NARUTO筋肉伝   作:クロム・ウェルハーツ

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プライド

 音はない。全ての者は口を噤む。世界すらも押し黙ってしまうような感覚だ。その中で、ただ一つの音がしていた。

 その音は軽く、さりとて、その音を耳に入れてしまった者の動きを止めるほどの威圧感を持つ。

 

「さあ……始めようではないか」

 

 ただ一つの音は足音。足を止めた者はゆっくりと口を開く。

 その声は聞く者を震え上がらせる。事実、声の持ち主の一番近くに立っていた少年は震えている。無理もない。少年の前にいる者の体は大きく、そして、逞しかった。身長196cm、体重115kg、うずまきナルトだ。

 それに対して少年の体は小さかった。とても小さかった。身長151cm、体重43kg。犬塚キバ。通常の12~13歳ほどの少年の平均とも言えるほどの体格でしかない少年だ。

 

 彼が恐怖で竦み上がり体を震わすのは、むしろ当然だと言えるとナルトの担当上忍であるカカシは頷いた。そして、キバの担当上忍である紅もまたカカシと同じように頷く。

 

 ──当然ね。

 

 紅の視線の先で、キバはゆっくりと視線を上げた。

 

「この日をずっと待ってたぜ……」

「そうか。なれば……己は全霊を以って貴殿に答えるのが礼」

「ああ。油断すんなよ。オレはジャイアントキラーだからよ」

 

 ──心の底から闘いたいと望む相手が前に立っているのだから。

 

 犬歯を剥き出しにして笑ったキバを見て、目を丸くしたカカシとは対照的に紅は無表情だ。

 キバが臨む闘いに対して適度な緊張感を持ち、そして、気負いがないベストな心理状態であることにカカシは驚く。そして、キバの震えは武者震いだったのかとカカシは眉を顰めた。

 

 しかし、とカカシは腕を組む。

 何せ、キバの前に立つのはナルトだ。上忍でさえ、相手取りたくないと考えるナルトである。実績や経験はナルトにはない。だが、そこには相手を問答無用で黙らせる圧倒的な存在感があった。いや、絶望感と言っても過言ではないだろう。

 しかし、そのナルトを前にしてもキバは笑うことができたのだ。

 

「紅……どういう修行をつけた?」

「アナタと同じことを言うと、“何も”私はしていない」

「……どういうことだ?」

「キバは……自ら望んだのよ」

「修行を、か?」

「ええ。下忍では逃げ出したくなるほどの修行を求めて、時には吐きながら、それでも修行をし続けた。けど、キバは投げ出さない所か、更に求めた。私はキバの想いに答えただけ」

「それは、やはり……」

「“ナルトに勝ちたい”その一心で」

 

 カカシは紅から下へと目を戻す。右目を一度、閉じたカカシは額当てを上にずらした後、両目を開けた。赤く輝く左目の写輪眼が下で向き合うキバとナルトを捉える。これから始まる闘いは、下忍とは思えないほどの闘いになるという確信にも似た予感をカカシは感じていた。

 

「それでは……」

 

 カカシが見つめる先でハヤテが右手を上げた。

 

「……始めてください」

 

 ハヤテの右手が空を切る。試合開始の合図だ。

 

 空気が軋んだ。

 

 一瞬で変わった空気。戦場の空気だ。

 それを受け、人である下忍たち、上で見ている多くの者は身を固まらせる。しかし、大人でさえも裸足で逃げ出したくなるほどの空気の中、キバはじっとナルトを見つめていた。

 が、犬である忍犬は違う。毛を逆立たせ、されども、吠えることもなく、己が友の言を()つ。

 

「赤丸。様子見はなしだ」

 

 忍犬、赤丸はキバの言葉に一回鳴く。

 犬は人の永遠の友だと言われることもある忠に篤い動物だ。キバの勝利を願う赤丸は正しく彼の永遠の友であると言えるだろう。例えば、キバか赤丸、そのどちらかが死んでしまったとしよう。そうなれば、いつまでも残像を追いかける。それが彼らの有り様だ。共に生き、共に死ぬ。そして、共に戦う。

 もしも、ここで退けば友の心が死んでしまう。多大な努力を積んできたキバの心が死んでしまうのは赤丸にとって決して、決して認められるものではなかった。

 

