マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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登場するオリジナル魔法少女の契約に関する番外編です。
本編に対して不可欠ではありませんので、お時間が許す方だけ読んで頂ければと思います。
■ ■ ■ ■ ■ ■


番外編 魔法少女の契約事情
夜宵かおり、魔法少女の契約をする


 記念日というのは、毎日のようにある。

 例えば今日一二月一三日は、彼女にとって誕生日だ。まだ年輪を重ねることに喜びを感じる年頃の彼女にとって、誕生記念日と言っていい。彼女、夜宵かおりの一四回目の誕生記念日には、幾つかのイベントが控えていた。

 

 

 

「起立」

 

 桜色の小振りな唇が開き、金髪の少女が透き通るような声で号令を発する。あわせて、生徒達が椅子を下げる音を鳴らして立ち上がる。

 

「注目、礼」

 

 声の主が率先してお辞儀をすると、少し癖のある黄金色の髪が頬を撫でるように前に垂れる。遅れて、生徒達も頭を下げ「ありがとうございました」と声を揃える。生徒は女子しかいないこともあって、唱和する声は若々しく高かった。

 立礼を受けた教諭が、最近通り魔が出没しているので気を付けるようにと物騒なコメントを返すと、それを受けて号令を発していた少女が「着席」と唱える。その言葉を合図とするかのように、教室が放課後特有の雑然とした空気に包まれた。

 

 ふう、と号令を発していた少女、夜宵かおりが伸びをする。その仕草で彼女の豊かな乳房がブレザーの前合わせを押し開いて主張するが、男性の目がないこともあって彼女は気にしない。繰り返される彼女の伸びにあわせて、緩くウェーブした黄金色の髪が二度三度と腰のあたりを叩く。その豊かなボリュームとは裏腹に金髪は軽やかに舞い、重量を感じさせない。

 

 ――さて、テニス部の練習に行きませんと。

 

 スクールバッグを机の上に置くと、引き出しの中身をバッグに入れる。押し込むのではなく、整然と揃えて入れる所作に、彼女の几帳面な性格が見てとれた。

 教科書を、筆箱をと次々に掴む彼女の指はしなやかで長い、が、もっとも特徴的なのはその色だった。小麦色、という表現をいささかはみ出しそうな色は、赤道直下の国々に紛れ込んでも違和感がなさそうだ。

 大きめのスクールバッグは、まるで不可視のパーティションが設置されているかのように、きれいに区分けされていた。教科書のエリア、お弁当箱のエリア、筆箱のエリア、簡単なお薬のエリア、ソーイングセットのエリア、簡単なお化粧道具のエリア、お菓子のエリア、折り畳み傘のエリア、部活用着替えのエリア。

 さっと視線を走らせて異常がないことを確認すると、彼女は満足気に頷いた。その所作で前髪が揺れた。かなり急な角度で斜めに切り揃えられた前髪だ。右側はおでこを見せ、左側は眉毛を隠している。髪型に頓着しない彼女だが、この前髪だけは気に入っていて、小学生の頃から貫いている。

 小気味良い金属音を響かせてバッグを閉めると、んしょ、と微妙に年寄臭い声をあげて肩にかける。そして部活に向かうべく歩を進めようとしたところで、不意に声がした。

 

「あっ、あのっ、夜宵さんっ」

「はい、なにかしら、奈津さん」

 

 声をかけてきたのは、同じクラスの奈津だった。クラス委員の夜宵だからすぐに名前と顔が一致したが、恐らくクラスの半分程度は、すぐには難しいのではないか、というくらいに目立たない少女。成績も普通、運動も普通、容姿も一般的な趣向で言えば普通、そして引っ込み思案と、ステルス性の限界に挑戦していると言われても信じてしまいそうな少女だ。

 

「あっ、あのっ!」

「はい」

 

 落ち着かせようとかおりは柔和な笑みを投げかけるが、残念ながら奈津は視線を伏せており、その効果はなかった。

 

