・・・・・・屋敷の廊下を、忍び足でそろそろと歩く。きぃ、きぃ、と鳴る自分の足音と、カチコチと無情に時を刻む懐中時計、それに緊張から高鳴る心臓がうるさく頭に響く。
どこに刺客が潜んでいるか分からない。 "復讐" とやらを企んで魑魅魍魎に化けた者共が、今でも虎視眈々と私を狙っているのだ。
さっきから足が震えっぱなしだ。非力な私など彼らにとって格好な獲物だ。本当なら無闇に動き回らずじっと隠れていたいが、それも出来ない。
奴等は私に毒を飲ませた。解毒薬を飲まなけれは五時間程で死んでしまう毒を。助けが来るにしてもいつになるかは分からない。先に私が毒に侵されてしまえば、元も子もないのだ。従って、私は屋敷のどこかにあるという解毒薬を探し回っている。
屋敷の外には出られないと奴等は言った。最初は疑っていたが、歩き回った今なら分かる。さっきから視界に映るもの全てが色褪せている。明かりのない暗い中では色が認識出来なくなったかのようにさえ見えた。何もかもが灰色だ。
加えて、さっきから誰一人いない、物音も気配もない奇妙なこの屋敷。違和感だらけなのに何故か見覚えがある。
ここは稗田邸だ。現実の私の家ではないけど、恐らくあの八人の先代が "創った" 空間なんだろう。だとすれば全員を倒せと言われたのも納得がいく。
いよいよハッタリではないと覚悟を決める。どうにかして五時間のうちにけりをつけなくては。
手始めに脇の部屋の襖を、音を立てずにそぉーっと開ける。どこに敵がいるか知れないのだ。一瞬でも気を抜いたらどうなっても不思議ではない。
部屋は何か黒い箱のようなものが見える。暗い中では細かくは見えないが、見渡せば全体が見える狭い部屋だったので、形は大体分かる。仏壇だ。どうやらここは仏間らしい。
ならば幸いと、仏壇に駆け寄り手探りで引き出しを開ける。どこまで最近の時代の物があるか分からないが・・・・・・
「ビンゴ!」
マッチがあった。まずは明かりが欲しいところだ。目の前に使いかけの蝋燭が立ててあったので、そのまま火を灯す。
部屋の中に不思議なオレンジ色の明かりが生まれる。荘厳な仏壇が暗闇の中でぼんやりと照らされているのは、言ってはなんだが、少し不気味だった。
「ん?」
蝋燭に照らされ、仏壇に乗った様々な仏具や供え物が浮かび上がる。その中にキラリと光を反射するものが見えた。
反射的に手に取る。確かにガラスの感触だ。
まさか、これが解毒薬・・・? いや、焦るな、罠かも知れない。蝋燭の光を頼りに目を凝らす。黄色の液体が目印だ。
「・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・
元気ハツラツ?」
ただの健康ドリンクだった。こんな紛らわしいもの、これ見よがしに供えておくんじゃない! 思わず壁に放り投げそうになったが、グッと堪えた。無いよりはマシかもしれない。持っておこう・・・・・・・・・
気を取り直し、部屋の探索に戻る。仏壇の隣にはタンスもあった。一応探るがやはりあるのは衣類ばかり。もしかしたら底の方に埋もれているのかと全部中身を放り出すが、空振りが続いた。
一段目が空になり、二段目が空になり、とうとう最後の段、靴下や足袋ばかり詰まった中を掻き回す。
ない。
ない。
とうとう靴下も全部無くなり、代わりに私の回りに山が出来る。放っておいていいのかな、と辺りを見渡していると、ふと妙なものが目に入った。
蝋燭に照らされて目の前の壁に写った、間延びした影。一人ぶんの私のそれの隣で、もう一つの影がゆらゆらと大きくなっている。
