──隙がない。
湯に落ちた影響、その上、怒りで体は燃えるように熱いものの、体とは裏腹にナルトは冷静に白髪の男を見つめる。
男の立ち振る舞いは一見、隙だらけのように見えつつも、すぐに動くことができるように適切な箇所の筋肉へと力を入れ、また、力を抜いている。
ナルトは白髪の男が
「……貴殿は何者だ?」
だからして、ナルトは目の前の男へと尋ねられずにはいられなかった。
例え、彼の中で女湯を覗くなどといった男の人格評価は最低ラインだとはいえ、強き者には敬意を払うナルトだ。強くなるためには過酷──人としての枠から外れたような──修行が必要だと自らの体験で知っているからこそ、ナルトは彼の名を尋ねられずにはいられなかったのだ。
自分をジッと見つめるナルト。そして、彼から名を聞かれたことで白髪の男の唇が歪んだ。
ダンッと自身が時空間忍術で呼び寄せた蝦蟇の上で大きく身振りを交えながら男は叫ぶ。
「あいや、しばらく! よく聞いた! 妙木山、蝦蟇の精霊仙素道人、通称・ガマ仙人と見知りおけ!」
「……仙人?」
“仙人”
その言葉がナルトの堪忍袋の緒を切った。それは『見事な見え切りだ』と感心するナルトの心を一瞬にして逆方向へと向けるワードだ。
「仙人とは? 仙人とは! 自らを律し、周りを律し、やがて世に教えを広める者!」
“ガマ仙人”と名乗った白髪の男に応じたナルトは声を上げる。
「仙人とは! 善を尊び、日々を過ごす者!」
そして、ナルトは湯に濡れた上着を脱ぎ捨てていく。
「仙人とは! 修行に打ち込み、やがて、真理に至る者!」
拳を握り締め、右腕をゆっくりと曲げていく。
「真理とは瞑想の中にあるもの! 真理とは己の内の果てにあるもの!」
左手の拳は腰に、膝は軽く曲げ、腹筋に全力を籠める。そして、顔は右の上腕二頭筋に向けながらナルトは叫ぶ。
「我が名はうずまきナルト! 己の内から放たれる輝きで世を照らす者!」
熱い湯に浸かったことでナルトの体の温度は上昇している。そのせいなのかもしれない。彼の体は赤く染まっている。彼の体からは白い煙が上がっている。彼の体は輝いている。
それは正しく太陽だった。
ガマ仙人と名乗る男は自分の前に突如として現れた肌色の太陽を目に映す。上半身の服を脱ぎ捨て、盛り上がった上腕二頭筋をアピールする漢の姿だ。ガマ仙人は目を閉じる。
だが、その姿は瞼の裏へと焼き付いていた。
「……脱ぐんじゃねェのォ! 男の裸など願い下げだ!」
男は叫ぶ。
大声を出したら、目を閉じても鮮明に映るナルトの姿が消えると信じるように。
残念ながら男はナルトの上腕二頭筋には興味を示さなかった。怒り心頭といった様子で男はナルトへと怒鳴る。そもそも、男は“覗き”という手段を以て女体を目に焼き付けることに全精力を注ぐ者である。それが邪魔され、更に、男の肌を見せられることは彼の中で許されざる悪であった。
「よっ!」
男が掛け声をかけると、打てば響くというように時空間忍術で呼び出された蝦蟇が姿を消した。
蝦蟇の背から地面に降り立ったガマ仙人は大きく溜息を吐き、愚痴を大きな声で零す。
「どいつもこいつも取材の邪魔をしおって!」
「取材?」
「わしゃあ物書きでな、小説を書いとる! ……コレだ!」
ぼやくガマ仙人だったがナルトの疑問に溢れた声を聞き、考えを改めたのだろう。ナルトが自分に興味を持っていると考えた彼は懐に手を入れて一冊の本を取り出した。
その本はかつてナルトが見たことがあるもの。
///
「カカシ先生。己と闘おうとする時に、何故そのような物を取り出すのか聞いてもよろしいか?」
ナルトが指し示した物はカカシの左手に開かれた一冊の本だった。
「なんでって……本の続きが気になってたからだよ。別に気にすんな。お前らとじゃ本読んでても関係ないからな」
///
カカシとの初めてのサバイバル演習の折り、彼がナルトと相対した時に取り出した本だ。
“イチャイチャパラダイス”
自分の班の隊長であるカカシをも虜にする書物だ。読んでいた続きが気になり、下忍である自分が相手とはいえ、演習中に開いてしまうほど面白い書物だとナルトは知っていた。
だが、隊長が大ファンだからと言って、その作品の作者が行っていた女湯を覗くという行為を許す訳にはいかなかった。
──そうであろう?
