「えー、六話目ですね。東風谷 早苗です。
・・七人目の人はまだですかね?あまり遅くなると、今はまだでも、雨とか降ってくるかもしれませんよ。
私、雨は苦手なんですよね。肌寒くて、地面はぬかるみますし、湿っぽくて汗なんかかいたらもう最悪です。
それに・・・
私事なんですが、怖い記憶もありまして・・・。ええ、今からお話致しますよ。
―
先日、昼頃に里での布教活動を終えて、山の神社に帰ろうとしていた時です。
里を出て舗装もされていない道を歩きながら、ふと神社のある山の頂上に視線を向けると、空にフヨフヨと誰かが浮かんでいるのが見えたんです。
最初は人間かと思ったんですが、普通の人間が飛んでいるなんてあり得ないですから。もし妖怪だと里に向かわれたらまずいと、注意深く目を凝らしてみたんです。
すると正体はすぐに分かりました。水色の髪に服を着た、多々良 小傘(たたら こがさ)ちゃんという妖怪です。紫の大きい茄子みたいな傘を持っているんで目立つんですよ。
彼女は妖怪とは言っても、捨てられた傘のしがない付喪神でして。幸い人に害を為す類いではありません。それで取り敢えずは安心したんですけど・・・
彼女、少し面倒くさいところがありまして。会うたびに『どうだ妖怪だぞー怖いだろー』みたいなアピールをしつこく繰り返してくるんですよ。そして驚いたら、その感情が彼女の妖怪としての栄養となる訳ですが・・・
その時は早く帰りたくて、鉢合わせで時間を食いたくもなかったものですから。ちょっと大変だけど、空を飛ばずに徒歩で山を登る事にしたんです。
・・・ところが、これがまた辛いものでして。
元々山には妖怪しか住んでいなかったものですから、道は酷く険しく、人間が歩くようにはそもそも出来ていないのです。道中では白狼天狗がピリピリした雰囲気で見張っていますし、野良妖怪に襲われないように注意しなければなりません。
軽い気持ちで歩いて登った落ち度はありますけど、なにぶん体力に自信がある訳でもなし。曲がりくねった道なき道を歩くうちに、さっさと帰りたいとばかり思うようになりました。
そんな時に、ふと目の前の道が二股に分かれているのに気づきました。いえ、ただ分かれているだけならさほど気にしなかったでしょうが、その時は少し妙だったんです。
一つの道は不自然に大回りで膨らんでおり、もう一方は狭いけれど真っ直ぐ伸びており、分かれたすぐ入り口に縄が張ってありました。
いかにも"入るな"といった雰囲気です。でも今まで山道を通った通った事も少なく、その縄を張られた道がどういう場所なのか私は当時、ついぞ知りませんでした。
だから気にせず、遠回りは嫌だからと縄を乗り越え、狭い方の道に入って行ってしまいました。
歩いて暫くしても、特段変わったものは見当たりませんでした。敢えて言うなら見張りの白狼天狗をメッキリ見なくなった事と、道がいつの間にか切り立った崖の中の峠道に入っていった事が気になりました。
『ああ、だから見張りも立ち入らないのかな』と、片側の剥き出しになった土壁に手をつきながら、慎重に進んでいきました。
そうして、山に入って十分程たった頃です。
『早苗!』
『ひゃあっ!?』
背中から大声で呼び止められて、危うく崖の方に転びそうになりました。
振り返ると、最初に目に入ったのはやけに大きな傘。いつの間について来たのでしょう。はぁはあと息を切らした小傘ちゃんが立っていたんです。
『どうかしたんですか?』
私は戸惑いながら尋ねました。その時の面持ちは、とても私を驚かそうとしたり、嘘をついたりしているようには見えません。よくみたら額に汗までかいているじゃないですか。
小傘ちゃんは胸に手を当てて息を整えてから、顔だけ上げて悲痛とも言える声で言いました。
『こ、この先に行くの・・・?』
『? ええ』
変なことを聞くものだと、首を傾げました。その道は真っ直ぐな一本道で、私の家は頂上にあるんです。道を選ぶ理由も、変える理由も、ありはしません。
『どうかしましたか?』
『え、いや、なんて説明したらいいのかなぁ・・・』
『?』
小傘ちゃんはしどろもどろになって愛想笑いしていました。なにかこの先に行くとまずいのか、私は理由を聞くにも帰路を急ぐにも、じれったくなりそうな気配を感じました。
『ま、歩きながら聞きますよ。ほら・・・』
『あー!待ってー!』
