マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
毬屋しおんという少女がいた。
しおんは不治の病に侵されており、ものごころついた時から風見野最大の都市にある総合病院の個室で生活していた。
病魔に蝕まれた彼女の身体は、一二という年齢を差し引いても小さく、細い。そして肌は太陽に焼かれたことなどないかのように白く、汗など流したことがないようにきめ細やかだ。
いや、比喩ではなく、彼女は汗を流したことがなかった。
先天性の無痛無汗症、それが彼女に与えられた運命の名前であった。痛みが感じられないことによる日常生活での危険、発汗機能・血管収縮機能の欠如による体温調節の不能、そういった要因により、成人するまでは生きられないだろうと言われていた。
しかし、現在の彼女はそういったハンディキャップを補って余りある能力を有していた。
魔法だ。
白い絨毯に覆われた部屋を、くるぶしまで届く黒髪で床を掃くようにして歩く。
仲の良い看護師がいれば「髪が傷んじゃいますよ」と無理にでも髪をまとめさせるところだが、勤務シフトからすると彼女が病室に訪れるのは数十分ほど先だ。彼女がいないと、しおんは頭髪に限らず全てに無頓着だった。
いまも袖のボタンはひとつも止められておらず、前開きの寝間着のボタンも半端にしか止められていない。
もっとも、それで問題はなかった。あられもない姿であってもそれを見る者はいないし、また、見られる値打ちのあるような起伏のある肢体でもない。それに病室は常に適温に管理されており、体温維持としての寝間着の必要性もない。
病室とは思えない、物に溢れた部屋だ。
ベッドの隣には、彼女の体躯に合わせて設えたような小柄な黒檀製のL字机が並び、その横には高級な食器が並べられたサイドボードが続く。部屋が充分に広いため、壁際に寄せず、部屋の中ほどに島のように配されている。
机に座って背中側には、アンティーク調の加工が施されたワードローブがあり、その横に背の高いキュリオケースが複数並ぶ。しおんの背丈では六段式のキュリオケースの下側三段しか手が届かず、上側の三段は手つかずのままだ。
ウォルナットの美しい木目を誇るキュリオケースの中には、ビーカーやフラスコが並んでいた。それらのガラス容器には、薄緑の色をした液体が満たされている。
そこに、しおんは手を伸ばして錠剤をひとつ、ひとつと落としていく。
些事に頓着しない性格のためか、錠剤の着水にあわせて生じる水飛沫が袖と肌を濡らしても、少女は意に介する風もない。
液体は無臭。また濡れた肌を焼くことも侵すこともないことから、酸やアルカリではない無害なものと思われた。
しおんは目を細めて、ガラス容器の中に浮かぶ『有害なもの』を見る。容器ごとにひとつ、グリーフシードと呼ばれる魔女の遺物が収められ、薄緑の液体の中で浮き上がるでも沈むでもなく、直立した状態でたゆたっていた。
キュリオケースに飾られたグリーフシードの中心部は例外なく漆黒であり、穢れを限界まで吸い取った状態であることを示している。
ガラス容器は、一段ごとに四個並べられ、それがキュリオケースふたつに満杯(といっても、下側三段だけだが)とみっつめのキュリオケース最下段にみっつで、あわせて二七。それが彼女が半年ほど前に魔法少女となってから、狩ってきた魔女の数をあらわしている。
カタツムリを思わせる緩慢な動作で、しおんはガラス容器に満たされた液体の温度を測り、水素イオン濃度を量る。
彼女の身体は体温を調節するという当たり前の機能を持っておらず、筋肉に負荷をかけるような行動を続ければ容赦なくオーバーヒートとなる。魔法少女となった今となってはそのような制約はないのだが、身に染みついた所作は簡単には拭えない。
