死灰再燃・火は復た熾る   作:メンシス学徒

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ソウルを求めよ!




輪の都・後編

 

 

 

 奴隷騎士と火の無い灰。小人たちの流刑地は、この二人によって徹底的に陵辱されたといっていい。

 とうに残骸のようだった輪の都を残骸にしつくした人間たちは、その終極にてついに互いを壊し始めた。

 

 ――なんと、ひどい有り様か。

 

 この場所をこしらえた神々が見れば、さぞや嘆いたことだろう。

 あらゆる生命の息吹が途絶えたこんな最果ての只中で、栄枯盛衰、諸行無常の寂寥感に浸るでもなく、ひたすら肉の削り合いに腐心する。何も学んではいない。この種族が世界の終わるその瞬間まで殺し合うのをやめられないのは本当だろう。証明が成されてしまったのだ。動作の端々にまで、その説得力が満ちている。

 

 ヒトの愚かさが凝り固まったような二人であった。

 

 血と闇に染まりきった大剣が、うなりを上げて掠めるたびに深刻な命の危機を感じる。

 こんなものが直撃すればどうなるか、想像するだに恐ろしい。鎧の有無など関係なしに、当たった部位が弾け飛ぶのではあるまいか。

 足場の悪さも問題だった。さらさらと流れる砂は一向踏ん張りが利いてくれず、おまけにゲールの斬撃が、いちいち砂煙を巻き上げるからたまらない。視覚のみに頼って戦っていたならば、とっくに赤黒い染みにでも加工され、束の間大地を潤していた。

 地の利は明らかに相手側に味方していて、膂力に於いても劣る彼女は必然、苦戦を強いられる。

 

(だが、負けん。負けてたまるかみくびるな――)

 

 内臓を搾り出すかのような呻吟と共に繰り出された五連撃。最初の一つを盾で受け、続く二の太刀、三の太刀を転げ回ってどうにか避ける。四の太刀で、捕まった。あの巨体から、信じられないほど素早い踏み込み。間合いが殺され過ぎている。回避はもう間に合わない。どうにか彼我の間に盾を挟みはしたものの、がぁんと大きく弾かれた。

 体が開く。

 ゲールが跳ね飛ぶ。

 垂直に構えられた断頭剣。頭の天辺から肛門まで一直線に開きにされる未来が視える。

 筋組織に無茶をいい、崩れた姿勢のまま強引に、絶死の空間から逃れ出んと足掻いてみせる。落下してくる奴隷騎士の股下を、辛うじてすり抜けるような形になった。

 ずきりと、腰椎のあたりがにわかに痛む。無理を利かせた代償だろう、知ったことかと打ち捨てた。

 渾身の一撃を空ぶったツケは大きい。あの断頭剣が、ほとんど柄まで砂の中に没しているのだ。首だけになってでも喰らいつくべき隙だった。

 躊躇せず、背中に鋼を打ち込んだ。

 何億回と繰り返したであろうその動作。しかし刃先から伝わってくる手応えが明らかに違う。肉を裂いている感触ではなかった。かといって、石造りのゴーレムや竜のウロコともまるで似ない。

 どろりと生あたたかく、纏わりつくような手触りは――ああ、そうだ。心地のいいこの優しみは、ウーラシールの穴の底で味わった――

 

「――おおおおおおおおォォッ!」

 

 獅子吼と共に振り抜いた。

 飛び散る血液を目端で追って、ああ、やはりと納得する。

 

(だいぶ、濾しあがりつつあるじゃあないか)

 

 たった一太刀を浴びせるために、何度死線をくぐったのか。

 勝負を決着させるためには、あと何度同じ作業を繰り返さなければならないのか。此方は一撃貰っただけで、もう致命傷になりかねないというのに。

 暴風雨の中、千仭の谷に渡された蜘蛛の糸を行くに等しい大苦行。困難どころの騒ぎではない代物に、しかし彼女は迷わず挑む。

 

 

 どれほどの時が経ったのか。

 

 

 引き延ばされた一秒間の連続に身を置く彼女にはわからない。が、なにやら潮目が変化したのは感じていた。

 天が暗い。

 うねっている。

 時折走る稲光の凄まじさときたらどうであろう。

 

(こいつが、呼び寄せやがったか)

 

