「ハアッハアッハッ!」
森の中を少女が走る。少女の顔は酷いものだった。涙と鼻水に塗れ、その表情は一目で分かるほどに苦悶に満ちていた。
焦りからか、少女の足が縺れる。走る時の勢いをそのままに地面に叩き付けられた小さな体は転がり、藪の中へと入っていった。小石と、そして、枝で付けられた傷から血が流れる。掠り傷ではあるが、少女の柔らかな、そして、玉のような白い肌に赤い引っ掻き傷は余りにも似合わなかった。
「ぐすっ……」
鼻を啜り、少女は立ち上がる。ここに居ては、死んでしまう。少女の本能が警鐘を鳴らしていた。
身を隠す場所を隠さなくてはいけない。
そのことに気が付いた少女は辺りを見渡す。
──見つけた。
根の盛り上がりで作られた小さなスペースだ。木の根元に丁度、少女一人が隠れることができるスペースがあった。
すぐさま、そこに身を潜めた少女は息を殺す。耳を澄ませると、遠くの方からガサガサという音と共に、唸り声が聞こえてくる。少女は口に左手を当て、逃げる時に持っていた右手の巻物をきつく握りしめる。頭の中が焼き付くような緊張感の中、少女は見つからないように祈り続けていた。
少女の隠遁術が役に立ったのか、それとも、少女の祈りが天に通じたのか。ガサガサという音は遠くに去っていった。少女は目を閉じ、木へと体を預ける。
少女が安心感から大きく深呼吸をすると、生臭さを感じた。
「ッ!?」
少女は弾かれたように顔を上げる。目の前にある黒く、大きな影を瞳に映した少女は息を呑む。
藪の中から熊が一頭、顔を出していた。通常の熊ならば、どれほど気が楽だったことだろう。だが、少女の前にいる熊は大きかった。とてつもなく大きかった。
体長は10mを優に越している。“熊”というカテゴライズに入れてもいいのか迷うほどに巨大な生物だ。熊の顔、それだけでも少女の体よりも大きいのだから、少女が感じる恐怖は如何ほどのものか。
「ねぇ! 皆、どこ!」
恐怖に駆られた少女は叫んだ。
いや、ここは気を狂わせることがなかった少女を褒めるべきだろう。捕食者を前にして、まだ口を動かせるだけ少女の心は強かった。だが、心に体が追い付いていない。少女の体はガタガタと震え、立ち上がろうにも足に上手く力が入らない様子だ。
少女は自分の運命を呪う。思い返せば、少女の人生は陰りばかりだった。何一つとして喜びというものがない。忍となり、力を付けていく過程の中でも苦しいことばかりであった。死にたい、消えたい、産まれてこなければよかったのに。そう思うことも一度や二度ではなかった。
光を反射する額当てとは違い、少女の人生はどこまでも暗く、そして、重かった。
煌めく少女の額当てを大熊は眩しそうに見つめる。
熊には理解できないことであるが、少女が着けている額当てのマークは草隠れのもの。中忍試験に参加していた草隠れのくノ一だ。死の森で仲間と逸れたのだろう。ただ、一人、熊の前で怯えていた。
その少女は巻物を、それはそれは大事そうに胸に抱えている。
その様子を見て嗜虐心が刺激されたのか、ガウッと熊が吠えた。
「キャー!」
熊の唸り声に反応した少女の体は彼女の意思とは無関係に動いてしまう。だが、心と体が一致せずに動こうとすることは危険を招く。無意識下の動きで最適なものを選択できるのは、一握りの達人のみである。
考えずに動いてしまった結果、少女は木の根に足を取られ転んでしまった。更に悪いことに──これ以上悪いことがあるかという疑問は置いておいて──少女の顔から眼鏡が地面に落ちてしまう。
背中に感じる大熊の殺気。
少女は理解した。自分は死ぬと。
──お母さん。
思い出すのは母の事。若くして亡くなった母の事だ。少女が物心ついた時には、既に父はなく特殊な血筋のせいで、幼い頃に母とも引き離された。死に目にも立ち会えなかった母に、また会える。死ねば、また会うことができる。
少女にとって、死は希望であった。伏せたまま少女は諦めたように目を閉じた。
「グルル……」
──死にたくない死にたくない死にたくない!
