マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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第二九話 マミさん、家庭訪問を受ける

 土曜日の午後、夜宵かおりは風見野南部を訪れていた。

 三人で守っていたテリトリーはひとりとなった今では手に余る広さ。そのためテリトリーの一部を、風見野南部にいるという魔法少女に譲渡するための交渉が目的だ。

 ユニオンジャックが全体に描かれたニット・セータに黒のジーンズ、黒のスニーカーといったカジュアルない装いは、日によく焼けた彼女の肌に似合い活動的な印象を見る者に与える。

 そういった印象を肯定する軽快な動きで駅ビルを出た少女は、怪訝な表情を見せた。

 

「……結界、ですわよね」

 

 ソウルジェムを使ってサーチするまでもなく、結界の反応を感じた。

 そして、トレースを行うべくソウルジェムを取り出して反応を確かめた彼女は、さらに怪訝な表情となった。

 一定の方向を示し、彼女を結界へ導くべき反応が、あちらへこちらへと振れて定まらなかったからだ。その挙動は乱れた磁場の中に方位磁石を置いたようなものだった。

 

「複数の結界……?」

 

 そう判断した彼女は、ソウルジェムの反応の振れを観察し、三か四の結界が感知範囲内にあるのだろうと推論した。

 その仮説を確かめるために、駅ビルに戻って階段や通路を上下左右に移動。ソウルジェムが示す反応の変化を観察する。

 数分の確認で、結界の反応は三と結論できた。

 その中で、最も反応が強い、すなわち最も近いと思われる結界を選んで彼女は向かった。この街を訪れた理由はパトロールではなかったが、目の前に結界があるのに放置するという行動は彼女の選択肢にはなかった。

 

 

 

 

 駅ビルから徒歩で二分程度のペンシルビルに、夜宵かおりは着いた。

 ソウルジェムはこのビルの上層階に結界があることを示している。

 ビル入り口の案内板を見ると、一階と二階は店舗、三階より上は事務所となっていたが、階段を上っていくと三階より上は空きテナントとなっているようだった。

 七階に結界はあった。反応からすると、使い魔の結界と思われる。

 

「それでは、参りますわよ」

 

 萌黄色のゆったりとしたエプロンドレス姿に変身すると、彼女は蒼銀の蛍火を手の周りに浮かび上がらせ、それをぶつけて結界をこじ開ける。

 結界に入る。

 躊躇いが全くないと言えば嘘になるが、マミのカウンセリングで彼女の心的外傷はほぼ癒されていた。

 本来にして夜宵かおりは強い。

 もちろん、巴マミや佐倉杏子と比較すれば心技体の全てにおいて劣るが、それはマミと杏子が極度に優れているだけで、夜宵かおりの劣等を意味するものではない。魔法少女全体で比較すれば、上位二割の≪優秀な魔法少女≫にカテゴライズされるだろう。

 そのような彼女なので、使い魔との戦いにピンチなどあるはずもなく、容易に討伐を終えた。

 

 

 

 

 結界が歪み、現実世界へと排出される。

 ふぅ、と吐いた息は安堵のものだろうか。その吐息がおさまらぬうちに、かおりの背後から声が飛んだ。幼く、間延びした声だった。

 

「ナニやってくれてんの~?」

 

 魔力を感知したかおりは、背後の人物を魔法少女と判断し、言葉を返した。

 

「あぁ、このテリトリーの魔法少女の方ですね。わたくしは夜宵かおり、風見野北部の魔法少女です。テリトリーのことでお願いしたいことがあって伺ったのですが、使い魔の結界がありましたもので退治していたのです。あなたのテリトリーで勝手をしたことはお詫びしますわ」

 

 そこまで喋ってから振り返り、視界に入ったものを見て狼狽した声を漏らす。

 

「あ、あなた、それは……?」

 