 赤丸はキバが放って寄こした兵糧丸を口で捉えて飲み込む。と、赤丸の白い体が赤く染まっていく。赤丸に続いて、自らの口に兵糧丸を放り込んだキバの目が常よりも鋭くなった。

 その様子を見たナルトの目も鋭くなる。

 

「む? ドーピングではないか!」

「兵糧丸は忍具の一つですから、使用は認められています」

「認められているのか。ちなみに、副作用は?」

「特にありません」

「では、良し!」

 

 ハヤテの言葉を聞き、大きく頷くナルトは再びキバへと意識を戻した。

 

 山犬の如き雰囲気を醸し出すキバ。

 それを見ながら、ナルトはどうすれば勝てるか考える。敵対するのは野生動物であると仮定し、シーンは一対一であると想定する。

 ナルトが思い出すのは、自身の腹直筋を触って固いと思えるようになってきた時分だ。

 

 ///

 

「達人、サライ。もし、山犬と会ったらどうすればいい?」

「ハハハ、何を仰るナルトサーン。そんなのチョーベリーベリーイージー、ネ。鼻を殴れば、グッドラック! 泣き喚くイヌッコロに鉄拳を何度も何度も何度も何度も喰らわせてやりまショウ!」

「分かり申した!」

「ナルトサーン。いい子ですネー。それじゃあ、レッツ、実践と赴き参りまショウ!」

「承知!」

 

 ///

 

 方針は決まった。

 右手を握り締め、そして、左手も握り締めたナルトは前傾姿勢を取る。今にも飛び出しそうな砲弾に例えることができるようなナルトを前にして、キバは足にチャクラを込める。

 一瞬の膠着の後、先に仕掛けたのはナルトだ。

 

「推して参る!」

 

 両手を前に突き出した後、ナルトの両横からは濛々と埃が上がった。あまりにも速いナルトの両腕の動きによって、地面の砂や埃が巻き上げられたのだろう。

 遮ってしまった視界の中、更に笑みを浮かべたナルトは両手を引く。そのまま、拳を腰に当てたナルトは背筋を伸ばし、白い歯を輝かせた。

 

「クッ……」

 

 自らの手の前に堂々と立つ筋肉にキバは歯噛みをする。

 肩を広げ、広背筋を見せつけるナルトだ。ラットスプレッド。今、彼が取っているポーズである。もちろん、再不斬に見せたダブルバイセップスと同じく、戦闘中にして良いポーズではない。そのようなポーズを取っても許される者は自らの体と心を鍛え上げ、虐め抜き、鋼のような肉体を得た者だけだろう。

 

 ラットスプレッドをして筋肉を押し出すナルトの体に対してキバの爪は役に立たない。傷一つ付くことはない。キバは必勝の作戦が瓦解したことを感じ取っていた。

 

 キバが考えていた必勝の手順。

 ナルトの実力をよく知っていたキバは、まず間違いなくナルトの初手は自分へと殴りかかってくると予測していた。そして、予測通り動いたナルトの拳を、足に全身のチャクラを集めて後ろに避けた後に、無防備になったナルトの腹へと手刀を繰り出したのだ。

 これは確かに必勝の手順だった。相手の攻撃に合わせた神速のカウンター。世が世ならば、四代目火影の戦闘スタイルを彷彿とさせたことだろう。ただ、時代が悪かった。試験の相手が悪かった。

 キバの前に立つのは、四代目の戦闘スタイルとは似ても似つかないものの、四代目のスピードを思い起こさせるほどに速く動くナルトだ。キバの神速のカウンターに合わせて、瞬時にラットスプレッドを決めるなど常人では、とてもではないが行えない。

 

 ──ふざけんな。

 

 心の中で舌打ちをするキバは、我武者羅に手刀を何度もナルトの腹に向かって繰り出す。彼の爪は長く、硬く、そして、鋭い。チャクラを掌に集めた彼の爪はクナイを振るった時と同じほどの斬撃を繰り出すことができるほどに強力だ。だが、ナルトの腹筋を貫けるほどの威力はなかった。

 一見すれば、ナルトが有利。だが、ナルトもまたキバの爪を腹筋に力を入れた状態でなくては、大きく傷つけられることを本能で理解していた。

 

 キバは強い。

 そのことを理解したナルトは腹筋から力を抜くことはできなかったのだ。そして、キバから目を離すこともできなかった。

 

 そのことはナルトにとっての大きな隙となる。

 

