正面から受けた大身槍は、しばらくは熱線を裂いて飛翔したものの、やがて溶けて崩れ落ちた。その事実から、杏子は失望することなく希望を見出す。
「あんだけ保つなら、いざとなったら受けれるな」
大身槍が熱線に数秒単位で抗したことを指している。もちろん避けることを優先するにしても、緊急時に受けてしのげることは大きい。新たに掌中に生み出した大身槍を強く握り、彼女はさらに駆けた。
「焦っちゃだめよ、マミ」
自分に言いきかせながら、マミはティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータの砲塔を構築していた。
杏子とのブリーフィングの通り、魔力はあまり解放せず、時間をかけての構築。
気が逸る。胸が騒ぐ。
自らが撃たれるよりも杏子が攻撃を受ける方が、眉を焦がされるようにジリジリする。
しかし、だからといって魔力を高めて急いで構築しては、危険な囮役をしてくれている杏子の想いを裏切ることになる。
「お願い、急いで、イリミタータ」
ささやきに応じ、形成半ばの砲塔が輝きを強める。基盤として展開されているリボンも同様に光を帯び、周辺が黄金の海のような様相を呈した。それは無意識に魔力がたかぶっていることを示し、マミは慌てて魔力を抑える。
そして、遥か前方で戦う杏子を祈るような瞳で見つめた。