横目で地面に横たわるエビスへとチラと視線を遣ったナルトは拳を握り締める。
「覚悟せよ! 仙人と
「!?」
ドウッと空気を叩く音がガマ仙人を襲う。
目の前に迫るのは昔、自身が書いた物語──その物語は捨ててしまったが──に出てくる“赤鬼”と形容しても遜色のない人間だ。
「オォオオオオオンッ!」
雄叫びを上げながら目の前に迫る拳。
「クッ……!」
それをなんとか躱したガマ仙人はナルトと距離を取る。彼が幸運だったのは、ナルトの怒りに火が点いていたことだろう。もし、ナルトが冷静だったのならば、返す刀で切り裂くように、右の拳を引いて左の拳を突き出して彼の体を捕らえたことだろう。
──危なかったのォ……。
ザリッという音が、拳を躱して息を整えていたガマ仙人の意識をナルトへと強制的に戻す。
「クッ……!」
まだ戦いは始まったばかり。
ガマ仙人は臍を噛む。
──さっさと逃げなくちゃならんのォ。
「逃がすと思うか?」
「……そう簡単にはいかんか」
怒りに
「しゃあないのォ……来い!」
これまでは大きな音を立てたら、次に女湯を覗く際に警備が厚くなっていることを忌避していたためにガマ仙人は積極的に攻撃を行わなかった。
だが、逃げてばかりだとジリ貧だと結論を下したガマ仙人は独特の構えを取る。足を肩幅に、手は大きく広げている。
その恰好はまるで横綱の如く相手を真正面から叩き潰すというような不退の意志を感じる事ができるもの。
「承知」
ガマ仙人と真っ向から対決する。そう決めたナルトは膝を曲げ姿勢を低くする。先ほどの攻撃は躱された。ならば、もっと速く……もっと速く……もっと速く!
両手を地面に着き、尻を高く上げる。それは陸上競技でいう所のクラウチングスタートに近い。だが、決定的に違うのはナルトが顔を地面スレスレまで近づけている所だ。
ゴールを狙う陸上選手というよりも、それは獲物を狙う豹に近い。
そして、ナルトの本能と経験から導き出されたポーズは理に適っている。走る際、頭という箇所、つまり、体の上部が重い人間の重心は後ろへと下がってしまう。そうして、体のバランスが崩れて効率的にスピードを出すことができない。
だが、今、ナルトが取っているポーズは重心を前に置き続けるポーズだ。重心が前に行くために、強制的に体が前に行く力を利用したそのポーズはナルトに更なる速さを与えるだろう。
意識を前だけに向け、再び駆けだそうとナルトが全身の筋肉に力を籠めて、溜めのために一瞬だけ体を弛緩させた瞬間。
「土遁 黄泉沼」
どこか投げやりな声が響いた。
それは一瞬でも目の前の相手から視線を離した者に対する呆れの音色。
「!?」
ズブリと地面に沈み込みそうになっていた両手を、泥へと変わった地面から引き抜いたナルトは強靭な背筋で無理矢理、姿勢を正す。
「……貴殿か」
「まァ……そうだのォ……」
ナルトを中心とした大体半径3mほどの地面が泥に変わっていた。下手人を睨みつけるが、どうにもならないことをナルトは理解していた。
──負ける……だと?
焦燥に駆られるナルトを横目にガマ仙人は言葉を紡いでいく。
「目算でお前の身長は大体195cmってとこだろう? そこから顔の分30cm引いた165cmに黄泉沼の深さを設定しとるから心配するな。人死は出したくねーしのォ」
ポリポリと頭を掻いたガマ仙人はナルトへと背を向け、歩き出す。
「さて……取材、取材っと」
許されざる言葉を呟きながら。
“取材”
それは彼が悪行を続けようとする言葉。
──負けてはならない、なるものか!