「ワン!」

「む!?」

 

 鳴き声と共にナルトへと飛び掛かっていったのは赤丸だ。

 綿毛のような軽さを感じさせるフォルムとは裏腹に、赤丸の一撃は重かった。そもそも、ナルトの全速力の拳をキバと共に躱すことができるほどに赤丸の運動性能は高い。仔犬と妖狐ほどに体格に違いのある赤丸とナルトであるものの、その赤丸の全力の一撃はナルトにとって無視できないほどの衝撃であった。

 

 赤丸が飛び掛かる先はナルトの首の後ろ、髪の生え際の辺りだ。漫画などで首の後ろをトンッとする光景を赤丸はキバと共に見たことがあったのだろう。熟練の忍ならば、軽く小突いただけで意識を失わせることもできる位置へと赤丸は全力で当て身を行った。

 だが、ナルトの後頭筋は強い。顔の筋肉を鍛えるために美顔マッサージも風呂上りのストレッチと共に欠かすことのないナルトの生活習慣が赤丸の攻撃を阻んだのだ。

 

 しかし、赤丸の攻撃はナルトに決定的な攻撃とはならなかったものの、ナルトの体勢を僅かに崩すことに成功した。体幹を鍛え上げたナルトと言えども、5kgの物体が首の後ろという人体の急所に当たっては無視できる訳もない。

 ぐらりと傾いたナルトの前には爪を振るっているキバがいる。爪の斬撃が効かないと見たキバは固く掌を握り締めた後、膝を軽く曲げた。

 

「ラァ!」

 

 上、つまり、ナルトの顎へと拳を突き上げたキバであったが、それはナルトの大きな掌に阻まれる。が、一度、攻撃を防がれた程度でチャンスを逃すような柔な鍛え方をキバはしていない。

 

 ──拳にチャクラを集めて……。

 

 キバの拳が青く光る。チャクラを放出した時、特有の光だ。

 

「赤丸! 退け!」

「ワン!」

 

 赤丸に声を掛けたキバはナルトの掌にチャクラで吸着させた自らの拳を支点として、体を大きく回転させる。

 キバの体重を支えることができ、更に、退くことを知らないナルトの筋力が仇となった。

 

 拳をナルトの掌に吸着させた状態で腕を引き、体を持ち上げたキバは左足をナルトの頬に向かって繰り出す。トリッキーなキバの動きにナルトは反応できない。そもそも、素直過ぎるきらいがあるナルトだ。複雑且つ予測不可能な獣染みた動きを行うキバとは相性が悪い。

 かくして、キバの左足はナルトの顔を捉えた。ぐらりと大きく傾くナルトの体。

 

 ──チッ!

 

 クリーンヒットした自らの攻撃。だが、それを受けて尚、ナルトの眼光は鋭いままだということに気が付いたキバは瞬時にナルトから距離を取る。キバのそれは見事な攻撃だった。

 

 ナルトへと確実にダメージを与え、距離を取るべき時は離れてダメージを負う確率を減らす。ヒットアンドアウェイのお手本とも言うべき攻撃の仕方だ。

 そして、そのことはナルトに感嘆を覚えさせた。

 

「見事」

 

 首をゴキリと鳴らし、姿勢を正したナルトはキバと、そして、彼の隣に瞬時に移動した赤丸へと賛辞の言葉を掛ける。

 今まで数多くの下忍たちを第二の試験で屠ってきたナルトだ。その下忍たちは一人としてナルトに体術で攻撃を当てることすらできなかった。

 それがどうだ。自分が一撃で屠ってきた者たちと同じ下忍であるにも関わらず、今、前に立つキバは、自身の筋肉へと最大限に力を入れて防御しなければ危険だと思える爪の斬撃と、自身をよろめかせるほどの拳撃を繰り出してきた。そして、赤丸は最適なタイミングで攻撃によるキバのサポート。難敵であると言えるだろう。

 

「感謝する。貴殿らと闘えた奇跡に」

 

 ナルトは感動していた。そして、何よりも楽しかった。

 自らの力を振るう機会はこれまでもあったが、それは、熱を感じることができないものが大多数だ。大蛇丸は闘う気がない上に、班員であるサスケに攻撃され、怒りのままに戦ってしまった。下忍たちについては、言わずもがな。

 

