試合開始の合図に一足早く反応したのは我愛羅だ。
それもそうだろう。
我愛羅は今日の試合を指折り数え待っていた。テーマパークに連れて行って貰う約束を親に取り付けた子どもの雰囲気に今の我愛羅の雰囲気はよく似ているが、本質は全くと言っていいほどに違う。子どもは純粋な穢れのない明るい感情。対して、我愛羅は過去の喪失から獲得せざるを得なかった暗い感情。
前者ならば見ていて微笑ましいものであるが、後者は思わず目を背けてしまうほどに凄惨な光景を作り出すことだろう。
そして、それを……悲惨で血みどろな何の救いのない悲劇のような光景を我愛羅は望んでいた。
「死ねェ!」
主人が望む光景を作り出すべく、背負う瓢箪から大量の砂が飛び出し、一瞬で殺傷に適した形を作る。それは砂で出来た牙か、爪か。どちらにしろ、殺害の意志を籠められた幾本もの砂の塊がサスケに襲いかかる。
──貴様の存在など認めない。
言葉を発することはない砂であるが、その形が、その速さが、その強さが我愛羅の感情を語っていた。荒れ狂う砂の暴力を黒真珠の瞳は静かに映す。
──それがどうかしたか?
身に迫る砂の凶器をサスケは事もなげに、そして、踊るように避けて行く。
豪胆でいて優雅。華麗でいて大胆。会場の観覧者は声を発することもできず、ただ見るだけしか許されていなかった。
「……死ねェ!」
苛立ちが限界に迫ったのだろう。
痛む頭を押さえ、我愛羅は叫ぶ。それと同時に砂の速度が更に上がった。だが、サスケの体を捉えることはできない。いや、姿すら捉えることはできなかった。
「!?」
右の頬に衝撃が奔る。
「!?」
次いで、左の頬。左腿。背中。そして、腹。
我愛羅の認識は追いついていなかったが、計五ヶ所に打ち込まれた衝撃は我愛羅に膝をつかせた。
「クッ……カッ、ア……?」
茫洋とした視線を彷徨わせるが、我愛羅に答えを与えるものはいなかった。
「こんなものか?」
そう、彼以外は。
「おぉおおおおおおお! やりやがった! うちはサスケが我愛羅の絶対防御を打ち破った! お前ら、見たかよ! いや、悪ィ! オレも見えなかった……が! 何が起こったのかは分かる! お前ら、我愛羅の体をよく見てみろ! 我愛羅の体の周りに砂の塊が落ちているだろ。そして、我愛羅の体が凹んでいる。しかも、五ヶ所だ。我愛羅が纏う砂の鎧が剥がされた跡だ。そう、これはつまり……」
膝をつく我愛羅を後ろから見下ろすのはサスケ。砂も我愛羅を守ろうと動くが既に遅きに失した。サスケは瞬身の術で我愛羅の攻撃範囲から逃れる。
「……サスケが超スピードで我愛羅に拳を5ヒットさせたってことだァ! 何を言ってるか分からない? 大丈夫だ! オレもよく分かってねェ! だって、見えねェもん!」
「BOOOOO」
「うるせェ! ブーイングすんじゃねェ! とにかく、サスケの動きは一ヶ月前とは比べ物にならない! これから先は風が吹いても砂が飛んできても目を閉じるんじゃねェぞ。目をかっぽじって見とけ!」
ザジの言葉とは裏腹にサスケは動かず、我愛羅を見つめるのみだ。我愛羅もまた、自分が絶対の信頼を寄せる防御壁が機能しなかったことで動くに動けない。ザジの解説で何が起こったのか理解した。だが、僅か一ヶ月、たった一ヶ月の間に三人もの人間が六年もの間、誰一人として打ち破ることができなかった砂の盾を打ち破ったことからは、短い時間の中では立ち直れなかった。
リーは理解できる。体術。ただ一つだけ極めるために全てを犠牲にして、漸く己に届いたのだと理解できる。
ナルトは理解できる。筋肉。全てを犠牲にして極め、人の域から脱したからこそ、己に届いたのだと理解できる。