 そこにいたのは、ひどく小さく、細い少女だった。

 純白の巫女装束に、白無垢の羽衣のようなものを両肩から上に伸ばしている。さらには肌まで病的に白く、瞳と髪の漆黒だけが、彼女の持つ色彩だった。

 しかし、かおりが問うたのはそのような外見のことではなかった。

 白無垢の少女――毬屋しおん――が両手で抱きかかえている大学生と見受けられる女性、まぶたを閉じて寝息をたてているその女性のことを問うていた。

 

「それ呼ばわりはないだろ~。まだ息あんだからヒトだよ、こいつ~」

 

 催眠魔法で眠らされているのだろう、力なくうな垂れている頭を少女が何度か揺らしても、女性は起きる素振りを見せなかった。

 

「ここの使い魔にエサやろ~と思って来たのにさ。勝手に狩るなよ~」

「えさ……?」

「そそ。いつ現れるか分かんない魔女を待つんじゃなくて、自分で育成しようってハナシだよ~」

 

 俄かには思考がつながらなかった。

 それは理解が難しいからということではなく、彼女の良識が理解することを拒んだからだ。だが、単純な話だけに、理解を拒んでも拒みきれるものではなかった。

 思考がつながると、怒りの感情が膨れ上がり、彼女の体温が数度上昇する。

 

「その方にも、ご家族もいれば友人もいるのです。その方を失うことでどれだけ悲しむ人がいるか! あなたは、人の心の痛みが分からないのですか!」

 

 激発したままの勢いでかおりは言葉を投げつける。が、白い少女はかおりの怒気を理解できていないかのように、気の抜けた声で返した。

 

「うん、分かんない。そういうビョーキなんだ~」

 

 そして、女子大生を左手一本で抱えなおすと、右手を伸ばし、その先に武器――白色の両刃の戦斧――を現出させる。

 

「つかナニ? あんた説教強盗~?」

「話し合いに参ったのですが、人間の言葉が理解できる生き物ではないようですわね」

 

 意図してではなく、激情のために挑発めいた言葉を吐いたかおりは、右手に備わったクロスボウを散弾式に変形させ、臨戦態勢を整える。

 

「うっざ~。何様よアンタ? ひとの縄張りで勝手に暴れて、上から目線で勝手なこと言ってくれちゃってさ~」

「とりあえず、その方を解放なさい」

「やだよ~」

「分かりましたわ。実力で排除します」

「気が合うね~。わたしも今、こいつ殺そうと思ったところだよ~」

 

 ペンシルビルのほど狭いフロアで、ふたりは戦意を剥き出しにして向かい合った。

 武器的には、振り回す必要のある戦斧は狭所での戦闘には向かない。片やクロスボウは、距離を取りにくいという観点では不向きではあるものの、射撃を行うという点では不都合はなく、戦斧に比べれば有利と言っていいだろう。

 しかし、白の魔法少女は自らの前に女子大生を押し出し、小さな身体を完全に覆う盾とした。女子大生ごと射抜くようなことが出来るはずもなく、かおりは奥歯をぎり、と噛む。

 

「ほらほら、こいつごと撃てる~?」

「……下劣なことを!」

「あっはは~! あんた、正義の味方って奴~?」

 

 少女が一歩詰めると、かおりが一歩退く。

 それを数度繰り返すと、かおりの後ろに下がるスペースはなくなった。ワイヤーの入ったガラス窓に背中をあずけた夜宵かおりは、彼女が襲い掛かる瞬間、すなわち盾となっている女性の陰から出てくる瞬間に一撃を加えるべく、機を待った。

 

「……魔法少女の力を得て、志を持たずに振る舞うなら、それは魔女となんら変わりませんわ」

「ご立派~」

 

