「で、いきなりどうしたの?」
胡桃を部屋に招き入れた後、彼は尋ねる。胡桃はそれにすぐ答えず部屋の奥へと進み、ベッドの端へ腰掛けてから顔を俯けた…。
胡桃「あの………さ………」
今日こそ、絶対に伝える…。
誤魔化したり、逃げたりしない。
自分の気持ちを…彼に真正面から伝えるんだ。
その為に、ここへやって来たのだから…。
胡桃(勇気を出せ……がんばれ、あたしっ……!)
俯けていた顔を上げ、胡桃は口を開こうとする。
しかし、その時ちょうど彼が目の前まで歩み寄ってきて不思議そうにこちらを見ていた為、胡桃はまた顔を俯けて目を泳がせた。
「…大丈夫?」
胡桃「う…ん…………一応、大丈夫………」
目を合わさず、下を向いたまま答える。
ここまで来たのだから、もうやるしかない。
ここまで来て、今更逃げるなんてそんなのは無しだ。
頭ではそう分かっているのに、いざ彼を前にすると胸がドキドキとして苦しくなる…。喉の奥が一気に渇いていくかのようにキュウッとなり、視線がキョロキョロと動く…。
胡桃「あのさ………あ、あたし…………あた…し……っ……」
逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて頑張ってみるも、上手く言葉が出せない…。目の前では彼が心配そうにこちらを見ていて、何とも申し訳なくなる…。その気になればほんの数秒で事足りるくらいの言葉なのに、それすら簡単に言えない自分が情けない。こんな事に手間取って彼を心配させてる自分が、本当に情けない…。
胡桃「………ごめん」
「ん?えっと……何が…?」
彼が苦笑しながらそう聞いてくる…。
けど、自分でも何に対して謝っているのかよく分からない。
思う様に口が動かせなくて困った時、気付いたら『ごめん』と言っていた。もしかしたら、伝えたい言葉をすぐに伝えられず、無駄に時間が掛かってしまっている事に対して『ごめん』と言ったのかも知れない…。いや、特に意味などなく、ただ時間稼ぎにそう言っただけかも…。
あれこれ考える胡桃だったが、彼女はすぐに適当な返事をした。
胡桃「ここ最近、お前に冷たくしちゃってたから………」
「あ、ああ…その事ね…」
悪意があって冷たくしていた訳ではない。
せっかくなのでその誤解も解いておこう…。
胡桃は恐る恐る顔を上げると、彼の顔を見つめながら自分の腰掛けているベッドを左手でポンポンと叩く。立ちっぱなしなのも疲れるだろうから、自分の隣に座ってくれという合図だ。
直後、彼もベッドの上に腰掛ける。
座った場所は胡桃の隣だが、あまり近過ぎても悪いと思ったのだろう……数十センチほど離れた場所を選んでいた。
胡桃「えっと、最近お前と距離をとってたのは……その、お前の事が嫌になったとかそういうのじゃなくてさ…。あ〜っと……その……なんて言えば良いのかな………」
上手い言葉が出て来ない…。全てを正直に話してしまえたら一番なのだが、それが出来ないから困っているんだ。
胡桃「とにかく…ごめん……。
嫌な思いさせたよな…?」
「う〜ん……まぁ、少し複雑な気持ちにはなってたけど、嫌われたわけじゃないっていうのなら一安心かな」
胡桃「……うん……嫌いになっては、いないから……」
むしろ、その逆なんだ……。
嫌いになんて、絶対にならない…。
胡桃(ああ、口…動かないなぁ……)
肝心な事を伝えようとした時に限って、唇が震える。
思い切って全てを明かし楽になりたいのに、全然口が動かない…。
なんなら、自分の気持ちを全て明かすとまではいかなくても良い。たった一言だけでも伝えられたらそれで良いのに、それすら出来ない…。
「…本当に大丈夫?」
沈黙が長引いたせいか、彼が顔を覗き込んでくる…。
それに対して『大丈夫』と答える際には口も動くのに、何で肝心の時には動かなくなるのだろう…。こちらを見つめる彼に向け、あっさり全てを伝えられたら楽なのに……なんて、考えていても仕方ない。
胡桃「あの………さ………えっと……あたしっ、お前が………」
伝えよう…伝えよう…伝えよう……。
胡桃は隣に座る彼と目を合わせ、口を開く。
あとは声を出すだけ…言葉にするだけ…。
胡桃「………お前が、無事に目を覚ましてくれて嬉しかった…。
一応、ちょこっと心配してたからさ、安心したよ…」
えへへと笑い、そう告げる…。
もちろん、こんな事を伝える為にここへ来たのではない。が、彼を前にすると胸が苦しくて、素直になりきれなかった…。あと少しなのに、もう少しなのに……。
「……そうか。心配してくれてありがとう」
胡桃「…おうっ。もう怪我とかすんなよ?
