マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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マミさんの、魔法の国が消えていく
第三八話 マミさんの、魔法の国が消えていく


「こいつで、とどめだッ!」

 

 影の魔女から放たれた無数の触腕。

 横殴りの五月雨のように襲い来るそれをミリ単位で見切りながら、突進をしかける杏子。

 身体のわずかに横を高速で通過する触腕の群れは、衣裳の裾を斬り、髪を僅かに断ち、そして杏子の頬に一筋の裂傷を創る。

 

 頬の傷から、鮮血が舞った――だが、それだけだ。

 それ以上の打撃を与えることはかなわず、懐に魔法少女の侵入を許した魔女には、もはや抗う術はなかった。

 突進の勢いをそのままに乗せた大身槍の一撃が、魔女の体躯を串刺しにする。

 魔女の断末魔、それと同時。

 大身槍が消えた。

 

 それだけでなく、杏子の着ていた魔法少女の衣裳が消え、変身前に着ていたタンクトップにキュロットといった涼しげな普段着に戻る。後方で援護していたマミの衣裳も、同様に普段着へと変化していた。

 遅れて、結界の崩壊を示す鳴動が始まる。

 崩れゆく結界の中で、杏子は両膝をついていた。

 左の頬の傷が生み出す激痛に耐えかね、両膝をついた。うずくまるようにして肘もつく。

 影の魔女はグリーフシードを落としたのか、それを確認する余裕もなかった。――いや、確認する能力は失われていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 理由は、分からない。

 事実として、魔法少女としての力は失われた。魔法も使えないし、ソウルジェムも見当たらない。

 

 いつもなら、リング型のソウルジェムがはまっていた指を目の前でひらひらと動かす。手術を受けている家族を待つ、その所在なさを追い払うように。

 マミは、病院のロビーにいた。

 治癒魔法が使えないことで一時的にパニックになったが、すぐにマミは状況を認識し、杏子を抱き上げて病院へ走った。

 魔法少女にとっては取るに足らないかすり傷でも、普通の少女にとっては激痛を伴う大怪我。

 幸い、総合病院は結界の近くにあり、そしてすぐに縫合手術が行われた。

 

「杏子ちゃん……」

 

 堅い長椅子に腰を下ろしたマミは、もはや何度目か数えきれない溜め息をついた。

 生命に別状がないことは理解していても、後遺症はないのか、顔に傷は残らないのか、不安は幾らでもわいてきては、彼女の心を曇らせていく。

 そもそも、魔力の喪失は一時的なことなのか、そうでないのか。一時的なものであれば、魔力が戻ってから傷などいくらでも治せるのだが……。

 

「やだ……」

 

 頭を小さく振る。そんな時に、看護士がマミに声をかけ、手術の終了を告げた。成否ではなく終了を告げたことに他意はなく、失敗の可能性などないに等しい手術であるからだが、それでもマミは問い返した。

 

「ごめんなさい、伝え方が悪かったわね。もちろん成功よ。今夜は麻酔の影響もあるから入院してもらいますけど、問題がなければ明日にでも退院できるわよ。あとは抜糸のときに、また一日二日入院ですね」

「今日は会えないんでしょうか?」

「うーん、面会時間は過ぎてるし……。それに、まだ麻酔が効いてると思うわよ」

「それでも、一目見るだけでも結構ですので」

「んー、じゃぁ、五分だけね」

 

 泣きぼくろが特徴的な看護士は、最初からそうするつもりであったかのように、あっさりと折れた。

 

 

 

 

 

 

 午後十時。

 身体にまとわりつくような不愉快な蒸し暑さを我慢しながら、マミは家路を急いでいた。

 麻酔の影響で寝息をたてる杏子をたっぷり十分以上見つめてから、看護士に促されて病院を出たのは一五分ほど前。

 

「明日は、着替えとか用意して持って行ってあげなくっちゃ」

 

 病院のある中心街からマミのマンションまでは、比較的明るい道ばかりであったが、それでも深夜のひとり歩き。普通の少女となったマミには心細い道程であった。

 そのためか、独り言が増えた。

 

「もしかしたら退院は明後日になるかもしれないから、ちょっと多めに持って行った方がいいわよね。果物とかは食べられるのかしら?」

 

 花の香りが漂う緑道を歩く。街灯と街路樹が作る不規則な影が、街路樹の葉のかすれが起こすささやかな音が、マミの心に少しの恐れをもたらして口数を増やさせる。

 