「あのっ!」

 

 壊れたレコード状態の奈津だが、幸いお嬢様学校なので冷やかすような輩はいなかった。もっとも、教室に残っている二〇名ほどは、カバンを整理しているふり、机を片付けているふりなどをしつつ、礼儀正しく聞き耳をたてている。

 少し困った顔をしたかおりは、彼女の肩をぽんぽんと叩くと、彼女にだけ聞こえる声で「落ち着いて」と呟いた。

 

「はっ、はいっ!」

「えっと、わたくしにご用ですのよね?」

「はっ、はいっ!」

 

 かおりのボディタッチ&囁きによってレコード針の飛ぶ位置が少しずれたようだ。残念ながら事態の改善にはまったく至っていないが……。

 机の上にスクールバッグを置きなおすと、かおりは椅子に腰を下ろした。そして、既に主が下校済みの隣の席に、奈津を座るよう促す。内心、早く部活に行きたいなと思うかおりだったが、表情には出さず優しく語りかけた。

 

「奈津さん、深呼吸してみましょうか。はい、すぅ~」

 

 かおりに一拍遅れて、奈津も深呼吸を行う。数度繰り返すと落ち着きを取り戻したのか、睨むような眼差しでかおりを見つめる。そして、ばっと頭を下げて、

 

「お誕生日、おめでとうございます!」

「あら、ご存じでしたのね。ありがとうございます」

「こっ、これっ!」

 

 床を見つめたまま、両手だけを突き出してかおりに封筒を突きつける。

 

「お誕生日プレゼントですっ、受け取ってくださいっ!」

 

 受け取ってもいいものか、とかおりが思案していると、彼女は「すっ、捨ててもいいですからっ!」と突拍子もないことを口走り始める。エンドレスに「こっ、これっ!」と言われ続けるよりは、と自らを慰めるとかおりは封筒を両手で受け取る。

 

「ありがとうございます。奈津さんのお誕生日には、何かお返ししますね」

「いっ、いえっ! お構いなくっ!」

「開けてもよろしいのかしら?」

「いっ、いえっ! 出来ましたら後でっ!」

「はい。そのようにいたしますね」

 

 微笑むと、スクールバッグを開けて大きめの教科書の間に封筒を挟み込む。そして、アプリコット味ののど飴をふたつ取り出すと、ひとつを口に放り込み、彼女にひとつを勧める。

 

「大きな声でしたし、喉かわいちゃったんじゃありませんか?」

「いっ、いただきますっ!」

 

 鬼軍曹に煙草を勧められた新兵のような、敬礼でもしそうな勢いで応える奈津の手に飴を握らせると、「後で開けるのを楽しみにして、部活頑張ってきますね」と囁いて、衣擦れの音さえさせない優雅な動きで立ち上がる。

 

「はいっ、頑張ってきてくださいっ!」

 

 言葉でなく笑顔で応えると、かおりは視線をぐるりとさせて教室を一望する。

 

「はい、皆さんも部活に向かうなり家路を急ぐなりいたしましょう」

 

 柏手を打つようにして音を鳴らす。すると、耳をそばだてていた少女たちが慌てて席を立った。彼女たちが三三五五と帰っていく様を見送ると、かおりは未だ隣の席に座っている奈津に会釈をして、テニス部室へ向かった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 急行は停まるが、特急は停まらない、そんな微妙な発展度合いの駅から徒歩で一〇分ほどの距離に、夜宵かおりの家はあった。帰りは坂道を登ることになるが、道中の大半は目抜き通りであり、立ち並ぶ商店を眺めながら歩くとあっという間だ。既に日は暮れていたが、商店街は昼のように明るい。