小一時間ほどが経過し、ようやく全てのガラス容器のチェックが終わろうとする頃、しおんの脳に声が届いた。
『しおん、それは何をしているんだい?』
声の主は、いつの間にかベッドの上で寝そべっていた猫に似た生き物、キュゥべえ。彼女と契約を結び、魔法を与えた存在だ。
「お、久しぶり~。これはね、昔っからの人類の夢だよ~」
『人類の夢?』
「マクスウェルの悪魔って奴だよ~」
『ふぅん』
キュゥべえに視線を向けることもなく言葉を交わすと、しおんは新しいフラスコをふたつ、キュリオケースに並べていく。キュゥべえもさして興味は引かれなかったのか、それ以上の言葉は求めず、ベッドの上で眠るかのように丸くなった。
途切れた会話を引き継ぐように、病室のドアがノックされた。とん、ととん、という特徴的なノックだ。
「は~い」
ノックの仕方から訪問者を察したしおんの声が少し弾んだ。のんびりとガラス容器をいじくっているうちに、仲の良い看護師の勤務時間になったようだった。
病室に入った看護師は、挨拶もそこそこにしおんの傍へ歩み寄り、嘆息まじりに彼女の寝間着を整え、髪を束ね始めた。
しおんは手伝うでも抗うでもなく、彼女のするがままに任せる。
「毛先、痛んじゃいますよ。あとで少し切り揃えますか?」
「やだ~」
「じゃぁ、私がいなくてもきちんと髪をまとめること。いいですね?」
看護師は彼女の思うところの厳しい表情でしおんに迫った。しかし、彼女の垂れたアーモンド型の瞳と、目尻を飾るほくろは決定的に迫力に欠け、しおんに柳に風と受け流される。
「できない約束はしない主義なの~」
「……簡単にできる約束しかしないようだと、立派な大人になれませんよ?」
しおんの超のつくロングヘアをハーフアップにまとめると、看護師はねじった毛束から幾ばくかの髪を摘まみ出し、適度にルーズに崩していった。そして、完成とばかりに頭頂を撫でると、思い出したように語りかける。
「しおんちゃん、私が来る前、何か言ってました? 話し声が聞こえた気がしましたけど」
「なんでもないよ~。ひとりごと~」
「そうですか? 何か話したいことがあるんでしたら、私が話し相手になりますよ」
「いや~。まゆみにはちょっと難しい話題かな~」
「もう、年上に失礼ですよ」
まゆみ、と呼ばれた看護師はしおんの口撃には慣れているのか、気分を害した風もなく嗜めるような優しい口調で応える。
「まゆみは栄養がおっぱいに行って、頭には行ってないでしょ~?」
「まぁ、確かに勉強は苦手でしたけれど……」
さらにしおんは彼女の身体的特徴、いわゆる巨乳を揶揄するように言うが、彼女としてはその特徴を不便だとは思ってもコンプレックスと感じたことはなく、悪口の効果はなかった。
「んじゃ、マクスウェルの悪魔って分かる~?」
しおんが口にした言葉は、思考実験の一つだ。
ラプラスの悪魔の論を補強する材料としての、熱力学の不可逆性を否定するための思考実験だが、しおんはこの場合、永久機関の実現という意味で用いている。
「また、ゲームの話ですか?」
「やっぱりダメか~」
「あら、違ったの……?」
◇ ◇ ◇ ◇
梢ジュンと千尋早苗の死を目の当たりにした翌日、かおりはパトロールをする気になれず、部活後まっすぐに帰宅した。
さらに翌日、やはり魔法少女へと変身する気にはなれず、部活を終えて小一時間もしないうちに、彼女は自宅のリビングにいた。
彼女が午後六時より前に帰宅することは珍しく、そのことに引っかかりをおぼえた母親が彼女に尋ねた。
「ここのところ、帰りが早いのね」
「うん、クラブの後に勉強会をしていたんだけどね、その友達の都合が悪くって」
母と父だけにする言葉遣いで、すらすらと嘘で応える。だが、口から出まかせでついた嘘が真実に微妙にリンクしている気がして、かおりは表情を曇らせた。
その変化を見逃すほど鈍い母親ではなかったが、彼女は娘を信じていたので、とりたてて追及することはしなかった。