 だが、キバとの闘いは違う。

 勝負に対する熱が確かに感じられる。その上、強い。ナルトの鍛え上げた動きとなんら遜色のない動きができるキバ。相当の修行を積んできたことが窺える。

 

 ──これこそ、待ち望んでいた闘い。

 

 ナルトは笑みを浮かべる。

 心の内が一目で分かるような笑みだ。

 

 それを見たキバの反応もまた同じもの。

 楽し気に笑うキバもまた、このナルトとの闘いを心より待ち望んでいた。もし、ナルトと闘う時があればという考えの元、紅や母や姉に頭を下げ、自身の力を向上させたキバには必殺技というべき術がある。

 

「ナルトォ……次、行くぜ」

「承知」

 

『赤丸!』と叫んだキバに呼応して赤丸がキバの体を駆け上がる。定位置、キバの頭の上へと登った赤丸を頭の皮膚の触覚で確認したキバは後ろへと飛び擦りながら印を組み上げた。

 

「犬塚流 人獣混合(コンビ)変化!」

 

 キバが叫ぶと同時に大量の白い煙がナルトの視界を覆い隠す。視界を煙で奪われた中、ナルトの聴覚が人のものではない息の音を捉えた。

 

「双頭狼!」

 

 煙が晴れていく。

 ナルトの感覚通り、ナルトの前に姿を現したのはキバでも赤丸でもない。巨大な白い山犬だ。その“四つ”の眼球はナルトを逃さないというように、彼を睨みつけている。

 キバと赤丸が同時に変化の術を使うことで一つの姿となる人獣混合変化。ただし、その姿は異形だと言える。白い毛で覆われた巨大な体に加え、一つの胴体に二つの頭を持つ山犬の姿。それが、キバと赤丸が変化した双頭狼の姿だ。

 

 一目見ただけで強いと解るその威容。

 だが、一目見ただけで強いと解る威容であるのはナルトも同じだ。

 

 ナルトは古木の幹を思わせるような右腕を引き、中腰で構える。

 

 ──来い。

 

 ナルトの構え、そして、彼の目を見たキバにはナルトの声が頭の中でしたような気がした。

 

 ──上等だ。

 

 かくして、山犬は牙を剥く。

 

「牙狼牙!」

 

 ドリルのように回転する山犬の巨体は一直線にナルトへと向かう。

 ナルトの視界には、狭い試験会場の中、前から巨大な白い塊が回転しながら迫ってきている様子が映っていた。逃げ場はない。

 いや、元より避けるという考えすらないナルトだ。自分へと迫る山犬の姿を前に、ナルトは更に拳を引き絞る。

 

 自分を迎撃しようとするナルトの様子をキバは嗅ぎ取っていた。吹き上がるようにナルトから噴出されたチャクラに危険なものを感じるキバだったが、回転を止めることはない。自身の最高の術でナルトに引導を渡す。その自信がキバにはあった。

 

 回転スピードが速すぎてオレたちの視界がゼロになっちまうほど強烈な“超回転”だ。

 直接触れなくても身が斬れる。まともに喰らえばバラバラだ。

 

 ──けど……。

 

 お前なら耐え切れるだろ、ナルト。

 

 キバが持ち得る最高の術でもナルトは耐えるという未来予測にも似た確信を覚えるキバであったが、それと同時に耐え切る事が出来てもナルトへの多大なダメージは与えられるという自負もあった。

 

 だが、それは間違いだった。

 

 キバが想定していたのはあくまで彼が“知っている”ナルトだ。

 今のナルトは下忍となり、キバが“知っている”ナルトよりも強いナルト。今まで忍者学校では見せた事のない動きを、ナルトは初めて見せた。

 

 迫りくるキバを見つめるナルトが思い起こすのは、再不斬の水の刃を拳で打ち払った時のこと。その時は威力が足りず、大きく斬られた。あの時から改善し、威力を高めるにはどうすればいいのか?