だが、お前は何だ? オレと同じ目をしていたじゃないか。憎しみで世界を見ていただろうが。それで……ああ、それでか。
サスケも理解できた。復讐。目的を達するために全てを犠牲にすることを選んだからこそ、己に届いたのだと理解できた。
これは闘いなどではない。“戦い”だ。
勝者は生き、敗者は死ぬ。これまで行ってきた一方的な生死の、そして、自己の確認などではない。
自己の尊厳と他者の想念で
そう、これは戦いなのだ。
我愛羅はサスケに今までとは違った目を向ける。その目に浮かぶのは感謝。仏像の如く慈愛に満ちた目であった。それと同時に、鬼の如く殺意に満ち溢れた目であった。相反する二つの感情を燻らせながら、我愛羅はサスケを見つめ、彼の次の動きを待つ。
「我愛羅。一つお前に問いたい」
サスケが口を開くと同時に風が両者の間を通り抜けた。
高まる緊張。そして、殺気。だが、我愛羅は昂る己の心を押さえつけ、平坦な声でサスケに言葉を返す。
「何だ?」
「ラップに必要なものは何だと思うか答えろ、我愛羅」
「………………は? ラップ? は?」
「答えろ」
サスケの物言いに、我愛羅のチャクラが溢れ出し彼の髪を逆立たせる。
しかし、癪だ。
言葉に対し、暴力で以って黙らせるのは癪であった。砂を纏わり付かせ、一息に圧死させるのは簡単だ。甲高い声で鳴き喚く耳障りな雄鶏の首を掻き切った後に庭を走り回らせて血抜きを行うよりも簡単だ。
しかしながら、対話しようとしているサスケを無視して、物言わぬ躯に変えることは負けを認めたようで癪だった。
だからこそ、我愛羅はサスケの質問に答える。このような間抜けな……無意味な問答と言えども、逃げることなど我愛羅にとって認めることはできなかった。我愛羅は口を開き、答えを出す。
「リズム感だ」
「リズム感は大切だ。だが違う」
サスケは我愛羅の答えを
「……音感だ」
「音感も大切だ。だが違う」
否定。冷ややかな否定だ。
「…………言葉のセンスだ」
「それも大切だ。だが……」
「黙れ!」
この後に続く言葉を予期したのだろう。我愛羅は声を荒げる。
「だが違う」
しかし、それをサスケは切って捨てる。
余りにもクール。いや、冷酷だ。先の丸くなった氷柱を喉に押し当て、無理矢理、皮膚を突き破り喉奥に捻じ込もうと幾度も回すかのようなサスケの声色は否定と落胆を示していた。
それを我愛羅は認めない。こんなことで下に認められて堪るかと我愛羅は声を荒げる。
「黙れと言っている! 黙れェ!」
「黙れまれまれ黙れまれ! そう言って、従う奴は稀。ならば、黙らぬ。Shut upと、言われて黙る腰抜けは。ここにはいない、So summary! Real Faceは狸顔。お惚け顔で怒り顔。泣き顔晒してAre You Ready? オマエの敗北 is Really?」
「YEEEEEAAAAAAAHHHHHHHHHWHOOOOOOOOOO!」
ギリギリと我愛羅の奥歯が音を立てる。骨伝導により、直接、脳にまで伝わる苛立ちの音は我愛羅に冷静さを齎した。実況と観客の闘いを煽る声は逆に我愛羅に冷静さを齎した。そして、それと同時に凝り固まった殺意も我愛羅に与えたのだ。
──絶対に殺す。生まれてきたことを後悔するほどに残酷に殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺ス殺ス殺スコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスゥッゥウウウ!!!!!
