マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
なにか明確なきっかけがあったわけではなかった。
少なくとも、千尋早苗には原因として思い至る出来事はなかった。
しかし事実として、ある日――夏休み明け第二週の火曜日、今から二週間ほど前――を境に早苗は特定のクラスメイト数名から、いじめを受けていた。この種の問題によくある、当初は些細な意地悪だった、というケースではなく、その日から突然に苛烈ないじめを受けた。
女生徒同士のものであることから、暴力的ないじめではなかったが、それは決して暴力を伴ういじめよりマシということを意味しなかった。
早苗の性格――思慮深く、控えめで、誰にでも分け隔てなく優しく接する性格は、間違いなく美徳に分類して良いものだったが、この場合は悪い方向に作用した。正当性のないいじめに激発するどころか、自分に落ち度があったのだろうかと内罰的な思索にすら陥ってしまったのだから。
それはやがて、自分にはこういう落ち度があるからいじめられてもしょうがないんだ、という歪んだ精神安定をもたらしていた。いや、地髪が少し茶色いだとか、授業で発言して目立っただとかが、教師に提出するノートに落書きされたり、昼食の飲み物に羽虫を入れられる理由にはなるはずもないのだが……。
それでも、学校でのことはまだ我慢できた。時間も場所も限られていたし、級友の目はあっても大人、特に両親やご近所さんの目はなかったからだ。両親に心労をかけることだけは避けたいと、早苗は考えていた。
だから、最近になって放課後に街へ連れて行かれるようになったのはたまらなく嫌だった。
もちろん一緒に遊ぶというわけではなく、早苗を嬲って彼女たちだけが遊ぶのだ。
今日は、援助交際というものもさせられそうになった。さすがにこれは彼女たちも冗談だったようで、早苗が泣きながら走り去ると、追いかけることはせず腹を抱えて笑っていた。
近くの公園で時間を潰して、泣いた形跡を消し去ってから家路につく早苗は、このまま次の日が来なければいいのに、と思っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
早苗の願いもむなしく朝は訪れた。
ベッドの中で目覚ましを止める早苗は、この世の終わりが来たような暗い顔をしていたが、洗面所の鏡の前で身だしなみを確かめる早苗は穏やかな笑みを浮かべていた。それくらいの演技は、両親に心配させないことと、家庭という安寧の場所にいじめの影を持ち込ませないことを考えると、易いものだった。
鏡の中の早苗は、悩みなく微笑む中学一年生の少女だった。
栗色の髪は前は眉で、横と後ろは襟首で綺麗に切り揃えられ、充分なキューティクルがあることを誇示するかのように鮮やかな縞模様を描いている。ブラシで梳くたびに、縞模様が川に浮かんだ月のように上下に揺れる。早苗は少しブラシに引っ掛かりがあることが気になったが、理由は考えないことにした。
若者向けの洗顔ソープで洗った肌は、しみひとつ、そばかすひとつなく、乳幼児のようだ。そこに浮かぶのは小動物を思わせる丸い瞳と薄めの唇。どちらのパーツも、子供っぽく思えて早苗は好きではなかった。特に唇は、肉厚の方が女性らしくて良いのにと思う。
伸びをする。伸びをしても指の先まで鏡に映る程度の身長だった。濃紺のセーラー服に着られている風にも見えて、やはり子供っぽいと早苗は感じる。