 制御を放り投げられて、大廻旋する彼女の中の人間性にあたかも共鳴するかの如く。ゲールに巣食った暗い魂の脈動が、高まり続けて止まらない。

 とめどなく噴出する赤黒い蒸気は、ああ、あれは、質量を獲得するまで濃度を増した呪詛なのか。いまや彼の動作すべてに付随して、単にマントを翻すだけでも城壁を砕きかねない威力が宿る。況や、剣戟に於いてをや、だ。

 

(しかし、当たりさえしなければ)

 

 どうということはないであろう。幸いここまでの攻防で、ゲールの動き――その底に流れる音律は大方見切った。

 薙ぎ。

 返し。

 突き。

 左が空いた、二度斬りつける。

 されどゲールは怯まない。打ち下ろしから、宙で体を寝かせての、全体重をかけた回転切りへと移行する。

 騎士アルトリウス、深淵の監視者――類似の技の使い手に心当たりはあるものの、この男ほど甚だしく空中で斜傾することはなかったはずだ。ましてやその最中にクロスボウを乱射してくるなどと、前代未聞の沙汰である。

 

(惑わされるな)

 

 落ち着いて対処すればいい。これが一撃で終わらないことは知っている。奇襲効果は失われているのだ、今更動揺するものか。飽きもせず、同じ技を繰り返す愚を教えてやれ。

 ひとつ。

 ふたつ。

 よし、絶好の位置を確保した。その命脈、今度こそ叩き切ってやる。

 意気込み新たに繰り出した、全力の一撃は、しかし。

 

「――――ッ!?」

 

 着弾の瞬間に、彼女の視界を白熱させる報いを与えた。

 何が起きたか、生煮えの脳細胞で把握する。

 

(信じられん――こいつ、自分に雷落としやがった!)

 

 それも彼女の斬撃と、タイミングが合致するよう見計らった上で、である。思惑はまんまと功を奏し、蒼く光る雷電は得物を通じて彼女の肉体にも侵入すると、深々とその爪痕を残していった。

 それが意味する事実は一つ。ゲールは自分の呼吸が読まれたことを理解していた。

 その上で、なおも諦めず。彼女が掴んだ有利をいっそのこと逆用し、どうにか虚を衝いてやれまいかと思案して、気違い沙汰に打って出るしか道はないと判断したのだ。

 痛みなくして勝利なし。そのことを、骨髄に沁みるまで奴隷騎士は知っていた。

 

(執念で上を行かれたか。自爆特攻とはやってくれる)

 

 実に不死人らしい戦い方だと――待ておいやめろ、なんでもう動き出してるこっちのからだはまだ麻痺して、大気を裂いて迫り来る鉄の塊が避けろ馬鹿。

 ああ、ちくしょう。肩が削がれた腕が落ちるぞくそったれ、急いで肉を補わなければ、満足に盾も扱えない。エストを()る必要がある。だがこの陰険爺ィが、そんなことを許してくれるか?

 そらみたことか、案の定だ。ここぞとばかりに一気呵成に攻め立てて――きさま、ふざけるなよこのやろう! その光輪、五つも同時に飛ばせるのなら、どうしてあの黒い炎の修道女を仕留めるときにそうしなかった! ええい、肝心要で役に立たない老いぼれがぁ!

 物事の順序を無視しきった理不尽この上ない憤激からなる一閃は、しかしだからこそ予想外の反応であり、ゲールの胴をしたたかに打つ。

 

「ごっ――」

 

 鬼相を呈して叩き込んだ逆撃は、暗い魂で溢れかえった老爺をしてさえ数秒、よろめかせるに足るもので。

 その隙に、彼女はしっかりエストの補給を済ませていた。

 仄かに見えた決着は、再び彼方へ遠ざかる。戦況は完全に泥沼化していた。互いに腰までどっぷり沈み、それでも這い上がろうとはさらさら思わず、相手の頭をつかまえて、より深みへと突っ込むことしか考えていない。

 窒息するのが相手より一秒でも遅ければ、自分の勝ちだと言わんばかりに。

 おぞましく、胸がむかつき、不格好できたならしい、病み犬の縄張り争いにも劣る、最低最悪の闘争は、しかしあまりに人間的でありすぎた。

 これこそ人の精髄、その極み。一筋縄では片付けられない、綺麗ごとでは済まされない、どうにもならない汚穢を抱えて、なまなましい、その悪臭を胸に吸い込みむせかえり、それでもと傲慢に足掻きのたうつからこそ彼らの闇はたまらぬ芳醇さを醸すのだ。

 だから、最後に軍配が上がるのは。

 より強く、より厚顔に、自身の(すべて)を肯定した方だろう。

 

 

 

 

 狐狸に化かされ、鼻でも抓まれたようなむず痒さを感じていた。

 

(はて、これはなにやら、うまいこと……)

 

 アリアンデル絵画世界の「お嬢様」に待望の顔料を届けて、思う。自分は便利使いに処されたのではあるまいか?