「ご飯が食べられないと……点滴だけじゃ杏子ちゃん足りないだろうから、すりおろした果物とかもいいかもね」

 

 蒸し暑さから来るものだけではない、嫌な汗がマミの肌を濡らしていく。魔法をなくしてしまうことがこんなに心細いなんて、と僅かに思い、そして頭を振ると、ことさらに明るい声を出した。

 

「なんだかちょっとしたピクニックみたい……って、楽しんじゃいけないわよね」

 

 ようやくマンションの前に着いた時、レモンイエローのブラウスは汗を吸って肌にはりついていた。部屋に入り衣服を脱ぐときに、マミはその重さに驚いたほどだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日。

 左の頬に大きな絆創膏をつけたベッド上の杏子は、登山用のリュックサックを持って病室に訪れたマミに驚き、そしてリュックサックから出てくる色々なものを眺めるにつれ、驚いた顔を呆れた顔に変化させていった。

 

「マミさん、遠足にでも行くつもりだったの?」

「だって、何が必要か分からないじゃない。多すぎても問題ないけど、足らないと困るし……」

 

 杏子は呵呵と笑おうとし、傷が痛んだのか慌てて頬を手で覆う。

 

「大丈夫?」

「あー、うん。急に動かすとちょっと痛むみたいだね」

「ごめんね」

 

 突然に目を伏せて謝罪するマミに、杏子は意図が飲み込めずきょとんとして問い返す。

 

「私がしっかり援護できていれば、そんな傷、負わなくてすんだのに」

「何言ってんだか。これはあたしが横着してしっかり避けなかっただけだよ。普通に避けて攻撃してれば良かったんだけどね……」

「魔法で治せればいいのだけれど」

「なんで使えないんだろうね。ソウルジェムもないし、痛覚も抑えられないし、これじゃまるで普通の女の子に戻りますってやつだよね」

「そうね。そうなのかもね」

 

 それにしても、と考える。理由が判然としないのは、なんとも居心地が悪い。

 良い理由であれ悪い理由であれ、理由があることは精神の安定につながるが、それがないことはやはり不安をもたらす。

 

「キュゥべえがいればいいのだけれど」

「こんな時に姿くらましやがって。ほんと迷惑な奴だよね」

「ふふ……、そうね」

 

 いや、ここにいるんだが、キミたちが知覚できないだけだよ、と杏子のベッドの脇にいるキュゥべえが応えたが、その言葉の通り、マミにも杏子にも伝わることはなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「マミさん、別に、普通のご飯でも大丈夫だって」

 

 退院してから三日。頬の傷をおもんばかってか、毎食がグラタンや茶碗蒸し、素麺といった強く噛む必要のないものばかりであった。それに飽き気味の杏子が、本日の夕飯として並べられたスープカレーを見て、肩を竦めて言った。

 

「でも……お医者様も柔らかいものの方がいいって仰っていたもの。大丈夫、栄養のバランスは考えてあるから」

「栄養じゃなくて満足感のバランスがねー」

「デザートたくさんつけるから、ね?」

「アイス?」

「え、果物のつもりだったけど……しょうがないわね」

 

 もともとマミは杏子に対して甘い部分があったが、彼女が怪我をしたことで拍車がかかっていた。食事を終えると彼女の言うがままにデザートを用意し、仲良く食べながら、口を開いた。

 

「明日はどうしましょうか。宿題も終わらせてあるし、けっこう自由時間あるわよね」

「できれば、風見野の教会を掃除しに行きたい、かな」

「うん、オッケ。そうしましょ。一ヶ月くらい行ってなかったものね」

 

 幅広のスプーンでラムレーズンのアイスすくいながら、マミと杏子はどちらからともなく微笑む。美味しいものを食べると笑顔になる、というが、この場合は異なる理由からだった。

 

 

 

 

 

 

 明けて翌日。

 朝の早い時間から電車で移動したマミと杏子だったが、教会周りの掃除と草むしりはかなりの時間を要し、日が天辺に近づく時間になっても、まだ半分程度しか終わっていなかった。

 

「あ、あちい……」

 

 マミはストローハット、杏子はサンバイザーで一応の対策はしているものの、焼け石に水。玉のような大粒の汗が額やうなじを滑り、ほつれた髪を肌にはりつけていく。

 