「今日も頑張ろう」
華やかな笑顔に明るい声で、彼女は自分に言い聞かせた。
◇ ◇ ◇ ◇
教室に他のクラスの生徒が入ってくると、それだけで目立つものだ。
ましてやその少女は、同年代の平均身長を頭ひとつ上回り、少年と見紛うような精悍な顔つきをしていた。いや、顔だけではなく、程よく筋肉のついた四肢、引き締まった胴など、肉体的なパーツ全てが少年を思わせるものだ。勢い、昼休みに入ったばかりで弛緩したクラスの耳目が彼女の一身に集まる。
集中した視線など意に介さず、彼女は長い四肢を大きく振って歩く。
大きな歩幅での動きだが、ナチュラルショートボブに整えられた髪はほとんど揺れない。外に跳ねた髪がわずかに女性らしさを感じさせるが、その容姿、所作はどちらかというと少年のそれだった。
彼女の足が止まる。そして、彼女は上半身を前に傾けて、両の手を机にばんと叩き付けた。千尋早苗の机に。
鞄からお弁当を取り出そうとしていた早苗は、心神喪失したかのように固まった。クラスのざわめきも、いつの間にか収まっている。
「あんたが千尋だよね?」
彼女の口から、容姿に相応しい変声期前の少年を思わせるソプラノの声が紡がれる。
不機嫌そうな声だと、早苗は思った。ちらと目だけを動かして見上げると、表情も何かに憤ったように不機嫌そうだった。
「は、はい」
長い時間をおいて、早苗が応える。その間、早苗の机の脚をつま先でコンコンとしていたのは、癖なのか意図的なのか。
「悪いんだけどさ、放課後部室棟に来てもらえない? バレー部のとこ」
ちらと見上げた早苗の目を厳しく睨む。早苗はその威圧に一瞬たりとも抗えず瞳を伏せる。
――なんで……?
この背の高い少女を、早苗は見知ってはいた。
名前までは知らないが、隣のクラスと合同で行う体育や家庭科の授業で姿を見かけては、かっこいい人だなと思っていた。しかし、一言も交わしたことはないし、接点はないはずだった。
返事をしない早苗に焦れて、再度少女が机に手を叩きつける。その音で反射的に顔をあげた早苗は、不機嫌そうに睨みつける少女と目があい、その迫力に再び俯く。
「放課後、わかった? ホームルーム終わったらダッシュでね」
「ええと……」
「返事は?」
少女は噛みつくような勢いで早苗を促す。
「……はい」
早苗の返事を確かめると、少女は踵を返し、颯爽と教室を出て行った。生徒たちは押し黙ったまま彼女を視線で見送り、そして彼女が視界から消えると再びざわめきが起こった。
「今の梢だよね。あんた、あいつの知り合い?」
いつの間にか早苗の机を囲むように、いじめを行う三人の少女が立っていた。グループのリーダー格のポニーテールの少女が、腕を組んだ姿勢で尋ねる。口をへの字に結んでいるが、いつものことなので機嫌はそこからは伺えない。
――梢さんって名前なんだ。怖そうな人だったな……。
ふるふる、と首を横に振って早苗は否定する。じゃぁ何の用で、と前髪の一部を緑に染めた少女が尋ねる――いや、詰問する。
「放課後、部活棟に来るようにって言われました……」
ポニーテールの少女に視線を向けて応える。視界の端に、いじめに遭うまでは友達づきあいをしていた数名の少女が映った。彼女たちは心配そうな顔でこちらを見ているが、早苗は気付かないフリをした。どんな拍子で、彼女たちまで巻き込まれてしまうか分かったものではないのだから、と。