 

(処刑器具と、配達人。ついでに燃料も兼ねていたのか? ――顔に似合わず、存外、したたかじゃあないか、あの爺ぃ。この私をまんまと利用してのけるとは)

 

 むろん、奴隷騎士ゲールのことである。

 もし、小人の王たちの性根がもう幾許か座っていて、まだ水気を残していたならどうしたのだろう。適当な奴を雑巾みたく絞り上げ、それで顔料――暗い魂の血を手に入れようとでも画策していたのだろうか?

 しかし案に相違して、彼らは干物以上に干物であった。

 何処を突いても血など一滴たりとてこぼれない。ならばとばかりに彼は生還を放り投げ、自分を一個の器と扱い、暗い魂を投入し、求める顔料を練り上げようと試みた。

 

(小人の王たち。王、たち(・・)か)

 

 複数形。――彼らはどのようにして暗い魂を得たのだろうか?

 始まりは誰も知らぬ小人だった、それは間違いない。グウィンよろしく、その彼が、選出した幾名かの同胞に力を分けでもしたのだろうか? それとも各々が自力で見出し、列席の名誉を獲得したのか。そこまではちょっとわからない。

 

(だが、いずれにせよ、彼らは暗い魂を錆びつかせた)

 

 どうせ滅びるなら滅びるで、もっと華やかに燃え尽きればよかったものを。

 我と我が身が干乾びてゆくのを自覚しながら、しかし何の手立ても講じずに、ただ自然の成り行きに任せるような、そんな怠惰と諦観が、すべてを蝕む暗黒にさえ饐えた臭いを放たせたのだ。

 神々にとっては、最高に都合のいい展開だったに違いない。聖職者が垂れる説教とは、畢竟人の志を縮小させる服従の道理だ。それを忠実に履行して、ついに何もしない(・・・・・)という究極の美徳に到達した彼らを、手を打って褒め称えたことだろう。いい子だねえ、正に賢者だ上出来だとも、そのまま穏やかに壊死したまえよ。……

 皮肉にも、それはエルフリーデが選んだアリアンデルの甘い腐れにも酷似していて。

 ゆえに、解決策も簡単に導き出せるだろう。炎――圧倒的な熱量による融解だ。

 一旦融かし、不純物を取り除き、膿を雪いで純度を高め濾しあげて。それでこそ同じ轍を踏むことのない、新たなる絵画世界を描く顔料として相応しいモノが出来上がる。

 どこか金属の精錬を思わせるその作業は、しかし現実に於いては闘争という手段でのみ成就された。

 彼女を相手取っての、あの大激突がそれである。品質向上(・・・・)のため、正気であろうがなかろうが、奴隷騎士は火の無い灰と殺し合わねばならなかったに違いない。

 

(そう考えると、むしろ自我崩壊は好都合か)

 

 あらゆる箍が吹き飛んで、本当に力の限り最期まで闘うことが可能となる。こいつを斃してしまったら、顔料を取り出すことも、「お嬢様」に届けることも不可能になる、第一アリアンデルを焼いてくれた恩人に向けて、こんな振る舞いに及んでいいのか――などと、そんな小賢しい思慮をちらとでも念頭に残していては駄目なのだ。暗い魂は応えない。

 ただひとえに「お嬢様」のため。――何もかもがわからなくなり、視界(すべて)が闇に閉ざされようと、そのことだけは忘れなかった。

 ただ一念のみを残してあらゆる要素が蒸発したとき、暗い魂の血を練り上げる、完全なる器が生まれたのだろう。

 闘いが苛烈になればなるほど、暗い魂は純化され、往年の勢威を取り戻していった。

 それこそが、ゲールの見せた異常なまでの出力上昇のからくりなのだ。

 彼女はさしずめ燃料であり、また攪拌棒の役でもあった。

 闇のソウルの真髄に最も迫った、いわば同族(・・)たる彼女の人間性にも引っ張られ、ゲールと暗い魂の同調は進み、やがて化身を通り越し、ついにそのもの(・・・・)となりはてたとき、彼の虚ろに顔料として使うに足る、濃厚な血が生じていた。

 