とにかく歩を進めようと私が踵を返すと、彼女は私の袖を掴んで子供のように叫んで止めました。つんのめって振り返ると、上目遣いで訴えるような視線。ならばと今度は来た方向に体を回しました。
『じゃ一旦戻って・・・』
『それもダメー!』
袖を掴んだまま私を軸に半回転しながら、小傘ちゃんは私を引き留め続けました。なんだろなぁ、てな気分で私は彼女の手を払いました。
『何なんですか、一体』
『行く戻るの話じゃなくてさ、その・・』
『はあ・・・』
小傘ちゃんは口ごもるのを一旦息をついて止め、私に向けてひょいと手を差し出しました。
『私と一緒に歩いて欲しいのよ』
『へ?』
差し出された手と小傘ちゃんの無理したような笑顔を交互に見て、私はポカンとしていました。小学生じゃあるまいし、息咳切らして駆けつけて相合い傘もないでしょうに。
返事に困っていると、彼女は勝手に私の手を取るや、傘の中に強引に引き込んで、元の道を歩き出しました。
『え、ちょ・・・』
ぐいと体を引っ張られ、思わず抗弁しかけました。しかし、さっきまでおどけていた癖に黙ってスタスタと歩くので、むっと言葉を飲み込んで、ついていく事にしました。
思い返せば私は彼女と会うのを避けてこの細道を選んだ筈でしたが、何故か追いかけてきた上に一人では行くも戻るも却下だと言われ、何故か二人並んで歩くことになり、結局近道も何も意味が無くなりました。
やれやれと息をついた時。また『早苗』と彼女が呼び掛けてきました。
『何ですか?』
少々私はうんざりしながら振り向きました。しかし、彼女の表情を横目に捉えて、ん、と言葉に詰まってしまいました。
その表情はいつになく真剣な、緊張したものでした。いつもはお気楽そうな子なので私は一瞬面食らい、それが直らない内に彼女はこう言いました。
『ここから先は、目を瞑って』
はて、相合い傘で目を瞑れとはどういう事か。キスを迫るような意味には決して聞こえません。そのような意味の必死さではないのでした。彼女は眉間にシワまで寄せて真剣そのもの。返事にしばし窮していると唇をきゅうっと結び、小さく肩を震わせはじめました。まるで緊張して余計な説明をする余裕はないとでもいうように。
私は不可解な気持ちでした。一体この先に怖いものでもあるのか。いくら大人しいとは言っても妖怪が人間に心細さまで埋めて欲しいと、不安になるものでしょうか。
色々と真意を推測は出来ましたけど、口許が見るからに強ばった彼女にそれを喋らせるのは気の毒で、私は結局瞼を閉じ、手を引かれるままに再び歩き始めました。
それからの道中、当たり前ですが前は見えません。当てになる感覚は小傘ちゃんが手を握り、引っ張る感触と、二人ぶんの足音、後は時折木々が風でざわめく音くらいです。どれも全く平和なもので、だからこそ小傘ちゃんのあの怯えとも取れる表情の理由が一層分からず、私はいつしか歩きながらウトウトと、味気ないとさえいえる山中を半分寝ながら歩いていました。
その時ふと、鼻先にふうっと湿っぽい、ツンとした空気を感じました。それから間もなくポツリ、ポツリと水音が頭上の傘の上で踊り出します。
あ、と思った次の瞬間には、ザアザアと土砂降りの音が辺りに響き渡りました。小傘ちゃんが傘に入れてくれているお陰で、濡れはしません。ただ、音で目が覚めてしまいました。
『急に降ってきましたね』
私はさっきから黙々と歩いていた小傘ちゃんに言いました。傘の付喪神である彼女は雨が好きだったんです。
ところが、その時に限っては何故か、一言も話さずにいました。何か私は怒らせる事でもしたんだろうか。つい目を開けてどんな顔か見てやろうと思いましたが、それも思いとどまり、また二人で同じ歩調で、今度は雨の中を進んでいきました。
ただ、心なしか繋いだ手が汗ばんでいるように感じられたのを覚えています。他ならぬ真ん中が濡れるわけもないですし、緊張しているのか、一体何に?といぶかしみましたが、話しかけるのは止めておこうと決めました。
雨足はますます強くなり、傘に当たる雨音もダバダバと重たい音に変わっていました。
それだけでは飽き足らず、傘の折り目を伝って、堪えきれなくなった雨水が私の肩にかかりました。きゃ、と悲鳴を上げても仕方ありません。もとから少々入りきらなかったのもあって、私のはみ出した肩はびしょ濡れです。
『うぅー・・・』