「杏子ちゃんは木陰で休んでた方がいいかも。あまり汗かくのは怪我にも良くないでしょ」

 

 肩にかけたタオルで額を拭いながら、マミが杏子に促す。杏子も同様にタオルで首筋を拭きながら返した。

 

「絆創膏があるから大丈夫じゃないかなぁ」

「ダメです」

「でも、マミさんひとりじゃ草むしり終わんないよ?」

「頑張ります」

 

 不意に、杏子が破顔した。頬が少し痛んだが、表情には出さずに笑いを続ける。

 

「マミさん、ときどき意固地だよね」

「え、そうかしら……?」

「自覚ないんだ」

「自覚もなにも……杏子ちゃんのカン違いじゃない?」

「まぁ、それでもいいけど。そんじゃ少し休んで、教会の中を掃除してこようかな」

「そうね、それがいいわ」

 

 立ち上がり伸びをすると、ずっと屈んだ姿勢で負荷がかかっていた膝が解放されたような心地良さがあった。それに気を良くした杏子は、歩幅を広く取って教会へと向かう。

 だが、窓も扉も閉められたままの教会は、灼熱地獄そのものだった。彼女は一歩教会に踏み込むと、

 

「外より暑いじゃん……」

 

 と呟き、傍にある長椅子にへたり込むようにして腰を下ろした。幸いにして木製の長椅子は直射日光の洗礼を浴びておらず、ひんやりとしていた。

 

 

 

 

 

 

 扉と窓を開けっぱなしにしていたおかげで、昼食をとるためにマミが教会に入る頃には、室温は外と変わらない程度に落ち着いていた。それでも、一歩踏み込んだマミは「あっついわね……」とこぼして、長袖Tシャツの胸の部分をつまんでぱたぱたと空気を送り込む。

 

「はしたないなー」

 

 はたきを片手に持った杏子がその様子を見とがめて、からかうような口調で言う。いつもの逆のパターンに、指摘されたマミは頬を赤らめてしどろもどろとなった。

 

「あら、ごめんなさい、つい……」

「まぁ、マミさんは汗かきそうだしね」

「もう、意地悪なこと言うわね。それより、お昼にしましょうか」

「いいね、しようしよう」

 

 

 

 

 

 

 教会の一隅の机の上にバスケットと飲み物を広げ、マミと杏子は隣り合って座っていた。

 

「やっぱりバスケットだと、柔らかいものばかりってわけにはいかないね」

 

 甘いソースのまぶされたカツサンドを口いっぱいに頬張り、ご満悦といった様子で杏子が微笑む。柔らかめのパンで、耳を落として作っているものの、具材の全てを柔らかいものに統一することはできなかったようで、最近の食事から外されていた揚げ物もはさまれている。

 

「あー、それが狙いだったの?」

「どうかなー」

 

 続いて苺、蜜柑、バナナを薄くスライスし、生クリームを絡ませたフルーツサンドを口に運ぶ。食事向きのものもデザート向きのものも、順番お構いなしで食べる杏子のワイルドさに感嘆しつつ、マミはウェットティッシュで口元を拭った。

 

「まぁ、いいわ。そろそろ硬いの増やしていこうと思っていたし」

「そうなの?」

「でなければ、こんなお弁当作らないわよ」

 

 悪戯っぽく告げて、花が綻ぶよう笑うマミを見ると、つられて杏子も声を出して笑う――頬は動いたはずだが、不思議と痛みは感じなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 日が傾く頃に、ようやく掃除と草むしりは終わり、マミと杏子は地下室を使って掃除用の服から普段着に着替えた。その間、ふたりとも意識してかせずか、お互いの左手をちらちらと見やった。かつてそこにあったものが、今はないことを確かめるように。

 

「いつもならパトロールの時間だね」

「そうね……。心配?」

「多少は……ね」

「考えてもしょうがないわ。私たちには魔法少女の力はないんだもの」

 

 性格的に、マミは自分よりもよほど心配しているだろうと杏子は思っていたが、応えるマミの様子はその推測を否定していた。マミは続ける。

 

「もしかしたら、私たちは充分戦ったから、神様がもういいよって許してくれたのかも」

「んと……マミさんはそれでいいの?」

「うーん。いいも悪いもないんじゃないかしら? 事実そうなっているんだし」

「そっか」

 