(で、終わってみれば、私も貴様も十全に目的を達していた、と。こんな決着があるとはなあ)

 

 血は、どうせ持っていても有効活用出来ないものだ。火を見た少女が暗い魂の色彩で描く世界とやらにも興味がある。「お嬢様」に進呈して悔いはない。

 

(だが、このソウルまでは渡さんぞ)

 

 血と同時に手に入れた、奴隷騎士ゲールのソウル。

 人間性のカタチに異形化が進行した力あるソウルとの邂逅は、これで実に二度目となる。

 やはりこれも、「一度目」と――深淵の主のそれと同じく、誰かを想う粘液質な生あたたかさに満ちていた。

 

(期待以上だ、なんと莫大な力を宿していることか)

 

 錬成炉にぶちこめば、さだめし有用な何かが誕生するに違いない。

 鬼であろう。血も涙もない、合理一点張りの思考であった。

 とまれかくまれ、彼女が輪の都を訪れた目的は、これによって完全に達成されたといっていい。むしろ釣りが出るほどだ。その釣りのぶんの労働が、こうしてアリアンデルへと脚を運び、「お嬢様」に顔料を渡す配達作業と考えるなら――なるほど、これは帳尻が合っている。

 

(……しかし、ああ、なんだろうな。整合性が取れすぎているというのも、これはこれで)

 

 捻れに捻れ、曲がりきった彼女の精神性からしてみれば、どうにも薄気味悪く感ぜられるものらしい。

 彼女は憮然顔で、篝火の前に腰を下ろした。

 あの老人の押し殺した笑い声が、何処からか聞こえて来るような気がした。

 

 

 

 

 

「探しましたよ、闇深き人」

 

 

 

 

 

 その後、どういうわけかこの女はもう一度、何もなくなったはずの輪の都を訪れている。

 理由は、よくわからない。

 

 ――そういえば、あの小人は。

 ――輪の都を糞溜めと呼んだ、崖下のあの小人は、まだ生き残っているのだろうか。

 ――もしかすると、真実の輪の都に投げ出されているのかも……。

 

 そんなことを言っていたらしいが、果たして本気であったか、どうか。

 アリアンデルの「お嬢様」に絵を描き上げる時間を与えるべく、適当な理由をでっち上げたのだろうと、彼女に好意的な人々――深淵の忌み子、カルラが筆頭――は洞察する。

 最初の火の消滅が絵画世界にどう影響するかわからぬ以上、もし最悪の方向に転がって、奴隷騎士の献身が無に帰すような……そんなちゃぶ台返しめいた結末へと至るのは、流石に忍びなかったのだろう、と。

 

「暗い魂の血で描かれた世界なら、闇の時代でもきっと――そう希望(のぞ)んだのではないだろうか」

 

 だから最初の火の炉を訪れるのを、ぎりぎりまで引き延ばした。

 しかし、あの冷血が、そんなことを?

 

「存外、夢見がちな女なのさ」

 

 でなくば、世界を変えようなどと、そもそも思い立ちはしないだろう? と。

 長きに渡る牢暮らしで、もはや動くことも叶わぬ女は誇るようにそう言った。

 

 さて、当の彼女である。

 

(……んん?)

 

 フィリアノールの寝所から一歩出て、途端に感じた。

 体毛が逆立っている。

 空気が帯電しているかのようなこの感覚は、今更取り間違えるはずもない。

 

(殺気か。誰かが私を殺そうとしている)

 

 べつに珍しい話ではないだろう、心当たりがありすぎた。

 そしてそのすべてに対し、絶対に頭は下げないと決めている。警戒しながら、気配の強まる方へと歩いた。

 地形に挟まれ、袋小路になっている廃墟へ脚を踏み入れたとき――前述の台詞が聞こえてきたのだ。

 

「私も神の末、公爵の娘、シラ。そして、ミディールの友人です」

(あっ)

 

 そこで漸く、彼女はこの娘の存在を思い出した。にわかには信じ難いほど馬鹿げていて、当人を虚仮にしきった話だが、こうして姿を見せるまで、彼女はシラと、シラにまつわる一切を完全に忘却していたのである。

 

「神の誇り、火の矜持、闇への恐れ、すべて私の中にあります」

(そうか、こんな顔をしていたか)

 

 扉越しの会話のみで印象が薄かったというのもあるし、何より奴隷騎士ゲールの衝撃が強すぎた。

 もはや「輪の都」という単語から真っ先に連想されるイメージが、擦り切れたあの赤頭巾という域である。つい、他が霞んでしまった。ないがしろにした。

 

「だからこそ、私は許しません」

「……!」

 

 そう言って、シラが構えた武器を見て――彼女は血相を一変させた。

 

(なんだ、あれは)

 

 十字槍に異形の死体が蔓の如く絡み付いている。

 一瞬、悪趣味な前衛芸術の類かとも思ったが……明らかに違う。死体と見たのは間違いだった。風化し、肉が剥がれ、骨ばかりとなり、槍の穂先が上顎から頭蓋を貫いているにも拘らず、それは確かに生きている(・・・・・)のだ。

 

(不死人か!)