彼の毒牙にまたもや罪なき者がかかってしまう。自分がここで諦めてしまえば、女性たちの尊厳を著しく傷つける男が野に放たれてしまう。それは許されざる行為。
負けを認め、諦めるなど許されざる行為に他ならない。
「フンッ!」
突風が吹いたのかと思うほどの風が背中に当たる。
思わず歩みを止め、後ろを振り返ったガマ仙人が見たのは掌を泥──自分が忍術で作り出した脱出不可能な泥沼──へとゆっくりとした動作で入れるナルトの姿だった。
何をと疑問符を頭の中に浮かべるガマ仙人だったが、すぐにナルトの意図に気付く。
──こいつ……泥を!
歴戦の猛者であるガマ仙人が一瞬、見逃すほどナルトの動きは完成されていた。例えるならば、扇風機か。回る羽は高速で回転している。だが、その回転が速くなれば速くなるほど遅く見えるという経験がないだろうか?
ガマ仙人が見るナルトの腕の動きは、それと同じだった。
──泥を掻き出している。
そのことにガマ仙人が気づいた時、ナルトの体は泥から解放されていた。足が泥から解放された。泥沼の底の固い地面に足がついたことを足の裏から感じ取ったナルトは飛び上がる。
「ガマ仙人! 征くぞォオオオオォォォォぉぉぉ……!」
空中に飛び出しながらナルトは叫ぶ。しかし、その体はすぐに落ちて行った。
──当然だのォ……。
呆れた目で再び泥沼に落ちて行くナルトの姿を見ながらガマ仙人は思う。
「垂直に飛べば、そのまま下に落ちる。お前、バカだのォ」
泥沼に落ちて、再び泥を掻き出すナルトを見ながらガマ仙人は印を組む。
「ほれ、もう一丁だ。土遁 黄泉沼」
「!?」
足が更に深く泥沼に沈み込む。ガマ仙人が沼の底を深くしたのだろうとナルトは予想をつけた。
「お前なら大丈夫だろう。底に着いたら今度は横に泥を掻き出して沼から上がってみろ。それなら、死ぬことはないだろうしのォ」
周りは泥に阻まれ、敵は姿すら見えない。
ガマ仙人のアドバイス通りにするしかないのだろう。時間を掛けて泥沼を抜け出す。
だが、それでは彼に逃げられてしまう。
「じゃあの」
その言葉を最後にガマ仙人の気配が遠ざかっていく。
心は負けを認めていない。だが、状況は負け。ここからひっくり返すことなど不可能である。ナルトの腕は泥を掻き出すことを止めない。だが、それは大変、遅々としたものだった。
──足りぬ……届かぬ。
ナルトは唇を噛み締める。きつく、きつく噛み締める。
──己は……負ける。
それはナルトが初めて負けを認めた瞬間だった。これまでの修練では届かないほどの距離だった。
ナルトのこれまでの経験、修行、全てを懸けても一人の身では届かなかった。一人では天地がひっくり返るような奇跡は起こらなかった。
「これを!」
そう。
“一人”ならば、だ。
「!?」
濃密な気配にガマ仙人は再び後ろを振り返る。
「嘘……だろう?」
そこには目を疑う光景があった。
まるで滝を逆にしたかのような光景。泥が地面から天へと吹き上がる光景。天地が逆となった光景だ。
「火は四元素! 万物の根源をなす四要素のひとつ!」
人の身でありながら不可能を可能と成した漢が泥沼から抜け出す。
「己の体は燃えている! 悪を許すなと怒りで火が燃え上がる!」
命を燃やし、人を救う。
「さあ、正々堂々勝負せよ! 貴殿の力と己の命の炎! どちらが強いか御覧じろ!」
それこそがナルトが己に課した使命であることだろう。
「キャー! カッコイイ!」
「ナルト様! あのエロ親父を叩きのめしちゃって!」
「もう二度と立ち上がれないぐらいに!」
「あの腕に抱きしめられたい!」
「あの腹筋に頬擦りしたい!」
その使命こそがナルトを勝利へと導く勝利の女神の助成となった。
黄色い声で歓声を上げるのは見目麗しい女性たちの姿。温泉に入っていた女性たちである。ナルトの声を聞き付け、温泉からすぐに上がってきたのだろう。体をバスタオル一枚で覆っただけの淫靡な姿である。
自分の恰好を省みないほどにナルトへと声援を送る女性たち。