 腰を下ろし、スニーカーの紐を結ぶ杏子の背後から、マミは抱き締めるように身体をかぶせた。そして、瞳を閉じると静かな声で囁く。

 

「杏子ちゃんは、優しいのね」

「そうでもないと思うけど」

 

 杏子は手を止め、しかし振り返ることはせず、そのままの姿勢で返す。

 

「ううん、立派」

「たぶんだけど、もしあたしが立派なのなら、それはマミさんが立派だからだと思う」

「なにそれ」

「マミさん」

「なぁに」

「あったかい」

「あったかいね」

 

 蝉の声が響いていたが、ふたりは静寂の中にいた。お互いに身じろぎひとつせず、互いの体温を確かめながら。

 魔法少女でなくなった理由はいまだ得られず、今の自分たちの置かれた状況が分からない不安はあった。それでも、彼女たちは、このままでいられれば良いなと願っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 映画にボーリングにカラオケと、同世代の少女たちが行うような遊びは縁遠かった。

 魔法少女としての使命を最優先に考えるマミは、そういった娯楽に時間を浪費することを良しとせず、学業と家事といった「正しい」こと以外の時間の全てを魔法少女の活動に捧げていたからだ。

 その反動なのか、今までできなかった分を取り戻そうとするかのように、連日マミと杏子は街に繰り出し、様々な遊びに興じた。

 恋愛映画を見ては涙し、ボーリングでガーターをとっては笑い、カラオケでは音程を外してふざけあった。

 そして、遊び疲れるまで遊んだ日の夜。

 

 

 

 

 マミは、ベッドの上で右に左にと身体をねじった。寝返りとまではいかない。敷き布団と掛け布団のひんやりとした場所を求めて、身体をうごめかせているだけだ。

 厚手のカーテンからは、ささやかな星明かりだけがうっすらと差し込んでいる。まだまだ夜明けは遠い時刻のようだ。

 マミは生来寝起きが良く、ほとんどの場合目覚まし時計に先んじて起きる。しかし、今日のそれは早起きという言葉はふさわしくない、まだ真夜中だから眠りが浅いと呼ぶべきだろう。

 まぶたを少し持ち上げ、蛍光塗料で光る壁掛け時計を見やる。ぼやけた視界の中で淡く光る長針と短針を確認すると、目覚まし時計が働く時刻までたっぷり三時間はあった。

 重いまぶたといい、朦朧とした意識といい、睡魔の兆しは身体のそこかしこにあるのだが、布団のひんやりした場所を探し蠢くほどに、身体がじんわりと火照っていた。

 

「ん……熱っぽいのかしら……」

 

 呟くも思考は回らず、身体をもぞもぞとさせる。そんな行為を繰り返しているうちに、再びマミの意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 目ざまし時計の音で意識は半ば覚醒したが、身体は鉛のように重く、アラームを止めることもままならなかった。

 少しの時間が過ぎ、音に気付いた杏子がやってくる。彼女が部屋に入ってきたことも、そして目覚ましを止めたことにも気付かず、ベッドの上でマミは蠢く。

 

「マミさん、大丈夫?!」

 

 揺する。それによってマミは瞳を開けた。まだぼんやりとした視界の中に、自身を心配そうに覗き込む杏子の姿が像を結ぶ。

 

「あ……」

 

 なんの言葉を紡ごうとしたのか、マミ自身にも分からなかった。

 マミの遅滞した思考が働くよりも早く、杏子はマミの額に手をあてる。そして小さな声でも届くように、膝を屈して顔を近づけた。

 

「マミさん、熱すごいよ」

「ねつ……?」

「うん、熱。風邪なのかな……」

 

 体温計と薬を取るために杏子が動こうとしたが、マミの言葉がそれを止めた。

 

「手……しばらくこうしてて……ひんやりして気持ちいい」

「あい、お安い御用で」

 

 苦笑を漏らす。普段の凛とした様子はなりを潜め、幼子のように甘えたマミの仕草に、杏子は妹をあやしている気がして既視感をおぼえた。

 喉を撫でられる猫のように目を細め、恍惚とした表情を見せていたマミだが、数分たって杏子が手を浮かせると、むずがるような非難の声をあげた。

 

「あ、だめ……」

「大丈夫」

 

 安心させるために微笑むと、もうひとつの手をマミの額にあてがい、馴染ませるように小さく動かす。そしてマミが気持ち良さそうにする姿を見て、今度は心からの微笑を漏らした。

 