 その答えはナルトの原点にあった。彼の初めての参考書──十数枚の原稿用紙で製本されていない紙の束だ──に書いてあったのだ。

 

『拳に回転を加えることで威力は劇的に上がる』と。

 

「オォオオオオンッ!」

 

 それは奇しくも、キバの牙狼牙と同じアプローチ。腰からの回転を体の先へと伝えて威力を上げるというアプローチだ。

 左回転と右回転。全身と右腕。キバとナルト。

 彼らの攻撃がぶつかった瞬間、試験会場の中を突風が吹き荒れ、轟音が辺りを揺らす。その衝撃の激しさは、死の森に生息していた鳥たちを空へと追い払うほどだ。下忍たちはもちろん、試験を見守る上忍たちでさえも思わず警戒態勢へと移行してしまう剛腕を受けたキバは無事では済まない。

 

「カハッ!」

 

 変化の術が解け、双頭狼の姿から少年の姿へと戻ったキバの体はコンクリート製の床へと叩き付けられた。それは赤丸も同じだ。キバの横へと投げ出された赤丸もぐったりと横たわっている。一人と一匹は満身創痍、チャクラを使い切った上に兵糧丸による効果も切れたらしく、キバの瞳孔からは鋭さは消え、赤丸の毛の色は白へと戻っている。

 

 幾度か咳き込みながらもキバは痛む体に力を入れて、上半身を起こした。自分の成果がどうなっているのか確かめるためだ。

 

 下忍たちはもちろん、試験を見守る上忍たちでさえも思わず警戒態勢へと移行してしまう術を受けたナルトは無事では済まない。

 ポタポタと液体が滴る音が試験会場の中に木霊する。赤い液体だ。次から次へと腕から流れ行く命の源。突き出したナルトの右腕からは血が滾々と流れ出していた。

 

 キバは心の中で勝利を確信する。

 

 ──勝った!

 

「まだ己は『参った』とは言ってはおらぬ。そして、貴殿もそうであろう? そうで、あるならば立て」

 

 突き出した右腕を引くナルトを見て、キバの目が丸くなった。血で赤く染まる右腕を意に介さず堂々と立ち続けるナルトに対して、地面に座り込んでいる自分の姿。

 どこが勝っているというのか? 自問自答し、キバはまだ勝負がついていないという現実を受け入れるしかなかった。

 

 だが、彼の全身全霊の術である牙狼牙はキバの体からほぼ全てのスタミナを奪っていた。キバの体は動かない。

 それもそのはず。彼の苦しさを一般人の生活に例えると、フルマラソン完走後にトライアスロンをクリアし、デカスロンを行うという常軌を逸した苦痛である。その苦痛に耐えつつ、プロレスラーとの戦いに臨むという絶望しか感じられない状況だ。

 

 苦しい……。

 

 痛い……。

 

 怖い……。

 

 チャクラはもうない。自分の最高の術は破られた。そして、赤丸は……。

 

「ワン!」

 

 隣で震えながらも四本の足で立ち上がった赤丸の鳴き声がキバの胸に染み込んだ。その言葉無き叫びはキバの心を震わす。

 

 ──分かったよ、赤丸。

 

「すまねェな。待たせた」

 

 ──闘う。

 

「行くぜ、ナルト」

 

 キバは赤丸を撫でて『待て』と言葉にせず立ち上がる。赤丸もキバの気持ちが通じたのだろう。動くことなく、死地へと赴くキバの後ろ姿を見送った。

 

「オラァアアア!」

 

 踏み込む。

 先ほどとは比べ物にならないほど遅い。応じて前に出てきたナルトの足とは比べ物にならないほど遅い。

 

 ──昔も……同じような感覚だったっけか。

 

 迫るナルトの巨体。キバの顔に影が差す。

 まるで、走馬燈のようにキバの頭の中に幼少期の頃の記憶が思い起こされた。

 

 ///

 

 授業開始のチャイムが鳴ってから10分ほど。まだ、教師であるイルカは教室に来ない。

 中々、姿を見せない先生に何事だと忍者学校の教室が騒めき始めた時、やっとイルカがその姿を見せた。

 

「ごめんな、皆!」

 

 息を切らして教室に入ってきたイルカは早々に頭を下げる。

 

「おせーよ、イルカ先生!」

「そうそう。待ちくたびれちゃった」

「先生が遅刻するなら、もっと遊んでおけばよかったし!」

 

 口々に不満をイルカにぶつける生徒たちに眉根を下げてイルカは丁寧に謝る。例え、自分が受け持つ生徒であっても、自分が悪いことをすればしっかりと謝る。そのような器の大きさも彼が生徒たちや父兄に好かれる一因だろう。

 

「緊急の会議があってな。どうにも長引きそうなんだ。一度、抜け出してくることができたけど、すぐに戻らなくちゃならない。だから、すまん! この時間は自習だ。……そうだな。今回は先生が悪いから、外で遊んできてもいいぞ」