 ハンバーグハウスの角を曲がって商店街を抜け、次の交差点を左折すると、左手に鋭角的なフォルムが特徴の白い屋敷が見える。かおりの父の友人のデザイナーが設計したもので、近所の子供から『ノッポトゲ』と呼ばれるほど特徴的な外観だが、居住性は良く考えられている。夜宵かおりはこの屋敷に、現在は母とふたりで暮らしていた。エンジニアの父はマレーシアに単身赴任中だ。

 

「ただいま帰りましたー」

 

 学校で話すよりも幼い調子でかおりが帰宅の挨拶をすると、リビングの方から迎える声が唱和した。そしてすぐに、「あなた、サプライズはどうしたんですか」「すまん、つい」と小さな声が届く。

 

「パパ?」

 

 学校指定の黒いローファーを脱ぎながら声を投げるが、小声が聞こえるだけで明確な返事はなかった。

 途切れ途切れに聞こえる声からすると、かおりの父は娘の誕生日にこっそり帰国して驚かそうとしていたようだが、うっかり帰宅の挨拶に応えてしまってにっちもさっちも行かなくなっていて、もう諦めなさいと諭す妻に、なんとかならないかと唸っているようだった。

 

 ――今さら聞こえなかったふりをするのも、わざとらしいですわよね……。

 

 脱いだ靴を揃えながら、かおりは考える。

 Pコートを脱ぎながら、かおりは考える――ローストビーフの美味しそうな匂いが届いてきた。

 スクールバッグからお弁当箱を取り出しながら、かおりは考える――いつもはキッチンまで行ってから出すのだが、時間を稼ぐために今日は玄関で取り出している。

 結局、娘も父もどうしようかと悩んでいるうちに、かおりはリビングにたどり着き、「あらパパ」「お、おう。おかえり」と四ヶ月ぶりの再会イベントをぐだぐだなまま迎えることになった。

 

 

 

 

 かおりは一度自室に行き、父から誕生日プレゼントとして手渡されたマレーシアの衣裳をベッドに広げた。

 マレー系のものらしく、派手な暖色の長袖長ズボンに、その上から着るのであろう淡い色のプルオーバーと膝丈のスカート、ここまではかおりにも理解できたのだが、妙に長いショールと幾つもあるブローチが分からなかった。

 

 ――……実の父親よりクラスメイトの方が私の好みを理解なさっているとは。

 

 衣裳の横には、奈津から貰った封筒も置いてあった。こちらの中身はピアノリサイタルのチケット二枚、かおりの好きな奏者で、演目もラヴェル、フォーレ、ショパン主体の彼女の好みに合うものだった。

 ただこちらはこちらで、「良ければ、私を誘って頂けると嬉しいです」という悩ましいメッセージが添えられている。読んだ瞬間、かおりには「よっ、良ければっ! わっ、私をっ!」という声で再生されて聞こえ、笑みを抑えられなかった。

 

 ――来週末ですわね。この服で行ったら奈津さん驚くでしょうね。

 

 想像して苦笑を漏らしながら、ブレザー、スカート、ブラウスの順で脱ぎ、ハンガーに吊るす。そして、ベッドに並べた衣裳に手を伸ばすが――

 

 ――汗は大丈夫かしら?

 

 学校にはシャワールームも完備されており、部活上がりに汗は流してはいたが、真新しい衣裳を前に躊躇する。手首を顔に近づけて鼻をひくつかせても、嫌な臭いは感じられない、それでも念のため、とかおりは思った。

 

 ――デザインや色はともかく、素材は高級っぽいですものね……。

 

 そのまま伝えれば父親が泣き出しそうなことを考えると、部屋着を身に着け、部屋を飛び出した。階段をリズミカルに下りながら「ママー、パパのお土産着る前にシャワー浴びるねー」と告げる。

 

「はい、ヒジャブの巻き方は分かる?」

「ショールみたいな布? さっぱりー」

「じゃぁ、お風呂あがったらお部屋いって手伝いますね」

「はーい、お願いしまーす」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 親猫に首筋を噛まれた仔猫のように、かおりはみじろぎひとつせずに母親に全てを任せた。