心地悪さをどうする事も出来ず、情けない唸り声が漏れました。私の巫女服は見ての通り腋が丸出しの独特なもので、地肌に直に雨水が引っかかったんです。しかも湿気のせいか妙に生暖かく、べっとり張り付くような、ぬめりさえあるように思えました。
私は気休め程度にしかならないと知りつつ、努めて肩を竦めました。ただ、雨は止んでくれませんし、縮こまると今度は窮屈で、煙草の煙に巻かれるような、しつこいストレスを感じました。
そんな風にストレスを意識すると、悪いことにどうでもいい小さな事にまでイライラしだすものです。
例えば、地面。雨のせいか土がグニグニと柔らかくなり、滑るどころの話ではありません。まるで何者かが足を掬おうとするかの如く、地面を踏んだ途端に右へ、左へと確かに引っ張られるのです。私は崖に面した側を歩いていたので、つい反対側、小傘ちゃんの方に体を寄せました。
ところが、それが裏目に出ました。崖に近い脚で地面を蹴ろうとした拍子にずるんと足を持っていかれて、私はあっという間に崖下へと体全部を滑らせました。
『あぅ―』
声にならない悲鳴、というより空気が喉からせりあがる感覚がして、一瞬飛べることも忘れて死を覚悟しました。
しかし、その刹那、小傘ちゃんと繋いだ手にぐりぎりと鈍い痛みが走り、私は殆ど引っ張り上げられるように元の位置に戻りました。
『大丈夫?』
囁くように小傘ちゃんが言いました。バタバタともたつく足をどうにか整え、踏みしめました。
『や、ご心配なく』
私はこの時ばかりは彼女をやんごとなき命の恩人だと思いました。きっと目を開ければ後光が差しているに違いない。そうおバカな事を考えると同時に、こんな時にまで律儀に瞼を閉じていた事に我がことながら呆れました。
ともかくまた歩き出した訳ですが、小傘ちゃんはそこから先不安になったのか、腕を掴んでぐいと自分の方に引き寄せてきました。
近い近い、と笑いそうになりましたが、どうして。その掴む手はますますじわりと汗ばみキツくなり、寄せあった肩はぶるぶる震えています。
さては寒さで気分でも悪いのか、そう思って尋ねようとした時です。
『近づいたらダメ。近づいたらダメ』
確かに聞こえました。傍に引っ張られてやっと耳に届くくらいの、か細い声。
私に向けての台詞ではありません。他ならぬ本人が離してくれないのです。では一体何に?
『近づいたらダメ。ダメ』
私の疑問を余所に彼女は同じ事を呟き続けていました。上ずった声で、怯えたように。
何者かが、危険が迫っているのでしょうか?妖怪、猛獣でもいるのかと思いましたが、唸り声、近寄ってくるような音の一つさえしません。相変わらずの激しい雨音が響くだけです。
とうとうこの目で見なければ分からない。ただ事ではないと思いまして、すう、と目を開こうとした、その瞬間でした。
あんなに煩く降っていた雨が、トンネルにでも入ったかのようにパタリと止んだのです。
『あれ?』
反射的に目を開けて周囲を確かめようとしました。眩しい光が射し込みます。う、と唸って何度も目をしばたかせると、もう歩いてすぐの場所に、見慣れた神社が建っていました。
ああ、いつの間にかこんなに歩いたのか。小傘ちゃんに傘のお礼を言わなきゃ。
そう思って私が振り返った時。
『じゃ、じゃあまたね!』
小傘ちゃんは私の手を突き放すような勢いで払い、脱兎の如く、私には目もくれずに飛び去っていきました。
『あ・・・』
つい呼び止めようとしましたが、彼女を目で追って空へと顔を向けた瞬間、ギラリとした太陽の光が照らし、反射的に目を伏せてしまいました。顔をあげると、もう既に影もありません。
『何なんですか、もう』
呼び止めてから去り際まで、秘密にしている事でもあるのか、しばし首を捻っていましたが、いずれ我が家へと足を向けました。いつも通り平和そのもの。境内では場違いな洗濯物がたなびいています。
『・・・あれ?』
その時またふと、洗濯物、その何の変哲もない干された衣類が気に掛かりました。ハッとなって改めて周囲を見渡すと、やはりギラギラと照る太陽。虹も、雨雲も欠片もない青空が広がっています。
まるで、雨など少しも降ってやしないかのように。
『そんな・・』
バシャバシャと音が鳴るほどの大雨です。止んだとしても洗濯物が干せているだなんて有り得ない。妖精のイタズラだろうか?
