マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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第四話 マミさん、浮いたり沈んだりする

「先生のお加減はいかがですか?」

 

 自宅の玄関前で、杏子は信者に声をかけられた。

 ここ数日、教会の門は閉ざされ、牧会も礼拝も行なわれていない。

 信者たちには、父の具合が悪いという説明をしている。そのため、この信者も心配して教会まで来ていたのだろう。

 

「ご心配をおかけしてすみません。ちょっと酷い風邪をひいたみたいで。皆様にうつすといけませんので……」

 

 よそ行きの言葉で口早に答えると、挨拶もそこそこに玄関へ逃げ込む。

 後ろ手で鍵をかけて帰宅の挨拶をすると、二階からモモが挨拶を返しながら降りてきた。

 

「父さん、どう?」

「ずっとおへや」

「そう……。あ、これマミさんからモモにって」

 

 お菓子の入った手提げ袋を見ると、モモは顔を綻ばせた。

 

「わーい。食べていい?」

「いいけど、食べ過ぎちゃダメだよ。夕飯食べれなくなるからね」

「うん!」

 

 

 ダイニングキッチンには、この時間は夕飯の準備をしているはずの母の姿はなかった。

 モモによると、信者たちの家に行っているらしい。おそらくはお詫びと説明に回っているのだろう。

 夕飯は遅くなりそうだし少し食べ過ぎても大丈夫かな、と妹のことを思うと、皿の上にチョコレートクリームのタルトを並べる。

 そして飲み物は何にするか問うと、妹は元気よくオレンジジュースを指定した。

 

「モモ、チョコタルトにオレンジジュースはいくらなんでも甘すぎるんじゃないの?」

「だいじょうぶ、べつばらだから」

 

 はいはい、と呆れ顔で返すと、紙パックのジュースを小さめのグラスに注いで渡す。自分のコップには牛乳を注ぐと、戸棚からフォークを二本取り出す――が、食器を渡す前に、モモはタルトを手で持つと美味しそうに頬張っていた。

 

「もうモモ、ぱらぱら落ちてるよ!」

 

 杏子は、ウェットティッシュでモモの首から胸にかけてこぼれ落ちたビスケットの破片を拭き取り、フォークを押し付ける。

 

「ちゃんとフォークで食べなさい」

「はーい」

 

 元気よく返事を返したモモは、フォークを使って器用にタルトを切り分け、大きく開けた口へそれを放り込もうとした。

 その時、声がした。

 

「モモ、そのようなものを食べてはいけません」

 

 声の主は、片手にウィスキーのボトルを持った父だ。杏子とモモの賑やかな声を聞きつけ、二階から降りてきたのだろう。

 深酒しているのか、おぼつかない足取りだった。立っていることさえ怪しく、ふらついて冷蔵庫に背を預け、赤ら顔でモモと杏子を見やる。

 

「はーい」

 

 モモは素直に返事をすると、父の言葉に従い切り分けたタルトを皿に戻した。

 

「なんでだよ! これはマミさんがモモにって作ってくれたもんだよ!」

「巴さんも、お前に惑わされた哀れな犠牲者なのか? それともお前の魔女仲間なのか?」

「何いってんだよ! マミさんは、父さんと同じで、みんなの幸せを守りたいって、それだけ考えて、自分の生活も犠牲にして頑張ってるの! 今日だって、魔女を倒して自殺しそうになってた人を助けたんだよ! なんでそんな言い方するの!」

「みんなの幸せ、か」

 

 その言葉に嘲笑めいた声を響かせると、父は顔を歪めた。

 

「モモ、そのお菓子を杏子に投げなさい」

「なっ……!」

 

 何を馬鹿なことを言うのか。モモは幼いとはいえ食べ物を粗末にするような子供ではない。父は気が触れてしまったのか、と杏子の思考が巡った頃。

 

「はーい」

 

 モモの元気な返事とともに投げられたタルトが、杏子の胸にぶつかった。

 

「モモ……? モモ! 食べ物を粗末にしたらダメだろ! マミさんが折角モモのために」

 

 べとり、と上着にチョコクリームを残し、タルトが床に落ちて砕ける。

 モモは自分が何をしたのか理解していない様子で、自分のフォークを見つめていた。

 

「杏子、モモを責めるのは筋違いだ」

 