「こっちもう冷たくないでしょ。逆の手でしてあげるよ」

「うん……ありがと……」

「落ち着いたら、ご飯用意するね」

「ん……だいじょうぶ?」

「あんまり期待はしないで欲しいかな」

 

 手が熱を帯びてきたらもう片方と替える、ということを何度か繰り返しているうちに、マミは再び眠りに落ちた。それでも杏子は律儀に同じ動作を繰り返す。

 結局、昼前になってマミが目を覚ますまで、杏子はずっと繰り返していた。辛抱強く、という表現はこの場合適切ではない。マミのあどけない寝顔を眺めながら行う動作は、なんら苦痛をもたらさなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんね、明日から入院なのに」

 

 ベッドに腰掛けたマミは、杏子の作ったすりおろし林檎を匙で口に運ぶ。熱は相変わらずで身体はだるいが、充分に睡眠をとったおかげか、意識ははっきりとしていた。

 

「頑張って今日のうちに治すね」

「頑張らなくていいけど、病気のマミさんを残して入院したくはないから……治ると嬉しいかな」

「うん、任せて」

 

 小さくガッツポーズをとるマミの頭を、杏子があやすように撫でる。

 

「偉い偉い」

「もちろんです」

 

 と、正午を告げる鐘を壁掛け時計が奏でた。マミの食器に入った林檎が八割方なくなっていることを確認して、杏子が口を開く。

 

「風邪薬持ってきていい?」

「え、いいけど、どうして聞くの?」

「朝は、取りに行かなくていいから撫でてろーって言ってたからね」

「えー、そうだっけ?」

「都合の悪いことは覚えてないんだなぁ」

「そ、そうなのかしら……」

 

 匙を口に含み、乳幼児が行うようにねぶるマミは、気恥ずかしさからか耳までを朱に染めていた。杏子はそれ以上からかうことはせず、彼女の頭を強く撫でてから腰を浮かせ、薬を取るためにリビングに向かった。

 杏子の後姿を見送るマミは、ちゅぅっと音をさせて匙を吸い、そして自分の行いの子供っぽさに、当惑したような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

「苦いけど、我慢して飲みなよ?」

「もう、お薬くらい大丈夫よ……」

 

 風邪薬を白湯で流し込むマミは、言った手前もあって平気な顔をしていたが、その実は苦味に渋面を作らんばかりだった。口全体に残る苦さを誤魔化すために湯呑み一杯の白湯を飲み、ふぅ、と小さく息をつく。

 

「また横になってなよ。頭、撫でててあげようか?」

 

 空になった湯呑を受け取りつつ言った杏子は冗談のつもりだったのだが、マミは横になりながら「お願い」と小さく呟いた。

 

「たくさん寝て早く治さなくっちゃだもの」

「弱ってるのかやる気があるのか、よく分かんないね」

「どっちもです」

「どっちもですか」

 

 じゃれあうように言葉を交わし、そして微笑む。小さく静かな笑みは、マミからは風邪の気だるさを、杏子からは頬の痛みを忘れさせていた。

 そんな安らかな時間が、ゆっくりと過ぎる。

 朝に比べるとマミの熱もだいぶ引いており、杏子の手はさして冷たさを供するものではなくなっていたが、それでもマミにはとても気持ちが良く感じられた。手の振れた場所から温かいものが広がり、身体中の弱ったところを癒してくれるような……。

 ずっと瞑目していたマミがそっと目を開けると、そこには慈しみの表情を見せる杏子の顔があった。

 

「魔法は使えないけど……私ね、人の手には、魔法なんてなくても、もともと癒す力があると思うの。子供の頃、怪我した時や熱が出た時、ママが手を当ててくれるだけでずいぶん楽になったもの」

「今、少しは楽になってる?」

「ええ、とっても……」

 

 マミは布団から手を伸ばし、杏子の空いている方の手を掴む。

 

「魔法で治してもらうより、こうやって手を当てていてもらう方が、温かいわ」

「うん、そうだね。そう思うよ。……魔法がない方が、わかることもあるんだね」

 

 蝉の声が響いていたが、ふたりは静寂の中にいた。僅かに触れた手と手、手と額から、互いの体温を確かめながら。

 魔法少女でなくなった理由はいまだ得られず、今の自分たちの置かれた状況が分からない不安はあった。

 それでも、彼女たちは、このままでいられれば良いなと願っていた。


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