「なので、部屋で勉強してくるね」
「夕飯のリクエストがあれば聞きますよ」
ソファを立ち、二階の自室に向かおうとするかおりに、母親はのんびりした口調で声をかける。
「お肉以外でお願いしていい?」
娘の返答は彼女の嗜好からすれば意外なものだったが、やはり母親は追求することはせず、「はい」とだけ柔らかく応えた。
夜宵かおりは、極めて優秀な生徒だ。
知識欲もあり、また好成績を収めることをゲーム的に楽しむ闘争心もある。何より大きいのは、幼い頃よりの両親の誉める教育で身についた、全能感と自尊心だろう。全能感は自信となり、自尊心は自負となって彼女を支えた。
そんな彼女は、三〇分もしないうちに宿題を綺麗に片付け、今はずいぶん先の予習を行っている。予習といっても、何度目かの予習であり、彼女にとっては復習のような気分ではあったが。
半ば諳んじるように教科書を眺めていると、階下から母親が呼ばわる声が届いた。
ずいぶんと早い食事だなと首を傾げながら、部屋着の彼女は階段を二段飛ばしで、しかし静かに駆け降りる。
「ママー、もうご飯出来たの?」
階段のラスト三段を飛ぶと、両脚を揃えて廊下に舞い降りる。絵画が飾られている壁に片手をとん、と押し当てて勢いを削いで、残る片手でふわりと持ち上がった黄金色の髪を抑えた。
意識は当然のように左方向のダイニングに向いていたので、逆側、つまり玄関方向からの挨拶はかおりの予想外だった。
「こんばんは。突然ごめんなさいね」
「と、巴さん?」
玄関に母親と並んで立っているのは、レモンイエローのシフォンブラウスに白のキュロットスカートといった明るく軽い印象の衣裳に身を包んだ巴マミ。
「こ、こんばんは。ママ、お客様ならそう言ってよ」
言いましたよ、と母親は返したが、「うそ」のひとことでかおりは切って捨てる。マミの困ったような笑顔は、母親と娘、どちらの言い分にも与しないことを示しているのだろう。
「ともかく、私の部屋にいらして下さい。ママ、飲み物お願いね」
はしたないところを見られたという気恥ずかしさから、かおりは性急に話を進めようとする。母親もマミも、かおりの声のトーンや頬の色からそれは察しており、彼女の意に沿うように振る舞おうとするが、ふと思い出したようにマミが立ち止まった。
「生ものですのでこちらで失礼しますね。お口に合うか分かりませんが、どうぞ召し上がってください」
手提げの紙袋から、お手製のケーキの入ったケースを取りだして恭しい所作で母親に渡す。
それを見て、かおりは「紙袋ごと渡さないとはしっかりしていますわね」と内心でマミを誉めた。パパならきっと紙袋ごと「ほら」と押し付けてくるだろう、と遠く海外にいる父親に理不尽で一方的な評価を与えながら。
「本当に、突然でごめんなさいね」
かおりの部屋に通され、キャラクターもののクッションに腰を下ろしたマミは、改めて前触れなしの来訪を詫びた。
「それは気になさらないでください。それで、巴さんはどうしてこちらへ?」
「大した用事ではないのだけれど……」
語尾を濁らせるようにすると、マミはちらと視線をドアへ向けた。間もなく母親が飲み物を持って訪れるだろうから、本題はそれからにしたい、との意思を過不足なく受け取った夜宵かおりは、膝を崩して片手をCDケースの並んだラックへ伸ばす。
「何かお聴きになります?」
「そうね、お勧めがあれば」
ラックには手前側にクラシック、奥側に隠れるようにゲームミュージックが並んでいたが、かおりは無難に手前側からチョイスする。指が触れるままに選んだCDがイタリアの著名な作曲家のものであったのは、おそらくは偶然であろう。
ミニコンポにCDが挿入され、緩やかにメロディが流れ始める。繊細、雅といった言葉で讃えられることの多い楽曲であり、マミは瞳を閉じて弦楽合奏に聴き入る。かおりもそれに倣い、瞳を閉じた。