誰かが背後から近づいて来ている。なにぶん蝋燭の火なのでシルエットだけでは誰だか分からないが、相手は自分の影が写し出されたのには気づいていないらしい。
気づかない振りをして不意をつくか。いや、後ろにいるのが誰にしろ、私が能力的に不利なのは間違いない。ここは相手の出方を待って・・・・・・
巡視する間に、影がにわかに踊った。私の手は触れた柔らかいものを、咄嗟に後ろの誰かに掴んで投げつけていた。
「のわっぷ!」
衣類を被り、その誰かはよろめいた。その隙に素早く距離をとる。布に隠れた隙間からは青い髪に、黒い帽子、そして手に持った赤く細長いものが見える。
「・・・・・・天子さん、いえ、阿未ですね」
阿未はブンブンとかぶりを振ると、帽子を被り直して小生意気な笑顔を見せた。
「運が悪いわね。私にいきなり見つかるなんて」
「・・・緋想の剣まで使えるなんて、先に言ってくれれば良いのに」
私が阿未の手元に目を移すと、相手は「ああ」と言ってその剣を掲げた。
本来は天界の宝剣だ。比名那居 天子が使っているのには違和感を感じないが、化けただけの阿未が当然の如く持っている姿は、反則だろうと言いたくなる。
「あんたが天子ちゃんと一緒に詳しく書いてたから、自然とイメージが浮かぶのよ」
「・・・イメージ?」
「言ってなかったっけ? あんたが纏めたなんとかいう本が、私達の力の源。
この天人の頑丈さも、細かい記述から自分で想像して真似てるって訳」
・・・・・・そうか、いつ覗き見したか、どういう仕組みか知らないが、能力は私の知っている分しかない。という事は、私の知識を総動員すれば、付け入る隙はあるか・・・?
どうにか活路はないかと考えていると、阿未がヒュッ、と緋想の剣を突きつけた。先っぽにはパンツがぶら下がっている。締まらないなぁ、三代目。
「残念ながら、気質がどうたらの部分はよく分かんなかったけど・・・・・・あんたを殺せれば何でも良いわ。死になさい」
そう言って、阿未が剣を向けたまま近づいてくる。緋想の剣を微かに揺らし、先っぽのパンツが左右に動く。視線が定まらず、動きが予測できない。意外と手練れか、三代目。
ジリジリと追い詰められ、背中に仏壇がぶつかる。狭い部屋の中だ。横に抜ける余裕もない。
腰の辺りで火がプスプスと音を立てる。阿未がほくそえんだ。もう一刻の猶予もない。私は手の中の物をぎゅっと握り、口を開いた。
「ちょっと良いですか?」
「は? 何よ、遺言?」
阿未はあからさまに興ざめした表情を浮かべた。ここからが勝負だ。あの顔の変化を少しでも見誤れば、この作戦は失敗する。
「解毒薬の場所は・・・・・・本当に阿弥しか知らないのですか?」
阿未は一瞬目を丸くすると、すぐに皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。
「あー、ごめんねぇ。冥土の土産に教えてあげたいけど~、阿弥のヤツ言ってくれなかったのよ。残念でした」
肩を竦め、わざとらしく天を仰ぐ阿未。完全に王手をとったつもりだろう。私は、なるべくそれを嘲笑うような笑みをイメージして、言った。
「へえ・・・・・・なら、本当に何処にあってもおかしくないんですね」
阿未が眉をしかめる。顔のひきつりを、声の震えを悟られまいと気を張った。ハッタリを見抜かれてはいけない。余裕が焦りに変われば、崩すのは容易いはずだ。
「私は運が良かったです」
「・・・・・・あんた、まさか!」
手に持った健康ドリンクをそっと掲げる。阿未の顔が途端にさぁっと青くなった。
「こんなに早く見つかるなんて・・・・・・ねっ!!」
「あ! ちょっと!?」