 カシミヤで編まれたヒジャブが、頭頂から始まり、耳、後頭部、肩、胸と巻き付けられ、顔以外の部分を布で隠していく。要所要所をブローチで留めると、完成を伝えるかのように母親は彼女の両肩を叩いた。

 

「はい、出来ましたよ。かおり、似合うわね」

 

 かおりは、鏡に映った自分の顔を見て、観光地にあるパネルの丸板から顔を出しているような印象を持った。だが、そういった間抜けな言葉をそのまま述べて両親を落胆させるのも本意ではないので、なんとか誉める言葉を紡ぎだす。

 

「小顔に見えますね。いいかも」

「かおりは目鼻立ちがはっきりしているから、こういうのも似合うわね」

 

 母親だけあって、娘の自尊心をくすぐりつつ持ち上げる。かおりもそう言われれば悪い気はせず、エキゾチックでいいかも、と思いつつあったのだが、リビングで父親が浴びせた「かおりは色が黒いし似合うな。マレーシアに連れて行っても違和感なさそうだ」との言葉で急速に心が冷えた。

 

「パパ、それひどくない?」

「どうしてだ? 健康的でいいじゃないか」

 

 かおりが見せたのはじゃれる程度の怒気だったが、久方ぶりに愛娘と会う父親にはその理由が分からず、傍目にも滑稽なほどたじろいだ。やれやれといった感じで、母親がフォローを入れる。

 

「ママも学生時代はかおりくらい焼けてたわよ」

「うそー」

「嘘なもんですか。ねぇ、あなた」

「あ、あぁ。高校時代の母さんは陸上部のエースで朝な夕なに練習してたからな。健康的で魅力的だったよ」

「あら、過去形なんですね」

 

 助け船じゃなかったのかよ、と泣きそうな表情を見せる父親を抑えて、かおりが感じ入ったような声を漏らした。

 

「そうなんだ。今はすごく白いのに」

 

 母親の肌は、ロシアか北欧の血が入っていると言っても信じてしまうくらいに白く美しい。その血を継いでいる自分も、同じように美しくなれるのかな、と思ったかおりに母親が太鼓判を押す。

 

「かおりも地肌は白いでしょう? 大丈夫よ。大人になって紫外線に注意すれば、すぐにママみたいになりますよ」

「そうだ、ヒジャブ巻いてれば顔も焼けにくいぞ」

「あなたは少し黙ってましょうか?」

「理不尽だな……」

 

 パパの物言いの方がよほど理不尽ですわ、と心の中で呟きつつ、かおりは手を伸ばし、派手な色の袖から除く小麦色の手を見つめる。そして、母の白い肌をチラっと見やると肩を落とした。

 

「テニス辞めようかなぁ……」

「あらあら、重症ね」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 楽しい時間は、とは良く言ったもので、久しぶりに会う父親に甘えっぱなし(一部怒りモード)だったかおりにとって、金曜土曜はあっという間に過ぎ去っていく。

 そして迎えた日曜日、ディフライトで出国する父を見送りに、かおりと母は国際空港まで同行していた。かおりの姿は父の土産そのまま……というわけではないが、プルオーバーとスカートは着用しており、またヒジャブはショール代わりに肩に巻いている。父は娘がプレゼントを着て見送りに来てくれたことに、いたく感激していた。

 ゲートに消えた父を見送った後、「パパって単純よね」とかおりが背伸びした感想を述べると、母は「パパは、じゃなくて男は、よ」と訂正して微笑んでみせた。

 

 

 国際空港からの帰り、折角だからと風見野の中心部で電車を降りたふたりは、遅めの昼食をイタリアンレストランでとっていた。

 見送りの際に、今度ふたりでマレーシアに来てはどうかと父に勧められたかおりは、よほど楽しみなのかフォークとナイフを動かしながら母に語りかけては、「かおり、食事中にはしたないですよ」とたしなめられる。