今でこそ、ナルトを応援している彼女らであるが、以前の彼女らはナルトに好意は全くなかった。彼女らの親がするナルトへの冷たい態度。そして、ナルトの筋骨隆々なシルエットが彼女らをナルトから遠ざけていた原因だ。
しかし、彼女らがナルトを認めたのはナルトの“人を救う”という仙人にも似た心から来るもの。
彼女らの一人、建材メーカー事務の女性はこう言う。
「工事の建材運びの任務を依頼した時、ナルト様が鉄骨を何本も一度で運ぶ漢らしい姿に惚れた」
彼女らの一人、料理人の女性はこう言う。
「たくさんの野菜が入った籠を持って歩いていたら紳士的に籠を持ってくれた。その時に見せた余裕の笑顔に惚れた」
彼女らの一人、ある会社員の女性はこう言う。
「会社でミスして落ち込んでいる時、ナルト様が公園で黙々と筋トレをしている姿に励まされた」
彼女らの一人、木ノ葉病院の看護師の女性はこう言う。
「私が足を挫いた時、ナルト様がお姫様抱っこをしてくれた」
彼女らの一人、体操教師の女性はこう言う。
「なにそれ、ズルい!」
と温泉でガールズトークに興じていたのだ。
ナルトのこれまでが彼を救った。彼女らの今までの嫌悪を応援に変えるには並の筋肉では不可能であったろう。触れれば彼女らが問答無用で安心感を覚えるナルトの強靭な筋肉、そして、その筋肉を作るための
彼女らに感謝の意を示すために一度、頭を下げて『ここは危険だ。己の後ろに』と声を掛けたナルトは鳴り止まぬ黄色い声の中、表情を変化させることなく両手に一つずつ掴んでいた洗面器を地面に下ろす。
窮地に陥ったナルトへと彼女らが渡したのは二つの洗面器。掌で掻き出すよりも大きな容量が入る洗面器で泥を掻き出したことで数倍、いや、数十倍の量の泥を掻き出したナルトは再びガマ仙人の前に堂々と立つ。
今、ナルトと相対するのはガマ仙人。
そうであるが、普段のガマ仙人ならば口角が緩みきっていたに違いない状況である。五人の見目麗しい女性の煽情的なタオル姿。
彼ならば、敵を前にしてもニヤニヤと顎を擦りながら女性たちの方を見るであろう状況だ。
だが、ガマ仙人の目線はナルトから動かなかった。
だが、ガマ仙人の口は呆けたように少し開かれていた。
だが、ガマ仙人の表情は驚愕の色に染められていた。
それは“有り得ない”と彼の表情が語っていた。
「お前……その言葉……?」
『火は四元素! 万物の根源をなす四要素のひとつ!』
『己の体は燃えている! 悪を許すなと怒りで火が燃え上がる!』
『さあ、正々堂々勝負せよ! 貴殿の力と己の命の炎! どちらが強いか御覧じろ!』
アレンジは加えられているが間違いない。
──“超弩級! 筋肉列伝!”のセリフ……!?
昔に捨てた想いが湧き上がってくる言葉を目の前にいる漢が語るなど有り得ないと彼の心は語っていた。
///
「自来也先生! 一体、どうされたんですか?」
ガマ仙人──自来也──は物書きである。
10年前、いや、5年ほど前だったか。
正確な年数は覚えていないほど昔の話であるが、彼は目の前の編集者から語られたある言葉だけは鮮明に覚えていた。
「まッたく……まッたく“おもしろくない”ですよ、これは! “超弩級! 筋肉列伝!”は!」
「しかしだのォ……」
「しかしもヘチマもありません! どうされたんですか!? スランプですか!? 一体全体、なぜ、このような……マッチョだけしか出てこない小説を書かれたんですか!」
『これでは売れない!』と叫びながらテーブルをバンバンと叩き、テンションが上がっていく編集者とは裏腹に自来也の心は冷めていった。後に彼を長く苦しめることになる“おもしろくない”という言葉が原因だろう。
“超弩級! 筋肉列伝!”は全身全霊を籠めて書き上げた大作と彼自身が自負しているもの。それが一刀の下に切り捨てられたのだ。彼の作風とは『まッたく』違うという編集者の“おもしろくない”という気持ちから。
では、なぜ自来也は彼の作風とは全く違う小説を書いたのか?