「まぁ、先約が梢なら放課後はしょうがないか。今日はその分、昼休みのうちに可愛がってやるよ」
結構です、と言えればどんなに楽なのだろうか、と早苗は思う。しかしそれを実行する心の力が早苗には欠けていた。彼女は心を閉ざすと、三人の少女のいじめに耐える態勢に入った。
予鈴が鳴った。
早苗は安堵の息を内心でつく。本当にしたら、どのような揚げ足を取られるか分かったものではない。逆に三人グループは、もう時間かと露骨に表情に出す。ポニーテールの少女は、憎らしげに壁掛け時計を睨むと先ほどの長身の少女を真似るように掌で机を叩いた。大きな音が響き、クラスの耳目が集まる。
「そうそう、何やったかしらないけど、梢の呼び出しだからね、覚悟しておいた方がいいよ」
意地悪い笑みを浮かべて、捨て台詞のように告げると彼女たちは去った。
◇ ◇ ◇ ◇
考えれば考えるほど、想像は悪い方向にしか行かなかった。
だから、無駄に考えるのをやめた――などと開き直れればいいのだが、それも出来ず、早苗は午後の授業を悶々として過ごした。
蛍光ペンで無茶苦茶にアンダーラインが引かれた教科書が少し目に痛い。早苗自身が引いたラインは赤のボールペンのものなので、黄色、桃色、緑色の蛍光色のラインがいかに縦横にあろうと要点が紛れることはないのは幸いだ。
――もし、殴られるような流れなら、周りから目立つ顔や手足は許して下さいって言わないと……。
様々な想像に、こうしようああしようと考えを巡らせる早苗だが、いざその場になると何も言えないことは、早苗自身がいちばん自覚していた。
昇降口から校門まで、幅一〇メートル程の煉瓦道が続く。
煉瓦道の右手には体育館があり、中からは早くも運動部員の賑やかな声が聞こえてくる。
体育館を過ぎると校門まで数メートル、ここで右に曲がって体育館とフェンスの間の小路を進むと、少し先に二階建ての部活棟がある。
「おっ、来たね」
早苗がバレー部の部屋を探そうとするよりも早く、梢がドアから出てきて声をかけた。上は黒の長袖シャツ、下は黒の短パン姿で、すらっと伸びた脚が強調されている。
カモシカみたいってこういうのを言うのかなぁ、とぼんやりと考えながら、少しぎこちない動作で立礼をする早苗。警戒感があふれる少女の様子に梢は苦笑すると、手の甲を見せて二度三度と上下に振る。
「呼び出しといて悪いんだけどさ、用事なくなっちまったんだ。だから帰っていいよ」
そう告げる梢に、早苗はなんと応えていいか分からず、お辞儀をして踵を返した。
校門の手前まで歩んで振り返ると、部活棟の前で腕を組んでこちらを見ている梢と目があった。梢は腕組みを解くと、右手をひらひらとはためかせる。早苗は再びお辞儀をすると、足早に校門をくぐった。
――怖い用事じゃなくて良かった……。
小さな胸に両手を当てて深呼吸。そして今さらながらに、もし怖い用事だったらと思い、膝ががくがくとしてくる。
その日、久方ぶりに早苗は静かな放課後を送った。それはとても心が落ち着く、素敵な時間だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「悪いんだけど、今日もツラ貸してよ?」
翌日の昼休みも梢にそう言われた早苗は、おずおずと頷いた。梢の言葉には明らかな怒気がはらまれている。
――やっぱりなにか、私が悪いことをしたのかな?