 

 歓声が教室の中から上がった。

『怪我するなよ』と生徒たちに声を掛け、もし怪我をした場合はすぐに保健室に行くことと言葉を残したイルカは慌ただしく今来た廊下を逆に戻っていった。

 

「ヒャッホー! 行くぜ、赤丸ゥ!」

「キャン!」

 

 一斉に校庭へと出ていくクラスメイトたち。その中で一際速く走る少年がいた。彼は黒いプルパーカーのフードをパタパタと上下にはためかせる。頭に白い仔犬、赤丸を乗せたキバだ。

 事実、彼の足は速かった。あの“天才”と呼ばれるうちは一族、その末裔であるサスケよりも速かったのだ。とはいえ、彼と直接、足の速さを計ったのは二年ほど前のこと。まだサスケが笑顔を浮かべることがそれなりにあった時のことだ。今のサスケは滅多に笑顔を浮かべない。浮かべたとしても、他人を見下す時に浮かべるニヒルな笑みのみだ。

 今のサスケはこのような自習の時間でも一人で修行に打ち込むような人付き合いの悪い人物。キバと疎遠になるのも仕方のないことだろう。

 

 張り合いがない。

 自分には誰もついて来ることができない。

 そのような残念な気持ちと自慢したい気持ちが混ざった気持ちが、幼い頃のキバの気持ちだ。

 

 とはいえ、彼の自尊心は必要以上に満たされていた。

 クラスメイトは誰一人として自分に追いつけない。そのことを分かっているキバは自習で外に出て来ていた全てのクラスメイトへとこう提案したのだ。

『鬼ごっこをしようぜ』と。

 

 彼のクラスメイトたちも彼の提案に乗ってきた。面倒臭がりな一名と自分の体型にコンプレックスを持っている一名は少し嫌がっていたが、そこはキバの鶴の一声。鬼が長い時間続いたら、オレが鬼になってやるという男前な提案で首を縦に振った。

 

「あーあ。めんどくせー」

 

 そう言って、準備運動として屈伸を始めるのはキバのクラスメイト。鬼ごっこの鬼だ。

 じゃんけんによって、始めに決まった鬼は面倒臭がりなクラスメイトであるシカマルだった。

 

「おし、んじゃ行くか……ん? ナルト」

 

 と、シカマルの目が校門から入ってくる人の姿を捉えた。渦巻きの衣装が中央に凝らされたTシャツのサイズが合っておらず、臍が見えている人物だ。

 その人物とシカマルは面識がある。そうであるから、シカマルはその人物へと向かった大きく手を振った。

 

「おい! ナルト!」

「む? シカマルか」

「お前、また山籠もりでもしてたのか?」

「然り」

「ったく。イルカ先生、怒ってたぞ」

「うむ。謝りに行かねばなるまい。して、イルカ先生はどこに?」

「今は会議だとさ。それで、オレらは自習ってことで鬼ごっこしてる訳だ。次のチャイムが鳴るまでお前も一緒にしねェか?」

「ホントか!? やるってば……無論! 己も入れて貰おう」

「おし。じゃあ、後から来たからお前が鬼な」

「む? そういうことか……策士だな」

「何のことか分からねェな。んじゃ、頼むぜ。鬼さん」

 

 飄々と手を振り、ナルトから距離を取るシカマル。彼の判断に特に文句を言う者はいなかった。誰も好き好んで鬼になどなりたくない。その気持ちが分かっているからこそ、シカマルの策──遅れてきた者に鬼をさせる──を受け入れた。

 文句を言わないのは、キバも同じだ。尤も、彼の場合は自分の足には誰もついて来ることができないという自負から来るものであったが。

 

 かくして、ナルトが鬼となり鬼ごっこが始まった。

 例え、遊びとは言え、獅子は全力を懸けるもの。ナルトの大腿四頭筋が盛り上がった。

 

「え?」

 

 それからは一瞬の出来事。足に自信があり、鬼であるナルトの一番近くに立っていたキバの体に影が差した。

 

「捕まえた」

 

 恐る恐るキバは上を見上げる。

 そこには太陽を背に立つナルトの姿。そして、その右手は自分の左肩に置かれていることにキバは遅れて気が付いた。

 

「次は貴殿が鬼だ」

 