もちろん、彼は筋肉が好きだから筋骨隆々の漢たちを主軸に置いた小説を書いたということではない。
東に女湯があれば覗きに行き、西に水着のおねーちゃんが集まっていると聞けばナンパをしに行く。言うまでもないことではあるが、自来也という人物は欲望に忠実な男であった。それでいて、最後の一線は決して越えない。そこに彼の想いがあるのだろう。初恋の女性に対する想い。女好きでありながら、一歩を踏み出さない彼の心は青少年そのものであった。
そうであるから、彼の代表作の続編を書くことに少しばかりの忌避感を覚えていたのだ。
そのような自来也の事情を全く知らない編集者は声を荒げる。
「とにかく! これではウチじゃ出版できません! いつものようにエロティック&フェティシズム的な男の男による男のための物語をお願いします。ファンは……もちろん、私も! 先生の続編を! 首を長くして待っているんです! お願いします!」
口角泡を飛ばしながら自来也へと詰め寄る編集者を押し留めながら自来也は苦笑する。
「わかった、わかった。そこまで言われて引き下がるなんてのは漢が廃る。書いてみようかのォ」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げた編集者は突如、後ろへと振り返る。
「おい! お前ら! 自来也先生の続編が読めるぞ!」
編集者のその言葉でワッと編集部が盛り上がる。
自来也は騒ぎが一段落するまで待つことにした。しかしながら、待てども待てども編集部の騒ぎは収まらない。それが仕事の話であるならば、まだ自来也も納得しただろう。印刷屋のスケジュールを抑えるための伝達やコピーライターへのキャッチコピーの依頼、表紙絵のイラストレーターの選別などであれば、後日に改めて顔を出すつもりだった。
だが、編集部の人々の話に耳を澄ますと、彼らの話の内容は自分の代表作についての感想であった。やれ、あのシーンが最高だっただの、いやいや、ここのシーンで体が熱くなったなど作者冥利に尽きる高評価が舞う感想の桜吹雪である。
しかし、作者である自分の前で感想や良かったシーンの議論を交わされるのは、なんとも気恥ずかしいものであった。
だが、口を挟むことができる雰囲気ではない。
彼らを止めようと自来也が意を決して口を開いたのは、それから半刻ほど過ぎてからのこと。彼らが次作について展開を予想し始めてからであった。
「のォ……」
「はい、なんでしょう?」
ルンルンとした編集者へと、常よりも固い表情で自来也は尋ねる。
「……ワシの処女作を知っとるか?」
「もちろんです! 何度も何度も、それは何度も読み返しました。観賞用、保存用、使用用と三冊……使用用をもう一冊買ったので、四冊買うぐらいに大好きです!」
そうして、自信満々に編集者は語った。
「イチャイチャパラダイスでしょう?」
「……そう、だのォ」
嘘だ。
自来也の表情は自身の肯定の言葉を否定していた。実際、彼の処女作は“イチャイチャパラダイス”ではない。イチャイチャパラダイスの前に彼は書いているのだ。
“ド根性忍伝”という自費出版に近い小説が“物書き・自来也”の処女作である。だが、そのド根性忍伝は全く売れなかった。
そして、面と向かってド根性忍伝が好きだと言ってくれたある夫妻は既にこの世にはいない。
自来也の表情に影が差す。
編集者は自来也のモチベーションが下がっていることを感じ取った。しかし、彼の考えは彼が持ち込んできた新作を切り捨てたことに起因していると感じ取ったのだ。
自来也の表情の変化に気付いた編集者は、テーブルに置かれていた綴じられた原稿用紙の束へと指を向ける。それは自来也のモチベーションを上げるための手段だ。作家が書きたいものを書かせ、本命である売れること間違いなしの作品のレベルをより上げるための手段である。
「そうそう。この“超弩級! 筋肉列伝!”はリメイクしませんか? ちょっとエッチなシーンを入れて……そうですね、少年少女の恋愛を主軸にしたバトル物とか。このマッチョな孤児の少年、トウですっけ? それを細身にして……幼馴染たちのために物を盗んだりするようなアングラな感じとかどうですか? こんな熱苦しい感じじゃなくて、ちょっと斜に構えたクールな感じの性格にしたりとか。そっちの方が確実に面白いです」
「そうだのォ……そっちの方がおもしろい、かの」