 食事が一段落つくと、母があらためて話題にあげた。

 

「チャイニーズニューイヤーかハリラヤがお父さんも連休でいいんだけど、かおりの学校の都合次第よねぇ」

「大丈夫、休むから」

 

 躊躇なく応えるかおりに、母は苦笑すると「じゃぁ、直前のテストで成績良ければ、学校休めるようにお父さんを説得してあげますね」と条件を提示する。

 

「はーい。学年五位以内くらいでいい?」

「はいはい、充分ですよ。あとテニス部を辞めないともっといいわね」

 

 かおりの通っている女子高は母親の母校でもあるので、母にも学年五位がどれほど優秀かはよく分かる。もっともかおりにとっては、安全マージンを設けたうえでの目標設定なのだが。

 

「テニスは辞めませんよ」

 

 はにかむと、ハーブティーで桜色の唇を湿らせる。小麦色の肌の中に浮かぶ唇は、それ自体が一個の生命を持っているかのように蠱惑的に光る。

 

「いつかママみたいになれるだけで、充分だから」

 

 

 

 

 食事を終えたふたりは、中心街でショッピングをしていた。地元の駅前商店街よりも二回りばかり規模が大きい風見野の中心街は、色々と地元にはないショップがあり、かおりはあちらこちらと目移りをさせている。

 

「ママ、ちょっとあのお店見てきていい?」

 

 これで何件目だろうか。だが母は嫌な顔ひとつせず「はいはい、待っているから見てらっしゃい」とかおりを送り出す。笑顔で一礼すると、かおりはファンシーショップに吸い込まれていった。いかにも楽しげな娘の後姿を見送ることは、それだけで母にとって幸せなことだが、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。

 

 ――さっき入ったお店と何か違うのかしら……?

 

 かおりに言わせると、同じファンシーショップでもメーカーが違えば魚屋と八百屋くらい違うのだが、母にはせいぜい青いコンビニと緑のコンビニくらいにしか差はないように見えた。そして、自分の子供時代、両親が家庭用ゲーム機はなんでも同じ名前で呼んでいたことを思い出すと、自分が年寄りの仲間入りをし始めていることを自覚して苦笑気味に顔を綻ばせた。

 その笑顔が、突然の苦痛に歪んだ。

 姿の見えない何者かに、刃物で太腿を斬られたのだった。

 

 

 

 

 

 ――……何か表が騒がしいですわね。

 

 幾つかのグッズをカゴにいれてレジに並んでいたかおりは、遠くに聞こえる喧騒に胸騒ぎをおぼえた。普段はうっかり使いすぎないようにと現金で支払っているのだが、クレジットで手早く決算すると足早に店を出る。

 遠巻きに見つめる群衆。脚を押さえて倒れている母。血だまりとまではいかないが、脚を染める血液。それがかおりが見たものだった。かおりは、手にした荷物をその場に落とし、失語症になったかのように無言で母のもとに駆け寄った。

 

「かおり、大丈夫、心配ないから……」

 

 かおりは、自身を認めた母の途切れ途切れの声に応えることもできず、出血部――太腿の外側を見る。一〇センチ程度の裂傷があり、そこから黒ずんだ血が、滲むように流れ出ていた。

 座学では、対処法は学んでいた。

 出血の色から静脈性出血であることは判断できるはずだし、その場合は直接圧迫による止血が効果的なはずだ。だが、その通りに動けるような冷静さを今のかおりに求めるのは酷に過ぎた。

 それでも、出来る範囲で身体を動かす。

 彼女はポケットから取り出したハンカチを出血口にあて、肩に巻いていたヒジャブを外して包帯のようにぐるぐると巻きつける。そして、群衆の中にいる一人の女学生を指差すと、

 

「すみません! そこのネイビーのPコートの方、救急車を呼んで頂けませんか!」

「え? あ、はい!」

 