 そう言って、背を向けるナルト。そこで、やっとキバは自分が傲慢だったことに気が付いた。しかし、それを認める訳にはいかない。認めたくない。自分が負けたなど決して認められない。

 

「ズ……ズルだ! ズルしたんだろ!」

「いや、していないが」

「もう一回だ! もう一回、鬼をやってオレを捕まえろ!」

「むむ……。仕方ないか。了解した」

 

 踏み込む。

 いつもとは比べ物にならないほど遅い。応じて後ろに迫るナルトの足とは比べ物にならないほど遅い。

 

 再び彼の肩へと大きな掌が置かれる。

 キバのプライドが粉々に打ち砕かれた瞬間だった。

 

 ///

 

 ──今は……違う!

 

 近づくナルトの拳。

 あの時は掌であり、当たっても痛くなかった。心以外は。

 今、当たれば痛いだろう。体も、そして、あの時以上に心も。

 

 岩石を思わせるナルトの拳をしっかり見つめ、キバは全身へとチャクラを籠める。チャクラを練り込み過ぎた場合、命に関わるというが今のキバはそのことを無視した。

 キバの体からチャクラが噴出する。命を燃やし、青白い煙としながらキバは恐れることなく、更に前へと踏み込んだ。

 

 轟然とナルトの拳が完全に突き出される。

 だが、ナルトの拳が捉えたのは空。何もない空間だ。遠くにナルトの拳から弾かれた血が着く水音のみが試験会場の中にあった音だ。

 

「此度の闘い、己の心に(しか)と刻み込まれた」

 

 音すらも置き去りにしたキバの走り。

 キバの体はナルトの背の後ろにあり、彼の拳よりも速くキバが走り去ったことを証明する光景だ。

 

「見事……キバ!」

 

 ただ、代償は大きかった。一瞬に籠めた限界以上の力。指一本動かすことができない。いや、それどころか、キバは意識を保つことすらできないほどに全ての力を一瞬に懸けたのだ。そう、それは全てナルトに勝つために。ここから反撃の狼煙を上げ、ナルトに勝利するために。

 

 ぐらりとキバの体が傾き、地面へと倒れていく。

 無理もない。チャクラがない状態で、無理矢理チャクラを引き出したのだ。命にも関わる行為であるが、生物の防衛本能が彼の命が尽きる前に気を失わせた。

 

「勝者、うずまきナルト!」

 

 だが、気を失う前、彼は確かにナルトの拳よりも速く走った。試合には負けたが、ナルトに追いつかれた過去にキバは確かに打ち勝ったのだ。

 

 だからだろうか?

 地面に倒れ伏したキバの顔はとても清々しいものだった。

 

 勝負は決まった。

 もうここにいる必要はないナルトは観覧席へと足を向ける。階段を登り切り、目的地、つまり、第七班の他の三人がいる場所へと戻る途中でナルトは声を掛けられた。

 

「ナ……ナルトくん!」

「む?」

 

 声を掛けたのはヒナタだ。

 無言で震えながらヒナタはナルトへと掌サイズの容器をおずおずと差し出した。

 

「これは?」

 

 何と言えばいいか分からない。

 言葉が詰まってしまったヒナタの代わりに彼女の担当上忍である紅がヒナタの気持ちを代弁する。

 

「塗り薬よ。貰ってやりな、ナルト」

「しかし、ヒナタは試合がまだであろう? 貴殿が傷を負った時のために取っておくのが吉であろう」

「そ、それでも……ナルトくんが怪我をしているのは見たくないから、な、なんて」

「怪我は漢の勲章」

 

 首を縦に振る事のないナルトの様子に悲しそうな表情を浮かべるヒナタ。

 

「然れども、貴殿の優しさを切って捨てることなど到底出来ぬ。ヒナタよ、ありがたく頂こう」

「あ、うん」

 

 小動物のようなヒナタの様子を見て、自分の意見を通し続けることはナルトにはできなかった。元々、子女には優しくすることを心がけているナルトだ。彼の友愛の対象であるヒナタの顔が陰るのはナルトにとって認められることではなかった。

 

「フン……。随分と気楽なもんだな……」

 

 その様子を白い眼で見つめる一人の少年。

 

 ──ヒナタ様。

 

 ヒナタを横目で見るのはガイ班の一人だ。

 その一人、日向ネジの視線は、雪や氷を思わせるような眼の色と同じく、限りなく冷たかった。

 


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