いい終えるが早いか健康ドリンクを上に放り投げる。阿未は慌てて緋想の剣を放り出すと、ダイブして両手でドリンクを掴む。その勢いで衣類を吹っ飛ばしながらタンスに激突した。バキッ、と豪快な音がしてタンス全体がひしゃげる。
その隙に後ろの仏壇を漁り、何本かの数珠を取り出す。そしてタンスにゴンして畳に突っ伏した体を押さえつけると、足をまとめて数珠で縛り上げた。
「う、こ、このぉっ!!」
阿未が呻く。すると天子の姿がみるみる、元の阿未の姿に戻っていった。思った通りだ。何らかの神聖な力で変身は抑え込めるらしい。見た時の印象もお世辞にも真っ当な力には見えなかったし、そう好き勝手には出来ないということだ。
「あ、あんたね、分かってんの!? 私がこれを叩き壊したら、あんたは助からないのよ! それでも・・・・・・」
「ご自由に。というか飲んでも良いですよ。要らないんで」
へっ、と間抜けな声を出す阿未。手に持った健康ドリンクと私を交互に見て、最後に私を睨み付ける。
「まさか・・・・・・騙した?」
「はい」
健康ドリンクを取り上げ、腕の方は靴下で縛る。すると阿未は手足を動かせないまま、陸に上がった魚のようにジタバタと暴れだした。
「この、卑怯もの! 絶対に許さない! あんたなんて他の奴にやられちゃえばいいのよ!」
負け惜しみか。現れてからこっち、この子は何とも三下くささが拭えない。下らない理由ながら神社に絡んで策謀を巡らせた天子さんとは、それこそ天地の差だ。そう思って呆れていると、突然阿未が体を突っ張らせ、びくりと震える。
「いっ、たった、た!!」
「どうしたんです・・・・・・うっ!?」
目を凝らすと、阿未の背中にどす黒い血が滲んでいる。見るとさっきまで乗っかっていた私の膝もベットリ染まっていた。うろたえて凝視していると、阿未が顔だけ振り向いてまくし立てた。
「あのねぇ! あんたと間違えて味方襲っちゃったの! あんたが私達と同じ顔してるからよ、このバカ!」
・・・自業自得じゃないか。なんで私が顔の事なんかで怒られなきゃいけないんだ。ちょっとでも心配したのが阿呆みたい。
いやいや、呆れている場合じゃない。解毒薬の場所はともかく、聞いておかなきゃならない事がまだある。
「阿未、教えて下さい。復讐って何なんですか? どうしてこんな事をするんですか?」
さっきからそれが不可解なのだ。何しろ私には皮肉でもなんでもなく心当たりがサッパリ無い。すると阿未は私をキッと睨み付ける。今までの八つ当たりの憎しみとは違う、真剣な表情で私の目をじっと見つめるその瞳には、うっすらと涙が滲んでいるように見えた。
「・・・・・・・・・あんた、六百三十八年前の事って覚えてる?」
「はい?」
よく分からない質問だ。私の記憶も年数が経てば細かいことは思い出せない。考えるに阿未の時代の事だろうが、具体的に何の記憶を聞きたいんだろう? そう首を傾げていると阿未はフッと目をそらし、小さな声で喋りだした。
「私、好きな人がいたの・・・・・・。お勤めの合間にこっそり会って・・・・・・短い間だったけど、楽しかった」
そんな思い出があったのか。恐らく転生の際に不要だと切り捨てられたのだろう。その相手の殿方も最早生きてはいまい。
その記憶を未だ残しているであろう阿未が、いつの間にか溢れた涙で腫らした顔をこちらに向けた。
「そういう気持ち、あんたに分かる? 分かんないわよね? 私の気持ちなんて分かんないわよね!?」
少し錯乱ぎみに喚く阿未。まだ私を狙う動機はよく分からないが、泣き顔を見ていると追及する気も失せてきた。時間の上でも得策ではないし、少なくとも彼女本人は真剣で、あれこれ問い詰めるのが可哀想だというのは、自分でも分かる。