大熊の唸り声が少女に死への恐怖を思い出させた。腹を爪で割かれ、腹の中に臭い口を入れられ、内臓を貪られる自分の未来を想像させられた。
そんな死に方は嫌だ。そう思う少女の気持ちとは裏腹に、指一本動かせない。這うように前進しようとした少女だったが、彼女の生存本能とは逆に体はピクリとも動かない。
このような時、自分を救ってくれる
と、涙を流す少女の頭上に影が過った。
その影は小さく、速く、そして、鋭かった。
「ハッ!」
上から降ってきた影は一直線に大熊の頭へと向かう。
影が大熊と接触した瞬間、太鼓を叩くような音と共に大熊の頭が地面へと落ちていく。その影は息も吐かせぬ連撃を熊の頭に加え、下に落とし、重力に従って落ちてきた影が再び蹴りを落とし……それが何度も繰り返される。
「獅子連弾!」
影が最後の一撃を大熊の脳天に叩き付けると、ノックアウトされた熊は地面に身を横たわらせた。動かなくなった大熊の上に立つのはまだ年若い少年だ。自分が助かったことに気が付き、恐る恐る身を起こした少女を少年は見下ろす。
「オレたちと同じ“地”の書か」
ぼやけた視界の中、少女は自らを救った人影を探すために、手を地面のあちこちに向ける。眼鏡を探すためだ。
ややあって眼鏡を拾った少女は、それを顔に掛ける。はっきりした視界で少女は声が降ってきた方向、上へと顔を向けた。しかしながら、逆光の中で自分の命の恩人の顔はクリアに見ることができなかった。
「じゃあな……」
それだけ言い残し、少年はその場から去ろうと身を翻した。遠くを映した少年の目。彼の目には戦う班員の姿が映ったのだ。
「……ナルトォ! 熊と相撲取ろうとしてんじゃねェ!」
クールな顔付きの少年が一転して、慌てて叫ぶ様子を目に焼き付けながら、少女は思う。
カッコイイ、多分……と。
少女は自分の命を救った少年が駆けていく方向を見遣る。もう一匹、大熊がいた。そして、その前には2m近い人影もあった。
──筋肉だ。
大きな人に投げ飛ばされている大熊を見つめながら少女は、そう思った。
「貴殿は強かった。また、手合わせを願おう」
大熊が地面に落ちた地響きと共に大きな人がそう言っているのが少女の耳に入ってきた。だが、何を言っているのか少女には理解できなかった。言葉としての意味は分かるが、その言葉を使う今の状況が少女には理解できなかったのだ。
熊を投げ飛ばした大男はナルトだった。ナルトに瞬身の術で近づいた少年、サスケは自分の心配が杞憂に終わったことで安心しようとした。次いで、サスケは無茶なことをするナルトに怒りをぶつけようとしたものの、傷一つなく大熊を倒したナルトにサスケは何も言えなかった。
そんなサスケの心の内を代弁するように、サスケに続いてナルトに近づいたサクラが疑問を口にする。
「ナルト。熊と森で出会った時の対処法、知ってる?」
「無論。己はこう習った」
ナルトは目を閉じ、過去に思いを馳せる。その時は筋肉をつけようと思い至ったすぐ後のこと。
///
「達人、サライ。もし、熊と会ったらどうすればいい?」
「ハハハ、何を仰るナルトサーン。そんなのチョーベリーベリーイージー、ネ。鼻を殴れば、どんな動物も泣き喚きマース。泣き喚く奴らに鉄拳を何度も何度も何度も何度も喰らわせてやりまショウ!」
「分かったってば……分かり申した!」
「ナルトサーン。いい子ですネー。それじゃあ、レッツ、実践と赴き参りまショウ!」
「承知!」
///
「鼻を殴れ、と」
「誰だ、お前にそんなことを教えたウスラトンカチは?」
「鼻も殴ってないじゃない。っていうか、投げ飛ばしてたし」
「鼻を殴るのは可哀そうであろう?」
「そもそも、熊に素手で正面から立ち向かっていくな」
「森で熊と会った時は死んだ振りをするっていうのが常識なのに」
どこか諦めたように溜息を吐くサクラ。
それを尻目に大熊を担ぐナルトは場所を移そうと二人にボディランゲージとアイコンタクトで提案した。
「……ナルト。一つ、いい?」
「む?」
「その熊、どうするの?」
「鍋にする。栄養バランスはサプリメントで整えるから心配ない」
「栄養バランスとかそんなことを心配してる訳ないじゃない! 止めて、持って行かないで! 熊を捌く所なんて見たくない!」
「それに、兵糧丸をサプリメントって言うんじゃねェ」
──サスケくん、指摘する場所が多分違うよ。
サクラは頭を抱えそうになったが、すぐに背筋を伸ばす。
「ここを離れない? あれだけ物音を立てたら他の忍が来るかもしれないし」
「うむ」
「ナルト、熊は置いていきなさい」
「うむ……」
「あと、あの子も……」
「ダメだ」
「え、サスケくん?」
「オレたちが世話を焼くのはアイツのためにならない。詳しくは分からないが、アイツもアイツで背負ってるものがあるんだろう。軽々しく手助けをしたら、アイツの“火”を消すことになる。……行くぞ」
「え……ちょっと、サスケくん!」
「サクラよ、サスケは彼女にこう言っているのだ。強くなれ、と。所で、サクラ、己が持ち歩いているプロテインを知らぬか?」
「え? プロテイン?」
「そうか、知らぬか。では、済まぬが一緒に探してはくれまいか?」
「でも、缶はそこに……って、そんなバレバレの芝居を打たなくたって。それに、筋肉を付けるのは、ちょっと違うっていうか」
「そうか、探してくれるか。感謝する!」
「ちょっと、ナルト!」
去っていくサスケ、そして、ナルト。それに、俵のようにナルトに抱きかかえられて去っていくサクラ。彼らの姿が見えなくなってから、やっと少女は立ち上がることができた。
少女はナルトが落としていったプロテインの缶を拾い上げる。ポーチに入れることができるほどの大きさで、容量は少ない。だが、それに籠められた想いは多かった。
「うっ……ふっ……」
少女は赤い髪を揺らし、ただ泣いた。泣いた数だけ強くなれるという言葉があるが、それは幻想だ。泣いた数をいくら数えた所で、それは唯の無意味な数字に過ぎない。泣いた時の感情をバネにし、それを筋トレによって発散することで悲しみは強さに変わる。悔しさは血肉に変わる。
そして、そのことに気付いた瞬間から、人の瞳には火が灯るもの。
涙を拭いた少女の目には強くなるという決意が宿っていた。
風に揺られる長い髪、その下で組んだ細い腕には先ほどと同じように“地”の巻物があった。そして、先ほどとは違いプロテインの缶もあったのだ。