急速に回転を速める頭脳の中で我愛羅は考えを翻す。
奴の言葉を聞く。
それは対話を無視して殺すよりも癪だ。そもそも、鶏は鶏らしく屠殺されるべきなのだ。だから、これから行う行為は負けを認めた訳ではない。自分以外の他者を殺し、自分の価値を認識する。それが今まで、そして、これからも続く“我愛羅”の在り方だ。
修羅だ。修羅となるのだ。血を化粧とし、臓物を装飾とする修羅になるのだ。そこに立つのは我、唯一人。そこで愛を叫ぶのみ。
──オレは我を愛する修羅。……我愛羅だ。
我愛羅は酷薄な笑みを浮かべ、自らの体に砂を纏わり付かせていく。それは形を球体に変え、我愛羅の
「我愛羅が砂の形を変えた! これは砂を防御に回して持久戦の構えか!? それとも、サスケのラップに返せなくて引き籠ったか!?」
──チィ。
砂に包まれていく我愛羅を見たサスケは実況の声を後ろに飛び出す。
我愛羅が完全に砂に包まれてしまえば、自身の拳を届かせることができないという判断だ。しかし、その判断は遅きに失した。
ガキン。
おおよそ、砂と拳が立てるような音ではない。より硬質なもの同士が勢いをつけて、ぶつかり合った時に立てるような音が会場内に響く。
サスケの表情は更に焦りの色を醸す。それもそうだろう。自身の拳は届かない。それどころか、カウンターを狙った我愛羅の砂で作られた
「ッ!」
先ほどまでの攻勢が嘘のように、サスケは一転して身を翻す。サスケの判断は正しかった。一瞬でも判断が遅れたとしたら、今頃、血塗れで地面の上に転がっていたことだろう。
サスケの居た場所には我愛羅の砂の棘が突き刺さっており、鋭利なそれは地面に穴を開けていた。
──絶対防御ってやつか……。
いつもの無表情を取り繕ったサスケだが、彼の内心は大きく揺れ動いている。このままでは我愛羅に勝てない。打つ手なしだ。
──壬 申 巳 申……。
サスケの内心を見透かすかのように我愛羅を包む砂の殻の上に、砂が目玉を一つ形作る。我愛羅が外の様子を探るために自らの術で作り出した“第三の目”だ。
ゆらりと外界を観察している第三の目を見たテマリは喉を鳴らす。
──間違い……ない。あの術だ! ……まずい……我愛羅の頭の中にはもはや計画の事は……。
──ヤバイじゃん……。
我愛羅を包む卵のような砂の殻は絶対防御のためのものではない。
それは下準備。我愛羅が殻を破るための下準備だ。それをよく知る砂隠れの忍、特に我愛羅の姉兄であるテマリとカンクロウは『やめろ』と声を出そうと喉に力を入れる。
だが、彼らから発される声はない。ただ押し黙るだけだ。
二人が黙る理由。それは、計画が木ノ葉にバレるなどという理由ではない。もっと単純な理由だ。
彼女らは、ただ恐ろしかったのだ。根源に根差した恐怖。太古の昔、人間のDNAに刻まれた恐怖。それは被捕食者と捕食者の関係。自らの力では迫りくる恐怖から逃れる術はない。
そのことが理解できずとも、本能で察知した恐怖が二人の体を固まらせる。
「!?」
だからこそ、テマリとカンクロウの瞳は大きく開かれた。
何故だ? 何故なんだ? 何故アイツは……。
「笑って……」
「……るんだよ」
サスケの不敵な笑みは有り得ないことだと理解できるからこそ、二人の声は掠れながらも出たのだろう。
内心の昂ぶりを面に出したサスケは地面を蹴る。
これを待っていた。自分の手には余るほどの難敵を。自分では超えることができない壁を。それを乗り越えてこその“力”だ。
再び、そして、大きく地面を蹴ったサスケは会場の壁にチャクラを使って垂直に降り立つ。地面と平行になったサスケの瞳は下にいる獲物を捉えていた。そして、彼の瞳は難敵を──壁を──獲物を──捉える。
──見ていろ。
──承知。
──うん。
刹那の間、我愛羅から視界を観覧席に移したサスケだが、意識を再び我愛羅に戻す。サスケは顔を伏せ、集中を高めていく。右手を左手の手首へと添えた時、変化は起こった。
これから彼は成るのだ。一振りの名刀に、闇夜切り裂く光に、敵を断ち切る刃に。
サスケの顔を青白い雷光が照らす。その迫力、雷神がこの世に顕れ出たかのような光景を見て、観客はもちろん、解説者でさえも口を噤む。
我愛羅の殻が前準備であるならば、サスケのこれもまた前準備だ。神事の前準備だ。千の鳥の地鳴りを祭囃子とした神楽の前準備に他ならない。
準備が終わったのだろう。サスケは顔を上げた。それと同時にサスケの姿が掻き消える。いや、消えたと見紛うほどの速さで動いただけの話だ。
体術を鍛えたサスケの速さを且つてのそれと比べるのは烏滸がましい。地面の抉れを背に、鳥の鳴き声を置き去りにしたサスケは一条の雷と成って修羅の
「千鳥!!!」
見る者を虜にする神楽のように黒い服の裾が揺れる。
石灯籠の中で揺れ動く焔のように写輪眼が紅く灯る。
サスケの左手が無明に沈み往く我愛羅の左肩を掴む。
「つかまえた」
全てを置き去りにして呟くサスケの言葉は会場に響く。
捕まえたのは我愛羅の体か、それとも、観客の心か。それは神のみぞ知ることであろう。