 ウィスキーをボトルから直接飲み下すと、父は姉妹を見比べる様に眺める。そして、酒臭い息を吐きながら、

 

「お前が悪魔と交わした契約の対価だろう? 私の言う事を、モモも母さんも一言の文句も言わず聞いてくれるよ。こんな呪い……なにが奇跡か。古のミダース王の呪いもかくやではないか!」

「違うよ! あたしはただ父さんの話を皆が聞くようにって!」

 

 正気を取り戻したモモが、父と姉の諍いを目の当たりにして、しゃくりあげるような声をあげる。

 杏子はそんなモモの頭を撫で、コップを手に持たせ、そのまま手を上から優しく握る。

 

「モモ、ジュース持って部屋に戻ってな」

 

 家族の揉め事が心配なのか、鼻声でぐずっていたモモだが、父に部屋に戻るように言われると、嗚咽など最初からしていなかったかのように「はーい」と答えて椅子から立つ。

 

「家族すら、既に対等に言葉を交わせる存在ではないのだ。杏子、お前は何が憎くてこのような呪いを……」

 

 そんな言葉を背に、モモは階段を軽やかに上がっていった。

 モモの背中を見送りながら杏子は口をつぐんでいたが、姉妹部屋の扉が開き、そして閉まる音がすると父に向き直った。

 

「……ねぇ父さん、さっきも信者の人が来てたよ。みんな父さんの言葉を待ってる。いつまでもこんな……」

「なにが信者か」

 

 感情を発散するかのように、拳で机を激しく叩く。

 

「全てはお前が生み出した呪いではないか。私の言葉を聞きたいと集まった者たちは、信仰ゆえに集まったのではない。ただお前の、魔女の力に惑わされただけの哀れな犠牲者だ。それをぬけぬけと信者などと」

 

 そう言われると、確かに信仰のためでなく、奇跡の力で信者達は足を運んでいたのかもしれない、と杏子は思う。

 

 ――だけど、

 

 だけど、ならどうすれば良かったのか。奇跡など祈らず、地道に説いて回れば良かったのか。いや、それはもう十分にやって、どうしようもなかった、だから奇跡にすがった。奇跡にすがらず、世間から拒絶され異端視されても、一家で信仰に殉じるべきだったのか。

「じゃぁ……」と口を開きかけた杏子を遮り、父が続ける。

 

「そうして惑わせた人々をお前はどうするつもりなのだ? お前が契約を交わした悪魔への生贄に捧げるつもりなのか? 私の娘が、杏子が、悪魔に魂を売るなどと……」

「だから……ッ! お願いだから分かってよ! 魔女と魔法少女は違うんだ! 魔法少女は誰も傷付けたりしない! 悪い魔女からみんなを守って戦ってるんだ!」

 

 魔女を倒し人々の幸せを守っている魔法少女が、何故に悪魔と契約したなどと揶揄されねばならないのか。杏子には納得がいくはずもない。思わず声を荒げたが、二階にいる妹が驚かないかと心配して声のトーンを下げた。

 

「お願い父さん、あたしの話をきちんと聞いて……あたしは……」

「……杏子、お前は最初から、私の教えなど人々に受け入れられなくて当たり前だと思っていたのだろう? 誰ひとり救えない無意味な世迷いごとだと、そう思っていたのだろう? だからこそ、そのような契約をかわし、人心を惑わした……。ははっ、お前が悪いんじゃない。全ては私の責任なんだ。娘にすらそのように見下される、私の不甲斐なさが招いたことだ」

「違うよ、父さん……。あたしは父さんの言葉、ずっと……」

「何が違うというのかね? お前たち魔法少女の力で皆を幸せにする? 自殺しそうになっていた人を助けた? 笑わせるな! お前のしていることは、信仰などなくとも魔法の力で人々を幸せに出来ると、信仰を蔑ろにしているだけだと何故わからん! そのような所業を嬉々として語るお前を……魔女と呼ばずしてなんと呼ぶのか」

 

 嗚咽するように言葉を絞り出すと、父は酒をあおり、顔を歪めて笑った。

 その声が、魔女の哄笑と重なって聞こえ、杏子は言葉を失った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ただいま、と白い息を吐き出して挨拶しても返事はない。