思い当たる節はなかった。
午後のクラスは授業そっちのけで、過去に梢となにか関わりがあったか思索していたのだが、何一つ接点は見出せなかった。
だから、部活棟に向かう早苗は、昨日ほどは怯えていなかった。そして、梢の態度は、早苗の結論を肯定するものだった。
「悪い、今日もさ、帰ってもらえるかな」
少し照れたような素振りを見せるジュンに、早苗は彼女の善意を確信した。
「もしあいつらが何か言うようなら、あたしの名前出していいから」
「ありがとう、ございます」
昨日と違って、しどろもどろながらにお礼を言うと、早苗は小走りに家路を急いだ。心の中で、何度もお礼を繰り返しながら。
次の日も、昼休みに怖い顔をした梢が早苗を呼び出すために教室を訪れた。
その来訪を心待ちにしていた早苗だが、いじめグループの手前、怯えた風を装う。ジュンも怒った風を装っているので、ちょっとしたお芝居のようだと早苗は思った。
――お芝居だとしたら、梢さんは私を助けてくれる王子様役だね。
授業中に心の中で王子様、と繰り返し呟くと、心臓がどきどきして、頬が明るく染まった。
放課後、三日続けてとあって、さすがにいぶかしんだポニーテールが詳しい事情を聞きに来たが「梢さんに何も言うなっていわれてるの」と告げるだけで渋々と引き下がった。ポニーテールの態度に、王子様の名前ってすごいんだなぁと改めて思う早苗だった。
部活棟にいた梢は、今日は黒のユニフォームではなく、濃紺のセーラー服のままだった。
「あー、今日もなんだけど、用事はないんだ」
照れ笑いを浮かべる梢に、心臓がまたどきどきした。眩しいものを見るような瞳で早苗は長身の少女を見つめて「はい」と穏やかな声で返した。
「えっとさ、今日は部活休みなんだ。良ければ一緒に帰らない?」
「はい!」
そう応えた早苗は、にわかに睡魔に襲われ、たたらを踏んだ。あわや倒れそうになる早苗を、梢が受け止める。
梢の胸に顔を埋める形で抱き締められた早苗は、しばしの後に意識を取り戻す。「大丈夫?」と頭上から届く声に無言で頷くと、梢の均整の取れた身体に強く抱きついた。大好き、と心の中で呟いて。
◇ ◇ ◇ ◇
虎の威を借るようで少しみっともないと早苗自身も思うが、早苗は梢と行動をともにすることで、ポニーテールグループのいじめから解放された。
ところ構わず腕や腰に抱きついてくる早苗に迷惑な顔ひとつ見せず、梢は保護者、あるいはボーイフレンドのように振舞っていた。
中学生という年齢もあって女生徒同士のスキンシップは珍しいものではないが、片や宝塚から抜け出してきたような長身痩躯の梢、もう片方は小学校から越境してきたような早苗とあって注目を集めた。
最近は、バレー部の練習が終わるまで早苗が時間を潰して、ふたりで帰ることが日課になっていた。
時間の潰し方としては、体育館に入って二階の観覧席から練習を眺めるか、体育館の外に座り込んで、下窓から練習を覗き見るか――どちらにしても、体育館周りにいることになる。どちらにいても、時々梢が視線を向けて、親指を立てたりピースサインを送ってきたりしてくれるのが嬉しかった。
一度、体育館の外で待っている時に、ポニーテールグループが何をしているのかと威圧気味に言ってきたこともあったが、梢を待っていると告げると、それ以上は何も言ってこなかった。
十月も下旬に差し掛かる。
部活を終えての帰路では既に日は沈み、僅かな残照が空をほの赤く染めていた。
「千尋さ、アイツらはおとなしくしてる?」
「はい!」
「そっか、それは良かった。ただ……」
眉間に皺を作り口ごもる梢のそれは、見る人が見れば芝居と映るのだろう。だが早苗にとっては、焦慮に苦しむ王子様にしか見えない。
「どうかした?」
小動物を思わせる丸い瞳を、さらに丸くして梢の顔を見上げる。
「あたしさ、バレー部で遠征もあるし合宿もあるしで、いつも一緒にいれるわけじゃないからさ、それが心配で」