阿未の頭を撫でて落ち着かせ、蝋燭にマッチ、あとは縛るための靴下をいくつか手に取ると、さっさとその部屋を後にする。襖の向こうから嗚咽を漏らす声が、微かに聞こえた。
―
気を取り直し、屋敷内を探索する。とりあえず仏間で明かりが手に入った。これで目に届く範囲も格段に広がる。
たて続けに台所や使用人の居室をいくつか探し回ったが、見つからなかった。
最初は敵に遭遇しなかった事にいちいち安堵していたが、次第に苛立ちや焦りが増してきた。懐中時計を見るたびに確実に残り時間は減っていく。
「・・・・・・・・・おっと」
そんな中、偶然入った居室のタンスに御札がたくさんしまってあった。恐らく個人的な護身用に集めていたんだろう。十枚ほど抜き取る。ありがたや。
対抗手段を見つけて一瞬だけ気を抜いた。
その時背後でコトリ、と音がした。
びくりと肩が跳ねる。背中に感じる寒気が体を凍らせていた。ゆっくり、そろそろと背後を振り返り、蝋燭を向けて照らす。
誰もいない。
生唾を呑み、音を立てないように気を配りながら部屋の外に顔を出し、左右の廊下を見渡す。辛うじて木の色が分かる路が伸び、数メートル先で闇に呑まれている。
何度も何度も確かめるようにキョロキョロと振り向いては、真っ暗な先を凝視する。
・・・・・・十秒。
・・・・・・・・・二十秒。
「・・・・・・・・・誰もいない、かぁ・・・・・・」
胸を撫で下ろし、その場にヘナヘナと座り込む。全く、物音一つで戦々恐々だ。つくづく自分が異常な状況にいるのだと思い知らされる。
壁に手をつき、よろけながら立ち上がる。廊下に寄り掛かって、ずり、ずり、と袖を擦りながら弾みをつけて体を前に進める。そうでもしないと倒れてしまいそうだ。
一歩、二歩。
ひたすら長い廊下と、左右にある襖。広いだけあって、同じような部屋がたくさんある。いちいち調べて、同じように収穫が無く落胆する。それを繰り返す内に、見回りでもしているような気分になってきた。
暗い中を、明かり一つで歩き回る。いつしか慧音さんが寺子屋の見回りの話をしてくれたっけ。隅々まで見て回らなきゃいけないから大変だと。
しかし今回は、寺子屋の数倍の広さを、時間内に探さなきゃいけない。蝋燭だって、マッチはあっても蝋がいつまで持つか・・・・・・
・・・・・・待て。蝋燭?
顔を上げて前を睨み、ふと我に返った。数歩先はいくら目を凝らそうと、誰がいるかも分からない。その暗がりをハッキリと際立たせるのは、他ならぬ私の手元の蝋燭の火だ。
向こうからもし私を見た時、私の姿はどう映るのだろう。誰かは分からなくても火はボンヤリ見えるだろう。そうなれば自ずと確かめようと近づいてくる。奴等からしたら仲間と鉢合わせする可能性もあるが、私は自分以外、敵だらけ。
これでは自ら居場所を知らせているようなものではないか。光源を欲しがるあまり、当たり前のことに考えが及ばなかった。
狼狽えながら前後を何度も振り返る。すでに見つかって、つけられていたらどうしよう。今にも奴等の一人が走り寄ってきたら?
何もない闇がにわかにありがたく見える。私の視界に現れるまで近づかれたら、私はその瞬間に・・・・・・!
その時。
ぎぃ、と確かに床の軋む音がした。ハッとなって声が漏れそうになるのを手で押さえる。
数秒だけ聞き間違いであってくれと願った。しかし、音は確かに、ぎい、ぎぃ、と少しずつ大きくなって近づいてくる。一本に伸びる廊下の、見えない闇の向こうから。
まずい!