 寒い玄関、暗い部屋、もう半年以上もひとりで暮らし、慣れたはずのことなのに、巴マミはひどく寂寥感をおぼえていた。

 センサーに手をかざすと、照明が柔らかい光を投げかけてくる。

 空調機も動きだし、暖かい空気が部屋や廊下の空気孔から自己主張しすぎない程度に流れてくる。

 そんな光よりも眩しく、暖気よりも心が安らいだ友達――いや、妹が、数日姿を見せていないからだ。

 

「今日も、佐倉さん来なかったわ……大丈夫かしら」

 

 最後に会ったあの日、悩みを抱えていることはマミにも分かっていた。

 

「佐倉さんなら大丈夫、と信じて見送ったけれど、正しかったのかしら」

 

 巴マミは、冷凍のドリアをレンジに入れると、視線も向けずにスイッチを手早く押す。

 料理をする気にならなかった。流しには幾つかの食器も、洗う気にならず水に埋もれたままになっている。

 

「一緒に食べてくれる人がいないと、こんなにも張り合いがないんだったっけ。ついこの間まで、これが普通だったのにな」

 

 食事を済ませ、水没した食器の数を増やした後も、マミは学業の、そして魔法少女としての復習もする気にならず、ベッドで横になっていた。

 

「元気付けてあげられるか分からないけど、電話してみようかな」

 

 脚でクロールでもするようにベッドを数度蹴り付けた後、仰向けに寝返る。その姿勢のまま枕元のスマートフォンに手を伸ばす。

 でも、迷惑かも……との心の中の逡巡に応えるかのように、スマートフォンは掌中からこぼれ、フローリングの床にパタンと音を立てて落ちた。

 

「あらら……」

 

 電話、かけない方がいいのかしら、と心の中で理由を探しながら、ベッドが乱れるのも構わずに尺取虫のように体を枕の方向へ滑らせて、片手を床に伸ばす。

 指に、冷たい金属が触れる感触。

 あったあったと呟きつつスマートフォンを引き上げると、顔の前に持ってくる。

 

「あら」

 

 落ちたショックか、スマートフォンの電源が入っていた。大きな画面に、部屋の本棚から天井にかけてが斜めに映っている。

 カメラモード。過去何度か偶然にカメラモードになったが、いまだマミは通常モードへの戻し方を明確には知らない。

 神様が電話をかけるなと言っているのかもしれない、とまた心の中で理由をつける。

 白魚と形容してもなんら問題ない細くしなやかな指先で、タッチパネルやスイッチを様々に操作する――が、画面はいつまでも天井が映ったままだ。

 スマートフォンと格闘しているうちに、バスルームからお湯が溜まった旨を伝える電子音が響いてきた。

 

「しょうがない、とりあえずお風呂っと」

 

 

 

 芯から十二分に温まった、とバスタオルで水滴を拭きながら巴マミは思った。

 それも道理で、普段から入浴時間の長いマミだが、今日はいつもの倍ほどの時間を湯船で過ごした。

 理由は――特にない、とマミは思っている。

 淡い桃色のバスタオルを身躰に巻くと、三面鏡のついたドレッサーの前に腰を下ろす。

 まだ夜の九時を迎えようかという時間なのに、眠気がするのは長湯でのぼせたせいだろうか。

 

「でも、髪だけはお手入れしておかないと、明日が大変だから」

 

 そう呟くと閉じようとする瞼を持ち上げ、椿油を数滴、髪にもみ込ませていく。

 中程から毛先まで、ゆっくり何往復かさせると、そのまま肘にも油を馴染ませる。

 

「うん、いい感じ」

 

 後はドライヤーで、と手に取ったところで、ベッドから静かな音楽が流れてきた。スマートフォンの着信を示すクラシックだ。

 マミはドライヤーをドレッサーに置くと、ベッドへ向かう――が、着信音は僅かに数フレーズで途絶えた。

 

「こんな時間にセールスメールかぁ……」

 

 スマートフォンの画面には、過剰な記号で飾ったタイトルのメール着信が示されていた。

 商品は秋摘みの茶葉なので、おそらく以前に利用したショップからのものだろうが、マミとしては落胆を禁じ得ない。

 

「あ、でも」

 

 このメールのおかげで、スマートフォンは通常メニューに戻っていた。カメラモードからの復帰は自力ではきっと無理だったろうから、これはこれでラッキーなのかもしれない。

 