あたしはともかく、由紀のやつが悲しむからさー」
胡桃はベッドから立ち上がり、彼に背を向けて歩き出す。
伝えかったのはそれだけだと……これだけを言いに来たのだと、そう思わせるように歩き出す。けど、本当は違う。本当に伝えたかったのはもっと別の事なのに、結局、胡桃は――――――
胡桃(言え…なかった………。
ここまで来ておいて、言えなかった………っ…)
あと少しだったのに、寸前のところでまた誤魔化してしまった。逃げてしまった…。そんな自分が本当に情けなくて、胡桃は彼に背を向けてすぐ瞳に涙を溜める。今日こそ伝えると決心したはずなのに、やっぱり逃げた…。ほんと、自分はどうしようもないくらいに弱くてダメな女だ…。
胡桃(……くそっ……くそ…っ…!)
数秒前までは何ともなかった瞳に涙がぶわっと溜まる…。
一歩前に歩くだけでも、その振動で涙が零れ落ちそうだ…。
ここでダメならもう、自分は終わりだ…。このまま彼の部屋を出て、自室に戻って、ベッドの中で泣き崩れよう。シーツに包まって気が済むまで泣き、それで終わり。
もう、今日みたいな挑戦は二度としない…。
彼への気持ちは全部諦める…。
彼とはこれからも今まで通り、友達のままでいれば良い。
結局自分には……恵飛須沢胡桃にはそれがお似合いなんだ…。
「………胡桃ちゃん」
ふと、彼が後方から呼び止めてくる。
胡桃は瞳に溜まっていた涙を精一杯抑えるとほんの少しだけ首を曲げて振り返り、彼の方を見た。
胡桃「…ん?どうした…?」
泣きかけたせいで声が震えている…。
しかし、彼はそれに気付いてはいないようだ。
「あのさ、せっかくだから僕からも伝えておくよ。
今日、またじっくり考えてみた…。それで一つだけ見つかったんだ」
胡桃「見つかった…?何が?」
「これからやりたい事というか……こうありたい!っていう未来のイメージ」
ニコッと微笑む彼を見て、胡桃も小さく微笑む。
けどこの時、胡桃は内心でドキッとしていた…。
彼に目標が出来たのは良い事だと思う…。けど、もしかしたら彼はその目標の為にここを出ていくかも知れない。みんなのもとから、自分のそばから、離れていってしまうかも知れない…。
胡桃「…そっか………よかったじゃん」
彼がどんな道を選ぼうと、とやかく言う権利は無い…。
自分はただ、それを応援する事しか出来ない…。
彼がここを離れて一人でどこかへ向かうとしても、それを止める権利なんて自分には無い…。そばにいて、なんて言う権利は…無い。
胡桃「…で、どんな事がしたいんだ?」
自分には何の権利も無いが、彼がどんな未来をイメージしているのかは気になる。彼の夢を知り、それを応援するくらいの事はしてあげたい…。どこか弱々しい笑みを浮かべながら胡桃が尋ねると、彼は右手の指先で頬を掻きながら照れ笑いする。
「それが…まだぼんやりとしかイメージ出来てないんだよね…。
とりあえず、もう暫くは
胡桃「なるほど、それもそうだな…」
柳には色々と恩がある。
それを返しつつやりたい事を探す、というのが彼の目標なのだろうか…。胡桃はそんな事を思ったが、次の瞬間、彼は続けてこう言った。
「それでさ、ここからが本番なんだけど……」
何か、少しだけ彼の様子がおかしい…。
視線を落ち着きなく泳がせていつになく慌てているというか、緊張したような雰囲気だ。その後、彼は少しの間だけ言葉を詰まらせていたが咳払い一つして静かに深呼吸をする…。そして、ベッドから立ち上がり胡桃の前へと歩み寄り………
「出来るなら、これからもずっと君と一緒にいたい」
と、真面目な声色で告げた…。
視線は真っ直ぐ胡桃に向けられ、ピクリとも動かない。
胡桃の方も突然の事に理解が追い付かず、ただボーッと彼の事を見つめ返していたが、すぐに変な汗が浮かびだす。
胡桃「…えっ……?えっと…それ、ど、どういう…………」