咄嗟に明かりを吹き消し、右手の部屋に飛び込む。布団が隅に畳んで置いてあり、人手の入っていない独特の匂いがした。
押し入れを見つけて戸に手をかける。中から何かが引っ掛かっているようで、戸が重たい。外れないよう焦りを押さえて半分まで横に引き、少しだけ顔を出した布団をよじ登る。
中は少し暑苦しいが、構ってはいられない。中から戸を閉めると、詰まった布団のせいで擦れる静かな音と、軋むうるさい音が変わりばんこに鳴った。締め切った時の音が怖くて、数ミリの隙間を残してしまう。
やがて、廊下の板が軋む音が近づき、畳を踏む音に変わる。南無三! 戸の隙間から部屋の中を覗いてみる。紙を張った扉に万が一でも触れて音が出ないよう、体は固く丸めて首だけをぐっと伸ばす。
とす、とす、と畳を歩く足音。小さな子供の影が押し入れの前に現れ、扉の隙間からちょうど見える位置で立ち止まる。
汗ばんだ手を、何故か戸に添えていた。閉めるでもなく、相手が無理矢理開けようとする訳でも無いのに、ただ押さえる。今にも視線の向こうの子が、目があった途端に襲いかかって来そうで、意味の無い事でもしないと正気を保っていられそうに無かった。
布団にめり込みそうになる足を強張らせ、体は石のように微動だにさせない。ただただ目だけを精一杯見開き、部屋の中の影を注視する。
やがて、影は不機嫌そうにため息をつくと、くるりと踵を返す。あの怯えた足音が逆再生されたように遠ざかり、小さくなっていった。
音が完全に聞こえなくなった頃、戸に添えていた手に力を込める。思いっきり開けたつもりだったが、いやに立て付けが悪く感じた。
部屋に降り立ち、中を見渡す。特に変わった部分は見当たらない。家具やその他の配置も、動かした気配は無かった。もし押し入れの中まで探されたら間違いなく見つかっていただろうが・・・・・・
果たして運が良かったのか、いつでも殺せるとたかを括ったか・・・・・・
とにかくこの場所にいつまでも居るのは危険だ。時間があればまた来る事にして、一旦離れよう。
押し入れの戸もそのままに、早足で戸口に出る。そして廊下に沿って曲がろうとした、その瞬間。
「あ」
目の前に、誰かの足があった。上を見上げると、浮かんで私を見下ろすレミリアさん、いや、阿一の姿が見える。
・・・・・・浮かんで・・・・・・そうか、足音・・・・・・!
頭で理解するよりも早く、目の前にある足が蹴飛ばしてきた。頭が揺れ、意識が飛びかける。そのまま体が壁に叩きつけられ、さっきの部屋の畳に転がった。
バキバキとあちこちの壊れる音がする。立ち上がろうと首を起こすと、一瞬で伸びてきた腕が首を掴み、ひょい、と玩具のように持ち上げる。
「こそこそとネズミみたいに隠れやがって・・・・・・。俺が引っ掛かると思ったか?」
上目遣いに悪魔のような笑みを浮かべる阿一。まさか初めから? 眉をしかめると、阿一はふん、と鼻を鳴らす。
「明かりを消した程度で・・・吸血鬼が、誤魔化される訳ねえだろうがっ!!」
叫ぶが早いが、今度は畳に体を打ち付けられる。背中の感覚が一瞬麻痺し、その下でめしゃ、と潰れるような音がする。
そのまま阿一は低空飛行し、私を引きずって壁を突き破り、外に放り出した。視界に月と星空が巡り、ドスンと体が音を立てて転がる。空が、地面が、何度も場所を交代してチカチカと煩く光る。
ようやくそれが普通に戻った頃、視界を覆うように間近で阿一が覗き込んできた。
「いい面だ」
阿一がくくっと音を立てて笑う。私は今どんな顔をしているんだろう。頭が熱くて、歯がぐらぐらする。口内に鉄の味が充満し、手足は微かに震わせるだけでズキリと痛む。