 救急車が到着するまでの八分が、かおりにはこの週末全部よりも遥かに長い時間に感じられた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 救急病院のベンチで、所在無げに壁時計を見ているかおりに、ゆっくりと歩み寄った看護師が微笑んで口を開いた。

 

「大丈夫ですよ」

 

 その看護師の言葉が、かおりには天上から響く女神の声に聞こえた。

 

「すぐ止血されていたので、出血量もそこまでではありませんでしたし。もう縫合も終わりましたので、あと三〇分もすれば病室に戻れると思います」

「ありがとうございます」

「神経もぜんぜん大丈夫です。ただ筋肉が傷付いているので、二週間くらい入院して頂くことになるかも。まぁ、そのあたりは先生の判断になるので、話半分でお願いします。ご家族へのご連絡は?」

「父はちょうど今朝日本を立ったばかりで……向こうに着くのが、こちらの時間で八時くらいになります。連絡を取れるのは、九時以降でしょうか」

 

 ちら、と視線を壁の時計に向けると、針は午後六時を示していた。まだ父は機上の人だ。

 

 ――それに、パパに連絡するのはもう少し見通しがはっきりしてからの方がいいでしょうね。

 

 駆け付けられない状況で、詳細はまだだけど……と連絡を受けたら、どれほど心を乱すか。ただでさえ心配性のパパなのに、とかおりは狼狽する父の反応を想像して、心の中だけで苦笑する。

 

「それにしても、最近物騒ですよね。通り魔だなんて」

「……はい、ニュースでも見ていましたのに、被害にあうまで他人事のように考えていた自分が恥ずかしいです」

 

 母の無事が保証されたこの段になって、ようやくかおりの心に犯罪者への怒りがわいてくる。もっとも、姿を見ることさえ出来ておらず、その怒りを振り下ろす先はないのだが……。

 

「不幸中の幸いといいますか、今のところ人命に係わる被害は出ていませんし、早く犯人を捕まえて欲しいものです」

「はい、出来れば一発張り倒したいです」

 

 ぶん、と平手で空を叩く。そんなかおりの様子を見て意気消沈するよりはずっと良いと思った看護師は、柔和な笑みを浮かべて手を差し伸べた。

 

「じゃぁ、病室にご案内しますね」

 

 

 

 

 

 案内されたのは四人部屋だったが、みっつのベッドは空きであり、実質的にひとり部屋となっていた。案内した看護師が、泊まるなら空きベッドを使っても良いことを告げると、かおりは是非と応える。また、血痕のついた洋服を洗濯しようかという提案にも甘えることにした。なので、病室に運ばれてきた母は、患者用パジャマを着たかおりの姿に、あらあらと笑いとも呆れとも受け取れる反応を示した。

 

「ママ、大丈夫?」

 

 母をベッドに寝かせると、看護師は一礼して退室した。かおりはベッドの脇にある椅子に座り、母の顔を覗き込む。

 

「えぇ。心配かけてごめんね、かおり。しばらく入院しないといけないみたいだけど、家のこと大丈夫?」

「大丈夫。家庭科は優だもん」

「それは筆記試験でしょう……。楽だからってインスタントラーメンとかお菓子ばかり食べちゃダメですよ」

「そっ、そんなことしませんわ!」

 

 図星をつかれて、思わず他所行きの口調で応えると頬を紅潮させる。そして「栄養も考えるようにするから、ママは安心して」と付け加えた。料理の出来ないかおりにとっては空約束だったが、この約束は級友数名の自発的な弁当提供――夕飯分、翌日の朝食分を含む――によって守られることになる(級友が疑問に思うまでの数日はパンばかりだったが)。

 不都合な話題から話を逸らしたくて、かおりは言葉を連ねる。

 