そうして出来上がったのが“ド純情忍伝”である。彼の代表作であるイチャイチャシリーズほどではないものの、ド純情忍伝は売れた。
編集者の予想通り、そして、自来也の予想を裏切って。
+++
「ハァ……」
街を一人行く自来也は息を小さく吐き出した。編集者の意見には不満はない。
編集者の彼はプロである。時代を見据え、自来也の才能を鑑みて、そして、出した結論だ。彼の言う通りに従っていけば、本は売れるのだろう。
だが、小さな……本当に小さな“しこり”が心の中に残っていた。
「……」
自来也は何も言えずに手に持つ十数枚の紙束を見る。原稿用紙を紐で縛っただけの簡素なもの。とても本とは呼ぶことなどできない。しかし、それは自身が心血を注いで作り上げたもの。
「……ダメだのォ」
頭を振る。
それは、このままではいけないという決意だ。自来也は紙束を持つ手から力を抜き、目に力を入れる。
自来也の重い足はゆっくりと定めた目的地──ゴミ捨て場──へと向かう。ゴミ捨て場の中心で足を止めた自来也は一度、唇を噛み締めて手から“夢”を手放した。
自分の想いを乗せた文章を書くことと決別する時だ。これからは大衆を喜ばせるために文を紡ごう。それは……嗚呼、なんと素晴らしいことだろうか。そして……嗚呼、なんと哀しいことだろうか。
自来也の表情は変わらない。過去を捨て去った事実に涙一つ零すことはなく、そして、未来のために笑みを浮かべることもない。
彼の
自来也は無常を噛み締めながらゴミ捨て場に背を向ける。
──これにて
だが、捨てる神あれば拾う神あり。
「ニッシッシ。今日はどんなイタズラをしてやろうか、なやむってばよ。オレってば天才だからな!」
自来也の前からツンツンに立った黄色の髪の少年が走ってくる。どうやらイタズラ少年は、自来也が出てきたゴミ捨て場に目をつけたらしい。
「いいことおもいついたってばよ! ゴミをすてたやつのところにもどしてやる! オレってばやさしいからな。コイツらがすてられてるのはかわいそうだし」
自来也の頭を痛くする独り言である。どうやら、イタズラ少年は出されたゴミを出した人間への所へと届けようとしているらしい。フラストレーションが溜まっている自来也は少年へと怒鳴りつけようと息を大きく吸い込む。
『人様に迷惑をかけるな!』
そう怒鳴ろうと振り返る自来也だったが、少年の声で動きが止められる。
「ん?」
なぜ、動きを止めてしまったのか分からない。だが、自来也が動きを止めなければ少年は少年のまま成長したことだろう。ここで、自来也が動きを止めたからこそ……。
「スゲェ……」
少年は食い入るように十数枚の紙束を天に翳す。
それには表紙絵として、主人公である“トウの姿”が描かれていた。
それには
どちらも綺麗だとは言い難い。絵は鉛筆で原稿用紙に描きなぐっただけでペン入れもしていない。字は近くに転がっていたマジックで書きなぐっただけで読みにくい字だ。
だが、そこには確かに熱があった。魂が宿っていた。何の飾りもない、剥き出しの心が在った。
それを少年は感じ取ったのだろう。漢字も読めないであろう小さな少年であるにも関わらず、ゴミ捨て場にあった価値があるとは到底思えないものにも関わらず、それは少年の心に火を点けた。
そのことに自来也は気づくことはない。
自分が捨てた小説を拾った少年へと『拾ってくれてありがとな、坊主』と感謝を覚えるだけであったのだから。
///
時間は現在へと戻り、自来也は過去から今へと目を戻す。
目の前には過去と同じツンツンと天へと逆立つ金色の髪、過去とは全く違う佇まいの漢がいる。
──あの時のガキか!
似ても似つかぬ風貌であるが、長年、忍として第一線で活躍してきた自来也の感覚が告げていた。
この漢はあの時の少年である、と。
俄かには信じられない。しかし、それは正解だ。
二律背反の困惑の渦の中、自来也が出した答えは自身の感覚が出した“かつて出会ったことがある”という答えを信じるというもの。
「……気に入った!」
あの小さな少年が大きく……本当に大きく予想外に大きく信じられないほどに大きくなってしまったが、それは少年の努力の結果であると自来也は考えた。あの華奢な少年がここまで筋肉を大きくするためにはどれほどの修練が必要だったのだろうか? どれほどの根性があれば到れるというのか?