「私は、大丈夫だよ。梢さんに心配かけるようなことにはならない、きっと」
「だといいんだけど……心配でね。いっそバレー部を辞めようかな……」
「だめ、そんなの!」
早苗はバレーボールのことは詳しく分からないが、練習を見学――半ば覗き見だが――しているだけでも、彼女のスパイクの強力さ、ブロックの的確さは見てとれた。期待の一年生レギュラーとして扱われているのも、贔屓目を抜きにしても当然と思う。そんな彼女が自分のためにコートを捨てるのは、早苗には受け入れられることではなかった。
「ごめん、話が飛躍しすぎた」
「私がもっと強ければいいのに」
せめて、心だけでも強くならないと。何を言われてもしっかり言い返せるように……。そう心の中で独語し、眦を決して見上げる早苗の頭を、梢は掌で包むように撫でる。
◇ ◇ ◇ ◇
「おまたせ、千尋」
金曜日と土曜日だけ開放される体育館二階の観覧席で、梢の入り待ちをしていた早苗は、突然の背後からの声にビクンと身体を震わせた。
「梢さん、練習は?」
「退部届だしてきたよ」
練習着ではなくセーラー服に身を包んだ梢が、照れ笑いを浮かべて応える。そして、「やっぱり心配だからね」と続けた。
ダメだよ、と小さな声で反対する早苗の両肩を手で押すと、あれよあれよという間に階段を降り、出口まで押し運ぶ。大人と子供ほども体格差がある上に、梢は運動で鍛えているので、早苗は足を止めることさえ出来なかった。
「出したものはしょうがないよ、どっか寄って帰ろ!」
体育館の扉をくぐった梢は、明るい声で言った。早苗はなおも反対の声をあげたが、梢は意に介さず、早苗の小さな身体を校門の外まで押し出す。
「いやー、日が出てる時間に帰るのって久しぶり」
遊歩道を歩く梢は満足気に微笑んで、弾んだ声を出す。だが、その声を受ける早苗は先ほどから俯き、考え込むような表情を見せていた。
「千尋、お腹空いてない?」
「え? うん、特には」
「そっか、じゃぁ軽くお好み焼きでも食べて帰ろうか」
「えっ?」
「ほら、行くよ!」
という強引な流れでフードコートに連行された早苗は、おやつサイズの豚玉を四苦八苦しながら、梢の「千尋、嫌なら嫌ってはっきり言わないとダメだよ」という説教まで受けていた。
ただ、その説教は的を外していた。確かに早苗は間食をとりたいと思う腹具合ではなかったが、梢と寄り道すること自体は大歓迎だったのだから。
もちろん、そう主張することは気恥ずかしくてできない。結果として早苗ははにかんだ笑みで浮かべ、梢の言を肯定するように頷いた。
そして、話を逸らすように「梢さんは、いつからバレーを?」と尋ね、すぐに失言に気付いて口元を押さえる。
「ん、小学校の低学年からかな。親父がバレー好きで、その影響でね」
梢は気にした素振りも見せず、順調に通常サイズのお好み焼きを食べ進みながら応える。
「それであんなに上手だったんだね。ごめんね、私のせいで」
「別に千尋のせいじゃないし……。もう、この話は禁止!」
気落ちした態度を見せる早苗を黙らせるように、カットしたお好み焼きを彼女の口に押し込む。少し乱暴だったためか、早苗の上下の唇にソースが付着した。
「おいしい?」
梢の問いに早苗は言葉を返せない。小さな口いっぱいにお好み焼きを含んだため、喋ることはおろか噛むことさえままならないからだ。目をぱちくりとさせて、ゆっくりとあごを上下させる早苗。
たっぷりと時間をかけて口の中のものを食道に送り込むと、早苗はようやく「おいしい」と呟いた。
ふう、と一息つく早苗に、梢が右手を伸ばす。
「ごめん、汚しちゃった。あたし大雑把でさ」
唇にソースをつけたことを梢が言っている、と早苗が理解したのは、梢の指が早苗の唇を拭ったあとだった。中指で下唇を、人差し指で上唇を拭うと、梢は二本の指を自らの口元に運び、舌を覗かせて甘みのあるソースを舐めとった。
「うん、おいしいね」
「それ、ソースだけだよ」