「ここ最近、いつも考えてた。これから先、みんなはそれぞれの道に進んでいく…。離れ離れにだってなるかも知れない。それは仕方ない事だけど、少し寂しいというか………一人で生きていくのが不安になってきたというか……」
恥ずかしい事を言っているような気がしてしまい、彼は胡桃から視線を逸らす。しかしまたすぐに彼女の事を見つめ、言葉を放つ。
「で、思ったんだよ。由紀ちゃんと離れるのも、りーさんと離れるのも、美紀と離れるのも仕方ない。みんなの事は好きだけど、みんなが選んだ道なら仕方ない。けど、それでも………君とだけは…胡桃ちゃんとだけは絶対に離れたくないって、そう思った」
彼は胡桃と向かい合い、彼女の右手を静かに握る…。
両手で包み込むようにゆっくりと、優しく…。
胡桃はそれを振り解いたりなどせず、ただ受け入れていた。
「ワガママだって分かってるけど、胡桃ちゃんだけはそばにいて欲しい。この先、どれだけ辛いことや苦しいことがあっても胡桃ちゃんさえそばにいてくれたら、きっと大丈夫だから…」
落ち込んだ時や辛い時、いつも胡桃がいてくれた…。
勿論、由紀や悠里、美紀も自分の事を支えてきてくれたのだが……一番そばで支えてくれていたのは胡桃だったのだと思う。
これまで、彼女の言動や笑顔にどれだけ助けられただろう…。
男勝りな性格をしてるように思えて、実は繊細で乙女な胡桃…。
彼女がたまに見せる、照れたような顔が好きだ…。
辛い時、そばに寄り添って来る時の綺麗な目が好きだ…。
無邪気で愛らしい笑顔が好きだ…。優しくて温かい声が好きだ…。
少し前、彼は将来の事を考える中で漸く気付いた。
自分は胡桃の事が大好きだったのだと…。
彼女無しではもう、生きられないかも知れないと…。
だから、彼は胡桃の手を握る。
その綺麗な瞳を真っ直ぐに見つめる。
胡桃「そばにいて欲しいって……それって……その……」
まさかと思い、胡桃は問う。声を震わせ、瞳を潤ませながら、目前にいる彼の事を真っ直ぐ見つめて…。
「…胡桃ちゃんの事が好きだ。
だから、これからもずっと一緒にいて欲しい」
両手で包んでいた胡桃の右手をギュッと握り、彼はそう告げた。
聞き間違いなんかではない…。彼は今、ハッキリ言った。胡桃の事が好きだと…。一緒にいて欲しいと…。
胡桃「っっ……う………あ、ははっ……」
驚きと喜びが一気に押し寄せ、思わず胡桃は笑ってしまう。その際に片方の目から涙が溢れたが、胡桃はそれをすぐに左手で拭い笑い続けた。
胡桃「ふっ、はははっ……あ〜もう、予想外過ぎるだろ……」
拭ったばかりなのに、また涙が溢れてくる。
彼が自分の事を好きだと言ってくれたのが嬉しくて、本当に本当に嬉しくて、胸がいっぱいになる。少しでも気を緩めたらこの場で大泣きしてしまいそうなくらいに嬉しいが、それは自分のキャラに合わない。
胡桃「…けど、ありがと…。
ほんとに…ほんとに……ありがと……」
顔を俯けてそう呟きながら、彼の胸に顔を埋める。
こうして彼に寄り添うのは初めてではないのに、これまで感じてきたどれよりも今この瞬間が一番温かくて心が安らぐ…。胡桃は足元に二、三粒だけ涙を零してからすぐに目元を拭い、そのままの状態で告げる。さっきは言えなかった言葉も今なら伝えられると確信していた……。
胡桃「あたしも、お前と一緒にいたい……」
短い言葉になってしまったが、それは彼にしっかりと伝わった。
胡桃の言葉を聞いた彼はその嬉しさにニコリと微笑みを浮かべ、彼女の頭をそっと撫でる。これから先、どんな毎日が待っているのかは分からない。もしかすると、これまで以上に大変な事が色々あるかも知れない。けど、それでも………一人じゃない。胡桃と一緒なら、全部を乗り越えていける気がした。
ここまで来るのに随分と時間がかかってしまいました…。