 ――これはきっと電話をかけなさいという神様のお告げね。

 

 巴マミは矢継ぎ早にストップ&ゴーを告げてくる傍迷惑な神に感謝すると、ベッドに腰を下ろし『杏子ちゃん』と表示されている番号へダイヤルした。

 

 

 

「もしもし。こんばんわ、巴です」

 

 長めの呼び出し音の後に出た杏子の声は、やはり彼女にしては元気のないものだった。マミは、場違いにならない程度にと控えめに、明るい声で挨拶をした。

 

「マミさん、どうかしたの?」

「んー、しばらく会ってなかったから、声を聴きたいなって」

 

 杏子は、張りのない声ながらも同意すると、しばらく見滝原に行っていないことを詫びた。

 時間は大丈夫か確認すると、マミは魔法処女としての話題を避けて普通の少女のような会話を始める。

 

 髪が半乾きになるまで他愛もない雑談をしていると、少しずつ杏子の声が明るくなっていくのが感じられた。

 ただ、明後日に迫ったクリスマスイブのことは、どちらも触れないようにしているのが分かった。

 それでも電話をして良かった、とマミは表情を和らげると、おずおずと本題を切り出す。

 

「佐倉さん、悩みがあるなら、話してみて。話すだけでも、けっこう気は楽になるから……」

 

 言葉は帰ってこず、スマートフォンの向こうから息を飲むような雰囲気が伝わってくる。

 返事を待とうかとも考えたが、マミは言葉を連ねた。

 

「電話で言いにくければ、今から風見野まで行ってもいいし」

 

 本当は「行ってもいい」ではなく「行きたい」なのだが、遠慮……いや、マミの中の臆病な部分が、それは躊躇させた。

 電話越しに、笑うような吐息が聞こえる。それに続けて、杏子の声が届いた。

 

「ありがとう。……マミさんが本当のお姉さんだったら良かったのに」

「本当のお姉さんじゃないかもしれないけど、本当のお姉さんと思ってくれると嬉しいかな」

「ありがとう。でも、これはあたしの問題だから、あたしで解決しなきゃいけないと思う」

 

 問題。その言葉は「悩み」よりも深刻な印象をマミに与えた。

 さらに踏み込むべきかどうか逡巡する。が、やはりと言うべきか、マミは杏子を信じるという言い訳で保留することにした。

 

「そっか。わかった。でも辛くなったらいつでも話してね」

「うん」

「佐倉さんの悩みが晴れて、また一緒に戦えるのを楽しみにしてる」

「うん、あたしもだよ」

 

 今日は、お話しできただけで満足しよう。杏子は何かトラブルがあるだけで、それが解決すれば以前のように戻れることが分かっただけで十分。そう思い、少し温かい気分に浸っていると、くしゅん、と小さなくしゃみがこぼれた。

 

「大丈夫?」

「うん、ちょっとお風呂上りだったから、湯冷めしちゃったかも」

「気をつけないと、最近寒いから」

「大丈夫、もし風邪をひいても、治癒魔法であっという間よ」

「もう、マミさんいつも魔法は私利私欲に使っちゃだめっていってるじゃない」

「私が風邪だとパトロールもできないから、これは私利私欲じゃなくてみんなのためよ?」

「はいはい」

「冗談はこれくらいにして、そろそろ失礼して着替えるわね。ほんとに風邪ひいちゃう」

「うん。あ、電話ありがとう、落ち着いた気がする」

「そう、良かったわ。それじゃ、またね」

 

 通話終了、をタップすると、ベッドに腰かけたまま伸びをして、そのまま後ろに倒れ込む。

 このまま眠ろうかとも思ったが、ふと流しにたまった食器が気になって跳ね起きる。

 

 いつ佐倉さんが来てもいいように洗っておかないと、と電話一本で上向く単純な想いに駆られて。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 マミにはそう言ったものの、佐倉杏子には解決の糸口さえ掴めていなかった。

 毎日説得は続けているものの、父は聞く耳を持たず荒れる一方で、最近は母へ暴力を振るう事すらある。

 時間が解決してくれることを祈ったが、残念ながらその兆候は今までのところ見られない。

 いっそ魔法でどうにかできないのか、とも思うが、人の心を魔法で操作するなどそれこそ魔女の所業だと打ち消す。

 

 ――あれ、じゃぁ私の祈った奇跡ってやっぱり魔女の所業なの?