遠慮がちに笑い、早苗はお返しとばかりに自前の豚玉を一片、箸で摘まみあげると彼女の口に押し付けた。だが、梢は顔をそむけるようにして、「あたしベジタリアンだからそれはちょっと」と抗弁してみせる。
「うそつき、いつもからあげクン食べてるくせに」
「そうそう、そういう風に笑わないと」
花が綻ぶように破願した早苗を満足気にみつめると、梢は大きく口を開けて箸先の豚玉に喰らいついた。早苗に比べるとかなり早いペースであごを動かし、喉を鳴らすようして嚥下する。
◇ ◇ ◇ ◇
色々な店を回り、ショッピングモールを後にする頃には、すっかり日は暮れていた。
久しぶりにのんびりできたと声を弾ませて語る梢に、早苗も明るい声で同意する。だが、梢の何気ない一言で、早苗は気持ちを沈ませる。
「たまには、こういうのもいいよね」
――たまに……じゃなくなっちゃったんだよね、私のせいで……。
その様子に気付かないのか、梢は色々な話題で語りかけるが、早苗は生返事を繰り返すだけだった。彼女の思考は、自分のせいであること、強くなりたいということ、その二点をひたすらに彷徨っていた。
――何があっても負けないくらい、強くなりたい……。
早苗の思考に、返す声があった。
『その気持ちは本当かい、千尋早苗。もし本当なら、ボクが力になれる』
声の主は、夕闇の中、街路樹の影から姿を現した。一見すると猫を想起させる姿だが、よく見ると目も口も尻尾も猫とは異なる。何より、耳と思われる器官から、一対の触腕が伸びていた。
「キュゥべえ、あんたなんでここに!」
早苗が反応するより早く、梢が現れた異形に反応を示した。早苗を庇うように身体を彼女の前に滑り込ませると、赤目の異形と対峙する。
『キミの友人にこんな素質のある娘がいるとは驚きだよ』
キュゥべえと呼ばれた異形は口を動かすこともなく語りかけると、梢の背後から顔を覗かせる早苗に視線を向けて続ける。
『千尋早苗、ボクと契約して魔法少女になってよ』
「キュゥべえ!」
『キミも常々、一緒に戦うパートナーが欲しいと言ってなかったかい。ちょうどいいじゃないか』
「それとこれとは……別だよ」
「えっと、あの、何なんでしょうか……? この猫ちゃんは梢さんの知り合い……?」
梢と会話が成立していることから、とりあえずの危険はないだろうと判断した早苗がようやく口を開く。だが、その瞳は当然ながら当惑と不審の色に染まっていた。もっとも、キュゥべえにとっては慣れた反応だ。
『すまない、説明が出来ていなかったね。千尋早苗、ボクは、キミの願いごとをなんでもひとつ叶えてあげられる。そして、その願いと引き換えに魔法少女となって、魔女と戦って欲しいんだ』
口を開かない、瞬きもしない。出来の悪い玩具を思わせる能面の異形は、相手に言葉をさしはさむ余地を与えずに言葉を連ねる。
『魔法少女とは、魔法を操り魔女と戦うことを使命とする戦士だ。もちろん、常人には遠く及ばない力を持てる。強くなれるなんてものじゃないよ。願い事とは別に、強くなりたいというキミの望みは自動的に叶えられる』
聞きなれない単語を確認するようにオウム返す少女に、キュゥべえは立て板に水とばかりに返す。
有史以前より勧誘活動を続けてきた彼にとって、魔法少女候補とのファーストコンタクトにおける問答などは飽きるほど繰り返したルーチンワークに過ぎず、感情があれば欠伸を漏らす程度には退屈な内容だ。
『願いから産まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから産まれた存在なんだ。魔法少女が希望を振りまくように、魔女は絶望を撒き散らす。しかもその姿は、普通の人間には見えないからタチが悪い。不安や猜疑心、過剰な怒りや憎しみ、そういう災いの種を世界にもたらしているんだ』
「……強く、なれるんですね?」
『もちろん強さは相対的なものだが……。そうだね、キミたち人類をネズミとすると、魔法少女はライオンだ。どんなに強いネズミも、最弱のライオンにさえ手も足も出ないだろうね』