 白い歯を覗かせて嗤うと、しおんは手にしていた女性を前へ突き飛ばした。そして、その陰に入ったまま距離を詰める。

 突きつけられた女性を受け止めるような形になった夜宵かおり。

 そのかおりを女性の身体もろともに断つべく、戦斧が唸りをあげた。

 衝撃を感じる感覚がしおんにあれば、充分な手応えがあっただろう。しかし彼女は先天的にその感覚を失っており、手応えというものは感じようがなかった。

 それでも、視覚情報から充分な打撃を与えたであろうことは推察できた。

 女性を庇うように身体を入れ替え、自らの無防備な背を差し出すようにしたかおりを、深々と戦斧が斬り裂いたのだから。

 

「バッカじゃないの~」

 

 肉と骨に突き刺さった刃を抉り込むように左右に振りながら、揶揄する声を投げかける。

 

「馬鹿で結構。小狡く生きるよりは幾らかはマシでしょう」

 

 女性を抱いたまま、転がるようにして刃を逃れる。

 女性を脇に寝かせると、かおりは治癒の魔法を使い、自らの背中の傷を急速に回復させていく。その回復スピードにしおんは目を丸くした。

 

「お~、すごい治癒能力だね~」

 

 かおりは言葉を返さず、クロスボウを前に突き出す。そして、スプレッドニードルを放とうとした刹那。

 

「じゃぁ、一気に殺さないとね~」

 

 しおんが両の瞳を閉じるさまを、かおりは見た。

 次の瞬間、自らの腹部に深い裂傷が創られていることを自覚する。痛覚を遮断していてもなお伝わってくる焼けるような痛みに、彼女は片膝をついた。

 

「なにを……?」

 

 片膝をついたまま、傷を確認する。

 わき腹から深く入った傷は、肝臓と膵臓を抉り毀している。痛覚を遮断していなければ気を失っていただろうし、ソウルジェムが本体であるという自覚がなければ、死を受け入れていただろう。

 口腔に溢れる血を無理に飲み下すと、嫌な味と音がした。

 だが、これほどの傷であっても、治癒を固有魔法とする彼女は数秒で動ける程度にはリカバーさせる。

 

「うぜぇ、倒せないイベントキャラかっての~」

 

 しおんという少女は吐く言葉に似あわず慎重派だった。

 彼女の固有魔法――両目を閉じることで、プランク時間(物理学における最小の時間単位と目されているもの)の間に彼女のみが三秒間の行動を可能とするというもの――は一度使うと一分間は再使用ができず、その間は彼女は攻守の切り札を失った状態となる。

 彼女はその時間帯を可能な限り無為に費やそうとする。つまり益体もない言葉を連ねて距離を取り、無理に追撃を行うことはしなかった。

 

 その時間帯に、かおりが動いた。

 牽制の意味合いが強いスプレッドニードルを連射して毬屋しおんを怯ませる。そして、横で眠る女性を抱きかかえると、ガラス窓を破って外へと身を投げた。

 七階という高所だが、魔法少女にとってはさしたるものではない。落下の途中に幾つか魔法で足場を作り、それを横に蹴って速度を殺しながらビルの裏路地に着地する。

 

「あ、待ちなよ~」

 

 暢気ともいえる声をあげて、しおんも窓から身を躍らせる。

 無論かおりに待つつもりはなく、女性を抱きかかえたまま通りへと駆けた。

 人通りのある表通りに出ると、かおりは地面に女性を寝かせ、その場を離れる。かおりとの接触がなくなったことで、女性は余人から認識されるようになった。

 突如としてアスファルトの路面に倒れた女性が表れたことで、通りを歩く人々が騒ぎ出す様を横目で見ると、かおりは満足げに頷く。

 

「これで、おいそれとは手は出せませんでしょう」

 

 女性の身の安全は確保できた、と判断した夜宵かおりは、追ってくる毬屋しおんと戦うべく場所を探す。

 とん、と高く跳躍し周囲に視線を巡らせる。そして、右前方に台地の端に位置するグラウンドを確認すると、そちらに向かった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ふぅん、ここで死にたいの~?」

 