 ――ううん、違う。私が祈ったのは切っ掛けであって、信者の人の心を操作することまでは祈ってない……。

 

 うわの空で授業を受けながら、そんなことを考えていた杏子は、今日の最後の授業の終了を告げるチャイムが鳴っても気付くこともなく、頬杖をついたまま窓の外に浮かぶ黒雲をなんとなしに目で追っていた。

 話しかけてくるような友人はいない。

 それは杏子の性格や言動に起因するものではなく、『胡散臭い新興宗教』の子と思われ、友人付き合いをしてはいけないと同級生に親が指示していることによる。

 魔法少女になってから友人と疎遠になった巴マミと違い、佐倉杏子は幼い頃から友人がいなかった。

 それでも彼女はそれを苦とは思わなかった。

 皆の幸せを祈る立派な父とそれを辛抱強く支える母がいつも傍にいて、小さいながらも優しい妹がいてくれることが、十分すぎるほどの支えになっていたからだ。

 気がつくと、いつの間にか始まっていたショートホームルームも終わっていた。

 クラス委員の号令に合わせて反射的に席を立ち、教壇に立つ年配の担任教師に向かって頭を下げる。身体に染み付いた動作だけあって、心ここにあらずと言えども体は淀みなく動く。

 

「はい、さようなら」

 

 それが杏子の聞いた、担任教師の最後の言葉だった。

 

 

 

 心臓を鷲掴みにされる、という表現では控えめに過ぎる程の衝撃を、帰宅した杏子は受けた。

 頭が理解を拒み、ただ立ち尽くす。

 リビングで首を吊り、命を投げ捨てた母と妹の前で。

 涙どころか声も出ず、膝をつき変わり果てたふたりを見上げることしかできなかった。

 実際は数分だったのだろうが、杏子の主観では数時間にも思える静寂の後、背後から父の声がした。

 

「お前の呪いはすごいな杏子。母さんもモモも、私が死になさいと言えば一言の反論もせずああなったよ」

 

 酒臭い息が届く。

 首筋に寒いものを感じ、杏子は短い悲鳴をあげた。

 それで金縛りが解けたかのように振り向くと、酒によるものか、それとも既に正気を失っているのか、血走った目で母とモモを見つめる父の姿を認めた。

 

「杏子、お前もそこで首を吊りなさい」

 

 目線を杏子に落とすと、父は口角を上げてそう命じた。

 

 ――父さんは何を言っているの? 

 

 やはり、頭が理解を拒む。

 

「お前には効かないのか、ははッ、やはりお前は魔女だな!」

 

 得心したかのように頷くと、父は杏子の襟首を掴み、無理矢理に自分の方へ上半身を向けさせた。

 

「おい貴様、杏子の魂はどうした? もう喰ってしまったのか?」

 

 言葉を紡ぐことすらできず放心する杏子。父はその胸元を首を絞めるように掴み、力任せに自らの目の高さまで持ち上げた。

 そして瞳に浮かぶ血走った筋が一本一本確認できるほどに顔を近づけると、泣くように叫んだ。

 

「返してくれ! 優しくて思いやりのある、私の自慢の杏子を、返してくれ!」

 

 襟首が強く絞められ、息がつまる。

 

 ――私、父さんに殺されるの?

 

「魔女め、今、焼き殺してやる……逃げるなよ」

 

 乱暴に投げ捨てられる杏子。背が柱に強く当たるが、痛みを感じる余裕もなく、ただ新鮮な空気を求めて大きく口を開いた。

 父は棚に置かれている聖書を手に取ると、あろうことか破り始めた。

 一枚、二枚……途中から、面倒だとばかりに十数枚を一息に破っては捨てる。

 そして床に散った紙片に、ウイスキーを垂らす。

 

「あ……」

 

 その姿が、魔女に魅入られた信者と重なって見えた。

 杏子は力なく立ち上がると、よろける足取りで父へと向かった。

 

 ――父さん、魔女に魅入られてるんだ。私が助けなきゃ。

 

 高笑いを上げる父は、近寄る杏子に気付くと彼女の髪の毛を乱暴に掴んだ。そして引き寄せると、きつい臭いのするウイスキーを彼女の頭にこぼしていく。

 杏子はそれに構わず、片手を伸ばして父の詰襟のシャツを引っ張る。

 千切れたボタンが床に跳ねて乾いた音がした。

 

 ――どうして、ないの?