「余程私を恨んでらっしゃるようで」
飛び出した軽口は現実逃避の為だったかもしれない。阿未も殺意は伝わってきたが、こいつはもっと危険だ。きっと恨み節は吐いても涙なんて欠片も流さないに違いない。
腹を勢いよく踏まれた。口から血が溢れる。なけなしの余裕まで崩され、阿一は愉快そうに笑った。
「ああ、恨んでるさ。だがこの力のお陰で存分に晴らせそうだ。よくもこんな怪物に取材なんて出来たな」
肩を竦める阿一。大した奴、と軽々しく吐く顔を見て、思わず口を結んだ。コイツは知らない。どれだけ幻想郷が平穏に近付いたか、妖怪と触れ合うのに、蛮勇以外にどんなものが必要になったか・・・・・・! ただ非力を嘲笑う恥知らずに向けて、傷だらけの口を勝手に開いていた。
「・・・・・・怪物はあなたでしょう。死に損ないの癖に、知人を気安く侮辱しないで下さい!」
叫び声と共にまた血が飛び出た。阿一は私の態度が気に入らないのか、怠そうに唸り、今度は顎を蹴りあげる。
「言ってくれるじゃねぇか。そうとも、俺は稗田の屋敷で妖怪に怯えながら、同じ立場になりたいとも思ってたのさ。
例えば、こんな風になぁ!」
げひゃひゃひゃひゃ、と一層下卑た声をあげる阿一。嫌悪感が胸の底から込み上げてくる。コイツは今の時代にいちゃいけない。葬らなきゃいけない存在だ。鉛のような体をどうにか動かそうともがいていると、阿一はまた口の端を吊り上げ、こんな事を言った。
「そうだ、分かってないようなら、考える時間をやろうか? 俺がお前をどうしてやりたいか」
ふざけて首を傾げる阿一。答える前に人差し指を突きつけ、また続ける。
「見事に言い当てれば、苦しまずに殺してやる。ま、死体は阿弥たちと分割だな」
「・・・・・・もし外れたら」
呟くように尋ねると、阿一は長い舌で舌なめずりを一つ。
「血を吸って奴隷にした後、ゆっくりと味わわせてやるよ。その時は思い知る頭も無いだろうがな」
どっちにしろ死ぬ。いや、そりゃそうか。元から生かすつもりなどない。阿一の腐った瞳を見ていればすぐに分かる。
けど―
彼は一つミスを犯した。理由は、私が纏めたレミリアさんの記録。コイツは頭から抜け落ちていたようだが。
「・・・・・・阿一、あなたは・・・・・・」
私が喋りだすと、阿一は興味深そうに耳を傾けてくる。完全に命を握った気でいる。
だが、それは間違いだ。
「・・・・・・私の血を吸って奴隷にした後、ゆっくりと憎しみを味わわせてやりたいと、そう思っている」
「・・・・・・・・・・・・っ!?」
瞬間、阿一の体がびくりと跳ねる。そして小刻みにぶるぶると体を震わせ、体に脂汗をかきはじめた。
「なんだ、これ・・・・・・」
油の切れた人形のように、そろそろとしか動かない手のひらを睨み、震える声で呟く。
体が動かないのだ。その理由は私しか知らない。
・・・・・・―『人食いワニのジレンマ』をご存知だろうか。ワニが子供をさらって食べようとして、返してくれと泣く親にワニはこう持ちかけるのだ。
『俺がこれから何をするか、見事に言い当てたら子供を返してやる』
この場合、親が何を言おうが『外れ』と言って食べてしまえばいいと考えたのかもしれない。しかし、問われた親はこう返すのだ。
『あなたは、その子を食べるだろう』
これにワニはどうすればいいか分からなくなった。『外れ』と言って食べてしまうと親の予想は見事『当たり』、矛盾が生じる。かといって『正解だ』といって子供を返せば、食べるだろうという予想が『外れた』事になり、これも矛盾する。
早い話が自分でした約束が自分を縛るのだ。別名『自己言及のパラドックス』と言われるゆえんである。