 グラウンドのバッターボックス付近に降り立ったしおん。彼女は、自身の身体をすっぽり隠せるほどの威容を誇る両刃の戦斧を肩に担いで嗤った。

 サードベース近傍に立つかおりは、物騒なしおんの言葉には反応せず、静かに問うた。

 

「ひとつ、確認させてくださいな」

「なに~?」

「関係ない人を犠牲にするようなことはやめて、魔女や使い魔を倒して人を護るつもりはありませんか。もしそうするのでしたら……」

「ババアはしつっこいな~」

「……わかりましたわ。命までは取りませんが、少し痛い目を見てもらいますわよ」

 

 かおりが明確な戦闘の意思を示したことで、ふたりの魔法少女の戦いが始まった。

 

 

 

 

 毬屋しおんの戦いを一言で形容するなら、奇形だろうか。

 人は幼い頃から暮らしの中で、身体の効率的な、そして安全な動かし方を学び覚える。

 それは魔法少女となっても依然として残り、筋力ではなく魔力に依存するはずの身体運動も、学び覚えた動作の延長線上の動きとなる。

 しかし、しおんは幼い頃より、無痛無汗症のため身体を激しく動かすことはできず、運動についてなにも学ばなかった。

 それ故に、魔法少女となった今は、人間の常識に縛られない奇抜な動作を可能とする。効率性も安全性も無視した、目的のみを追求した動作だ。

 関節がどのような方向に捻じれようが気にしない。体幹がどのように揺らごうが気にしない。

 そのようないびつな動きを魔力で実現させる彼女は、ソウルジェムに対して外付けのハードウェアでしかない身体を、通常の魔法少女よりも使いこなしていると言えるのかもしれない。

 

 

 身体全体を一本の鞭のようにしならせて、戦斧で斬りつけてくる。

 しかもその行為は軸足の存在さえ否定し、地を這うようにして距離を詰め、かおりの足元を刈ってきた。

 単純に動きの速度、精度でいえば夜宵かおりが勝っているのだが、一般的な運動行為に沿わない毬屋しおんの動きは予測が難しい。

 かおりは一方的に攻撃を受け、身体のあちこちに傷を創っていた。

 予測不能の動きに加えて、生来痛みを知らない彼女は、被弾しても怯むことすらない。

 スプレッドニードルを撒くように放ち、腕や肩に直撃を与えているものの、しおんの攻撃はいささかも鈍ることはなかった。

 気圧されるようにして、かおりはグラウンドの端に追い込まれる。

 背後の切り立った崖から吹き上がる風が、彼女の黄金の髪を弄ぶように揺らした。

 

「こうなっては……!」

 

 氷漬けにして動きを封じてから畳み掛けるために、フローズン・シューターへの変形を開始させる。

 かおりの右手周囲が氷点下となり、クロスボウの前後左右に氷の追加パーツが迫り出していく。それにつれて、かおり自身の腕にも薄い氷の膜が張り、皮膚を堅く締め付ける。

 だが、フローズン・シューターが完成する前にしおんが動いた。

 

「これ以上キズもらったら治すの面倒なんだよね~」

 

 命の取り合いをしている自覚など欠片も感じさせない声でしおんが言い放つ。

 実際に彼女が気にしているのは、受けた傷を治癒することに要する時間だけだ。あまりに傷を受けては治癒の不得手な彼女は日没までかかっても全快に至らず、病室への帰りが遅くなってしまう。

 

「ちょっとでもキズあると、まゆみがうるさいからさ~」

 

 そう言って、瞳を閉じた。

 次の瞬間、かおりの右肘から先が、戦斧に断たれグラウンドに転がった。

 

「くっそ、なかなかうまく当たらないな~」

 

 頭なり心臓なりに当たれば、とのしおんの斬撃だったが、目を瞑って行うために狙いが正確ではなかった。

 それでもメインウェポンを操る右腕を斬り落とせたのだから、上首尾と言っていいだろう。

 