「ママ、警察への連絡はどうすればいいの?」

「それはもうやって下さっているから、かおりは気にしなくていいわよ」

「パパへは?」

「ママからしておきますよ。かおりから『ママが怪我して入院! 詳しくはわかんないけど!』なんて電話したら、パパ腰ぬかしちゃうわ」

「はーい。あ、ママ、ちょっと笑って。できれば元気に」

「なにかしら?」

 

 きょとんとした様子で笑顔を浮かべる母に、かおりはバッグから取り出したスマートフォンのレンズを向ける。そしてカメラマンよろしく、表情が硬いだのもっと自然にだの、細かい注文を飛ばした。母はやれやれといった様子で、娘の指示に従う。

 やがて満足いく写真が撮れたのか、かおりは頷いて携帯端末をバッグに戻した。

 

「明日にでも、パパに画像メールで送っておくね。電話だけだと心配しそうだし」

「それはいいわね。ところで明日と言えば、学校はどうするの?」

「えーと、朝に一回家に戻って、午後から出ようかな? ママが寂しければ一日中ついててあげるけど?」

「あら、今から帰って明日朝から学校に行っていいのよ?」

「あー、お洋服洗濯してもらってるから、残念だけどそれは無理かも。残念ー」

 

 かおりのわざとらしい物言いに、ふたりは顔を見合わせて笑みを浮かべた。お互いに相手に精神的な余裕があることを確認した安堵の笑みだ。そして、時計の針が八時近いことを確認すると、母は娘に食堂か売店で夕飯をとることを勧めた。

 

「うん。ママは? 何か買ってくる?」

「ママは点滴も受けたし。口汚し程度にお菓子でも買ってきてもらえるかしら」

「和? 洋?」

「もし選べるようなら、和菓子の方をお願い」

「了解。あとちょっと誤用かも?」

 

 ウィンクすると、かおりは上着を掴んで病室を出ていく。母は「あら」と応えて、首を傾げながら娘を見送った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 夕飯を終え、乾かした洋服を看護師から受け取ったかおりは、消灯の時間まで母と談笑していたが、灯りが消えると「早く寝ないと、なかなか治らないよ」と母を急かした。その態度には母はいつもと逆だと内心で苦笑するが、そのことには触れずに「はい、わかりましたよ」と返して起こしていた上半身を横にする。

 

「おやすみなさい、ママ」

 

 母に掛け布団をかけると、かおりは目を細めて言った。そして、隣のベッドにもぐりこみ、布団を頭までかぶって狸寝入りを決め込んだ。狸寝入りはしばらく続いたが、母の寝息が聞こえてくると、かおりも安心して意識を徐々に途切れさせていった。

 

 

 

 一時間か、それとも二時間が経った頃だろうか、かおりは物音に目を覚ました。そして眼前の光景に、急速に意識を覚醒させる。

 天上灯に照らされた母の布団が血に塗れていた。

 おそらくは母がナースコールをしたのだろう、駆け付けた看護師が真剣な表情で母の傷口を両手で押さえている。その表情はかおりには焦燥と狼狽の色が濃く出ているように見えた。

 母は汗を滲ませて歯を食いしばっている。瞳を閉じているので、かおりが目覚めたことにも気付いていないようだ。

 

「ママ、大丈夫?」

 

 その言葉にかおりが起きたことを認めた母が、無理に口角を上げて、途切れ途切れに応えた。

 

「起こしちゃったのね、ごめんね。傷口が開いちゃったみたいで……かおりは気にしないで、寝てていいのよ」

「でもママ、血が……看護婦さん、どうしたんですか!」

「非吸収系の縫合糸が溶けて、傷が開いたみたいです……今、手術の準備をしています」

 

 止血をしようと圧迫している看護師が、戸惑った口調で応えた。ナイロンの縫合糸が人体に分解されるなど、ありえない現象だ。いや、吸収系の縫合糸であっても、このように急速には分解されない、まるで――

 

『魔力を感じる。断定はできないが、魔女の呪いかもしれないね』

 