 

 輪の都を訪れる前、不安と共に、密かに立てたあの予測。

 

 ――必ずあるに決まっているのだ。

 ――何か、不死人を嵌め込み逃さないための陥穽が。

 

 それは正に、目の前に。ここでもし、シラに遅れを取りでもすれば、篝火に戻されるだけでは済まないだろう。十中八九、彼女も磔に処されるとみて構うまい。怨念に燃えるシラの顔を見てみれば、むしろしないほうがおかしいというものである。どう見ても、鬼女そのものなのだ。

 

「寄るな」

 

 恐れるように一歩後ずさる彼女を見て、シラの心に弾みがついた。袋小路に追い詰められた憎い相手が、あからさまにうろたえているのである。名誉と礼節を重んずる騎士として、自己を厳しく教育してきたシラでさえ、この構図には嗜虐心を刺激されずにはいられない。

 

(何を、この期に及んで、虫のいい)

 

 そういう正義(・・)の憤りもある。シラは、躊躇わず踏み込んだ。

 

「いいえ、今更すべてが遅い。許さないと言いました。――お前たちの裏切り、冒涜、そして卑しい渇望を!」

「私に寄るなと――」

 

 だが、それが逆に彼女の逆鱗に触れた。

 

「――そう言った!」

 

 あらゆる痛苦を経験した。

 刺され、殴られ、潰され、焼かれ。凍死、毒死、轢死、水死と、経験せざる死に方のほうがむしろ少ない。強酸の体液をぶっかけられたり、頭に卵を孕まされたことさえあったのだ。

 

(が、しかし、その総てを合わせても)

 

 北の不死院で味わった、あの不毛で無為な無限の時間には及ぶまい、というのが彼女の確信するところであった。

 とにかく、「何も起きない」というのがいけない。

 水も食事も配られず、身を横たえる寝台すらも存在しない、暗く湿気った牢屋の中で正気を保てる者などいない。崩壊する時間感覚、徐々に閉じてゆく自我。連れて来られた時はまだ真っ当だった不死人が、日に日に返事も緩慢になり、亡者になりゆくその過程。自分の名前さえ思い出せなくなればもう駄目だ、すぐに此処が何処なのか、何故こんな場所に閉じ込められているのかと、忘却は怒涛の如く連鎖する。

 困惑し、幼児退行を惹き起こし、皮膚がふやけるほどに泣き濡れて、やがて意味のない呻きしか発しなくなる一連の流れを、頼みもしないのに何度も何度も見せつけられた。

 

 ――あんな風になってたまるか。

 

 正気を保つべく、彼女は憎しみを縁とした。

 自分を捕え、ここにぶち込んだ連中を怨み、ダークリングの顕れざる「健常者」の群れを憎悪して、碌でもない運命ばかり押し付ける世界そのものを激しく呪詛した。この世の終わりに恋焦がれ、その衝撃が波及して牢の壁を崩すのを夢にまで描いたものである。

 が、それでも意識に忍び寄る靄は阻みきれない。

 何もせず、ただぼんやりと曖昧に、壁を見つめているだけで一日が終わったのを自覚した際には、なんたることかと慄えたものだ。

 

 立ち向かえる幸福。運命を自らの手で切り開ける、少なくともそれに挑戦(・・)出来る境遇が、如何に恵まれたものであることか。彼女ほどよく知る者は、そういない。

 だが現在、その権利が脅かされている。

 目の前の女騎士が奪おうとしているのはそういうものだ。あの槍の穂先に縫い止められたが最後、彼女はあらゆる力を奪われて、不死院に逆戻りも同然の境遇へ堕とされる。

 

(冗談ではない)

 