 

 露わになった父の首筋には、魔女の接吻はなかった。

 つまり、父は魔女に操られているわけではなく、父の意思で行動しているということになる。

 父の高笑いが、杏子には魔女の哄笑に重なって聞こえる。

 魔女の様な狂った笑い声をあげる父が、母と妹を殺めた。

 

 ――なんだ、魔女も人間も変わらないんじゃないか……。 

 

 

 

 

 

 燃え上がる父を背に、家を飛び出した杏子。

 どこをどう走ったのか彼女は覚えていないが、マミを送る時に決まって使っていた遊歩道にいた。

 酒精に濡れた髪。燃えた痕のあるセーラー服。そして生気のない瞳。

 尋常ではない様子の杏子に、道行く人は振り返り奇異の視線を送る。

 そんな視線にも構うことなく、杏子は遊歩道でぼんやりと、木々の隙間の狭い空から舞い降りる雪を眺めていた。

 

『杏子、いいところにいた。グリーフシードから魔女が孵ったんだ』

 

 声と同時、足元に姿を現したキュゥべえを、杏子は氷の様な瞳で見つめる。

 

「あんた、なんだって父さんにあんな力を」

『突然どうしたんだい? 君の祈りは≪みんなが父さんの言うことを聞くように≫だよね。ボクの知る限り、それはふたつの意味がある言葉だよね。お話を聞くことと、言うことに従うことと。その両方を叶えたんだけど、まずかったかい?』

 

 悪びれる風もなく答えると、言葉を連ねる。

 

『それより魔女だ。今なら孵化したてで与し易いはずだよ。キミの魔法少女の力を見せるんだ』

「……こんな力、もう要らない」

 

 杏子は、卵形のソウルジェムを取り出すと、割れよとばかりに強く、強く握り締めた。

 

「奇跡の力なんかに頼ったあたしがバカだったんだ。家族みんなを滅茶苦茶にしただけで、本当に大事だったもの何一つ守れない力なんて……ない方がマシだよ」

 

 指の腹が真っ赤になるまで力を込めても、ソウルジェムにはヒビさえ入らない。ガラスのように見えて、驚くほど頑丈に出来ている。

 

「父さんの言ったとおりだ。あたしのやっていたことは魔女と変わらないのかもね……。キュゥべえ。あたしが魔女を狩るのやめたら、あたしもみんなと一緒に死ねる?」

『ボクとしてはそれはお勧めできない。キミにはまだ出来ることがあるはずだよ』

「冗談に決まってんじゃん」

 

 杏子は髪から頬に垂れるウイスキーを拭くようにして、瞳から溢れるものも同時に拭いさった。自分の言葉が半ば以上本気のものであることを、自覚しながら。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 対峙した魔女は、先日マミとペアで倒した鶏頭に豚の体躯を持つ魔女だった。

 一撃は重いものの、単純な突進のみで一度避ければ次の攻撃まで相応の間が空く。ロッソ・ファンタズマとの相性で言えば最高に近い。

 自壊にすら至る腐食性の体液は脅威だが、これも斬り結んだ際に跳ねてくる分を避ければ、自滅に追い込む武器にもなる。

 

 マミとの反省会で、十分に攻略法は考えた。

 だが――

 何度目かの突進攻撃を受け、杏子は困惑していた。

 ロッソ・ファンタズマが使えない。いや、扱い方を思い出せない。

 それのみならず、手足が鉛にでもなったかのように重く、いつも通りの動きさえできない。

 

「くそッ!」

 

 イメージの中では、完全に回避する自分が描ける。その動きは自分にとってさほど難しいものではない。なのに、回避できない。

 巨躯に跳ね飛ばされ、肩口から地面に強くぶつかる。

 さらに突進を受け、空気の抜けたゴム鞠のように鈍くバウンドする。

 

 