 いや、上首尾どころではなかった。

 大地に赤い染みを作って転がる右腕を見た夜宵かおりは、魔女に貪り食われた仲間の遺骸の面影をそこに見た。

 そして、恐慌した。

 息が止まり、足がすくんだ。

 

『いざという時、足がすくんでいたら今度は夜宵さんが命を落としかねない』

 

 マミの警句が脳裏に甦るが、金縛りを解くには至らない。

 切断された右肘から血が流れ落ちる。しかし、その痛みすらも感じることを忘れて、かおりは棒立ちした。

 かおりが我を取り戻す前に、勝敗は決した。

 ハンマー投げの選手が行うような両腕を伸ばし切った状態での横薙ぎが、かおりの首を抉る。

 両断するには浅い斬撃、首の断面積の六割ほどを抉ったに過ぎない。

 しかし、命を奪うには充分に深い斬撃。首の半ば以上を抉った一撃は、総頸動脈、内頸静脈、外頸静脈の全てを切断した。

 血しぶきが迸り、返り血でしおんの白無垢の巫女衣裳が朱に染められていく中、かおりは断末魔をあげることすら出来ずに崩れ落ちた。

 

「はい、おしまい~。お疲れ様でした~」

 

 膝をつき、上半身を前のめりに倒したかおりの身体を、しおんが無造作に蹴り飛ばす。

 ごろりと身体が仰向けに転がり、首から広がった血だまりが程なく腰の辺りまで達した。

 そこまで眺めると、しおんは一言「南無~」と呟いて踵を返す。

 もはや横たわる魔法少女を一顧だにすることなく、白無垢の少女は戦場を後にした。

 

 

 

 

 凍りついたかおりの精神がようやく自我を取り戻した時には、総血液の過半は流出し、赤黒い池を成していた。

 萌黄色のエプロンドレスは血を吸ってどす黒く変色し、健康的と謳われた褐色の肌は瑞々しさを失い枯れ枝のようになり果てている。

 彼女が一命を取り留めたのは、ソウルジェムの秘密を知っていたこともあるのだろうが、それ以上に意識の連続性を失っていたことが大きい。

 死んだ、と認識する余裕さえなく閉ざされていた精神は、今ようやく現状を認識するに至った。

 

 ――これで死なないというのは、ちょっとしたゾンビですわね……。

 

 自嘲を込めて呟こうとしたが、喉が切断されているため、息がひゅぅひゅぅと不愉快な音をたてたに過ぎなかった。

 自らの身体――客観的に見れば亡き骸と言っていいだろう――を他人事のように眺めていたかおりは、遅まきながら当事者意識を取り戻し、ゆるゆると治癒を開始した。

 

 首がつながり、腕がつながり、魔力でもって身体を不自由なく動かせるようになるまでに、数分と要さなかった。

 失われた血液を治癒魔法で回復させると、肌に血色が戻り、唇が赤みを帯びてくる。

 魔法少女の思考は脳ではなくソウルジェムで行われている。その理屈からすると、脳への血液供給の有無は思考力には影響がないはずだが、脳に酸素が行き渡ると思考も晴れてくる気がした。

 

 クリアになった思考がもたらすものは、しかし、良いものではなかった。

 彼女の身体をフリーズに追いやった仲間の悲惨な死のことや、たった今自らが喫した死亡寸前の敗北が、再び彼女の身体を縛ろうとする。

 夜宵かおりの身体が完全に縛られる前に、背後から物音がした。

 その音は、グラウンドを使用するために訪れた球児のものであった。

 球児にはかおりの姿はもちろん、彼女が流した血すら認識することはできない。いつもの通りに、日々の練習を行うためにグラウンドを訪れたに過ぎず、一切の違和感もおぼえていない。