 かおりの心に直接語りかけてくる声があった。かおりにとって聞き覚えのある声だ。

 奇跡と引き換えに魔法少女となるように、何度も接触してきた生物。「そのような神頼みで叶う願いなど、わたくしには必要ありませんわ」と拒否するうちに、姿を見せなくなっていたのだが。

 

『やぁ、かおり。久しぶり――四ヶ月ぶりかい?』

「……キュゥ」

『声は出さなくていいよ。頭で思ってくれれば伝わる』

『魔力って? 呪いってどういうこと?』

『ふさがり縫合した傷が開く。それも溶けないはずの糸が溶けて。尋常の範囲で、起こりうる事態なのかい? それに、キミのお母さんの傷口からは、さっきも言ったように魔力を感じる。自然に治癒する類のものとは思えないね』

 

 奇跡でもなければ、と言外に匂わせたキュゥべえの言葉を、かおりはすぐに理解する。そして、即座に決意する。仮にそれがキュゥべえの絵図通りのことだとしても、かおりには他の選択はありえなかった。

 

『……キュゥべえ、まだ、わたくしには契約する資格はありますの?』

『もちろんだ。気が変わったのかい?』

 

 

 

 

 頷くかおりを、キュゥべえはロビーに誘導した。

 契約の際に悲鳴をあげるだろうから、病室では母を心配させると説明されれば、かおりに断る理由はなかった。非常灯の光しかないロビーは薄い赤に照らされ、その中を歩くキュゥべえは全身が血に塗れているようにも見える。そして赤い瞳は、より禍々しく血の色に染められていた。

 血の色の瞳でかおりを凝視すると、その生き物は告げる。

 

『さぁ、夜宵かおり――その魂を代価にして、キミは何を願う?』

「ママの――いえ、これが呪いというのなら、この呪いに苦しんでいる全ての人を癒すことはできますか?」

『未来永劫というのは無理だろうね、今この瞬間にという話ならば可能だろう。だが、たった一度の奇跡を他人のために使っていいのかい?』

「今までわたくしを慈しみ導いて下さったママのために祈るのでしたら、何も惜しくありませんわ。ただ一度の奇跡のみならず、この命も魂も捧げましょう」

 

 かおりの意思を確かめると、ひと呼吸をおいてキュゥべえが高らかに宣言する。

 

『おめでとう、かおり。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』

 

 キュゥべえは耳から生やした一対の触腕を、かおりの下腹を掴むかのように伸ばす。かおりはその腕に恐怖をおぼえ、瞳を閉じて身を強張らせる。

 触腕が身体に迫るにつれ、パジャマのボタンがひとりでに外れ、下着のホックがとび、髪をアップにまとめていたヘアバンドまでもが千切れ、黄金色の髪が重力を感じさせない動きで翻った。

 キュゥべえの触腕が押しているわけでもないのに、ボタンが外れたパジャマの裾が大きく広がっていき、衣服自体が意志を持っているかのように袖口から抜け落ちる。

 続けて下着も落ち、夜の冷気を受けて露わになった乳房が硬くなる。だが隠したいというかおりの意志に反して、両腕はぴくりとも動かなかった。

 刹那、内臓を鷲掴みにされるような不快な痛みがかおりを襲った。

 露わになった下腹部、その小麦色の肌の中へ、キュゥべえの触腕が水面に棹さすかのように潜り込んで来たのだ。

 キュゥべえの事前の警告がなければ泣き叫んでいたかもしれない、しかしかおりは、呻くような声を漏らしたのみで耐えた。耐えきってみせたかおりに、キュゥべえが穏やかな声で告げた。

 

『さあ、受け取るといい。それがキミの運命だ』

 

 瞳を開いた彼女の眼前には、蒼銀の色に輝く卵形の宝玉――ソウルジェムが主の手に取られることを待ち望んで虚空に浮いていた。


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