その努力の跡は自来也の眼鏡に適った。ナルトの筋肉の熱さが自来也にも伝播したのだろう。自来也は頷き、口を大きく開ける。
「修行を見てやる!」
「断固拒否する!」
熱さを飛ばすような風が二人の間に吹いた。
「……何だとォ!?」
自来也はナルトの答えに後退る。
それは全く想定していない答えだ。
自分は世界に名が轟く忍であり、かつては弟子として四代目火影も育て上げた。自分の教えを断るような者がいるとは信じられなかった。
「もう一度言う……断る!」
「何ィー!?」
「貴殿のような覗きをするような犯罪者の元で学ぶことなど何もない!」
「ナルトくん……」
再び自来也へと飛び掛かろうとするナルトへと横から声が掛けられた。戦闘体勢を解き、ナルトは声へと駆け寄る。
「その方は凄いお人です」
「エビス殿!?」
ナルトが駆け寄った先は地面に伏したままのエビスだ。エビスは飛び飛びになる意識を一心不乱に留めてナルトへと声を掛けるべく体力を振り絞る。
「その方は……グフッ!」
「もう話すな。貴殿の無念は己が晴らしてみせよう。だから、今は休むのだ」
「いえ、これだけは話さなくてはならないことなのです。……ナルトくん。その方は四代目火影様の……」
自分の隣へと跪いたナルトへとエビスは言葉を振り絞る。
「……師なのです! 彼の言動から疑う気持ちはわかりますが、私以上の教師でもある方です。アナタにとっては彼から教わる方がいいのです!」
「しかしッ!」
「私の……最後の……頼みです。ナルトくん……強く……強く、強く……強く、なるのです」
「エビス殿! エビス殿! ……エビス殿ォー!」
体全ての力を振り絞り、パタリと地面に落ちたエビスの手。動かなくなったエビスの体を抱きしめながらナルトは天へと叫ぶ。倒れた者の名を天に向かって呼び続けるナルトの痛ましい姿を見て、後ろの女性たちは静かにハラハラと涙を流す。戦場で散った師を悼むような光景。誰もが涙を流し、散った者へと敬礼を向ける光景だ。
だが、それを見て心を動かさない者がいた。
──ついていけん。
エビスには手心を加え、精々気絶程度のダメージに抑えるようにガマに指示を下した張本人、自来也はその場の空気から取り残されていた。
そもそも、エビスへと行った攻撃は意識を刈り取る程度で後遺症すら残らない上、今日中に元の体調に戻るように軽く行った攻撃である。それをガッツで意識を取り戻したのは驚いたがナルトたちのオーバーリアクションを自来也は認められなかった。
「エビス殿。己は貴殿の遺志を受け継ごう。……ガマ仙人よ」
「なんだ?」
「己に……修行をつけてくれ!」
「ああ、まあ、うん。そうだのォ……つけてやろうかのォ」
何はともあれ、結果オーライだと自来也は自分を納得させるのだった。
『まぁ、それはともかく……』と言いながら頭を掻く自来也は顎で湯気が立つ湯床を示した。
「もう一度、さっきの修行をやってみろ」
「承知」
ナルトは印を組み、丁寧にチャクラを練り上げる。カカシから与えられた木登り修行により、チャクラを練るという技術を得たナルトだ。基本的に単純なナルトである。二つのことを同時にすることは苦手である。とはいえ、一つのことだけであれば不器用な彼とはいえ行うことが可能となる。
チャクラを練ることで反応した九尾の封印式がじんわりとナルトの腹に浮かび上がった。
──これが九尾の封印式か……。
自来也は鋭い目で封印式を観察する。
──割れた腹筋で随分と見難いが……四象封印が2つ……二重封印……八卦の封印式かの……。四象封印の間から漏れる九尾のチャクラを、こやつに還元できるよう組んである。
一瞬だけではあるが、ナルトの足が湯を捕まえた。チャクラが放出された証拠として水面に波紋が浮かぶ。しかし、その波紋はすぐに大きな波紋で打ち消されることとなった。
湯の中に沈むナルト、いや、ナルトの腹にある封印式の乱れに自来也は目線を集中させる。
──だが、かなりガタが来とるのォ……。
湯から上がり、再び湯へと向かっていくナルトの後ろ姿を見つめ、自来也は目を細める。
──封印を修復した跡が見えるが、まだまだ拙い。まあ、ここまで特殊な封印を修復できたのは褒めるべきかもしれんが。