 だが、背後で発生した物音に、先程の白い魔法少女――毬屋しおん――の影を感じたかおりは、滑稽なほどに狼狽した。

 振り向いて確認することもせず、座り込んでいた姿勢のまま四つん這いで逃げ出す。

 グラウンドを出る頃にようやく二本の足で立ち、さらに数十秒してから、魔法少女本来の跳躍を伴う機動を取り戻した。

 その頃には、彼女ははっきりと認識していた。自らが毬屋しおんに恐怖していることに。

 それは気位の高い彼女には屈辱的なことで、血色を取り戻した唇が色を失う程に噛み締める。

 しかしその痛みも、恐怖を忘れさせてはくれなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 約三〇分の後、夜宵かおりはマミの部屋にいた。

 キュゥべえの案内によって訪ねた彼女をマミは快く招き入れると、ケーキと紅茶でもてなした。最初は「マミさんを訪ねてきたんだろ?」とリビングに出ることを渋っていた杏子も、紅茶の匂いがしてくるとおずおずと部屋から出てきた。

 

「まずはおふたりにお礼を申し上げますわ。魔法少女の魂がソウルジェムを在処とする――このことを教えて頂いていなければ、今日わたくしは生命を落としていたはずですから」 

「それは……なにがあったの?」

 

 不穏な空気をはらんだかおりの言葉にマミが問いを投げかける。

 つまりは、言葉以外にはそういった要素を覗かせない程、かおりの治癒は完璧であった。しかし、当然のことではあるが治癒の効果は身体にのみしか及ばず、彼女の精神までは癒していない。

 かおりはクッションに預けていた尻を浮かせて一歩下がると、深く頭を下げた。

 

「おふたりのお力を、貸して頂けませんか」

 

 土下座に等しい拝礼を押しとどめると、マミと杏子は続きを促した。

 

 

 

 

 かおりが話している間、幾度か表情を曇らせ、眉をひそめたものの、言葉を挟むことなくマミと杏子は待った。その反応から賛意を得られると思っていたかおりだったが、話を終えた後にマミが示した反応は煮え切らないものだった。

 

「たくさんいるっていう使い魔を倒すことはやぶさかじゃないけど、魔法少女を排除するというのはどうかしら……。夜宵さん、その子を排除したとして、その後どうするの?」

 

 口ごもるかおりに優しい視線を向けると、マミは続けた。あくまで柔らかい物言いで、そこに説得や言いくるめようという色はなかった。

 

「誤解しないでね。その子のしていることを肯定しているつもりはないの。ただ、その子を排除したとして、その後に誰もそこを守る人がいなくなって、逆に被害が増えたら元も子もないわ」

「だけどさマミさん、使い魔を倒さないって程度ならともかく、使い魔に犠牲者を食わせるっていうのは見過ごせないよ」

 

 杏子が示した区分は情緒的なものであり、実際には前者も後者も消極的か積極的かの違いだけで『犠牲を肯定している』という点では同じではある。しかしマミは敢えてそこには言及せずに頷いてみせた。

 

「確かに、わたくしの一方的な話だけで排除というのは性急すぎたかもしれません。おふたりにも一度どのような魔法少女か見て頂いて、判断して頂ければと思いますわ」

「夜宵さんの判断は正しいとは思っているのよ。ただ、もしその子の考えを改められる機会があれば、それに越したことはないと思うの」

 

 無理だ、とかおりは思う。しかし、マミと杏子ならばもしかしたら、とも思えた。結果として、明瞭な言葉は返さず沈思するような表情を見せた。

 

「とりあえずは、使い魔を一掃しに行きましょう。杏子ちゃん、里帰りね」

「里帰りも何も、けっこう教会の掃除に行ってるじゃん」

「あら、じゃぁ杏子ちゃんはお留守番してる?」

「そうは言ってないよ」

 

 面白くないな、と杏子は思った。だが、その理由を捉えることは出来ず、なんとも居心地の悪い気分だった。

 そしてマミは、常に果断を示す杏子がそういった態度を取ることについて、やはり理由に思い至らず、小鳥のように首を傾げるのだった。


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