やがて、二曲目のアリアも佳境に入る頃、控えめなノックと母親の声が部屋に届いた。そしてかおりの短い返事の後に、静かにドアが開かれる。
「おもたせで失礼しますわ」
と言ったのは、お盆から紅茶とケーキをテーブルに並べなおす夜宵かおりだ。
彼女は母親からお盆を受け取ると、すぐにドアを閉めて母親を追い出した。母が余計なことを言いそうな予感がひどくしたからだが、マミの意向を酌むことにもなる、と彼女は自分を正当化していた。
実際のところ、マミには人払いは必要ではなかった。声を用いることなく意志を交感する術を、彼女たちは持っているのだから。
かおりの配慮を無にしないようにか、それとも単純に言葉に迷っているのか、マミは無言のままティーカップを口元に運び、唇を湿らせた。
「とっても美味しいわね。私、紅茶を淹れるのが趣味なのだけれど、こんなに美味しくはなかなか淹れられないわ」
マミの言葉に促されるように紅茶を一口飲むと、かおりも口を開いた。
「母も紅茶が趣味ですの。でも、これは技量というよりは茶葉の力でしょうか。巴さんがいらしたので良い茶葉を使ったのですわね」
「そんなことないわ。良い葉を美味しく淹れるのも腕前だもの」
それは紅茶を淹れ始めた頃のマミの経験――買い置きしてあった父親の上等な茶葉を用いて、香りのない苦いお湯を作った――に基づく言葉である。もっとも、当時のマミは『普通の』腕前を大きく下回っており、かおりの母親に当てはめるのはかえって失礼かもしれないが。
「こちらのケーキは手作りでしょうか? 紅茶よりもこちらの方が、素晴らしい技量と思いますわ」
鮮やかな紫色のミニモンブランを口に含んだかおりは、舌の上で紫芋の甘さとココナッツミルクの風味を充分に味わってから、感じ入ったような声を漏らした。
「そんなに手間じゃないのよ。でも、気に入ってもらえて嬉しいわ」
「こちらがお芋で、それがかぼちゃで、そちらが栗でしょうか? こちらはなんですの?」
「食べてあててみて? 辛いのとか苦いのはないから」
「望むところですわ」
ゲーム的なものを好むかおりは、マミの言葉のままに橙のモンブラン、黄白色のモンブラン、赤のモンブラン、淡い緑のモンブランと次々に口に運ぶ。
「これは人参ですわね。これがバナナで……。苺……。これは……チーズ?」
「チーズと何かなんだけど、わかるかしら?」
謎をかけるように言うと、マミも栗色のミニモンブランをひとつ口に運ぶ。作っている途中に味見をしたときよりも、きめ細やかな甘みが口腔に広がるのを感じた。きっと紅茶との相性だろうと、マミは改めて給された紅茶を賞賛する。
「お茶が美味しいと、ケーキも一層美味しくなるのね」
だが、その言葉にかおりは反応を示さなかった。
外界からの情報を遮断するように瞳を閉じて俯くと、口内に残った薄緑のケーキの味を確かめるように舌を蠢かせる。
しかし、残念ながらかおりの舌はそこまで鋭敏ではなく、どんなにねぶってもチーズ以外の情報を拾い取ることはできなかった。
「んー……緑色ですから……ほうれん草……でしょうか?」
「それも美味しそうね、今度作ってみるわ」
「外れでしたか……」
自信のない……というより当て推量の答えだったとはいえ、不正解であることに彼女は表情を曇らせる。そして、正解を伝えようとするマミを慌てて押しとどめると、
「もう少し、もう少し考えさせて頂けませんか」
と、正解を導くアテもない状態であるにも関わらず意地を張った。そういう性格だった。
「じゃぁ、それはゆっくり考えてもらうとして。本題に入ろうかしら」
両手を顎の下で組んだマミは、そこまで喋るとテレパシーに切り替えた。
『と、改まって言うのも大げさなんだけど……落ち込んでないかなと思って。ご友人のことで』