この場合も、私の『血を吸って~』の予想が当たりなら、阿一は約束通り私の血を吸わずすぐに殺してしまわねばならず、矛盾する。外れでも然りだ。
加えて、レミリアさんは吸血鬼だ。契約、約束は絶対に破る事が出来ない。阿一も御阿礼の生まれ変わり、読み込んだ記録は漏れ無く記憶したに違いない。
・・・・・・いかに力に溺れ、表層記憶からは抜けていたにしても。
木偶の坊と化した吸血鬼モドキを睨み、拳を握る。痛みを堪え、跳ね起きた勢いで彼の頬を殴り付けた。
「ぐっ!!」
くぐもった声をあげて阿一が吹っ飛ばされる。つられて腕が千切れ、飛んでいった錯覚がしたが振り払い、御札を取り出して抑え込む。
「この・・・がはっ!?」
我に返って動き出す前に、腹に御札を張り付ける。荒い息をしながら本来の姿に戻る阿一の手足を、素早く靴下で縛り上げた。
「糞が! 何でだよ!? やっと軟弱者じゃなくなったのに、なんでこうなるんだ!!」
阿一が私の足元で喚く。かりそめの姿に宿っていた力が消え、代わりに悔しさと惨めさを詰め込んだような顔で歯を鳴らす。不思議と私は一片たりとも同情を感じなかった。ただ、五月蠅いハエでも眺めるような、冷たい衝動が流れ込む。
何気なく周りをみると、中庭に植えられた柊の木が目に入った。魔除けにもなるからと大事にされていたものだ。
「使える」
その柊に近寄り、背伸びして張り出した枝の先を掴む。しなって苦労したが、ぱきりと折れた。その先っぽを持って、阿一が倒れている場所に戻る。
「な、何すんだ・・・・・・?」
阿一が戸惑いと恐れの入り交じった目で私を見る。片手で阿一の顔を押さえ、上から柊の枝の先を目玉に突き付ける。
「阿一、強さというものは、時に驕りも生むんです。最も今更言っても遅いですけどね」
「う、嘘だろ、おい・・・・・・っ」
自分でも意外に思うほど平坦な調子で、説教が流れ出る。阿一はアワアワと目を見開き、眉を滑稽な程に歪めている。枝を持った手を、一瞬高く振り上げた。
「いっ・・・・・・・・・ッ!」
短い鳴き声をあげる阿一。手に何かを突き破る感触。
「あっ・・・・・・ひぃ・・・・・・」
阿一は数瞬、身体中をぎゅっと強張らせ、涙と鼻水を垂らしながら顔を歪めた。涙が流れ出る血と混ざっていく。
目の数ミリ横。こめかみの部分に深い傷を作り、柊の枝は地面に突き刺さった。阿一は目を潰されずに安堵したか、単に腰が抜けたか、私を見る事もなく泣きじゃくっている。
吸血鬼は柊の枝に近付けない。無理矢理近くに置けば妖怪は力を失うだろう。もう少なくともレミリアの力は使えない。放っておこう。
「それにしても・・・・・・」
痛む腰をあげ、屋敷の方を振り返って、ため息をつく。壁を突き破られ、外から丸見えになった部屋。一度叩きつけられたせいで畳がめくれ、床下まで所々骨組みが剥き出しになっている。
たった二人を相手にしてこの始末だ。命がいくつあっても足りやしない。
改めて無謀さを感じ、空しく笑う。その時ふと、あるものが目に留まった。
「・・・・・・ん?」
丸見えになった部屋。そこの比較的まともな姿を保つ床。めくれあがった畳の下から、一冊の本のようなものが見える。
よろめきながら近づき、その本を手に取る。暗いので仕方なく落としていた蝋燭に火をつけて、書かれた字を照らす。
「・・・・・・『稗田阿余の手記』?」
四代目が書いたものらしい。しかし、何故畳の下なんて隠すように置いたのだろうか?
何か有益な情報があるかもしれない。時間も惜しいが読んでみよう。
―
残る時間は、三時間と四十三分。
残る刺客は、あと六人。