 幾度の攻撃を受けただろうか。

 既に左肩と右脚の骨は砕け、片目は血にまみれ開けることも出来ない。

 仰向けに倒れる杏子を見下ろし、鶏頭の魔女がゆっくりと歩を進める。

 勝利を確信したのか、醜い顔に喜色を浮かべ、哄笑に鶏冠を揺らす。

 もういいや。そんな諦観に似た思いが杏子の心に浮かぶ。

 

 ――もう父さんも、母さんも、モモもいないんだ。全部失くした。ここで死んだ方がマシなんじゃないかな。

 

 そう観念すると、気が楽になるのを感じた。

 穏やかな笑みさえ口元に見せて、彼女は魔女の攻撃を待つ。

 

『また一緒に戦えるのを楽しみにしてる』

 

 魔女の足が杏子を踏み潰さんと振り下ろされる。その時、マミの言葉を思い出した。

 

「――――ッ!」

 

 まだ、あたしは独りじゃない、そう思うと四肢に力が蘇った。

 身体の動く部分の全てを使って横に転がる。同時に、轟音をたてて杏子の今まで居た場所に魔女の蹄がめり込んだ。

 横たわる杏子の頭上に、魔女の腹部が無防備にさらされる。

 拳みっつ分ほどもめり込んだ足。それを抜く暇を与えず、杏子は下から魔女の腹を薙いだ。

 肉が裂け、汚らしい体液が溢れる。

 この程度の傷では、魔女の自滅は望めない。仮に自滅に至るとしても相当の時間を要する。それまでに魔女はろくに動けない杏子を踏み潰すだろう。

 これが最後の勝機と判断した杏子は、体液を浴びることも厭わず、魔女の腹肉へ大身槍を深く突き刺した。

 大身槍の穂先全てが肉に捻り込まれる。

 細くなった柄の部分までめり込むことで、大身の穂が栓になって堰き止めていた体液がシャワーのように吹き出した。

 杏子は突き刺した槍を手放すと、新たな大身槍を生み出し風車よろしく回転させ、体液を散らす――無論、滝のように降り注ぐ汚濁を全て散らすことは叶わない。

 だが風車で体液を散らしたことは奏功した。

 飛散した黄白色の体液が魔女の目に突き刺さり、激昂した魔女が暴れることでさらに体液が溢れ出し、結果自壊を速める。

 魔法で大身槍を回転させたまま空中に固定すると、飛沫を避けるべく片足で地を蹴り後方に飛びすさった。槍三本分ほどの距離を滑るように飛び、そこでもはや次の大身槍を生み出すことすらできず地に伏す。

 

 ――もう、動けない。

 

 腐食性の体液に身を焼かれる痛み。それに苛まれながら仰向けに倒れる杏子の目に、半ば自壊しながら突進してくる魔女が映った。

 避ける力は、彼女には残っていなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『これは厄介なことになったね、杏子。魔法が使えなくなってしまったんだろう?』

 

 ボロ雑巾のように横たわる杏子に、キュゥべえが語りかける。

 既に結界は解け、杏子の衣裳はセーラー服に戻っていた。

 魔法少女の衣裳についた体液は変身解除で消えたが、皮膚に達していた体液が厚手のセーラー服を内側から溶かし、虫食いのように穴を穿っている。

 

『使えない……? どうして?』

 

 口を動かすことさえ辛く、テレパシーで隣に座り見下ろしてくる白い異形に応える。

 

『だって、キミが要らないと言ったじゃないか』

 

 明るい声で淡々と告げる。

 キュゥべえは自称、感情がない。そのため、どのような深刻な場面であろうと、場違いな明るい声を崩さない。

 

『キミたち魔法少女の魔法は、願いと強く結びついている。キミの場合は幻惑魔法だね。しかし、キミは自らの願いを心の中で否定してしまった。それはすなわち、魔法の否定にもつながる。これは非常に大きなハンディキャップとなってしまうよ、杏子』

 

 魔女の体液は時間で効果がなくなるのか、焼かれた肌に雪が舞い降りても、すぐには溶けなくなっていた。

 痛さと寒さで身が引き裂かれるような痛みを杏子は感じる。だが――身体の辛さは我慢できた。

 

『……ははっ、そっか。もうあたしには、最初の願いすら残ってないのか。父さんと家族……みんなを守りたくて魔法少女になったはずなのに、なんでこうなっちまうんだよ……』

 

 ゆっくり閉じられる瞼に、雪が一片舞い降り、そして溶けた。


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