脳裏に響いたマミの言葉に、驚いたような、狼狽えたような息をかおりは漏らした。
一瞬だけマミの顔を見ると、再び俯き視線をティーカップに落とす。
『よくあること……だなんて言いたくないけど、魔法少女なんてしているとどうしても危険はあるわ。それは夜宵さんも覚悟の上でしょうけど、実際にこうなるとやっぱりショックよね』
かおりが、落ち込んでいないと否定する言葉を探しているうちに、マミが言葉を連ねた。ショックという言葉も否定しようとかおりは思考を働かせるが、やはりマミが先に続ける。
『強がったり無理したりする必要はないわ。だって、数少ない魔法少女同士なんだから……ご両親やお友達にも、話せないことだものね』
過度の感情を込めず、淡々と語るマミの言葉はかおりの心に届いた。
先日より心の平衡を失っていた彼女は、強い自律心によって外面的には平静に日常生活を送っていたが、逆にその自律心のために折れることを許されなかった内面は、ひどく軋みをあげていた。
『……ふたりとも、魔法少女になってからの付き合いなのでせいぜい半年といったところです。それでも、どうしようもなく寂しく感じますわ』
マミはテレパシーではなく仕草で応え、続きを促す。
その所作を受けて、かおりは徐々に、そして途中からは胸中を吐露するようにして言葉を送った。
『……魔法少女になったのは、おふたりの方が先で、わたくしが後から合流する形。最初は、いろいろと教えて頂きましたわ。魔法少女として一緒に戦って……。生命を懸けている自覚はあるつもりでしたが、結局のところ、人が命を落とすところを今まで見たことなどありませんでしたし、クラブ活動やゲームのように軽く考えていた部分があったのでしょうね。危険なことをしている、その自覚と覚悟はあるつもりでしたが……本当に、ただの『つもり』でしかなかったようですわ』
告解をするかのように言葉を紡ぐかおりの口内には、既にチーズとスイートバジルのミニモンブランの味は欠片も残っていなかった。マミはひと呼吸おいて、かおりの言葉が途絶えたのを確認してからゆっくりと語った。
『……慣れる必要はないし、慣れてはいけないことだと思うけど……。私たちはそういう世界に足を踏み入れてしまっているわ。いざという時に足がすくんでいたら、今度は夜宵さんが命を落としかねない』
『はい……。お強いのですね、巴さんは』
『あら……私のこと、どう思ってるか知らないけど、私は泣き虫で弱虫なのよ』
『うそ』
『ほんと。嘘だと思ってもらえるのは光栄だけどね。……両親を亡くして泣いて、自分のせいで魔女の犠牲者を出して泣いて、大事な人を救えなくて泣いて、本当にいつも泣いてばかり。そんな泣き虫の私でも、これだけは言えるわ。人はどんなに泣いても、また笑うようになれるから、泣きたいときは好きなだけ泣くといいわ。私でよければ、その涙を受け止めて、拭ってあげるくらいのことはできるから』
夜宵かおりは――彼女自身可愛げがないと自覚しているが――本来弱みを見せることを嫌う性格だ。仲間ふたりを喪ったことについても、苦悩を抱えながらも、出来る限り表面上は平静を装い過ごしていた。
だが、先にマミが弱みを見せたことで、彼女の中の何かが折れた。テレパシーではなく言葉が、桜色の唇から溢れ出た。そしてそれを追うように、大きな瞳に涙が滲んだ。
「わたくしがもっと強くふたりを止めていれば……わたくしが巴さんを止めようとせずにすぐ追いかけていれば……あのような結果にはならなかったはずだと、そればかり考えてしまいます」
「しょうがないわ。人は結果を見て行動を選ぶことは出来ないんだもの。良かれと思ったことをするしかないわ」
「巴さんも、そうなんですの?」
「もう、間違ってばかりだわ。その度に自分が嫌いになるけど、自分は自分でしかないんだから、しょうがないわよね……なんて、割り切れてもいないんだけどね。だから、一緒に頑張りましょう」