 道徳家は自業自得と突き放すに違いないが、彼女はあくまで抵抗する。そう、力の総てを振り絞り、文字通り必死(・・)になって抗ったのだ。

 それがどれほど戦慄すべき沙汰なのか、不幸にしてシラはとんと無知だった。

 碌に相手を知らぬまま戦いに赴くということは、時としてとんでもない惨禍を招く。

 公爵の娘、神の末。フィリアノールの騎士だのと――ああ、それがいったい何だと言うのか。繰り言になるが、シラが対峙している相手は()どころか神そのもの(・・・・)を抹殺した大不敬者。悪名高き「王狩り」ではないか。

 数千回に及ぶ死を経験しておきながら、亡者に堕ちる兆候さえ窺えないという時点で尋常ではない。只人にはその百分の一さえ耐え切れるかどうか怪しいのだ。常軌を逸し、逸しきり、ついには大気圏を突破して宇宙に飛び出したかのような感さえあった。

 人類史上最多記録であるのは間違いなく、もしこれに追随出来る者がいるとすれば、それはきっと、あの探求者ただひとり。ドラングレイグの地を訪れ、闇の落とし子たちと奇妙な運命の交錯を演じつつ、古き王たちの力を束ね、呪いを超える真の王冠を手にしながら、しかし渇望の玉座に背を向けて、誰も知らぬ何処かへと立ち去った――絶望を焚べる者を措いて他になかろう。

 むろん、シラは絶望を焚べる者ではない。

 であるが以上、彼女相手に対抗可能な道理こそなく。

 ただでさえ出鱈目な怪物が、追い詰められた必死さゆえに、制御された(・・・・・)行動爆発(・・・・)などという輪をかけてふざけたものを発動すればどうなるか。もはや闘いと呼べるものではなかった。無惨そのものといっていい、虐殺だけが展開された。

 

「アァッ…」

 

 先の啖呵から断末魔まで、一分とかかっていない。

 雷の矢はその悉くが虚しく宙を駆けるばかりで、盾に触れることさえ許されなかった。

 手段を選ばず、ずっと封じ込んできたはずの狂王の遺骸を地に叩きつけ、一時覚醒させることまでしたのに、終わってみればすべて無為。結局、薄皮一枚剥ぎ取ることさえ叶わぬままに、シラは無念の涙を呑んだ。

 

   …私は、お前たちを

       決して許さない…

 

 呪いを残したくもなるだろう。完敗の見本のような始末であった。

 

 

 

 もしミディールが(シラ)の死に様、その背景の隅々までを知ったなら、ただでさえこれ以上ないほど怒り狂っている彼である。限度を超えて、眼から火を噴いただろう。

 こうなることが予見出来なかったわけでなく、彼女はこの黒竜との対決を、避けることとて可能であった。

 

(だが、避けてどうなる)

 

 放置したところで、ミディールが勝手に消滅してくれる保証はないのだ。下手をするとより凶悪な存在と化して、闇の谷を這い上がり、幻影の輪の都から飛び出して来ぬとも限らない。

 

(見過ごすには、あまりに巨大過ぎる禍根だ。断てる内に断っておくのが上策よ)

 

 幸い、彼の居場所は略奪したシラのソウルから読み取って把握している。

 いや、誤解しないで欲しいのだが、別段妙な術を施したわけではないのである。よほど強烈に想い続けていたのだろう、ソウルを受け入れた瞬間、それは勝手に脳内に流れ込んだのだ。文字通り、魂の奥底まで焼き付いていたに違いない。

 となれば、後は簡単である。前述の通り、何事にも裏口、抜け穴の類はつきものだ。フィリアノールの眠りが破壊されたことにより、崩壊した偽りの輪の都。もはや何処にも存在しないはずのその場所に、しかし一刻後にはもう、彼女はしっかり立っていた。

 

 

 ここで漸く、物語は冒頭へと巻き戻る。

 

 

 傍から見れば、それは実力の伯仲した、あたかも手に汗握る鍔迫り合いの如きものとして印象されたことだろう。戦いは熾烈を極めており、どちらに勝利の天秤が傾いても不思議ではない。均衡が崩れるその一瞬を、今か今かと固唾を呑んで待っているのだ。

 が、当人達の心境はまるで異なる。

 

 ――何故だ。

 

 ミディールは混乱の極みにあった。

 それも無理からぬことである。彼にとっては、「互角の戦い」なるもの自体、これが初めて。神に育てられた古竜の末、先祖(・・)の特徴を色濃く残す、その風采は伊達ではないのだ。威に見合うだけの力を内包している。