「だけど魔女だって弱くはない。それに、魔女との戦いはいつ終わるかも分からないんだよ」
『そうだね。だからキミは一緒に戦うパートナーが欲しかったんだよね』
その一言で、梢はあっけなく引き下がる。思い悩むような表情を作って振り返ると、早苗と目を合わせ、そして避けた。
――強くなれる……梢さんのパートナーとして戦える……。
それは、早苗にとってたまらなく魅力的なことだった。しかも、梢が既に同じ道を歩んでいる。未知の世界に踏み込むという恐怖はその事実で大きく薄れ、むしろ梢とふたりだけの道を歩めるという期待にさえなっていた。
「いいよ……。私を魔法少女にして。お願い、します……」
『素晴らしい決断だ。早苗、じゃぁキミの願いを言うがいい。その願いと引き換えに、キミは魔法少女へと生まれ変わる。さぁ、千尋早苗――その魂を代価にして、キミは何を願う?』
その問いに早苗は戸惑う。力を得ることと梢のパートナーとなることを目的に魔法少女になることを決断していたため、願いという観点がすっぽり抜け落ちていたからだ。
『なんだっていいよ。金銀財宝、ノーベル賞クラスの知能、プロスポーツ選手クラスの運動神経、キミの好きに望むといい』
キュゥべえが例示するが、それらの願いを選ぶ少女はほとんどいないことを彼は知っていた。まだ幼い少女たちにとって、例示された願いはあまりに即物的であるが故に忌避される傾向があった。また、幼少期の全能感に浸った少女たちにとっては、例示された願いは少女たちの信じる自身の能力からすれば、願う必要もなく実力で叶えられるべきことであり、願う対象ではなかった。
早苗がどう判断したかは彼女の表情からは読み取れないが、やはり例示された願いを選びはしない。
「私は梢さんに救われたけど、きっとあの人たちはまた同じようなことを別の人にすると思う。でも、私の受けた苦しみが分かれば、もうそんなことをしようって思わないと思うの。……だから、私の受けた苦しみを、彼女たち三人に返して。それが私の願いです」
訥々と言葉を紡ぐ早苗を目を細めて見つめると、梢は背中を押すように早苗の言葉を肯定する。
「千尋は優しいんだね。せっかくの奇跡を、自分のために使わないなんて」
『おめでとう、早苗。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』
はにかむような表情を見せる早苗を尻目に、キュゥべえは契約を進める。
耳から生やした一対の触腕を、早苗の下腹部に向けて伸ばす。触腕の接近につれセーラー服のサイドファスナーがひとりでに開き、その隙間からキュゥべえの触腕が入り込み、早苗の素肌に触れる。
そして、触れられた部分の肌が液体に変化したかのように波紋を広げる。波紋の中心で、キュゥべえの触腕が少女の体内へ侵入した。
悲鳴が響く。しかし、その声は余人に聞きとがめられることはなかった。
早苗の襟元を飾る紫紺のスカーフが解け、するりと落ちる。膝をつく早苗の足元に折り重なるように落ちたそれは、血溜まりのようにも見えた。もちろん、キュゥべえの侵入は出血を伴ってはいないが。
早苗の魂を鷲掴みにし、触腕が乱暴に引き抜かれる。
侵入するときよりも鈍く激しい痛みに、彼女は息を吸うことも吐くことも出来ず、ただ身体を痙攣させた。
遠ざかりそうな意識を引き留めてくれたのは、肩を抱く梢の温かさだった。それを頼みに痛みを耐えた早苗は、乱れた衣服を手で押さえながら力ない笑顔を梢に向けた。
「大丈夫かい、千尋」
その問いに大きく頷いて答えると、彼女は、自らの身体に魔力が満ちていくことを自覚した。溢れてくる力に満足気に首肯する。
「これで、もう私は大丈夫……なんだよね。だから梢さんは、安心して部活に戻って」
微笑む早苗を、梢が強く抱きしめた。
男女が行うような熱い抱擁を前に、いつソウルジェムを渡そうかと、キュゥべえは少し困っていた。