「はい……」
それ以上言葉にならなかった。かおりは今まで我慢していた分を吐き出すように涙を流し、マミは彼女の傍に行き、彼女の涙を受け止めるように胸で抱いた。
◇ ◇ ◇ ◇
CDの演奏も終わり、部屋には少女のすすり泣く声だけが響いている。
追加の飲み物を持って二階へ上がってきた母親は、ドア越しにその声を聞いて事情を察するとともに、友人ではなく自分に吐き出して欲しかったなぁと一抹の寂しさをおぼえた。
とはいえ同じ年頃の友人でないと話せないこともあると母親は理解していたので、必要以上に気に病むことはなかった。
母親はドア越しに、娘のケアをしてくれている少女に会釈すると飲み物を持ったまま引き返す。
階段を下りる足音を知覚して、こちらも事情を察したマミは、やはりドア越しに頭を下げた。
そういったやり取りには全く気が付かずに泣き続けていたかおりだが、やがて落ち着きを取り戻した。泣き腫らした目が恥ずかしいのか、片手を額にあてて瞳を隠すと、マミの膝枕に預けていた顔をあげて伝えた。
「すみません……取り乱してしまいましたわ」
「気にしないで。もう大丈夫?」
涙声で話すことに抵抗があるのか、かおりは頷き、そのまま顔をキュロットから伸びるマミの太腿に押し付けた。
「パトロールとか、魔女退治、気持ちの整理がつくまで、私が付き添ってもいいし、なんならしばらくは私が風見野をみてもいいのよ」
マミの提案に、かおりは俯いたまま、首を何度も横に振った。駄々をこねる幼児のような仕草だった。
「私じゃ頼りないかな?」
頭の振り幅が大きくなった。
『いいえ、そうではなくて、巴さんを尊敬しているからこそ、甘えたくないのですわ』
湿ったままの肉声を嫌ったかおりは、テレパシーでマミに応えた。
「そう、立派な考え方だわ。でも、私も杏子ちゃんも、数少ない魔法少女の仲間なんだから、いつでも頼ってね」
『はい、ありがとうございます』
それから、三〇分ほどが経った。
普通の声といつもの表情を取り戻したと判断したかおりは、ようやくマミの温かい太腿から顔をあげた。
「あの……顔、変じゃありませんか? ママ……母に心配はかけたくありませんの」
「大丈夫、綺麗な顔よ」
母親は全て理解しているだろうけど、とマミは思ったが、口にはせずに微笑んだ。
つられたように夜宵かおりも破願する。それは本来、両親にしか見せない類いの笑顔だった。
折りよく部屋を訪れた母親は、娘の表情が明るくなっていることに安堵するとともに、マミに夕飯を勧めた。
「それがいいですわ、巴さん、ぜひ食べていってくださいな」
かおりは母親の提案に諸手を挙げて賛成するが、マミは反射的に立ち上がると今にも帰り出しそうな素振りを見せた。
「もうそんな時間……遅くまですみません。ご迷惑ですし、今日は失礼しようと思います」
「そう言わないで。もう三人分作っちゃったから」
「父が長期出張なので、いつもふたりで食事なんですの。巴さんがいてくだされば賑やかでいいですわ」
座り込んだままの姿勢でマミのシフォンブラウスの裾を摘まむ様が、幼子が親か先生を引き留めているように見えて、マミは苦笑する。
「……すみません、お言葉に甘えます」
応えると、マミはゆっくりと腰を下ろしたが、かおりはレモン色のブラウスから手を離そうとはしなかった。きっと、自覚しての行為ではないのだろう。それだけに、彼女の本心が表れた仕草とも言える。
「夜宵さん、だから、裾引っ張らないでもらっていいかしら……」
「かおり、頑張って引き留めた甲斐がありましたね」
からかわれるように言われたかおりは、子供のような自分の振る舞いを自覚して頬を上気させた。
そして、朱が差した頬を見られないようにと顔を俯かせる。今日はずっと俯いてばかりだな、と思いながら。