 彼に伍する力量など同族か、若しくは最上位の神々に漸く期待し得るもので、後者は彼の保護者であり、前者は粗方狩り尽くされてしまっていた。成長し、使命を与えられた時にはもう、この地上に「敵」と呼ぶに足る相手など、殆ど残っていなかったのである。

 

 ――なんなのだ、こいつは。

 

 人間など、竜から見れば塵芥。そもそも前提からして違うのだ。圧倒的な質量差が横たわっている。現に見よ、ミディールが数歩歩いただけで、彼女はもうあんな後方に引き離されているではないか。

 小さな脚を前後させて、必死に追い縋ろうとしているが、まったく無意味極まりない。低く、地を這い、薙ぎ払うように炎を吐いて――だから、何故貴様は生きている!? 燃え尽きるのが道理であろうが、何故なにごともなかったように、変わらず此方へ走っているのだ!?

 

 ――おかしい。こんな人間がいるはずがない。こんなものが人間であるわけがない。

 

 上体を起こし、再び咆哮。もはや意にした気ぶりも見せない彼女めがけて、体ごと倒れ込んで行く。

 重力の助勢も加わって、彼我の距離はあっと言う間に埋められた。轟音と共に顎が閉じられ――しかし何の手応えもない。当然あるべき血の味が、一向舌から伝わらないのだ。

 

 ――まただ! また、避けられた! 煙にでもなれるのか、こいつは!

 

 そう思うより早く、頭部に鋭い痛みが走る。喰らい続けた闇により、内側から蝕まれる慣れ親しんだそれではない、もっと熱く、烈しい痛み。水面を黒く濁らせたのは、彼女ではなくミディール自身の血であった。

 

 ――どうなっている!

 

 ミディールは、もっとよく考えるべきであったろう。

 彼が塵芥と認識していた人間ども。しかし、朽ちぬ古竜の鱗を継いだ彼さえ侵し、正気を失わしめた()なるものを糾してみれば、その根源は他でもない――人間にこそあるではないか。

 兎角、この種族は油断ならない。個々は貧弱だろうとも、一ツ意識の下統制された集団を作れば思わぬ強さを発揮する。かと思いきや、その集団さえも踏み台にして想像を絶した跳躍を成す例外(・・)出現(あらわ)れ、或いは押し上げられて到り(・・)もするのだ。

 そのあたりの認識を、闇喰らいは怠った。

 ミディールが大事にしたのは与えられた使命のみで、その内容に思いを馳せることをしなかった。

 

 ――憐れなことだ。神の枷とは、古竜の末さえ囚えるか。

 

 ロンドールのユリアあたりに言わせてみれば、さしずめこんなところであろう。

 むろん、ミディールが知る由もないことである。彼には何もわからない。理解不能な相手に、わけもわからぬまま次々傷を負わされてゆく。消化不能な現実は苛立ちを募らせ、瞬時に爆発して憤怒の炎を燃え上がらせる。高まり続ける激情に、破壊力は天井知らずの上昇を見せるが……引き換えに、動き自体はどんどん粗雑に、そして単調になっていった。

 

(確かに、強い。強いことは強いが――)

 

 しかしこれでは、駄々を捏ねる子供も同然であろう。狂乱する竜の姿は、それ故に意図が丸出しで、「読み」に長けた彼女の眼からは別段意図せずとも次の動作が見えるのである。

 

(ただ、規模が数万倍に膨れ上がって、超高温・超高密度の熱線を吐けるようになっただけである。対処は、容易い)

 

 苦戦はしよう。いくら動きが透けて見えても、身の置きどころを一歩間違えただけで影も残さず消滅するのだ、命の危険は重々承知。

 だが、それでも。

 この闘いは彼女にとって、どこまでも「退治」に過ぎなかった。

 

「――奴隷騎士には及ばんなあ!」

 

 はっきりと、口に出して宣言した。

 同時につる(・・)を放れてひょうと射られたミルウッドの大矢が、吸い込まれるようにミディールの眉間に命中し、その巨体を震撼させた。

 

 

 

 開幕こそ互角に見えた闘いは、いつしか一方的な様相を呈していった。

 ミディールは、逃げるべきであったろう。この地下空間なる環境自体が、彼にとっては甚だ不利で、彼女ばかりを利するものであることは明らかである。竜は、大空を舞ってこそ竜なのだ。ここで退くのは恥ではない。武略の一環といっていい。

 が、頭に血が上りきっている今の彼に、そんな柔軟な発想は不可能だった。

 憎しみは、間違いなく極めて効率のいい燃料である。しかし同時に、使用者を盲目にする危険性をも孕んでいるのだ。

 

 ――そうか、見えたぞ貴様の正体。

 

 にも拘らず、たった一点に於いてのみ、ミディールの見立ては完璧だった。

 奇跡としか言い様がない。まさに正鵠を射ていたのである。

 

 ――そうだ、貴様がそうなのだ。それ以外に考えられない。

 ――我が養親、光輝あふるる偉大な方が、その到来を何より恐れた破滅そのもの。先駆け(・・・)にして(・・・)執行者(・・・)

 ――暗い魂の王!