あれこれ考えながらフラフラと鳥居の前辺りに来た時、バタバタと足音を立てて誰かが走ってくる気配がしました。
『早苗!!おい!』
見ると、神社の神様の一人である神奈子様が、血相を変えて走り寄って来たのです。そして私の目の前まで来て、膝を折ってはあはあと荒い息をしています。
何を慌てているのかと気に掛かりましたが、私も胸の支えが取れず、出し抜けながら聞いてみました。
『神奈子様、さっきまで雨降ってなかったですか?』
『は?』
一瞬沈黙が走り、神奈子様は何の冗談だ、と怪訝を通り越して露骨に怒った顔をなさいました。
なにも怒ることないじゃないか、と私も少しムッとしたのですが、神奈子様は私の不機嫌など意に介さない勢いで、私に向けて指を指し、焦りの混じった大声でこう叫びました。
『そんな、訳の分からん話はどうでもいい!一体、それはどうした!?』
言葉の勢いのままに突き出された指の先、神奈子様の言う"それ"はどうやら私の肩のようでした。丁度、雨水が全体に引っ掛かった方です。
私はある意味、少しだけホッとしました。きっと汚れでも残っていたのだろう。何かしら痕跡が残っていればあれから今までの不可思議な現象を解き明かせる筈。私はそう思って、今一度、怒られるからには酷く汚れたであろう肩口を確認しようとしました。
しかし。
『ひいっ!?』
飛び出たのは悲鳴でした。
その顔のすぐ横には、赤黒い染みがべっとりとついていたのです。泥がへばりついてひび割れたようで、鉄が錆びた臭いが漂ってきます。
・・・血の臭い、それもつい先程ついたものでした。しかし私にはあの時被った雨が血だなどとは信じられず、暫くそのまま呆然としていました。
『・・・怪我じゃ、ないのか?』
痛がりもせずに黙っていた私に、神奈子様がおずおずと尋ねてきました。私は声も出さずに首だけで頷くと、神奈子様はふう、と安堵したように息をつきました。
しかし、すぐにまた険しい顔に戻り、今度はこんな事を聞いてきました。
『・・・じゃ、なんだ、あの子と二人でペンキでもぶちまけたのかい?』
二人、という言葉に私はピクリと顔を上げました。小傘ちゃんの事だとは思いあたりましたが、その時は目の前の血が一体何なのかという疑問で、頭が一杯でした。
その理解も予測も追い付かない頭に、図らずも神奈子様はこんな一言をくれました。
『遠目に見かけたが、それでもすぐ分かるくらいに傘が真っ赤だったじゃないか』
―
・・・後で神奈子様に聞いた話では、私の通った道は以前、大雨の日に土砂崩れがあり、白狼天狗達が何人も亡くなったんだそうです。
それからというもの、血の雨が降ったり、何かに引っ張られるように転落したり、また一度踏みいると、飛んでも誰かに捕まれるように体が重くなったりと怪現象が頻発し、とうとう立ち入り禁止になったということでした。
・・・あの時、小傘ちゃんが来てくれていなかったら、そしてもし途中で目を開けてしまっていたら・・・
果たして、何が見えて、どうなっていたんでしょう・・・?
私の話は終わりです。雨にはくれぐれも御用心を」