頭の中でいくつかの人間の顔を思い浮かべていく自来也は考えを纏めていく。
──この封印式を少なからず知っていて、ジジイの仕業じゃないとすると……
自来也の頭の中に一人の忍の顔が浮かんだ。
──まぁ、カカシってとこだのォ。
そうして、答えに辿り着いた自来也はニヤリと笑う。
「のォ、ナルト」
「む?」
湯から上がってきたナルトへと自来也は声を掛ける。
肌が再び赤色に染まったナルトへと『熱くないのか?』と声を掛けようと一瞬思った自来也であったが、すぐに思い直す。ナルトならば、この程度の苦難は軽々乗り越えるであろうという確信があったからだ。
熱さを見せないナルトの気持ちを汲み、彼の肌の上気を無視した自来也は核心を口にする。
「今まで特別なチャクラをお前の中に感じたことはないか?」
自来也の言葉にナルトは眉を顰める。
“特別なチャクラ”
それを感じたことは確かにあった。自分の物とは全く異質のチャクラ。自分のチャクラを色で例えると“黄”であるが、そのチャクラは“赤”である。更に言うと“朝日”と“夕日”とも例えることができるだろう。
“特別なチャクラ”
危険で冷たい。だが、強い。
「何故、それを?」
「仙人だからのォ」
そして、そのチャクラは自分の気の昂ぶりで感じたことがあるもの。
恐怖、喪失、義務。
そのチャクラは自分が壁を感じた時に必ず顕れ出た。最近では再不斬との戦いの時、昔では長距離を走って自分をギリギリまで追い込んでいた時だ。どちらの時も余りにも大きな力を纏う高揚感や倒錯感を感じたが、それと同時に恐怖感を感じた。自分が自分ではなくなっていくような感覚だ。
──その答えをガマ仙人は得ているというのか?
ナルトは自来也をジッと見つめる。
「……今日はもう遅い。楽しみは明日にしようのォ。こいつはワシが宿まで連れてく」
だが、ナルトの求める答えを先延ばしにして自来也はエビスを抱え上げる。それは、今日はもう修行をつけないという意志表示。
「明日、またここへ来いのォ」
「承知」
自来也はエビスと共に姿を消した。
残されたナルトは何をすべきか考える。明日からは修行。では、体から疲労を抜くことが大切だ。そして、傍には温泉がある。交代浴──熱い湯と冷たい水に交互に浸かる事──で自律神経を整え、疲労物質の分解を促すべきだろうと結論を出したナルトであったが、その前に彼にはやることがある。
「目に入れぬよう目を閉じて送っていこう」
そうタオル姿の女神たちへと背を向けながら声を掛けたナルトの頬は、湯の影響とは違う影響で朱に染まっていたそうな。
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「悪いの、エビス……教え子を横取りしちまってのォ……」
「いえ! ……それよりも驚きました。火影様がアナタの行方をずっと探させていて一向に消息が掴めなかったのに……まさか、この里におられたとは」
その夜、意識を取り戻したエビスはガマ仙人──自来也──へと詰め寄っていた。場所は自来也が誘った宿の屋上。ここならば誰にも話を聞かれることはないし、例え、自来也とエビスの目から隠れ通して話を聞くことはできないだろう。
一度、周りに感覚を伸ばしたエビスは誰もいないことを確認して核心に迫る。
「……では、大蛇丸のことで……」
「イヤ、残念ながら違うっての」
「え?」
エビスの予想は自来也が大蛇丸を追って木ノ葉隠れの里に戻ってきたのではないかというもの。しかし、それは自来也本人から、にべもなく否定される。
「ワシはただ小説のネタ探しに里に寄っただけだ。面倒には首を突っ込まねェータイプなんでのォ!」
「……!!」
自来也のふざけた態度にサングラスの奥でエビスの目が怒りを灯した。
「アナタも分かっているハズです! 三忍と謳われた大蛇丸を止めるには同じ三忍の一人……あなたの力が必要なのです!」
体を自来也へと向けたエビスは両手を広げて信じられないと言外で語る。
「……自来也様!」
自来也はエビスの目を正面から見つめた。
これより後のことは誰も知らない。二人を宵闇が包み込み、姿を隠していく。忍は闇から闇へと動くもの。この夜のことが明るみになることは、これからもないだろう。