 

 殺さなければ、とかつてないほど強く思う。

 しかし決意とは裏腹に、彼が現実にやったことは首を滅茶苦茶に振り動かして熱線により周囲一帯を薙ぎ払うという、極めて稚拙なものだった。

 敢えて衝動に身を委ね尽くすことにより、看破不可能な軌道を描いたつもりだろう。

 が、彼女は既に、ミディール自身知り及ばない、無意識の底を流れる根源的音律を掴んでいる。

 その双眸を通して見ればこの程度、泣きじゃくっていやいやをする子供と何ら変わるものではない。適当にいなし、力の大放出によりへたり込んだミディールを、容赦なく切り刻みにかかった。

 いったい何が悪かったのだろう。闇喰らいのミディールがこの女を滅ぼす見込みは、端から完全皆無だったのか。

 ――否。断言しよう、道はあった。

 それも別段、奇を衒ったものではない。先駆者だって既にいる。無名の王と嵐の古竜に倣い、彼もまた、朋友たるフィリアノールの女騎士をその背に乗せて挑むだけでよかったのである。

 そんなことは不可能だ、と人は言おう。

 汚染され、正気を失くしたミディールの前に立ったなら、誰であろうと攻撃される。意思疎通など不可能で、それはシラであろうと例外ではない、と。

 堂々たる正論である。

 だが、不可能と言うならば、シラが単騎で彼女に挑み、これを討ち果たすことも、また不可能に属することだ。

 不可能事を可能にしたいと欲するならば、奇跡の二つや三つ程度、起こさなければ話にならない。前提として必要であり、シラにとっては遠き日の友情に賭けた方が、まだ成算は高かった。

 

 つまり、要約すればこういうことだ。

 あの公爵の娘が友を措いて独り彼女を追った時点で、両者の命運は尽きたのである。

 

 となれば、後は態々、細かく語るまでもない。当然の帰結が待っていた。

 何ら意表をつく展開は起こらず、一貫して淡々とした、まさしく狩人の手並みで以って、彼女はミディールを終わらせた。

 綻びてなお荘厳さを失わなかった黒竜は、天を仰ぎ、その結末を拒否するように大きく身をよじったものの、やがてふっと力が抜けて、横倒しに崩れ落ちた。

 片翼が沈んだ時にはもう、何もわからなくなっていたに違いない。

 

 

 

 以上を以って、輪の都を巡る物語には完全に終止符が打たれたのである。

 彼女は、本筋(・・)へと回帰した。すなわち最初の火の炉をとうとう訪れ、王たちの化身と対面し、すべてを悟り、死闘の果てに火継ぎの終わりを成就したというわけだ。

 闇の時代の到来である。

 今や、彼女は名実共に闇の王。遥かな過去に一度放棄したその称号は、廻り廻って結局のところ、この女に冠せられるべく宿命づけられていたらしい。

 だが、この幕開けは、簒奪者をこそ望んだロンドールの意向を大きく裏切るものに他ならず。

 亡者の国が彼女を戴くことは、もはやあるまい。

 

 ――王たちに玉座なし。

 

 予言が示すそのままに、新たなる王、闇の王たる彼女にも、玉座が与えられることはなかったのである。

 

 ……だが、心せよロンドール。

 今はよい。隣に寄り添う者により、暗い穴は癒えている。

 しかし決して、永遠ではないだろう。いつかまた、この怪物は餓えはじめ、ここにない何かを求めて動き出す日がやってくる。

 そうでなくとも、もとより暴には暴を以ってしか酬いる術を知らぬ女だ。裏切り者を誅すのだ、と粗忽者が一人でも先走ろうものならば、たちどころに牙を剥き出し蹂躙を開始するだろう。待っていたぞと、或いは歓呼の声を上げながら。

 そうなった場合、ロンドールが第二の輪の都になったとしても、何ら不思議ではないのである。

 

 

 

 


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